2012.12.22

東日本大震災の後、多くの若者が被災地を訪れ、多種多様な活動を継続している。このような外部からの「復興人材」の活動のなかから、住民による内発的な地域復興の取り組みを喚起するような実践が生まれつつある。本分科会では、東日本大震災の被災地において活動する「復興人材」のり背景や現状を共有し、「復興人材」のあいだの交流を図るとともに、地域復興に「復興人材」がはたすことができる役割について考える。(構成/山本菜々子)

いわて連携復興センターと東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN

宮本 司会を務めさせていただきます、宮本と申します。この分科会のテーマは「復興人材」となります。そこで本日は、岩手、宮城、福島と、被災地の最前線で活躍されている皆さんに集まっていただきました。それでは、まずは中野さんからお願いします。

中野 岩手からまいりました中野と申します。いわて連携復興センターと東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN)という組織に所属しております。普段は岩手県の大船渡というところを拠点として活動しています。

わたしが被災地に関わったきっかけは、地元が被災したというのが一番の理由です。わたしの出身地は、越喜来と書いて「おきらい」と読むのですが、もともとは鬼が喜ぶと書いていました。由来については諸説があるのですが、リアス式の海岸で入り組んでいる入江が鬼の隠れ家にちょうどよく、海の幸・山の幸にも恵まれ、鬼が喜んで来たというような伝説があります。小さな港町というか漁師町の集落です。

わたしはその越喜来に生まれ、いま26才です。もともとわたしの家は漁師の家系で、わたしで16代目になります。高校進学の際に都会にでてみたいと、仙台の高校に行きました。大学は東京の大学に進学して、卒業後はそのまま東京で就職しました。昨年の3月11日、あのような大震災に見舞われて、いてもたってもいらなくなって地元に戻りました。以降、ボランティア活動を中心に地元で活動しております。そうしたなかで、いわて連携復興センターやJCNの方々と知り合い、参加させていただくことになりました。

JCNという団体ですが、この団体は「被災地支援事業」「広域避難者支援事業」「後方支援事業」という3つの活動を柱としています。「被災者支援事業」というのは、岩手・宮城・福島各県に一人ずつコーディネーターを配置して、現場から情報を汲み上げて発信したり、ニーズのマッチングをしたりしています。現在、年に三回程度、各県で「現地会議」を開催しています。これは県内の諸団体にお集まりいただいて、コーディネーターたちが現場を周るなかで見えてきた課題を共有し、解決策を探っていこうとするものです。

東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN) http://www.jpn-civil.net/

それから、いわて連携復興センターですが、震災前からNPO法人が市町村単位で活動を行っていたのですが、震災後、全県で取り組む必要があるということで、加盟結束し、岩手連携復興センターという新たなNPO法人を設立いたしました。主な活動は「場づくり」です。岩手県内の団体がいろいろと集まって、JCNの現地会議よりももうちょっと突っ込んだ話であるとか、個別の団体の課題や情報を共有しています。

いわて連携復興センター;http://www.ifc.jp/

宮本 地元出身、都会に出たいと仙台、東京と移りましたが、震災後に「いてもたってもいられなくなった」ことがきっかけで被災地に関わっていらっしゃるということでした。自分の出身地の地名の由来からお話ししてくださったのが印象的です。

「被災地」といっても、たまたま災害に見舞われ「被災地」と呼ばれているだけで、そこには当然のことながら独特の歴史があるわけです。また、「被災者」といっても、ひとりひとり名前があり顔があるわけです。

ですが、支援者の側は、「被災地/被災者」という言葉を使い、どのようによりよい支援が可能かという思いが強くなる一方で、「被災地・被災者」以前の、そうした地域や個人がもっている歴史や多様性を見落とすことがあるのではないかと思います。地元出身の方が、そうした視点を落ちこぼさずにお話ししてくださったことが印象的でした。

次に臂さん、お願いいたします。

おらが大槌夢広場

 岩手県の大槌町から参りました臂と申します。今日は最年長の32歳です。わたしは群馬県で生まれ育ち、茨城県内の大学に進学、その後、東京で建設コンサルタントをしていました。大槌町には国土交通省の現状調査で入り、そのなかで住民の人たちと知り合って、「おらが大槌夢広場」という組織を立ち上げました。

