2016.02.15

「エイズを終わらせる」ために何が必要か

NPO法人「アフリカ日本協議会」国際保健部門ディレクター、稲場雅紀氏インタビュー

国際 #エイズ#HIV#AIDS

エンド・エイズ(エイズを終わらせる)――確かに今エイズは治療薬の開発が進み、もはや「死の病」ではなくなったと言えるだろう。しかし、アフリカ諸国など途上国も含め、世界中からエイズが消滅する日は本当に来るのだろうか。NPO法人アフリカ日本協議会国際保健部門ディレクターの稲場雅紀氏にお話を伺った。(聞き手・構成/大谷佳名)

エイズ治療を受けられる人口は増えたが……

――エイズの影響が最も深刻と言われるアフリカですが、その状況は改善されているのでしょうか。

マクロに見れば、改善されていると言えます。アフリカのHIV/AIDSの問題がグローバルな優先課題として認識され始めたのは90年代末〜2000年ごろのことでした。一方、「エイズ治療」が、HIV陽性者の延命や生活の質の向上に非常に有効なものとして登場してきたのは、1996年のことです。

同年、カナダのバンクーバーで開催された第11回国際エイズ会議で「3剤併用療法(多剤併用療法)」、つまり異なった種類のエイズ治療薬(抗レトロウイルス薬)を複数種類飲む方法が、HIV(エイズウイルス)の進行を防ぐのに効果的だと注目を浴びました。それ以降、先進国では多くのHIV陽性者が多剤併用療法による治療を受け、「感染すれば5〜10年後には亡くなってしまう」という状況からは脱却していきます。

ところが、アフリカを含む途上国では、国民の多くにとって入手可能な形で安価に多剤併用療法を供給するといったことは、2000年代になるまでは、ほとんど行われてきませんでした。実際、2002年の段階でも途上国でHIV治療にアクセスできていた人は合計22万人。そのうちの半分がブラジルの人々でした。ブラジルは治療を求めるHIV陽性者や市民社会の長い闘いの末、90年代後半以降、HIV治療の無料化に踏み切っていたからです。

それ以外の途上国では、ブラジルのような無料治療などを導入することもできず、多剤併用療法の恩恵を受けることができたのは、富裕層や政府高官、その家族などに限られていました。

一方、当時の途上国におけるエイズのスケールは巨大でした。特に南部アフリカにおいては15〜49歳の就労人口の2割以上が感染しているという地域もあり、中長期的に人口構成が全く変わってしまうと予測されるほどの極限的な危機でした。実際、エイズで親を亡くした孤児たちが溢れ、高齢者の夫婦1組あたり80人の子どもを世話しなければならない――地域社会そのものの崩壊に直面していたのです。

そもそも、途上国で治療アクセスが進まない一番の理由は薬の値段が高いということです。例えば、HIVの場合、開発系製薬企業が開発したブランド薬・新薬を買うと年間200万円もかかります。その全額を払うのは先進国に住んでいる人でも無理ですが、たとえば日本の場合、私たちは公的な医療保険制度や税ベースの社会福祉制度があるから払えているんです。

日本では、まず第1に公的保険を適用して「高額療養費」まで個人負担を減らし、さらに税を財源とする、障害者のための医療制度を適用することで、月5000〜10000円程度の出費までに個人負担を減少させています。そのように、医療保険制度や社会福祉制度が整っている国、なおかつその制度に国際基準での資金が伴っている国でなければ、ブランド薬を国民に供給することは難しいといえます。

――ブランド薬はなぜそれほど高いのですか。

開発系製薬企業が新薬を開発するには、膨大な先行投資がかかるとされています。その結果、その金額を取り返し、開発の報酬として相当の利益を上げるために価格を高く設定し、それを知的財産権(この場合、特許権)によって守る、ということが認められているわけです。実際、その薬がHIV治療に効果があり、なおかつ一般的に、人体に大きな害がないことを証明して初めて市場に出せるので、臨床試験を含め開発の段階で多額の経費がかかっているのです。

