2014.09.25

内集団ひいきの武士道vsウィン・ウィンの商人道──システム転換と倫理観のミスマッチ?

松尾匡:連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

経済 #リスク・責任・決定、そして自由!#社会関係資本

前回の「『流動的人間関係vs固定的人間関係』と責任概念」では、リスクの処理の仕方によって、人間関係のシステムが固定的なものと流動的なものに必然的にわかれることから、責任概念の違いが生じるのだということを見ました。すなわち、固定的人間関係がうまくいくための責任概念が「集団のメンバーとしての責任」で、流動的人間関係がうまくいくための責任概念が「自己決定の裏の責任」だということでした。

今回は、前回に引き続き、拙著『商人道のスヽメ』(藤原書店)でご紹介した、固定的人間関係と流動的人間関係のシステムの違いから起因するいろいろな特徴について見ていきます。

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

社会関係資本の試金石は一般的互酬性

例えば、有名なパットナムさんの「社会関係資本(ソシアルキャピタル)」という概念があります。人々の間での信頼関係の豊かさのことで、これがないと、見知らぬ人がタクシーに乗るとボラれるとか、為替で送金するとネコババされるとか、出資の呼びかけに応じても返ってこないとか、いろんなことが心配になって、取引や投資が萎縮し、余計なコストがたくさんかかってしまいます。

他方こんな心配がない社会では、食い物にされる恐れなくみんなが他者のために協力するので、のびのびと取引や投資が活性化して、経済のパフォーマンスもよくなる──だから、人間関係のネットワークや助け合いの精神は、工場などの物的資本や、知識・技能などの人的資本と並ぶ、一種の生産資本とみなせるとして、パットナムさんはこの言葉を提唱したのです。

この概念は便利ですので、たちまち世界の多くの研究者に広まったのですが、人間関係のつながりをなんでも社会関係資本として扱う誤解が生まれてしまいました。例えば、ムラ社会的なネットワークも社会関係資本と扱う議論も見受けられます。しかしそれは、パットナムさんのもともとの意図とは違うのです。

パットナムさんがこの概念を使ったのは、約20年にわたり南北イタリアの社会を調査した結果でした。なぜ北イタリアの経済パフォーマンスが良くて南イタリアはだめなのか。その答として、北イタリアには社会関係資本が豊かにあるが、南イタリアにはそれが乏しいということを見出したのです。

ここで注意すべきは、南イタリアにだって、例のマフィアを極例とする強固な人間関係のつながりはあるのだということです。パットナムさんも、もちろんそんなことを知らないわけではありません。しかしそれらはパットナムさんにとっては、そもそも社会関係資本ではないのです。

パットナムさんは、「社会関係資本の試金石は一般的互酬性の原則である」[*1]と言っています。互酬性とは「お互い様」の助け合いのことと思って下さい。

[*1] パットナム『孤独なボーリング』156ページ。

ここで大事なのは、「一般的」ということです。善意をほどこした直接の相手から近い将来助けてもらえるという話ではないのです。いつ誰から見返りが返ってくるかわからないけど、善意をほどこせば、そのうち誰かから恩恵が得られるという予想が成り立っていることが、ここで「一般的」という意味です。

このためには、他者一般に対する「薄い信頼」が必要だとされています[*2]。小さくて緊密な共同体ならば「厚い信頼」で協力が維持できますが、もっと大規模で複雑な状況では、非人格的・間接的な信頼がなければならないと言うのです[*3]。

[*2] 同上書159ページ。

[*3] パットナム『哲学する民主主義』212ページ。

南イタリアで支配的だったのは固定的人間関係

南イタリアにあったのは「一般的」互酬性ではなく、裏切りが即制裁に直結する「恩顧=庇護主義的関係」だとされています。パットナムさんは、これは社会的信頼と協力を維持するものではないとしています[*4]。また、親族関係や親友関係などの「強い」個人間の結合は、コミュニティの団結や集合行為の維持のためには「弱い結合」ほど重要ではないとも言っています[*5]。

[*4] 同上書217ページ。

[*5] 同上書218ページ。

まあ、私の感想としては、南イタリアであれどこであれ、ひとつの地域にはいろんな生活のしかたをしている人がいるものです。とくに現代では、ネットで常時世界とつながって仕事をしている人もいます。だから、「南イタリアでは」と、地域における人間関係をひとくくりに一色に塗りつぶすものの言い方は危険なところがあるのですが、一応ここでは、昔からその地域に形成されてきた支配的な社会システムのことを指しているとしましょう。