おらが大槌夢広場;http://www.oraga-otsuchi.jp/

まず、大槌町の今回の震災による被害をみなさんにお伝えします。人的被害として1500名程の方が犠牲になりました。震災以前1万6千人程の人口規模だったのが、1万3千人程度にまで減少しているという状況です。商業地浸水率でいうと、98%位が浸水しました。中心市街地だった部分がすべて破壊されています。

わたしは5月に大槌市に入り、建物の被災の調査と、復興パターンを検討しました。おらが大槌市夢広場の前身である「創造委員会」もこの時期に発足させ、そこで「なんとか復興したい」という意識の強い若者たちとの出会いがありました。そして、10月、11月ごろから、被災された方の住む場所を決める「地域復興協議会」を住民主導で開催しました。

大槌町地域復興協議会;http://www.town.otsuchi.iwate.jp/bunya/fukkokyogikai/

そんななか、11月2日に「おらが大槌夢広場」が設立されました。住民が次に住む場所を決めていく、その混乱のなかで立ち上がった組織です。3月になり事業も移行時期でしたので、ここでコンサルを辞めようと決意しました。いまは組織に専従しています。

簡単に組織の紹介をします。「おらが大槌夢広場」は、行政機能の低下した分野を補完するという位置づけで立ち上げました。現在、公益部門・観光部門・新規事業・独立開業の4チームで支援を行っております。

公益部門では、従前のコミュニティーを再生するために、たとえば「ドームハウス」を使用して高齢者向けのコミュニティーサロンを運営しています。仮設住宅住まいだと、もともとご近所づきあいしていた人となかなか会えない。そのため、人工的に近所づきあいができる空間をつくりました。週に4回お茶っこを開催するほか、手仕事など、次の生計向上に繋がるような取り組みを行っています。

また、震災以前には会議にまったく参加していなかった方、「ワークショップ」といった言葉も知らなかった方に、積極的に会議に参加していただいて、自分たちで街づくりを考えていく場をつくっていかなければいけない。それを文化にしていかなければいけない。このような意図で、講座を開いたりもしています。

その一方で、若年層に向けた取り組みもしています。震災後に若年層、とくに子どもたちの意識が変わったという話をよく耳にします。そんな彼らに、街づくりに参加する主体性を構築するために「子ども議会」を運営しています。さらに、震災のナレッジを蓄積するために、資料館と「大槌新聞」を発行してもいます。

大槌新聞;http://tinyurl.com/bzjkh4k

次に、観光部門では、「観光コンベンションビューロチーム」という名前で活動しており、地域の魅力を伝えるガイドマップづくり、慰霊の場所・虎舞(大槌市の無形民俗文化財)の案内、ワカメ漁体験などを提供しています。われわれは企業の新人研修受け入れが多く、彼らに「自分は今後何ができるか」と考えて、シェアリングしてもらったりもしています。また最近では、既存の住宅ストックを生かして、民家を再生して宿泊施設にしようなどという計画を立てているところです。

そして、新規授業開拓チームは、地元のコーディネーターとして、各種企業や大学などの研究機関とのコンソーシアムに参画して、実際に既存の大槌市の産業と、都市の技術を繋げて新しいスモールビジネスを創出し、担い手を育成するという取り組みをしています。

最後に、独立開業支援チームの取り組みとしては、「おらが大槌復興食堂」というものを運営し、食に携わる人材の育成をしています。全国のグルメイベントに参加したり、メニュー開発を行ったりもします。

おらが大槌復興食堂;http://www.oraga-otsuchi.jp/hukkou/index.html

わたし自身は、おらが大槌夢広場で、法人の設立、事業計画の企画提案、ファンドレイジング、ステークホルダーの渉外、勤怠管理、福利厚生のような、事務的な部分を担っていいます。外部的な評価はいただいているんですが、やはり反省もあります。組織が縦割り化されている状況や、地域がもっているリソースを生かし切れていない。

