2011.12.02

「可哀相なひと」と「困ってるひと」はイコールではない

重松清×大野更紗

情報 #困ってるひと

お互いの著書に信頼を寄せる、ふたりの作家の初対面が実現しました。かたや、数々の賞を受賞し、現在も精力的に執筆をつづける文学界の巨頭、かたや、今年6月に上梓したデビュー作『困ってるひと』が話題の新人作家。世代による世界観の違い、震災のこと、文学のこと……。縦横無尽に語りました。

「福島」の代弁者にならない

重松 『困ってるひと』の発売からまだ四か月も経っていないけど、毎日がすごく忙しくなったでしょ。

大野 そうですね。ポプラビーチというウェブサイトで連載していたときは、二週間に一回締め切りというペースで必死に八か月間つづけていたので、そのときは書くのが大変でした。本が出てからは取材の対応であっという間に時がすぎたというのが正直なところです。

重松 人と会うことがすごく増えたんじゃないかなって。「不幸にして」と言うべきだと思うんですけど、難病女子であることに加えて、福島出身でもあるから、大野さんへの取材のフェーズがたくさんできましたよね。「難病と福祉」と「福島」では、取材のポイントとして、どちらが大きいですか?

大野 「福島」で取材のお話を頂いたり、福島のことを書いてくださいと言われたときは、基本的にはお受けしないようにしてきました。

重松 なるほどなるほど。

大野 わたしには代弁する資格はないと思っています。父母も含め、親戚の多くが福島で暮らしていて、原発の作業員もいます。原発避難民の親戚もたくさんいます。農家の親戚もいます。3・11のすぐ後に「テキストの担い手として、福島の人に後ろ指さされるようなことだけはしてはならない」と、福島出身という立場である自分を戒めました。

重松 ぼくも、週刊誌のフリーライターをやっているのでわかるんだけど、事故が起きるとまず、その土地の出身者リストをつくるんだよね。いまの言葉を借りれば、当事者の代弁をしてもらおうという意識で、取材やインタビューに出かけていく。当然、代弁者になって語る人もいれば、語らない人もいます。

大野 それは当然いるでしょうね。

重松 人それぞれのスタンスによりますよね。マスコミがまず「レッテル貼り」をして、『困ってるひと』で話題の大野さんが福島出身だとわかって飛びつく様子が、目に浮かぶような気がした。これに対して、いまの「戒めのデリカシー」っていうのが、大野さんにストレスを生むんじゃないかなーと陰ながら心配もしていたんですよ。

大野 わたし自身のストレスというのはあまり意識していないんですけど、この前、福島県内で一番大きな書店さんのイベントに呼んでいただいたんです。被災後はじめて、福島に入りました。この身体ですから、日帰り搬送体制で、それ自体非常に大変なことでしたが行って本当によかったと思っています。両親もこっそりと郡山市まで車で出てきて、3・11後にはじめて直接顔を見た。

書店の一角で三十分話しただけでしたが。それはともかく、郡山市のその書店で、福島で日常を暮らす人たちにお会いした。そこで、東京の人こそ「苦しい」のかなと感じました。福島で少しずつ日常が壊れて、土地が消えようとしていることは、もちろんわかっているんだけども、放射線やこれからどうやって生きていくかという事実から少し切り離した心情的な話では、東京の人のほうがストレスを感じ、怯えている印象があるんですよね。

重松 うん。いまの東京の人たちは、たとえば「引越しをする人もいるし、しない人もいる」「しようと思えばできる」という選択肢のある状況に、かえって悩まされて、苦しめられている気がする。開き直れなくて右往左往しちゃう。

大野 原発にかぎらないですけど、逃げられるところから見える景色と、本当に逃げられないところから見える景色はぜんぜん違う。

重松 そうですね。「ここでやるしかないんだ」って開き直った人は、やっぱり強いです。当然シビアな状況はずっとつづいているんだけど、「ここで生きるしかないんだ」って腹をくくれるんですよね。

大野 東京のほうが浮き足立っていると感じた。それは東京と福島を単純に比較したり、正しいか悪いかの次元で考えられることではない。価値概念やイデオロギーの問題ではないんです。ただの東京の今日の「現実」なんです。