そうすると、要するにここでパットナムさんが言っていることは、南イタリアで支配的な人間関係システムは固定的人間関係で、そこでは、裏切ったら制裁されるという予想が成り立つことで秩序が維持されていたということですね。それに対して、匿名で制裁が効かないような流動的人間関係のシステムが、高いパフォーマンスで機能するためには、他者一般を信頼しあう社会関係資本が必要だということです。

もっとも、その後あまりにもいろいろな人間関係が「社会関係資本」だと言っていっしょくたにされてしまったために、今日の標準的研究では、固定的人間関係の内部の結束を強める絆を「結束型社会関係資本」と呼び、本来の社会関係資本である、さまざまな異なる人をつなぐネットワークの方を「橋渡し型社会関係資本」と改めて呼んで区別するようになっており、パットナムさん自身も現在ではこの方式を受け入れた上で、両者の区別を強調するようになっています[*6]。

[*6] パットナム『孤独なボーリング』19-20ページ。

ちなみに、同様に、人間どうしのつながりあいを、「強い」ものと「弱い」ものに分けて、「弱い」つながりあいの持つ、「橋渡し」機能の重要さに注目する議論には、社会学者のグラノベッターさんの「『弱い紐帯』の強さ」[*7]と題した有名な古典的研究があります。家族や親友のような「強い」つながりは、力を行使するには役立つが、情報伝達には優れていない、情報伝達や社会的な組織化のためには、むしろちょっとした知り合いのような「弱い」つながりの方が重要であるということを明らかにした研究です。「弱い」つながりは異なった社会集団間の「橋渡し」をしているからだと言っています。

[*7] M. S. Granovetter, “The Strength of Weak Ties,” American Journal of Sociology, vol. 78, Issue 6, 1973, pp. 1360-1380.

損してもいいから足をひっぱる性質が秩序を生む場合

さて、これまでの話で、固定的人間関係を作る理由が、裏切ったら制裁をくらう関係の中でものごとをすますことで、人間関係上のリスクをなくすことにあることがわかりました。しかし、ここにはまだ根本的な問題が残っています。なぜ裏切り者に対して制裁をすることが期待できるのでしょうか。制裁をすることにはコストがかかります。ぶんなぐれば手が痛いし、逆襲されてこちらがやられるかもしれません。警察のような専門家を雇うにもコストがかかります。いったいそんなコストをだれが負担するのでしょうか。

メンバーみんなが少しずつコストを出し合うのでしょうか。みんなで殴りにいくとか。警察を雇うおカネを出し合うとか。しかしそういうことに協力しあうこと自体への裏切り者がでたらどうしますか。結局、問題が先送りされているだけで、また同じ問題に直面します[*8]。全員が合理的に損得を計算するなら、制裁自体成り立たないのです。

[*8] 「二次的ジレンマ」と言う。山岸俊男『社会的ジレンマ』(PHP研究所)2000、pp. 98-99。

制裁が成り立つためには、個人の合理性を捨てて、自分にコストがかかってもいいから、他人に損をさせることを望む心情が必要です。たしかに世の中には、自分が損をしてでも、他人をやっかんですすんで足をひっぱる行動は見られます。これは、伝統的な主流派経済学の「合理的個人」という想定からは出てこない行動ですので、近年の実験経済学などで興味を引くトピックになり、「スパイト行動」と呼ばれて、さかんに研究されてきました。

とくに、西條辰義さんはこの問題に取り組んできて、このような一見不合理な行動がとられる合理的機能を解明しています。その実験[*9]では、学生を被験者にして、相手不明でペアを組みます。そして、被験者各自がまずゲームに参加するかどうかを決めます。ゲームというのは、自分とペアの相手が互いに知られることなく決めた額のおカネを出し合い、それぞれの出した金額に応じて、あらかじめ周知の表にしたがって決まるおカネを受け取るというものです。

[*9] Saijo, T., T. Yamato, K. Yokotani, T. N. Cason, “Voluntary Participation in Public Good Provision Experiments: Is Spitefulness a Source of Cooperation?” (revised version of “Emergence of Cooperation” with more data) 1997; Revised, 1998, (http:// www.iser.osaka-u.ac.jp/~saijo/researches-e.html). 『経済セミナー』1997年11月号pp. 42-47に紹介がある。

この表によれば、相手が参加しないならば自分だけでも参加しなければ大損するのですが、相手が参加してくれるならば自分は参加しない方がぬれ手に粟でもうかるようになっています。このとき、どの程度参加するのかは、実は合理的に計算で出てくる均衡の参加率があって、ゲームを何度も繰り返すうちに損得にあわせて少しずつ手を変えていけば、その均衡の参加率に落ち着きます。これを「進化的に安定な均衡(=ESS)」と言います。