その上、製薬業界は利益率が高い企業の集まりなので、もし利益率が下がれば株主が他に乗り換えたり、あるいは他の企業から買収攻撃を受ける恐れがあります。ですから、膨大な利益を得るために値段を上乗せし、特許権で防衛しているわけです。

ただ、新しく開発するのでなく、開発された治療薬と同じ成分が同じ割合で入ったものを、別の方法で作ろうと思えば、もっと安く作れます。このような形でジェネリック薬を製造する能力が整い、ジェネリック薬産業が巨大な規模で存在しているのが、インドです。

2000年代初頭、アフリカをはじめ各地でHIV/AIDSに関するプロジェクトを展開していた「国境なき医師団」は、エイズ治療薬があまりに高く、現場で苦しむ人々に供給できない、という悩みを抱えていました。それに対して、インドのあるジェネリック薬企業が、年間200ドルという値段で、最も安価なタイプの三剤混合薬を開発し、供給したのです。

「国境なき医師団」はこれを使って、途上国でエイズ治療のパイロットプログラムを実施し、非常に高い治療実績を上げました。それを踏まえて、「途上国でもエイズ治療は可能だ」ということを訴えたのです。これは、「証拠に基づいた政策提言」の模範ともいえる行動でした。

一方、インドをはじめ、途上国において安価なジェネリック薬産業が成長することは、先進国に多い開発系製薬企業にとっては大きな脅威です。200万円の薬と同じものが、2万円で買えるなら、みんな安い方を選ぶに決まっていますよね。先進国にその2万円の薬が逆輸入された場合、開発系製薬企業は、新薬開発の投資を回収できなくなり、非常に困ることになります。

なので、彼らは「アリの一穴も許さない」という立場で、各国政府や国際機関へのロビー活動を強力に進めました。その成果が、1996年のWTO(世界貿易機関)設立時に、加盟国に強制する形でパッケージとして組み込まれた「TRIPs協定(知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)」です。このTRIPs協定により、途上国の特許法にも先進国並みの知的財産権保護を義務付けることになりました。

先に述べたように、先進国の開発系製薬企業は、エイズ治療薬に高額な値段をつけ、それを知的財産権で守ることによって膨大な利益を上げ、その価格のせいで、途上国の一般の人々がエイズ治療にアクセスできない状況が生まれていました。これに対し、「途上国でも治療を」という声が途上国、先進国を通じて市民社会から大きく上がることになります。

おりしも、2000年には国連で「ミレニアム開発目標(MDGs)」(2015年までの目標)が採択、2001年には国連エイズ特別総会が開かれ、国際社会全体でエイズ対策に取り組もうというコミットメントが確立していきました。しかし、ことエイズ治療については、開発系製薬企業のロビー力に影響された先進国の「特許至上主義」ともいうべき知的財産権防衛政策と、「治療へのアクセス」の折り合いがつかず、2001年の段階では、「途上国での治療導入」の方針は確立されていませんでした。しかし、2003年までの間に、この課題は二つの方向で解決を見ることになりました。

一つは、途上国での治療拡大を求める市民社会の運動が、「特許至上主義」の壁を打ち崩した、ということです。開発系製薬企業は市民社会による批判のやり玉にあがり、「社会的責任」の観点から問題を感じた株主が、開発系製薬企業への投資を控える傾向も出てきました。こうした中、2001年、南アフリカ共和国の「薬事法」を憲法違反として訴えていた39社の開発系製薬企業が、形勢不利とみて一斉に裁判を取り下げるという動きがでてきます。

さらに、こうした流れの中で2001年の第4回WTO閣僚会議で「ドーハ宣言」が発表され、各国が自国民の健康危機に対して強制実施権を活用して治療薬を製造したり、輸入するなどの方策をとる柔軟性が認められました。このようにして、ブラジルやタイが自国民のために多剤混合薬を作ったり、途上国がインド製の多剤混合薬を購入して自国民に供給することが可能となったのです。