重松 浮き足立つと人は短絡的になるんですよね。さっきのレッテル貼りもそう。そうやって短絡的に結びつけることは、この半年間すごく多かったと思うんです。だから、大野さんにも、無神経な質問とか、すごく多かったんじゃないのかな、と。

大野 そうですね。「福島枠」にプラスして、「弱者枠」でしょうか。

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バブル期の影響

大野 今日は重松さんにぜひお聞きしてみたいことがあるんです。私は一九八四年生まれで、物心ついたときはもう日本は右肩下がりだったので、高度経済成長期やバブル期って、いくら話を聞いても、どんな時代だったのか実感としてわからないんですよね。

重松 なるほど。

大野 下がっていく現実に抵抗は感じないし、「とにかく、現状を受け止めて何とかする術を考えなきゃいけない」と当たり前に思っている。重松さんにとってその時代はどういうものだったんですか?

重松 ぼくは小学校一年生でアポロ、二年生で大阪万博を経験して、四年生か五年生のときに「日本沈没」、ノストラダムスの大予言と、ユリ・ゲラーでね。

大野 一気に転換しましたね。

重松 うん、だから、小学校で二十一世紀の絵を描きなさいという課題が出たときに、クラスはふたつに分かれたんです。ひとつは、手塚治虫さんの漫画のような未来都市。もうひとつは、核戦争が起きて、廃墟になった未来で戦争をやってる場面。それを教室の後ろの掲示板に貼ると、ばら色の未来と暗黒の未来が入り混じる。

大野 二極化してるわけですね。

重松 そう。それがぼくたちの持っていた「未来観」だったのかもしれないなーって。

大野 そのふたつって、対極なんだけどもなんとなくつながってる気がします。自分の想像や体感をはるかに超える万能感と、すべてが消える終末感、虚無感が……。

重松 うん。アメリカとソ連の、大統領と書記長が持っているボタンを押した瞬間に、地球は滅亡する。ボタンひとつで終わっちゃう、というのは相当心にあったんです。

大野 万能感と完全な無力感は、正反対に見えますが、ほとんど同じだと思います。物事の実体の細部は、グレーゾーンのなかにある。その細部が、ボタン一個で全部ふっとんじゃうんだったら、その細部はないのと同じじゃん、という話になってしまう。

重松 そう! 本当にそうで、グレーゾーンなくなっちゃうわけよ、はっきり言っちゃえばね。

大野 で、日本にはその後どんどん暗雲が垂れ込めてくると思うんですけど、バブルという時代がその後に来るじゃないですか。それは、どうなんですか?

重松 八〇年代半ばにチェルノブイリの事故があり、アメリカのスペースシャトル「チャレンジャー」の事故があって、そのふたつはどちらも原子力と宇宙という六〇~七〇年代の「夢」だったんだけど、それが壊れた瞬間だったなーとぼくは思ってる。

大野 なるほど、そういう見方もあるんですね。

重松 でも、ぼくたちの世代はオイルショックも知ってるし、円高不況も知っていて、当然バブル崩壊やリーマン・ショックも社会人として体験した。そういう「負け」や「壊れた夢」の経験値が、じつは一番大切なんじゃないかという気がするんだよね。負ける技術というか、「負け」の受け止め方にも上手い下手がある。その面では、団塊ジュニアから下の世代は、うまく「負け」と付き合っていないような気がする。「負け」イコール「終わり」になってるでしょ。トーナメントみたいなもので。

大野 バブル体験をど真ん中で経験したことのある人は、「負ける」ことに対してものすごい抵抗感があるような印象があります。別に負けても終わりじゃない。一回負けたら、ではその次にどうするか考えればいいのではないかと、一九八四年生まれとしては安易に思ってしまうのですが……。

重松 ただ、年功序列とかローンの仕組みを見ていると、社会全体が右肩上がりを前提としてるよ。昨日よりも今日、今日よりも明日のほうが幸せじゃなきゃいけない。年収も貯蓄も基本的に右肩上がりでシミュレーションされる。それを前提に人生設計を立てちゃうと、もう負けるわけにはいかなくなっちゃうよね。

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テキストが死に瀕している

大野 私もよく「若い」と言われますが、自分よりもっと若い平成生まれの人たちが何を感じているのか、定期的に会ってもらって話を聞くようにしています。最近、痛烈にテキストが死に瀕している、と思うんです。まず、漢字を読まない。「読めない」のではなく、「読まない」のです。