それらを踏まえて、新事業は「ひと育て×まち育て」という新しいテーマを掲げ、この言葉に込められたスキームのなかにいままでの事業を落としこんで、活動を展開しようとしているところです。たとえば、役場が行政サービスと創造的な業務の両方を担うのは負担が大きいし、どうしても行政が提案した範囲に収まってしまう。そのため、まちづくりを会社や民間が担うというのが、実際に取られるべき手段なのかな、と思っています。

われわれが今後担っていく役割のヒントとして、横断的に創造的なプロジェクトにするため、埋もれている人材をコーディネーターが適正に応じて抽出していくという作業があると思っています。

また、われわれの組織から3人の若者がソーシャルなかたちの起業を目指しています。震災以前の大槌市ならば、こんな風に若者が立ち上がる環境はなかったと思います。やはり、震災を経験したからこそ、若い人材が育っていくというのはあるのかもしれません。

このように人材を次々と大槌市から打ち出していきたいという思いから、「ひと育て×まち育て」大学を9月から設立しています。今年度中にある程度の基盤をつくり、来年以降、本設で運営していきたいと考えております。

大槌ひと育て×まち育て大学設立運営プロジェクト; http://michinokushigoto.jp/archives/5295

わたし自身は「後継者育て」をテーマに被災地と関わりたいと思っています。担い手をやはり育てていかなければならない。また、ステークホルダーとのクラスタリングされた関係の助成とナレッジの蓄積、そして「ひと育て」「まち育て」を大槌市に作法としてもたらし、それが文化として根づいていくような環境づくりをしたいと考えております。

宮本 臂さんは、お仕事として関わられ、その後、支援者として関わられたということでした。ドームハウスを利用したコミュニティーサロン、さらにこども議会、あるいは企業や大学、研究機関をつなげる仕事と、ひとをつなぐこと、そのなかで人を育てることを志向されています。それが、いま「ひと育て×まち育て」という事業につながったと。

「復興人財」という言葉が示すように、ひと育てが復興の核であることは間違いがないと思います。問題は、その「ひと」はどのように育てられるのか。わたしは、復興人材は、被災地で被災者の方に育てられるのではないかと思います。

つづきまして黒沢さんよろしくお願いいたします。

大船渡仮設住宅支援事業、いわてNPO-NETサポート

黒沢 岩手から来ました黒沢と申します。ぼくは岩手県内陸の奥州市、旧胆沢町の出身です。いまは人口13万人の町になりましたが、もともとは2万人弱の町に育ちました。高校時代まで地元で過ごし、岩手県立大学で4年間学びましたが、「岩手に残りたい気持ちは強いけれども、このまま岩手に残っていいのだろうか。」という疑問が芽生え、東京で就職活動をしました。SCSK株式会社に入社し、SEとして約3年弱働きました。いま26歳です。現在は仮設住宅支援に関わっております。

ぼくはもともと、「将来は岩手でなにかしたい」と漠然とした思いを抱え、そのために東京で自分を磨こうと思い上京しました。しかし、SEはどちらかというと狭く深く追求する職業なので、岩手に帰ってきたときに自分は何で食えるのかという思いと、東京での仕事の現実に、ギャップを感じていました。

そんなとき、3月11日が訪れ、ぼくは東京で地震を体験しました。当時、恵比寿で働いていたのですが、約20km歩いて自宅に帰ったことを覚えています。震災後、一週間仕事が休みになって、テレビで被災地の状況をみることしかできず……。一刻も早く何かをしたいと考えました。当時、岩手は個人でのボランティアを受け入れておらず、ぼくは会社の先輩のボランティアチームの一員となり、GWに大槌町と陸前高田市でボランティアに入りました。それから、月に1、2度は岩手に帰って、ボランティア活動を継続していました。

東京でもなにかできるのではと思い、東京の被災地出身者の任意団体に注目しました。そのような団体は同年代と出身地区で固まりがちですが、ネットワークを築けばもっと良い活動ができるのではないかと思い、さまざまな集まりに参加しながら、団体のネットワークつくりを行いました。東京での活動を行いながら、被災地に何回も入っていると、「持続的な仕組みをつくらないと、まちの復興は難しいのでは」という疑問を持ちだしました。そこで、岩手に帰りたいという思いがぐっと強くなりました。

