文学の死という悪夢

西洋の批評家の一部は、テレビや電子機器が(印刷された)本に取って代わると言っている。とりわけ文学作品という形をとるものに関して。小説の時代が終わったあと、小説の死を唱える声が大きくなっている。詩はますます個人の内面に関わるようになり、演劇は映画と比べると限られたエリートのものとなってしまった。

 

文学批評は哲学と化し、孤立した無用の長物となってしまった。大学の学科の外には、もうそれは存在しないのだ。文学に取って代わったのは娯楽、気晴らしのための文章である。さらに文学を学ぶ者、専攻する学生の数も急激に減っている。今顕著なのは、高尚な文学は読者が減少し、一般市民とは遠いものになりつつあるという点である。批評家は作者の死という理論を掲げているが、それによれば、作者が仮の存在になり、多様な声からなる織物に変わり、借り物のまとめ役となる。作者は表現の源ではなくなる。

 

「白人男性」が書いた文学の古典の大半が、すでに終焉を迎えたヨーロッパ中心主義と、すでに消えさった家父長的社会の過去以外、何も表現していないのではないかと疑う者が増えている。偉大な作家であるバドル・ディーブの訳した(アルヴィン・カーナンの)『文学の死』にあるとおり、文学活動は研究所のなかに限られているというのは明らかだ。なかには、自然科学、数学、社会科学、心理学は文学に必要性を残さないと言う者もいる。

 

しかし、文学の死という言い方を拒否する者も存在する。科学と文学は一つのコインの表裏だというのである。同様に、文学は私たちに人間の力の全体像とその制御のあり方について教えてくれるが、科学がこの知識を無効にすることなどないという。ホメロスにも、シェークスピアにも、ドストエフスキーにもこの知についての深い了解があるが、それは科学の等式を超えるものであるが、同じようにブルーストには遺産についての、スタンダールには政治的な要因の持つ社会的型についての了解がある。

 

文学は人間の現実を見つめ、探究する。そしてそれを独特の方法で再構成し、その意味を探すのだ。文学はその探求性、多様性、構造において特殊だ。個々人から成る集団の経験、集団のなかの個人の経験の描写、自然との関係における個人、そしてこれらの経験を再構成するというように。また人間は、文学を通して人生を見つめる。自分たちが持つ、そして文学が持つ言語との独自のつながりを頼りに、これ以上ないほどの深さを持って(活動と闘いを伴い)、劇的なものとして人生を見つめるのである。

 

文学はもっとも生命力にあふれた芸術だ。文学のほかには、生に関する感覚をその多くの次元において完全に表現できる芸術などない。ある特定の場所と時間に文学が根を下ろしながら、文学はそこを超え、私たちの人間性一般について語る。文学は私たちが持つ自分自身についての理解、他者とのつながりについての理解を深める。それは人間の経験に対する感覚全体を、他のいかなる試みよりも正確に反映する。文学に無知な社会は、人間の経験の全体性について知る最小限の機会すら持たないということだ。なぜなら文学は常に、人間の姿、その行動、その動機を扱っているのだから。道徳を扱うにしても、説教的な物言いにはならない。それは社会的あるいは歴史的な文書ではなく、哲学的な考察でもない。文学は科学とは区別される、独自の類の知を持つ。それは可能性のある(起こりうる)物を描き、ある時は一般性を、ある時は固有性を、常に可能性と結びつけるのだ。それは歴史や伝記よりも一般性があり、心理学や社会学よりも固有性がある。文学は私たちに人間の性質について教えてくれる。心理学者が内面的な生活や動機について教えてくれるよりもさらに多く。マフムード・ラビーイー博士が言うように、文学の必要性は他の何ものも満たし得ない。

 

文学批評に関していうと、研究者には、古い文学作品に関して、現代的な重要性については関係なく、それらを説明し関心を向けさせる大きな可能性がある。またジャーナリストには、今実際に何が起きているかについて関心を示す可能性があるが、週刊の雑誌では、さまざまな話題が文学や文学へのコメントを締め出してしまい、一般の読者のための批評となるはずの文学的な記事が載るとしてもそれは浅い性急なものでしかない。こうして、過去の文学は学問的な専門の領域に、現代の文学はジャーナリストによる批評の領域に向かう。文学にはこうした分裂が起きている。研究者は殻に閉じこもり、彼らの言葉に耳を傾けるのは学生に限られ、より広い教養人の世界から離れていく。ジャーナリストが今この時の関心事に囚われるのと同時に。

 

学問的な批評は、高尚な議論を使うことによって、一般的な読者を失ったことに決着をつけようとする。ジャーナリストの批評においては、軽さが欠かせなくなる。なぜなら軽いコラムやファッションのページを競合するのだから。こうして両方ともに欠陥が生じ、読者は遠ざかる。

 

文学作品が読まれないという危機的な状況について語る者は確かにいるが、しかし文学はいまだに生きている。なぜなら文学にはそれしかなしえない人間的な働きがあるからである。文学は、人間にとって精神力と想像力がどれほど大切かを深く理解させてくれる。精神力と想像力はことばを創造的に、楽しく使うことによって解き放たれる。たとえば詩における文学的な表現力は声と感覚を合体させ、感情と思想に音楽にも似たものを加える。

 

エジプトの人々は、文学の死という悪夢に耳を傾けようとは思わない。なぜなら二つの革命を経験したエジプトでは、文人たちは小説の革命を起こし、詩人たちは詩の技法を刷新しているからだ。批判的な研究は継続し、新しく見いだされた成果に溢れている。

 

Al-Ahram紙(2016年01月16日付)/ 翻訳:八木久美子

 

■本記事は「日本語で読む世界のメディア」からの転載です。

 

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