もう一つは、世界的にエイズ治療を実現するためのグローバルな資金供給メカニズムの確立です。2000年の沖縄G7サミットで、エイズに関わる世界的な資金供給メカニズムの設立が合意され、2002年、「世界エイズ・結核・マラリア対策基金」(グローバルファンド)として、この合意が実現します。その翌年には、米国のブッシュ大統領が、一般教書演説で「米国はアフリカのエイズ問題に共感し、5年で150億ドルを対策費として拠出する」と演説。これが「米国大統領エイズ救済緊急計画」(PEPFAR)として結実します。

この二つのメカニズムを中心として、エイズ治療へのグローバルな投資が実現。これを踏まえて、世界保健機関(WHO)と国連合同エイズ計画(UNAIDS)が、2005年までに300万人に治療を提供する、という「3×5」(スリーバイファイブ)戦略を決定。途上国へのエイズ治療の流れは主流化、本格化します。

 

図:世界のHIV治療アクセス数の推移(2003年〜2012年)出典:UNAIDS 『TRETMENT 2015』
図:世界のHIV治療アクセス数の推移(2003年〜2012年)出典:UNAIDS 『TRETMENT 2015』

こうした取り組みにより、今はアフリカでもHIV陽性者の6割が治療を受けられるようになりました。これは2002年当時の状況とはまるっきり違う状況です(上図)。当時は首都で暮らすお金持ちしか治療を受けられないのが常識でしたが、今は治療を受けられる病院の数も相当増えました。この点にかんがみれば、マクロな意味ではアフリカのエイズ情勢は大規模に改善された、ということができるでしょう。

治療へのアクセスを妨げる様々なハードル

 ――では、ミクロにみるとどうなのですか。

まず、ここで「マクロな視点」というのは、いわば「鳥の目」からみて、どのくらいの人たちが治療にアクセスできているか、という話です。ところが、一人のHIV陽性者という、いわば「虫の目」から見ると、話は異なってきます。

一人のHIV陽性者がエイズ治療を得るためにはどうすればよいのか、そこにどんな苦労が待ち受けているのか、ということは、マクロな視点からはなかなか見えてきませんよね。ここでいう「ミクロな視点」とは、そういうことです。治療を受けられる人の数が増えたということと、いざ自分がHIVに感染したとして、簡単に治療にアクセスできるかどうかということは、全く違うことですよね。

規模や水準は一定異なるにしても、日本でも同じようなことはあります。日本にはそれなりに社会保障制度があり、福祉業界やNPOのサポートがあり、相談窓口もあるにもかかわらず、結果として、社会保障にアクセスできずに病死したり、餓死したりする人たちがいるわけです。ある人が特定の局面に陥ったとき、対策にアクセスするまでにはさまざまなハードルがあり、誰もがそのハードルを越えられるわけではないのです。

アフリカの場合、ひとつは病院における不正や腐敗というハードルがあります。たとえばPEPFARやグローバルファンドからエイズ薬がタダで入ってくる。これを近所の薬局に転売してしまえば丸儲けですよね。丸儲けにするためにどんどん転売をしてしまう。そうすると、薬があるはずの病院にない(ストックアウト)ということが起きてしまいます。

あるいは、薬がクリニックに届くまでものすごく時間がかかったり、流通に関わるマネジメントの悪さも目立ちます。そういった状況なので、患者が薬を求めて何十キロも歩いて病院に来たのに「薬はないので薬局で買ってください」と言われ、結局お金がないから買えずに帰る……なんてことも頻繁に生じるわけです。

あるいは病院側が、法律上は無料と決められているエイズ治療に関して、不正な支払いを強要するケースも多くあります。患者側としては、このようなハードルをうまくかいくぐって治療にアクセスしなければならないということになります。インターネットなどで調べれば「どの病院に行けば治療が受けられるのか」を知ることはできますが、「その病院が本当に不正や腐敗のない病院なのか」という情報はなかなか手に入らないのです。そもそも、インターネットなど一般の人はあまり見ません。