そんなとき、ネットサーフィング中に、NPO法人ETICの「右腕派遣プログラム」というのを知りました。これは岩手・宮城・福島各震災復興で活動しているリーダーの右腕、つまり補佐役となって事業をサポートしていくという制度です。そして、ETICの右腕としての参画と、SCSKの退社を決意しました。

ETIC.右腕派遣プログラム;http://michinokushigoto.jp/about

2012年1月から、岩手県大船渡市と大槌町の仮設住宅支援事業に関わっています。事業としては約30ある仮設住宅のすべての集会所談話室に、支援員さんを配置しています。各集会所談話室に2名~10名程度、常駐していただきながら、集会所の管理、住民の方の見守り、お声かけ、自治会のお手伝い、ボランティアのコーディネートなどをしてもらっています。支援員さんには地域の失業者を雇用しています。この事業は岩手県の緊急雇用対策基金を使って、緊急雇用の一環として事業を立ち上げました。

きっかけは、内陸の地域である北上市が、沿岸被災地のために何かできないかと、プロジェクトチームを設立したことです。この支援員システムを各沿岸被災地に提案したところ、最初に大船渡市に手をあげてもらいました。支援員さんの雇用・労務・経理の管理などは、大阪に本社があり、北上に支店があるジャパンクリエイトさんという人材派遣会社にお願いしています。

ぼくはいわてNPO-NETサポートに所属し、事業運営・コミュニティー支援のノウハウを活かし、大船渡市をメインに活動しています。大船渡市では去年の9月からこの事業を立ち上げ、仮設住宅1800世帯、37団地のうち、集会所・談話室がある33カ所に支援員さんを常駐してもらい、平日の8時半から17時半まで、業務を行っています。

いわてNPO-NETサポート;www.npo2000.net/

大船渡仮設住宅支援事業;http://ofunatocity.jp/

同様の事業が大槌町でも今年2月からはじまり、48団地、2100世帯、約4700名の方をサポートしています。この事業の目的は、「仮設住宅に住んでいる人全てが健康で前向きな生活を送ることができる環境をつくる」ことです。支援員さんはその「つなぎ役」「お手伝い」として機能します。

ぼくらはサービス業を行っているのではなく、インフラの整備をしていると思っています。サービス業のようになんでも住民の方にいわれたことをするのでは、住民の方々の自立を妨げることにもなりかねません。そこに気をつけながら、でも、何かあって手をあげていただいたときには、行政にもお繋ぎするし、外部にもお繋ぎするし、最大限のお手伝いをさせていただこうと思っています。

ぼくの役割は、大船渡の各関係会議の参加、事業全体のマネジメントのサポート、事業内での新しい取り組みの推進です。もともとはSE出身なので、IT化も推進しています。たとえば、集会所談話室にPC、プリンター、通信回線を設置してメールでの情報共有や、ネット上のカレンダーを使って集会所の予約管理などをしています。また、どれだけ住民や外部団体を訪れたか、どんな相談があったのかをデータで把握できるようにしています。

研修の企画もしています。支援員さんは住民の方と接する機会が多いので、住民同士のいざこざに巻き込まれたり、厳しいクレームがあったりと、メンタル的なフォローというのも事業の大きな課題になっています。たとえば、臨床心理士の方に来ていただいて、メンタルケアーの方法を学ぶ講習会を開いたりですとか、中越の方々に中越の事例をお話していただいたりですとか、弁護士さんに法律の話をしていただいたりしています。それを100%支援員さんが解釈するのは難しいのかもしれませんが、こういう話もあるよと住民の方にお話できるだけでも重要なことだと思っています。

ぼくは外部連携の必要性を感じていまして、現地の方が現地の方にノウハウ教える仕組みをつくりたいと思っています。ぼくの職場だったSCSKさんに今月から三カ月間、人材を派遣していただき、ICTの仕組みづくりや、組織としての仕事の取り組み方のノウハウを教えに来ていただいています。

SCSK株式会社「東北復興支援 社員派遣プログラム」;http://www.scsk.jp/news/2012/press/other/20120914.html

宮本 いつか地元で何かしたいと考えていたところ、地震があり、一刻も早く現地でという活動が、現在までかたちを変えながら続いているということでした。仮設での支援員さんの動きは、バックアップの体制も含めて、かなり系統だててなされている印象がありますね。