重松 なるほど。

大野 それは彼らの「勉強が足りない」わけでもないし、「努力が足りない」のでもない。たとえば十八年間、ここまで必死に生きてきた過程のなかで、漢字を読むことの必要性が彼女たちになかったんです。努力してるし、苦しんでいるし、悩んでいるし、ちっとも怠け者ではありません。でも、漢字が羅列されたテキストは読めない。

重松 うん、そうですよね。

大野 「本」はわたしにとってすごく大事なもので、本当に知りたいことだったらご飯を我慢してでもそれを買うわけです。わたしにとって、テキストというものは権威性があったし、それを裏打ちする「力」もあった。でも、いまの若い人にとって、仕事をして食べていくとか、普通に暮らしていくという営みと、テキストを読むことは、両立しないんです。一般化しすぎるのは安易すぎると自覚していますが、でもとにかく、彼らにとって「本」というのはコンテンツとして消費する対象ではもはやないという印象が、すごく強い。

重松 おそらく物理的に、出会う時間もないですよね。

大野 そうですね。本を読まない若い人に何で充足感を満たしているのかを訊くと、たとえばネイルアートだったり、エステに行ったり、恋愛をしたり、その瞬間、単発で「悦」を得られるものがあがってきます。時間性が、ものすごく短くなっている。テキストは読むのに時間がかかるから敬遠される。

重松 時間のコストパフォーマンスが悪い、と。

大野 でも、社会をつくったり動かしているのは、うまくテキストを操る人たちです。官僚にしても政治家にしても。

失敗の先にある豊かなもの

重松 親としての立場からいうと、世間全体が子どもたちに「自分らしさが大切だ」とか「お前はお前で満たされてるんだよ」と言いすぎてしまったのかなって。本当はまだまだ足りないものがいっぱいあるのに、「探しに行ってこい」ではなく「自分らしく」と言って、それが都合よく解釈されちゃった気もする。

大野 それはやっぱり、お子さんをひと世代育ててみて思われたことですか?

重松 うん、かみさんともよく話してるんだけど、ちょっとほめて育てすぎちゃったかな、と。もっと厳しくやりゃよかったかな(笑)。

大野 「ほめる」っていうことの方向性がちょっと違ったってことですか。

重松 たとえば、走り高跳びで言えば、一メートルを跳んだのを「すごいぞ」とほめる。それは、気分よくなって一メートル二十に挑戦するかなと思ってほめたわけ。そうやって上がっていき、ときには挫折して、励まして、と思ってね。ところが、一メートル跳んで拍手したら「じゃ、もうやーめた。いいもん、一メートルで」って(笑)。そういう発想や価値観、いまはすごく多い気がする。

大野 そこで落ち着いちゃうわけですね。

重松 ただ、とりあえず落ち着いて、「これはこれでクリア、はい、次」と進んでいかないとやっていけない、というのもわかる。いまって楽しいことがどんどん送り込まれてくるじゃない。だからそれを消化するだけで精一杯なんだな、という気はするな。小説でもそうだけど、泣けないし、感動もできないけれども、深いものっていっぱいあると思うんだよね。

大野 もちろんです。

重松 だけど、一番手っ取り早く「泣けた、笑えた」というところで、「一冊の本を読んだ」と満足しちゃうところは、残念な気持ちがする。わかりやすい本を一冊読んで「小説読んでるもん」と言われたら、それはもちろん一冊に変わりはないし、本人が良いならいいんだけども、その先にもっと豊かなものがある、というところに目を向けない人も増えてきてるんじゃないかというのがあるんですよ。

大野 そのお話と重なるかどうかわからないんですけど、何かするときって、基本的に「うまくいかない」んですよね。わたしだって、原稿書くときはうまくいかないです。七転八倒して、書いては捨て、破っては捨て、読んでは悩み、ぜんぜんうまくいかない。それは、当たり前です。失敗して失敗して失敗して、恥ずかしい思いをいっぱいして、でも、だからこそ面白い。