ですから、やはり口コミが頼りということになります。しかし、情報を持っている人に直接聞くとなると、自分がHIV陽性者だと知られてしまう可能性がありますよね。差別や偏見の目にさらされる危険もあり、とくにビジネスをやっている人は、自分がHIVに感染している、などと商売敵に知られればマイナスになります。こうしたこともあり、正しい情報を手にいれることは大変難しいのです。

他にも、患者個人の主体的な判断によって、治療が中断してしまうこともあります。というのも、HIVは、感染しても数年は症状が出ないまま進行していくという病気です。「HIVに感染している」といわれて、最初は慌てて薬を飲んでも、だんだんと飲まなくなっていきます。で、しばらくは平気な状態が続くわけです。すると、もう治ったもの、ということで、そのまま飲まなくなってしまう人もいます。

あるいは、周りにHIV感染者がいる場合、その人の方が自分より重症だからと親切心で薬をあげてしまう場合もあります。HIVの場合、薬を毎日きちんと飲むという習慣をつけていることが大事です。しかし、その習慣がつかないまま飲まなくなってしまうと、HIVがその薬に耐性を持ってしまい、薬が効かなくなってしまいます。

「1ドルあたりの投資効果」を優先する

――私たちの想像を超える治療への障害が国内にはたくさん潜んでいるんですね。

よりマクロ的な問題としてありうるのは、グローバルファンドやPEPFARの資金援助そのものが断たれてしまうということです。たとえば、特定の国において大規模な油田や鉱山開発が行われて資源の産出が増えたり、資源価格が高騰した場合に、社会の実態や行政の能力は低所得国のままなのに、一人当たりGDPが急増して、「中所得国」の仲間入りをしてしまうことがあります。そうなると、国際機関や各国の援助機関の態度も変わってくるわけです。

たとえば、一人当たりGDPが一定以上の水準になると、例えばグローバルファンドの場合、資金拠出の前提として、その国も一定程度の割合で資金を出す、ということになります。さらに、知的財産権などに関する位置づけも変わってきます。実態として変化がないのに、資源価格の高騰による収入増が「経済成長」とみなされ、国際社会における扱いが変わってしまうのです。

もちろん、保健や教育などについて、当事国がオーナーシップを持ち、自らの予算を相当程度割いて実施するようになる、というのは、本来的には肯定すべきことです。しかし問題なのは、資源価格など、世界経済の動向によってどうにでも変化するようなことによって、途上国の「ステータス」が変わり、取り組みが阻害されるということです。

グローバルファンドは2011年から12年にかけて、組織の大改革を行い、感染者が多く医療システムも弱い国、エイズ対策が十分にできない国に対して、足りないお金を重点的に提供する、という形で戦略を変えました。そのような国に投資する方が「効果が高い」という考え方によるものです。これを「戦略的投資(Strategic Investment)」といいます。

もともと対策がなかったところに大きく対策を導入すれば、もとがゼロに近かった以上、なにがしかの成果は出すことができますよね。また、拠出した資金当たりの効果も高くはなります。もともとが何もなかったわけですから。それを「大きなインパクトが出せる」と表現することは、もちろん、間違ってはいません。

グローバルファンドは「戦略的投資」の観点から、このような「ハイ・インパクト国」をリストアップして、ここに投資をある程度集中させることにしています。実際、そうすることで、このような国々においても、感染者の一定の割合が治療にアクセスできるようになりました。もとが何もなかったわけですから、「素晴らしい達成」です。しかし、本当に大変なのは、そのあとで、残った問題を解決していくことです。