たしかに、沿岸部の広域にわたる仮設住宅群を落ちこぼれなく見ようというときに、とりわけさまざまな配慮を必要とされる方への支援という意味では大切なことなのかもしれません。一方で、広範囲をみようという志向が強くなったときに、ひとりひとりの方とじっくりおつきあいしながら関係をつくっていくようなことが難しくなるのではという印象もありました。

つづいて、唐桑から根岸さんと宮越さんです。

からくわ丸

根岸 まずは自己紹介からさせていただきます。わたし、根岸えま、東京都出身で20年間、東京で暮らしていました。現在、立教大学の三年次を一年間休学しております。いま唐桑に住んで活動しています。

宮越 わたしは宮越逸都子と申します。1988年生まれで今年の3月に早稲田大学を卒業しまして、4月から唐桑町で一年間限定で常駐して活動しています。

根岸 わたしには座右の銘がありまして、「日々吸収、日々前進、日々成長」と日々頑張っております。

宮越 わたしは日々楽しく生きていきたいということで、“everyday is happy day”という座右の銘でやっております。

根岸 そんなわたしたちが気仙沼市の唐桑町で活動するにいたった経緯について、少し紹介したいと思います。わたしたちはもともと、日本財団の学生ボランティアセンターが主催する「ながぐつ」プロジェクトで、がれき撤去を主に活動としてやっていました。関東近郊の大学生が集まって、15人とか20人でバスに乗りあい、4泊5日などで被災地にいってワークをするというものです。

そのプログラムで去年の秋ごろはじめて気仙沼市唐桑町に行きました。その後、唐桑の人や文化に触れて、唐桑の魅力にどんどん魅了され、休みの度に個人的にバスで訪れるようになりました。そして、地元に根づいた活動をするため、一年間の休学を決意しました。現在、唐桑に駐在しています。

宮越 そもそも気仙沼市唐桑町がどういうところかといいますと、宮城県の最北東端に位置する漁業で栄えていたまちです。最北東端なので「宮城の夜明けは唐桑から」という言葉があったり、地元の漁師さんが「ロサンゼルスの光が見える」といったり。そんな冗談も飛んでいます。旧唐桑町で、2006年に気仙沼市と合併して人口は約7000人となっております。震災による被害は、唐桑町の全家屋の28.2%に上る家屋が被害を受け、今年の一月現在で死者が102名行方不明者が3名となっています。

根岸 わたしたちが魅了されたのは、なんといっても唐桑の大自然です。青い海! きれいな夕焼けの空。そして、温かい地元の人たちにどんどんどん惹かれていくようになりました。わたしは20年間ずっと東京に住んでいて、祖父母も東京出身なので、故郷がなかったんですね。そのなかで、はじめて地方の人たちに触れて、毎日吸収することがたくさんあります。唐桑の海とともに生きる生活、唐桑のずっと昔から受け継がれてきた伝統の文化、唐桑に住む人たちの生きざまに感銘を受けました。

宮越 では、今現在わたしたちが活動している「からくわ丸」といった団体について説明させていただきます。2012年の5月にこの団体が立ち上がりました。その前身として、去年の3月震災直後から唐桑にはFIWC唐桑キャンプという団体が活動していました。FIWCというのが国内外問わず世界中でワークキャンプを行って、必要な課題解決に取り組んできたNPO団体で、その団体が昔から唐桑町と交流があったらご縁で、震災後に唐桑でがれき撤去や支援物資配布等のハード面の支援活動を展開してきました。その流れをくんで、今年の5月にからくわ丸を立ち上げました。

からくわ丸;http://blog.canpan.info/karakuwamaru/

根岸 いま、からくわ丸はメインで事務局スタッフわたしと宮越含めて5名、地元の若手住民の方々10人程でやっています。主な活動としては4つの活動をやっています。

宮越 ひとつ目は「KECKARA(けっから)」というフリーペーパーを発行しています。これは唐桑町民の方に向けた、「唐桑の情報を唐桑に発信する」ということにこだわってつくっているフリーペーパーです。