これを日米で共同実験して比較しました。すると、アメリカ人を被験者にした場合、相手が参加しようが参加しまいが、それぞれのケースで自分が一番トクをするようにおカネを出す傾向が観察されました。その結果、参加率は実験を繰り返すうちにESS付近に落ち着きました。

それに対して日本人を被験者にした場合、相手が参加しなかったならば、相手がぬれ手に粟でもうかるのを阻止するために、自分は一番トクにはならなくてもいいから、相手に打撃を与えるようにおカネを出す額を決める傾向が観察されました。その結果、参加率は実験を繰り返すうちに、ESSを超えてどんどんと高まっていきました。すなわち、自分は少しぐらい損してもいいから他人の足をひっぱる行動が、不参加を選ぶことへの制裁として働き、協力を引き出していったわけです。

もともと、日米で比較実験したら、アメリカ人よりも日本人のほうがスパイト行動をする割合が高いことは観察されていました[*10]。西條さんのこの実験で新たにわかったことは、一見不合理なこの行動は、メンバーが決まった人間関係において、人々の協力行動を維持する機能があったということです。

[*10] T. R. Beard, R. O. Beil, Jr., 又賀喜治, “Cultural Determinants of Economic Success: Trust and Cooperation in the U.S. & Japan”, 1998. 日本経済学会1998年度秋季大会(於、立命館大学)報告。

流動的人間関係の中では最悪の結果をもたらす

と同時に、西條さんが明らかにしたのは、この性質がこのようにうまく働くのはメンバーが決まった集団に限られる。メンバーが固定しない、不特定多数の人々からなる社会では、みんながこのような行動を取れば、みんなで足をひっぱりあって最悪の結果になる[*11]ということです。

[*11] Ito, M., T. Saijo, and M. Une , “The Tragedy of the Commons Revisited: Identifying BehavioralPrinciples,” Journal of Economic Behavior and Organization 28(3) , 1995

私なりに敷衍して言えば、例えばアメリカで寄付やボランティアが盛んなのは、ひとつの理由は、自分の貢献で公共的なものができて、その恩恵が返ってくるのを期待するからでしょう。各自はそのコストと恩恵を秤にかけて、一番自分にとってトクになるように貢献します。当然中にはただ乗りすることを選ぶ者も出るし、その一方で巨額の寄付をする者も出ます。

他方、ここで従来の日本人的に振る舞うと、自分が奉仕してできたものの恩恵を、ただ乗りするヤツが出たら「くやしい」と思うことになります。ただ乗りされても自分自身の損得とは何も関係がないはずなのですが、なぜか、「くやしい」から貢献するのがばかばかしいと思い、みながその公共事があったらいいなと思いながら、誰もそのために貢献するものがいなくなるわけです。

これが固定的集団内部でのことならば、制裁のターゲットを特定できます。ただ乗りするヤツが出たら、みんなから白い目で見られていろいろ足をひっぱられますので、それを恐れてほとんどの人が貢献するというすばらしい状態が実現できます。しかし、その同じ心情が、匿名の流動的人間関係になるとまったく逆の結果をもたらす方向に作用するわけです。

コントロール幻想が内集団ひいきをもたらす

ところで、社会心理学や社会規範の進化理論の分野で、「内集団ひいき」と呼ばれる現象があります。これは、社会心理学者のヘンリー・タジフェルが行った「最小条件集団実験」と呼ばれる有名な実験で明らかにされたことです[*12]。

[*12] 以下この節の議論は、山岸俊男『心でっかちな日本人──集団主義文化という幻想』(日本経済新聞社、2002年)、139-162ページ。

この実験は、ごく短時間スクリーンにたくさんの黒点を写し、被験者各自にその数がいくつあったと思うか見積もってもらいます。そして、その見積もりが多い人と少ない人で分けたと称して、二グループに被験者を分けます(実はただランダムに分けただけ)。そうした上で、各自全員に、互いにわからないようにして、同じグループの人と別のグループの人におカネを振り分けてもらいます。そうすると、他のグループの人よりは自分のグループの人にたくさんおカネを分ける傾向が見られた結果になりました。

この実験のキモは、グループ分けに何の意味もないことです。住んでいる場所とか民族とか職業とか文化等々の特質は何もない。だから「最小条件集団」と呼んでいます。何の意味もなく分けられたグループであることを当人が重々分かっているにもかかわらず、自分が所属するグループをひいきする行動、「内集団ひいき」行動を多くの人がとったということで、この実験結果は衝撃をもって受け止められました。そしてこれ以降内集団ひいきをテーマにした数多くの研究が生み出されています。