重松 失敗の不快感を越えた先にすごい幸せや楽しさがあるのに、その先の楽しさよりも、いまの失敗の不快さのほうが勝ってると、もういいやとなってしまうんだろうね。

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未来を担保にしていた時代

重松 たとえばぼくたちの時代って、「いま勉強しとくと、先にいいことがある」とか「今勉強しとかないと、先にろくな人生が待ってない」というふうに、未来を担保にしてた部分があったと思うのね。

大野 約束事のように。

重松 うん。でも、それを信じてがんばって、全部クリアしたはずなのに、じつは大人たちが幸せになってない。これはもう実感としてあると思うんですよ。

大野 「こんなはずじゃなかった」ですよね。

重松 そうそう。いま、「先にいいことがあるよ」以外で、担保にできるものを見つけなきゃいけない。それを探してる最中なんじゃないのかなーと思うんです。やりがいや希望を見出せなくなっているいま、大人は何を提示すればいいんだろうっていうのが、これからのテーマなんだろうな、とは思ってる。

大野 団塊ジュニア世代は、いわゆる「同調圧力」が一番強い世代なのかもしれませんね。「勝ち組・負け組」が象徴的ですが、なんでも人とすぐに比べる。わたしのような八〇年代以降の世代は、最初からぼろぼろに傷つくのが当然なので、失敗や勝ち負けという概念そのものが、実感としてわからないんです。

重松 明確な成功のモデルケースが見えないと、逆に失敗もわからないもんね。

大野 そうですね。失敗っていうのは別に隠すものじゃないし、緊張感を持つようなものではない。「みんな挫折して当然」という感じ。

重松 高度経済成長期って、ぼくの好む言い方をすると、『ドラえもん』ののび太くんを幸せにするシステムがあったんです。出来杉くんやジャイアン、スネ夫はいつの時代でも幸せになる。のび太みたいなやつを、きっちりと救って幸せの側に持っていったのが、年功序列だったり、終身雇用だったりするものだろうなと思ってるんです。

保身のための線引き

重松 でも、逆に、そのシステムから出てしまったら、大変になる。たとえば、シングルマザーに対する世間の目というのは、昔のほうがずっとキツかった。正社員で就職しないこと、外国人、障碍を持つひと……そうだよ、バリアフリーなんて、昔はなかったんだから。「車椅子のひとが外出する」という発想がなかったんだよね。で、そういう時代を象徴する言い方が「落ちこぼれ」だと思う。「大船に乗ってれば安心」の船から落ちてしまうと、もう戻れない。でも、いまは違うでしょう。船そのものが「大船」でもなんでもなくて、揺れどおしのボート。でも、船が危なっかしく揺れているからこそ、舳先から落ちる人もいる代わりに、波が来てまた戻れるやつもいるかもしれない。

大野 そうですね、ラインを引く必要性がないですよね。

重松 そうだよね。ただ、ぼくはその一方で、ラインを引いてもらったほうが安心する人たちもいると思うの。

大野 それはあると思います。

重松 僕はBPO(放送倫理・番組向上機構)の放送倫理検証委員でもあって、テレビ番組に放送倫理違反があると、審議して、意見を出すわけ。そうしたら、あるテレビ局の人に言われたの。「やってはいけないことの『べからず集』を先につくってくれ」と。

大野 うーん、それは違いますよね。

重松 ぼくも違うと思うんだ。テレビ番組をつくるのはクリエイティブな世界なんだから、先にそうやってラインを引くんじゃなくて、まずはやってみて、それで結果的にラインを踏み越えちゃったものに対しては、イエローカードを出すようにしないと、現場って萎縮するだけだと思うんだよ。

大野 そうですね、線を引いてほしいって思いながら、その線に近づくことにすごく怯えてる感じがするんです。どんな立場にいたとしても、いつでもその線なんか飛び越えちゃう可能性があるわけですよね。

重松 うん、おしくらまんじゅうみたいにポーンと押されて、ホームから落ちちゃうこともありうるわけだからね。

大野 そうそうそう(笑)。

重松 さらに、線引きを誰かに任せてしまうと、ちょっとずつその線が移動していって、気づかないうちにじわじわと狭まってることもあり得ると思うんだよね。

大野 そうですね。いまのBPOの話を聞いて、社会保障のケアや医療の現場にも、同じようなことが多いなと思って。いまの政策議論は、現実の矛盾に対応する策として、現場のワーカーさんの禁止事項をどんどん増やしてコントロールしていこうとする傾向がある。厚労省や社会保障審議会は、行程表やマニュアルをつくればうまくいくだろうと考える。でも、介護施設で働いているおばちゃんの話を聞いとき、おばちゃんは「そもそも、人間の生活に区切りなんてあるわけないんだ」とはっきりおっしゃられた。