目的がふたつあって、ひとつが唐桑の再発見。これは、わたしたちよそ者だから気づける唐桑の魅力的な人や物を唐桑の人に発信することで、住民の人が、「唐桑にこんなものがあったんだ」と魅力を再発見して欲しいという思いがあります。もうひとつの目的が、「唐桑をつなぐ」です。唐桑は12地区ありますが、それぞれの地区の方々が共通の話題を共有することで、地区の垣根を越えた交流を生み出すきっかけとなればと、思っています。完全に気まぐれ発行で、年に2冊、3冊。唐桑町内を中心とした地元商店に配置しています。2号は渋谷のフリーペーパー専門店でも取り扱っています。

KECKARA(けっから);http://www.facebook.com/keckara

根岸 ふたつ目の事業として「まち歩き」を企画しています。「まち歩き」とは熊本県水俣市を復活させた吉本哲郎さんの「地元学」を参考にした取り組みです。外から来たわたしたちと地元住民が一緒に町内を歩いて、地元に「ないもの」に目を向けるのではなく、地元にしかないもの、唐桑に「あるもの」を捜します。

東北学院大学の子たちがきたときの例をあげると、実際に地元住民の方に案内人になってもらって、よそ者3、4名を引き連れてもらい、全部で5名くらいのチームを組みます。チームごとに、それぞれ地区を周ります。その後に、その日得た情報を、絵地図にまとめて、地元の人たちを呼んで発表会をします。その発表会の後に、もっとより多くの地元の方に見てもらうために、できた絵地図や情報カードを公民館や集会所に掲示して、地元へのアウトプットもしております。

宮越 いま、主なふたつの活動を紹介させていただいたんですけれども、ほかにも、畑づくり、地元のお母さんたちとのお花見、伝統芸能の松圃虎舞の出演など、地元に密着した活動もしています。

根岸 からくわ丸が拠点としている場所を、わたしたちは「ホーム」と呼んでいます。ホームには夜になると地元の20代、30代の若者たちが集まって、くだらない話をしたり、あるいは唐桑の将来といった熱い議論を夜遅くまでしています。その様子を先日地元ローカル紙の三陸新報さんに載せていただきました。

宮越 わたしたちが今後やりたいことのひとつとして、そのホームに集まってくれる20代、30代の若者をみんな巻き込んで、いまの若者がまちづくりを考える場を一緒につくっていきたいと思っています。たとえば先日、「第一回からくわルーキーズサミット」を行いました。内容は「GOTENシリーズ」の今後について等でした。「GOTENシリーズ」唐桑にそびえ立つ「からくわ御殿」をモチーフとして、みんなでデザインを考えてつくったグッズです。Facebook、ホームページ、ブログなどで情報発信をしていますので、チェックしていただけるととても嬉しいです。

宮本 ボランティアとして関わったよそものが、地域に魅了されて、地元に住みついて活動を継続しているという例でした。何より印象深いのは、畑づくりをしているというお話です。自分も、中越の被災地で最初に地域に入ったときにやったことが、畑を貸してくださいとお願いしたことでした。その畑づくりを拠点に、自然とやまあるきになったり、いろんな大学生がやってきたりと、予想もしなかった動きが広がっていきました。彼女たちの活動からも、そうした動きが広まったらいいなと思います。

つづいて服部さんお願いします。

ふるさと回帰支援センター

服部 みなさんこんにちは。NPO法人ふるさと回帰支援センター復興支援コンソーシアム福島県事務局の服部正幸と申します。「福島県二本松市」と、「納豆屋」「中越」というキーワードをもとに発表させていただきます。

ぼくは福島県二本松市、旧安達町で生まれ、高校までそこで生活をしていました。実家は二本松エリア相手に商売をしているような、小さな納豆屋をしています。ばあちゃんが戦後にはじめまして、いまは母が社長となって小さいお店を経営しております。店の名前は「白糸納豆」です!これが、ある意味ぼくの名刺代わりかなと思っております。わが家の歴史が、いまのぼくの生き方に影響を与えているので、わが家の歴史を通して自己紹介をさせていただきます。