そんな中で、山岸俊男さんたちは、このような内集団ひいき行動がとられる原因を明らかにする実験を行いました。

それは、タジフェルの実験同様に被験者を二グループに分けた上で、おカネをわける人と受け取る人を別にしたのです。おカネを分ける人は定額の実験報酬を受け取るだけです。対照実験として、タジフェル実験同様に全員がおカネを分ける人でも受け取る人でもある実験も行ったのですが、その場合はタジフェル実験と同じ結果が得られました。ところが、おカネを分ける人と受け取る人を別にした場合には、自分のグループの人にも他のグループの人にも、きっちり平等におカネをわける傾向が観察されたのです。

あとで、タジフェルのと同じ実験の方の被験者に、「自分のグループの人にたくさんおカネを分けると、自分も同じグループの人からおカネをたくさんわけてもらえると思ったか」と質問すると、「そう思った」と答えた人は、極端な内集団ひいきの分け方をしていた傾向にありました。それに対して、「そう思わなかった」と答えた人は、おカネの分け方に差がない傾向が見られました。

つまり、実際には互いにどんなおカネの分け方をしたかはわからないようにしているにもかかわらず、自分のグループの内部では、いいことをしたらお返ししてもらえるという「幻想」が働いたのが内集団ひいきの原因だったわけです。山岸さんはこれを、「コントロール幻想」と呼んでいます。

固定的人間関係であてはまる内集団ひいき

山岸さんのグループは、このことを明らかにするために、同様の最小条件集団実験を10種類以上行ったそうです[*13]。例えば、被験者に互いに匿名のペアを組ませて、相手のためにコストを払って協力しあう度合いを調べる実験では、各自とる手を互いに同時に決めるときには、内集団ひいきが観察されたのに対して、相手が協力したかどうかわかるように、順番をつけて、とる手を交代で決めるようにすると、内集団ひいきが観察されなくなりました。つまり、協力に対してお返しが期待できるかどうかについて、同じグループに属すかどうかという手がかりに頼らなくていいならば、内集団ひいきの行動をとらないということです。

[*13] 以下この節の議論は、同上書201-209ページ。

また、自分も相手も互いに同じグループに属していることが周知されているときには、内集団ひいき的な行動が観察されますが、自分は相手が同じグループであることを知っていても、相手が自分のことを同じグループの一員かどうかわからない状態では、内集団ひいきは観察されなくなります。つまり、自分と同じグループの人に対してひいきするのは、見返りが期待できると思うからであって、同胞に心から同情するせいではないということです。

固定的人間関係の中では、いいことをしても悪いことをしても集団内に知れ渡って、すぐ本人に返ってきます。でも固定的人間関係の外の人はそうではありません。親切にしてやったのにあだで返されても制裁できないし、相手の集団に我が名が知れ渡ってメリットが返ってくるわけでもありません。そしたら、特定の固定的人間関係の中に漬かって生きている人にとっては、協力によって自分にメリットが返るように、その人なりにコントロール可能な「ウチ」には厚く、コントロール不可能な「ソト」には冷たく振る舞うことが有利になります。このような状態に慣れると、「集団」と言えば、「内部者はコントロール可能」と発想する「思考のショートカット」ができてしまいます。そうすると、実際にはコントロールできないタジフェル実験のような状況でも、このショートカットが自動的に発動して、あたかもコントロールできるかのように思って内集団ひいき行動をとるというわけです。

内集団ひいきが完全協力を引き出すとき

タジフェルが内集団ひいきを取り上げた頃は、ことは自分の所属アイデンティティを高揚させたがる心理の問題のように思われていました。しかし、今日では多くの研究が、山岸さんの実験のように、広い意味での合理的な行動や機能から、内集団ひいきを説明するようになっています。

私にとって多少身近な領域は、社会規範の形成を生物進化のモデルを応用して分析する研究です。そこでは、人々の間の協力を安定的に維持するような社会規範は、「いい人に協力する人はいい人」「いい人を裏切る人は悪い人」「悪い人を裏切る人はいい人」という性質を持つことが明らかになっています。ただ、悪い人に協力する人に関しては、「いい人」とする規範も、「悪い人」とする規範も、ともに協力を安定的に維持できることがわかっています[*14]。

[*14] 巌佐庸「協力の進化:人間社会の制度を進化生物学からみて」(亀田達也編『社会の決まりはどのように決まるか』勁草書房、近刊)