重松 そうですよね。

大野 利用者さんの状態も毎日変わるわけですし、状態が急変したときにはどう対応するか、誰が責任取るかとなったときに、枠をまずつくって、現実を枠に当てはめて維持しようとするんだけど、それがぜんぜんうまくいっていない。

重松 結局リスクヘッジなんだよね。保身のための線引きなんだけど、現場では線を超えなきゃやっていけないし。

大野 一生懸命試行錯誤しながら、経験を積み重ねるしかないことに対して、「マニュアル通りにすればうまくいく」と信じすぎかなと思います。逆に、テキストにしにくい「現場の論理」をどうやってテキストとして可視化して伝えてゆくことができるのかが、わたしにとっての課題でもあります。

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答えはひとつではない

大野 わたし、重松さんの『十字架』が大好きなんです。この小説は、大人の、「親」の苦労が描かれていると思いました。

重松 生きるってことは、自分でも気づかないうちに人を傷つけてるかもしれないし、人に恨まれてるかもしれない。その苦さっていうものは、いつも一定の割合であるものだと思うんだよね。

大野 ハッピーエンドではないんですけど、不思議と悲愴感はないんです。

重松 でもねー、この本への意見で、「終わってない」という読者が多いんですよ。もっとはっきりと「お父さんと和解する」場面がないと、中途半端って言われちゃって。

大野 曖昧さを許さないわけですね。

重松 小説というのは行間を読んだり、余韻を味わったりするものだと思ってるんだけども、それにはリテラシーが必要で、読み慣れてないと、宙吊りの終わり方というのに耐えられない人が多いんだなって。読めば読むほど読み方もわかってくるんだけども、あんまり小説を読まない人が増えたんだろうなという感じはしてる。

大野 答えがそこでほしい。苦しくなったら、答えが、救いがほしいわけですよね。

重松 そうそう。でも、本当に知りたいと思って本を読む場合だって、そこに直接的に答えが書いてあるわけじゃないと思うんだ。

大野 他人の痛みや苦しみは、やっぱりわからない。突き詰めていけば他人事なんです。でもその上で、それでもなお、どう人と人は関わっていくか。他人事であるからこそ、どれだけ他者に対する想像の幅を広げられるかが問われる時代だと思っています。テキストにはその幅を広げる力があるとわたしは信じています。答えを出さずに終わるのも、想像力の「幅」」を読者の方に投げられるからですよね。

重松 そう。小説って書き込んじゃったら、ひとつしか解がなくなっちゃうんだよ。でも読者が百人いたら、百通りの終わり方があっていいと思うんだよね。感情も、曖昧なものじゃなくて、「泣けた」「怒った」といった、くっきりした感情を出さないと終わらないというか、許してもらえない感じがしちゃって。マヨネーズ味みたいな(笑)。

大野 それはなんか新しいな、マヨネーズ味(笑)。

重松 ぼくは『困ってるひと』の書評をしたときに、一番言いたかったのが「可哀相なひと」と「困ってるひと」はイコールじゃないんだよ、というところだったんだよ。こういう作品で陥りがちなんだけど、「可哀相な子の話」と思われてしまうのが一番やばいと思ったんです。

大野 「弱者」と「可哀相な人」は違いますからね。

重松 困ってるんだけども、めちゃくちゃ明るくて、自分に突っこみながら、でもよく見るとすごくやるせなさがある。二重三重にいろんな感情が交じり合ってるじゃないですか。

大野 そうですね。うん。

重松 人の心って矛盾がたくさんあるわけじゃない。だから、この本のなかにある二重三重のいろんな感情を丁寧に読み取ってくれる人がたくさん増えるといいな、と思ったし、実際に読者のレビューを見ていると、きっちり読み取ってくれている。それがわがことのように嬉しかったんですよ。