曾じいちゃんと曾ばあちゃんの頃は、納豆屋ではなく豆腐屋でした。もともと横須賀の海軍で設計の仕事をしていたのですが、ある日じいちゃんが足を切断し、海軍をやめなければいけなくなりました。生まれ故郷の福島に帰り、近所でも美味しいと評判のわが家の井戸水を利用して、何かつくれないかと考え、はじめたのが豆腐屋でした。ただ、ご存知の通り、豆腐は水を沢山使うのですが、一方で井戸水というのは量が限られています。戦争をきっかけに生きていく上でもっと効率の良い製造品をしようということで、豆腐屋から納豆屋へと転職しました。

納豆屋をはじめようとなったとき、実際に納豆づくりに着手したんですが、なかなか大豆が納豆になってくれなくて、しっかりした納豆になるまで5年間かかりました。その間、じいちゃんはすごく試行錯誤をしたんですね。「なんで納豆になんねぇんだ」って。じつは、なんで納豆にならなかったのかという原因があったんです…。じいちゃんが納豆菌を入れるのを忘れていたんですね(笑)。

二本松エリアに卸すだけの小さい納豆屋なんですけれども、それだけで家の生活が成り立つようになりました。地域の納豆屋をしていたおかげで、じいちゃんもばあちゃんも地域と自然と向き合って、仕事をしていたのがいまの自分に繋がっているんだと感じています。

大学を卒業し、新潟県の長岡市にある、長岡造形大学に行きました。在学中の2004年に起こった中越地震と、2007年に起こった中越沖地震に遭いまして、在学中は被災地域に入り、住民の方と一緒に復興支援活動をしていました。卒業してからは、家具屋とツアーコンダクターなど、まったく復興には関係のない仕事を経験しています。そろそろ福島に戻ろうかなと思っていた頃、3月11日の地震が起こりました。福島に戻るのであれば、少しでも役に立つ人材になりたいと思い、すぐ戻らず、中越でノウハウを学ぶことを選択しました。

2011年6月に地域復興支援にて、長岡の集落に入らせていただきました。「地域復興支援」とは中越地震の後にできた活動なんですが、被災地にお金だけではなく人を派遣して復興をするというものです。

配属先は、よくテレビで報道されていた、山古志村と長岡駅のあいだにある太田・東山地区という場所です。人口250人くらいの小さな地域で、高齢化が進んでいて50代、60代で若手だといわれるような場所です。そこで、実際に自分たちも土地を借りて畑をやって、地域住民と同じような環境で物事を考えるような活動をしてきました。

太田地区にはコミュニティーセンターという支所みたいな場所があり、ここでは高齢者を対象とした事業を年間通してやっていました。たとえば、地域にいる高齢者を車で迎えに行き、コミュニティーセンターでボランティアさんのふるまう料理を食べてもらう。また、和紙を使って花瓶をつくるというワークショップも行われています。

ぼくたちはちょっとでも地域を元気にしたくて、さまざまな試行錯誤をしています。住民の方からもいろいろな提案があり、そのなかのひとつで、みんなで一緒に「インディアカ」をやろうというものがありました。「インディアカ」は、バレーボールのボールをバトミントンの羽に変えたスポーツです。それを20代から60代くらいの幅広い世代で、みな一緒にします。いまも取り組みは継続していて、年に二回開かれる大会に向けて、みなさん楽しく練習をしています。

しかし、冬の太田地区は深く雪が降り、その頃になるとなかなか活動ができない状況になります。そんななか、1月15日には「賽の神」という行事がありまして、一年間の五穀豊穣を祈ります。この日だけは雪がすごく降っても、村の人々や村に縁のある人が集まってくれます。それに合わせてなにかできないかということで、地域復興支援員で雪の壁に穴を掘り光を入れ、雪明りをイメージした光のモニュメントをつくらせていただきました。

このように2012年の3月まで、太田地区で地域復興支援員として働き、4月からは「ふるさと回帰支援センター」に出向になり、内閣府の復興支援型地域社会雇用創造事業の福島県担当になりました。これは被災地に雇用をつくりだすために、地域と向き合って考えることが求められる事業です。

ふるさと回帰支援センター;http://www.furusatokaiki.net/

簡単に説明しますと、主にインキュベーションとインターンシップのふたつの柱でこの事業をしております。インキュベーションプログラムですが、復興人材の育成と社会的企業の事業支援とが主なプログラムです。福島県では30人の起業家を生み出すことを目標に取り組んでいます。5回コンペを行う予定で、そこでのプレゼンを審査し、起業家として認定された方には上限260万円の起業支援金をお渡しして、起業をサポートしています。