この、悪い人に協力する人を「悪い人」とするタイプの社会規範は、これを扱った神取道宏さんにちなんで「カンドリ型」と呼ばれています[*15]。ただし、神取さん自身は決して、授業をさぼった学生と仲良くしていたら怒るような怖い先生ではないそうですので誤解のないようにして下さい(笑)。

[*15] 別名を”stern judging”と言う。

世の中が、このカンドリ型規範をそれぞれ共有するグループに分かれていた場合、内集団ひいきが強化されやすいことが示されています[*16]。他グループの誰かから自グループのメンバーが被害を受けたとき、加害者は自グループのメンバーみんなから「悪い人」認定されますが、相手のグループの中でその人が「いい人」とされるかぎり、相手グループの中で出会う人はその人に協力します。そうすると、こちら側のグループでは、その協力者たちや、その協力者たちと協力した人たちが、ことごとく「悪い人」と認定されるので、相手グループの人と出会うと多くの場合裏切ることになります。そうすると、今度はその人は相手グループから「悪い人」認定され、こちらのグループでその人と協力した人もみんな「悪い人」認定されるので、たちまちのうちに、自グループのメンバーはみんな「いい人」で、他グループのメンバーはみんな「悪い人」という状態にお互いに落ち着くことになります。

[*16] Nakamura, M. & Masuda, N., “Groupwise Information Sharing Promotes Ingroup Favoritism in Indirect Reciprocity,” BMC Evolutionary Biology, vol. 12: 213, 2012.

しかし、こんなことになると、集団の外との交渉が一切なくなってしまうので、集団を超えた協力関係がある場合と比べて、人々の厚生がみんな低下してしまいます。

そこで、外のグループのメンバーの評判については、一人一人の情報は手に入りにくいので、他のグループの誰か一人が自グループのメンバーに対してやった行いで、そのグループ全体に「いい」「悪い」とレッテル貼りしてしまう「グループ評判」と呼ばれる評価付けをすることにしたらどうなるでしょうか。一見、なおさら内集団ひいきが強化されそうです。たしかに、完全な内集団ひいきになってしまう均衡が存在します。しかしその一方、この場合、内外かかわらず、みんな完全に協力が維持されるケースも起こり得ます[*17]。

[*17] Masuda, N., “Ingroup Favoritism and Intergroup Cooperation under Indirect Reciprocity Based on Group Reputation,” Journal of Theoretical Biology, vol. 311, 8-18, 2012.

どうしてそうなるかというと、他グループの人に対して害を与えた者が出たら、そのせいで自グループのメンバー全員がそのグループから「悪い人」認定されて協力してもらえなくなるので、そいつは同胞みんなに迷惑をかけたとして自グループ内で「悪い人」認定されて仲間から協力されなくなるという仕組みがあり得ることになるからです。

私の乏しい歴史知識の中で思い出すと、日本の中世での「国質」「郷質」などと呼ばれている慣行がこの一例ですね[*18]。これは、よそ者が代金を踏み倒したりしたとき、そこにたまたまいる無関係の同郷者が捕まって、財産没収されて補償させられるという仕組みです。はなはだしいのでは、同郷者がそこで人を殺したせいで、何の関係もないのに殺されたりします。これは、日本だけではなくて、前近代には世界中いたるところで見られた仕組みのようで、マックス・ウェーバーも「一債務者、例えばジェノヴァあるいはピサの商人がフローレンスまたはフランスにおいて支払ができないか、または支払を欲しない場合には、彼の同国人が拘留せられるという制度」[*19]があったことを指摘しています。

[*18] 歴史はしろうとですので、日本語版ウィキペディアの参照でご容赦下さい。http://ja.wikipedia.org/wiki/質取行為

[*19] ウェーバー『一般社会経済史要論』下巻、(黒田巌、青山秀夫訳、岩波書店、1955年)、27ページ。以下本書の引用は漢字は現代常用漢字に変えてある。

この慣習は、共同体が内部メンバーをきっちり把握して統制できるかぎり効果的に機能するでしょう。自分の行為のせいで同胞にとばっちりをかけたなら、共同体内部で制裁を受けることが予想されるかぎり、みんな共同体の外に出かけても悪いことはできなくなりますから。