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再読に値するもの

重松 人間は自分ひとりの人生しか生きられないから、結局物語を読むということは、フィクションもノンフィクションも含めて、いろんな人のいろんな人生、架空の人生を知るってことじゃない。で、知ることによって、幅が広がらなきゃダメだと思うんだよ。だからぼくは、小説が読者の価値観よりも狭くなったら、読む意味ねーじゃんって思うのね。

大野 そうですね。

重松 「なるほどこういう考えもあるんだ」とか、「自分が見逃してきたところはこうだったんだ」と思う。その面では『困ってるひと』は、間違いなく「文学」だった。

大野 そうですか……こんな軽々しいものを(笑)。

重松 いや、でもこれはすごい本だった。ぼくはいくつかの文学賞の選考委員もやってるんだけど、ちょうど書評を書くために再読している時期に、ある新人賞の選考があったの。その候補作を読むのと並行して再読していたら、『困ってるひと』のほうもごく自然に「文学」として読んでいたんだ。なんの違和感もなかったし、読了後の胸の熱さは、まさに「文学」でしか味わえないものだった。

大野 いやいや……。

重松 一回目よりも二回目のほうが、じつは得るものが多かったなって思ったの。一読目は大野さんの強烈なキャラクターに翻弄されて、ジェットコースターで終わったんだけど、時間をおいて読み返すと、福祉の問題なんかがいっぱい入ってるんだよなーと思ったの。ぼくね、一回目と二回目で感動の質が変わるものは全部「文学」だと思ってるから。要するに再読に値するものってことだよね。

大野 なるほど……。

重松 やっぱりこれは再読に値するし、三読したらもっと変わるかもしれない。

大野 ああ、畏れ多すぎるコメントの羅列が……。

重松 『困ってるひと』の最初はサイトだっけ?

大野 そうです。ウェブマガジンです。

重松 それはただで読めるんだよね?

大野 そうです。

重松 ただで読めるものに定価つけて売っちゃったんだけども、最初は不安はあった?

大野 わたしは、「本」を信じているんです。わたしができることは、ただひたすら、そのときどきで身を削って言葉を紡ぐことだけです。ウェブ連載中から、「本になったら買います」とおっしゃってくれる方がいらした。いまでも、「連載で全部読みましたが本を買います」と言ってくださる方がいる。今日、若い書き手は、「どんなに書いても食べていけない」現実に当然直面します。でも、やっぱりそれも、七転八倒して試行錯誤していくしかない。そのことについては、書きはじめた時点で覚悟を決めています。

重松 いいねぇ。こういうのってね、本つくる人間が付加価値をつけようと思って、本にいろんな付録をつけたがると思うけど、そうじゃないからね。それはじつは、フォントやレイアウト、装丁をきっちりして、本としてどこまで良い本にできるかですよ。これがもしハードカバーだったらぜんぜん違うわけです。ここが曲がる、しなる。このしなりってさ、やっぱり本ならではじゃん。

大野 そうですね、それは編集者と、デザイナーさんとですごく考えました。

重松 いい作品を、丁寧につくったら、絶対にそれは返ってくると思う。信じていいと思うし、新人の作品が口コミでこれだけベストセラーになったのは久しぶりだと思うんだよ。だからぜひ、本として大切に、これからも売り伸ばしてもらいたいなーと。

大野 重松さんにそう言われると、根拠がまったくない「本」への信頼感が、より一層高まりました! ほんとに、ありがとうございます。

重松 いや、ほんとにがんばってください。

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プロフィール

大野更紗医療社会学

専攻は医療社会学。難病の医療政策、難治性疾患のジェネティック・シティズンシップ(遺伝学的市民権)、患者の社会経済的負担に関する研究等が専門。日本学術振興会特別研究員DC1。Website: https://sites.google.com/site/saori1984watanabe/

この執筆者の記事

重松清作家

1963年、岡山県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。出版社勤務を経て執筆活動に入る。1991年、『ビフォア・ラン』(ベストセラーズ、現在は幻冬舎文庫)でデビュー。著書に、『ナイフ』(新潮文庫、坪田譲治文学賞)、『エイジ』(新潮文庫、山本周五郎賞)、『ビタミンF』(新潮文庫、直木賞)、『十字架』(講談社、吉川英治文学賞)など多数。

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