もうひとつ、インターンシッププログラムの実施もしております。現在、福島県内では11か所のインターンシップを行っています。いわき(市)では、休耕地活用を目的とした「オリーブプロジェクト」という活動が始まっています。インターンシップを経るにしたがい、加工の段階に進むにはどうするのかというところまで、踏み込んで進めております。

また、福島県の県南エリア白河市表郷で行われている農業体験インターンシップもあります。これは学生を対象としたもので、東京の大学に通っているけれども東北のためになにかやりたい、今後自分たちができることをやっていきたい、そんな学生さんたちが集まっています。まずは福島の現状を、農業を通して体感してもらおうと考えています。

二本松市の東和で行われているインターンシップは、地域住民の人が研修生となり、まちづくりの進め方や連携の方法を学んでいます。また、商品開発であったり、既存の商品をみなで食べてもらって、商品のブラッシュアップを図っています。会津地域の喜多方で行っているインターンシップでは、首都圏に住む社会人の方に来ていただきます。現地を一泊二日で見て、彼ら一人ひとりにまちづくりのプランをつくってもらい、それを実際に地域の取り組みに落とし込んでいくといった活動を、半年程かけてやっていくプログラムです。

このように、ぼくはさまざまな地域に伺って、これからどういうふうに復興していけばいいのかということを、住民のみなさんと一緒に考えています。その地域が何を重んじて何を求めているのか。地域の目線にきちんと立ち、できるかぎり力になれたらいいと思っています。

宮本 まずは服部家の歴史からという面白い発表でした。おかげさまで、服部家の歴史を通して、二本松に生きる人たちの生きざまといいますか、歴史が浮かび上がってきました。5年間、納豆にならなくても、ねばりづよく試行錯誤をするおじいちゃん。そして、5年間納豆にならなくても、家族を支え続けた力強いおばあちゃん。いろんなヒントがそこにつまっている気がします。

分科会を振りかえって

宮本 分科会全体を振りかえりたいと思います。

被災地に関わったきっかけは、さまざまでした。仕事として関わり始めた方もいらっしゃれば、ボランティアで関わった方もいますし、そもそも地元出身であったりされる方もいました。活動内容もさまざまですね、畑をつくったり、まちあるきをしたりと自ら地域に身を投じる方もいれば、人や団体、資源のコーディネートを志向されたり、そうした人たちが集まる場づくりをされているという例もありました。

そうしたさまざまなきっかけで進められる復興人材の活動ですが、共通するものとして、被災地の歴史や特性をどのように踏まえていくのか、活かしていくのかポイントになりそうです。

最後に、復興人材の育成という話題がありました。長期的な復興を考えたときに、それを支える「ひと」が中心となることは間違いがないと思います。わたしは、復興人材が育てられるのは、被災地であり、被災者の方によって以外にはありえないのではないか、そう言い切れる気さえします。

みなさんの活動がこれからも続いていくなかで、さまざまな輪が広がり、表現する言葉が変わっていくこと、顔が増えていくこと、そんなことを期待しながら、また来年もみなさんとお会いできればと思います。本日は大変ありがとうございました。

(2012年10月7 日 日本災害復興学会分科会1)

プロフィール

宮本匠

京都大学防災研究所特定研究員。大阪大学大学院人間科学研究科修了。博士(人間科学)。日本学術振興会特別研究員(DC1)、同特別研究員(PD)を経て、2012年7月より現職。新潟県中越地震の被災地でのフィールドワークを継続しながら、曲線を用いたインタビュー手法である「復興曲線」による研究を進めている。主な専門領域は、グループ・ダイナミックス、災害復興。主要著書に、「災害復興における物語と外部支援者の役割について‐新潟県中越地震の事例から」、「人間科学における研究者の役割―アクションリサーチにおける「巫女の視点」-」(いずれも、『実験社会心理学研究』所収)や、「防災・減災の人間科学‐いのちを支える、現場に寄り添う‐」(新曜社、共著)がある。

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