しかし、固定的人間関係の縛りがゆるんで、昔よりも匿名性、流動性が高くなってくると、この仕組みはうまく機能しなくなります。共同体の外で悪事をやったせいで同胞にとばっちりをかけても、もともとの悪事を誰がやったことか把握できず、制裁が効かなくなるからです。それなのにこんな仕組みが残っていると、罪がない者への復讐が復讐を呼んで、たちまち互いのグループを悪と認定しあって協力関係が途絶えることになります。なんとか関係が保てても、いつ身に覚えないことで身ぐるみはがされるかと思うと、恐ろしくて商売に出かけることができません。実際、江戸時代には、国質・郷質はスムーズな取引の妨げになるとして禁止になっています。

こんなあからさまな制度こそ禁止にはなっているものの、自分が見聞きした少数のひどいケースだけ取り上げて「だから○○人は」等々と、よそのグループの者全体のマイナス評価にしてしまい、関係ない人にまで連帯責任を負わせようとする志向は現代でも蔓延しています。一旦こんなことになると、各自ただ自分が不快な思いをしないように、不利益を被らないように、合理的に振る舞うだけで、グループどうし差別、敵視しあう均衡が固定してしまいます。松井彰彦さんが、それ自体は何の意味もない差別・偏見が、ゲーム理論の均衡として合理的に発生してしまうことを分析しています[*20]。これがなければ、全員がもっと厚生が高まるはずなのに、それが実現できないことになるのです。

[*20] 松井彰彦『慣習と規範の経済学──ゲーム理論からのメッセージ』(東洋経済新報社、2002年)、第16章、第17章。

対内道徳と対外道徳が正反対

さてそうすると、前回、固定的人間関係のシステムでは、身内を裏切ることは絶対の悪だが、よそ者はもともと危険視するので裏切っても悪とはされないと述べましたが、ここに内集団ひいきが重なるので、この傾向は倍加されることになります。

各自のなすべきことは、固定的人間関係の中の役割として、いくら自分にとってメリットが少ないと感じても勝手に降りられないものとして与えられています。だから、当事者たちの頭の中の理想像としては、私利私欲を交えない一方的な奉仕が、あるべき姿ということになります。現実にはそんなことはあり得ないのですが、肉親どうしが尽くしあうような姿勢が望ましいと意識されるわけです。

したがって、こういう人間関係の中にあっては、自己利益を交えた「取引」というものは、本来自分の集団内部の者とするべきものではないと意識されます。それは汚いものであって、だからこそもっぱら集団の外部の者とするべきものとされます。

そして、外部の者とする以上は、取引とは「食うか食われるか」であり、自己集団の利益のために正当化される汚れ仕事だと意識されます。集団内部へのひたむきさと、集団外部へのニヒルな利益追求の両極振り分けになるのです。

これについては、ウェーバーが非常に明瞭な整理をしています。

……一方においては、「同じ種族とか同じ氏族とかの仲間同志の間では、経済的交渉について如何なる自由も問題たりえない」という原則が完全に支配するように、親しい仲間同志の間では、たがいに原始的に厳重な拘束に服するところの、いわば対内経済Binnenwirtschaftがあり、他方においては、「相手が共同体の外の縁もゆかりもないものならば、どんな行為をとってもまったく差支えない」という態度があり、この二つの態度がまったく正反対のものであるにかかわらず、そのまま併存するという事実、これである。言葉をかえていうと、同じ共同体に属する仲間に対する道徳、すなわち対内道徳Binnenethikと、外部のものに対する道徳、すなわち対外道徳Außenethikとがまったく対称的であり、後者の対外道徳にもとづいて良心の呵責を知らぬ、絶対に無拘束なる金貸の行動がおこなわれるという事実である。……これに反してこの対内経済と対外経済との間の、また対内道徳と対外道徳との間のけじめを廃棄したこと、言いかえれば、対内経済の中に商人的生活態度das händlerische Prinzipが浸透したこと、さらにこういう基礎に立脚して労働が新しく組織されていること、これらの事実こそ西洋的資本主義の第二の特徴である[*21]。

[*21] ウェーバー前掲書170-171ページ。

いまの引用の最後で「西洋的資本主義」の特徴と言っているのは、流動的人間関係である市場システムの特徴です。ウェーバーがこれを書いた当時にあっては、市場システムが社会の全面を覆っていたのは西洋だけであると考えられていたわけです。

流動的人間関係の中では、取引自体が他人のためになされる善行であるとみなされます。他人の役にたつからこそ報酬を受け取る。取引当事者が双方ともにトクをするウィン・ウィンの関係なのであって、得の裏に損があるわけではありません。リカードの比較生産費説の示すことはまさにこの典型です。あらゆる点で優れた人と、あらゆる点で劣った人の間でも、互いに分業して取引することで共にトクをすることができるというわけです。

多くの人がこのような態度で取引に臨んでこそ、流動的人間関係はうまくまわることになります。固定的人間関係でふさわしかったような「食うか食われるか」の取引観で多くの人が取引をしていたら、流動的人間関係はたちまち社会システムとして正常に機能しなくなってしまいます。

いろいろな人間行動の態度は人間関係システムとセットで成り立つ

前回からの議論をまとめると次のようになります。

固定的人間関係のシステムがうまく機能し、その中で各自が不利を被らずに生きていくためには、各自は自分に与えられた役割を果たすことを責任と心得、自集団のメンバーを裏切ることを最も避けるべき悪とみなして、内集団ひいきをして仲間から受けた恩義は返し、取引はよそ者を相手にするべき「食うか食われるか」の争いごととみなし、自分が損をしてでもいいから他人をやっかんで足を引っ張るといった態度が必要になるのでした。

しかし、流動的人間関係のシステムでは、これらの態度は逆にシステムの働きを壊してしまうのでした。流動的人間関係で必要になるのは、新しい人間関係や新しいやり方を自由に模索し、その際の自分の決定に自分で責任を負い、集団の所属でひいきせずに、人間はとりあえずわけへだてなく信頼し、その上で常に相手の信頼性に注意し、取引は当事者みんながトクをする善行だとみなして、自分がトクするなら他人がどれだけたくさんトクしようがやっかまずに喜ぶといった態度なのでした。いいことをすればいつか誰かから返ってくるという、一般的互酬性の信頼が成り立つ社会関係資本も必要なのでした。

これらの態度は、固定的人間関係がうまく機能するための態度とは矛盾しますので、固定的人間関係の中にあってはシステムの働きを壊してしまいます。すなわち、固定的人間関係か流動的人間関係かという人間関係のあり方のシステムと、責任概念や取引観のいかんとか、内集団ひいきやスパイト行動、一般的互酬性の有無等々は、互いに支えあってセットで成り立っていて、これらの組み合わせが食い違うと、システムがうまく機能しなくなるというわけです。

私は以前、野口旭さんたちとの共著『経済政策形成の研究』(ナカニシヤ出版)や、拙著『痛快明解経済学史』(日経BP)で、アダム・スミスから現代に至るまでの、マルクスも新古典派も含む経済学の王道に共通する発想を「経済学的発想」としてまとめ、他方でそうした経済学の考え方を受け入れるときの障害となっていると思われる発想を「反経済学的発想」としてまとめて対照させたことがあります。それは、次のようなものでした。

経済学的発想の典型構造

1. 経済は人間の意図を離れて自律的に動く。それを力で左右しようとすると、かえって正反対の結果になったりする。

2. 取引をすると当事者がともにトクをする。

3. 他人との優劣よりも、自分がどのくらいよいかが大事。

反経済学的発想の基本構造

1. 世の中はその人の力の強弱に応じてコントロール可能である。

2. 誰かがトクをするとその裏では別の誰かがソンをしている。

3. 多少ソンをしてでも、他人より優越することが大事である。

これまでの議論からおわかりになるとおり、経済学的発想は流動的人間関係にフィットする発想です。経済学というものは、流動的人間関係の典型である市場メカニズムを主たる分析対象にしてきたのですから、これは当然のことです。それに対して、反経済学的発想が、固定的人間関係にフィットする発想になっていることもすぐおわかりのことと思います。

武士道vs商人道

そして、両人間関係システムのそれぞれとつじつまの合う振る舞いが、人間のとるべき態度として、それぞれ倫理の体系にまとめられることになります。アメリカの在野の社会学者であったジェイン・ジェイコブズは、古今東西、欧米のものはもちろん、古代エジプトや古代中国から江戸時代の日本まで、道徳話や教訓話を集めて検討し、その中に見られる徳目が、時代や民族にかかわらず、きれいに二系統に分かれることを見いだしました。そしてそれを、『市場の倫理 統治の倫理』(香西泰訳、日本経済新聞社、1998年)の中で、次のようにまとめています。

graph

ジェイコブズによれば、両者各々の系統の内部では徳目どうしが整合的に支えあっていますが、両系統の間では徳目どうしが矛盾してしまうと言います。そして両系統の徳目を適当にまぜあわせると最悪の腐敗が生じると言うのです。

これまでの議論からわかるとおり、「市場の倫理」は流動的人間関係が機能するために必要になる倫理、「統治の倫理」は固定的人間関係が機能するために必要になる倫理です。どの国、どの時代でも、固定的人間関係と流動的人間関係とは、どちらがメジャーかという比重の違いはあれ、必ず両方存在するのですから、それぞれにフィットした倫理だって、どの国、どの時代でも必ずあい並んで存在するはずです。ただどちらがメジャーかという比重の違いがあるだけです。

拙著『商人道ノスヽメ』では、日本では、統治の倫理にあたるのが「武士道」、市場の倫理にあたるのが「商人道」だとして、江戸時代の商人道が、これまで見たような流動的人間関係を正常に機能させるための人間の態度に、ぴったりあてはまったものだったことを確認しています。

『商人道ノスヽメ』なんていうタイトルを目にすると、まだこの本を読まれていないかたは、我利我利の私利追求と一方的社会奉仕との間に、何か穏当な中間を提唱するような底の浅いことを言っている本のような誤解をされるかもしれません。しかしこの本で言っていることは全然違うことです。利己と社会性の間で折り合いをつけることは、どんな社会システムのもとでも共通のことであって、とりたてて取り上げるに値するようなことではありません。問題は、固定的人間関係のシステムの中と、流動的人間関係のシステムの中とでは、配慮すべき「社会性」の中身が全然違うということなのです。固定的人間関係ではあくまで自己所属集団に忠実であることが求められます。それに対して流動的人間関係では、目の前で出会った他者一般に、わけへだてなく誠実であることが求められます。「普遍志向」ということなのです。

従来の日本型企業制度をはじめとするシステムは、固定的人間関係に依存する比重が比較的高いシステムでした。したがってそれにフィットしたメジャーな倫理体系は、自己所属集団への忠誠を重視する武士道型の倫理だったわけです。

近年、企業不祥事などの問題が噴出したのを受けて、「日本人の倫理観が薄れたせいだ、昔の武士道を思い起こせ」というような論評が目につくようになりました。拙著は、その見立ては間違っていて、武士道の強調は事態をますます悪化させると論じています。従来の武士道型倫理は決して薄らいでおらず、いまも強固に残っていると思います。

たびたび述べてきたとおり、いま、従来の日本型企業制度や国民経済のまとまりの保護のような固定的人間関係に依存したシステムは崩されて、流動的人間関係の比重が比較的高いシステムに移っています。にもかかわらず、人々の倫理観が従来と変わらない武士道型のものであることから、企業不祥事などの様々な問題が起こっているとみるべきなのです。

もし武士道型の倫理観を守るとか強化するとか言うのであれば、従来の日本型企業制度のような固定的人間関係の比重の高いシステムの再建を、セットで目指さなければなりません。そうではなくて、流動的人間関係に比重が移っている現実を受け入れるのであれば──私はこれ自体は避けることができないと思っています──人々の倫理観を、武士道型がメジャーだったものから商人道型がメジャーなものへ転換しなければならないのです。

ところが、小泉改革以降、この国の「改革派」を名乗る右派政治家が押し進めてきたことは、従来の固定的人間関係のシステムを鬼の形相で破壊していきながら、倫理観の方は、国家などの自己所属集団への忠誠を重視する武士道型倫理を押し付けてくることでした。まさしく社会システムを機能不全に陥らせることを意図的に追求してきたと言えると思います。

(本連載はPHP研究所より書籍化される予定です)

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

第一回:「『小さな政府』という誤解

第二回:「ソ連型システム崩壊から何を汲み取るか──コルナイの理論から

第三回:「ハイエクは何を目指したのか ―― 一般的ルールかさじ加減の判断か

第四回:「反ケインズ派マクロ経済学が着目したもの──フリードマンとルーカスと『予想』

第五回:「ゲーム理論による制度分析と「予想」

第六回:「なぜベーシックインカムは賛否両論を巻き起こすのか――「転換X」にのっとる政策その1

第七回:「ケインズ復権とインフレ目標政策──「転換X」にのっとる政策その2

第八回:「新スウェーデンモデルに見る協同組合と政府──「転換X」にのっとる政策その3

第九回:「「自己決定の裏の責任」と「集団のメンバーとしての責任」の悪いとこどり

第十回:「「流動的人間関係vs固定的人間関係」と責任概念

第十一回:「内集団ひいきの武士道vsウィン・ウィンの商人道──システム転換と倫理観のミスマッチ?

サムネイル「Samurai」Eva Peris

http://www.flickr.com/photos/evaysucamara/5494953658

プロフィール

松尾匡経済学

1964年、石川県生まれ。1992年、神戸大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。1992年から久留米大学に奉職。2008年から立命館大学経済学部教授。

この執筆者の記事