「ハイ・インパクト」でない状況まで改善した国に対しては、当然、資金拠出は減少ということになります。「ハイ・インパクト」ほどの効果が出ないからです。しかし、この論理のいわば「愚かさ」は、少し考えてみればわかることと思います。効率を優先するというのは、見方を変えれば、実は非常に恐ろしい意味を含んでいます。「1ドルあたりいくつの人命を救えるか」という効率によって対処する国を選定する。そのような要因で途上国の治療へのアクセスが困難になってしまうことも実際に起きているんです。

こうした「効率」の論理は、グローバルファンドのみならず、新自由主義的な考え方に影響された最近の開発理論に通底するものであり、多くの開発機関がそのような考え方の影響を受けているということができます。グローバルファンドは、まだ市民社会や当事者がガバナンスに参画しているだけ余程ましだ、ということができます。上からの「効率性」の論理が、本来必要な取り組みを阻害するということが、あちこちで多発するようになってきているわけです。

稲場氏
稲場氏

エイズの「普通の病気」化

――一方で治療薬の開発が進み、今エイズは「死の病」でないという印象があります。

現在では新薬の開発も進み、非常に強力な治療薬が使えるようになりました。エイズはきちんと治療を続ければ発症を抑えられる「慢性病」に変わったのです。ただ、すると今度は「もはやエイズの個別性・独自性に配慮する必要はない」、という議論が出てくるわけです。

そもそもエイズには他の慢性病にはない人権基準が存在します。たとえば、以前はHIV(エイズウイルス)検査の際に「VCT(Voluntary Counseling & Testing)」という体制が推奨されていました。「自発的(Voluntary)」とは患者が自分の意思で検査を行うということです。

そして、まず検査をする前にカウンセリングを行い(プレカウンセリング)、その人がもし陽性と診断されてもマインドセットを平常に維持できるかどうかを見ます。これは、その人が精神的に感染の事実を受け入れられないと考えられる場合は検査を行わない方がよい、という考え方によるものです。また、検査結果を伝えた場合は「ポストカウンセリング」を行い、ケアにつなげます。この「プレカウンセリング→検査→ポストカウンセリング」という流れを徹底してやりなさい、というのが「VCT」の考え方です。

しかしエイズが高血圧や痛風と同じ「慢性病」と言われ始めると、アフリカなどのHIV陽性者が多い国では「サービス提供者主導検査・カウンセリング」

(PITC: Provider Initiated Testing & Counseling)という体制に移行していきます(2007〜2008年以降)。これは、病院に来た人全員にHIV検査をするというものです。

たとえばボツワナなど、感染者の割合が非常に高く、治療の体制が一定程度整っている国があります。こうした国では、自分がHIVに感染しているかどうかを知ること、また、感染していたらとにかく治療につなげること、が対策の重点となります。そこで、PITCという考え方が導入されるわけです。つまり、何らかの体調不良などで病院に行ったとする。その理由が何であれ、医師らは患者にHIV検査を受けることを勧める。そして「受けない」と言った人以外はみんな検査をする、いわゆる「オプトアウト方式」です。

VCTは、この「オプトアウト」方式とは反対の「オプトイン方式」、つまり反対に「検査を受けます」という人だけ検査するという形でした。「これまでと異なった脅威であるHIV/AIDSに対しては、これまでと異なった対応をしなければならない」という意識の産物だったのです。それに対して、PITCはエイズを「普通の病気」扱いするということです。ちなみに、PITCは感染率が高い国で行うからメリットがあるのであって、日本などの感染率が比較的低い国で行っても効率的ではありませんし、かえってコストがかかります。

最近は治療技術の進展により、患者は強力な治療薬を継続して投入すれば本来の寿命と近い年まで生きられるようになりました。だからこそ、とにかく治療につながることが重要なので検査を徹底することを優先するべきだ。だから逆に、人権や心の準備(Preparedness)の問題はそれほど考えなくても良いのでは、という傾向が強まってきたのです。

2030年までに「エイズを終わらせる」

――治療の技術が向上したために、人権の問題が重要視されなくなったんですね。

さらに、UNAIDS(国連合同エイズ計画)の新しい事務局長、ミシェル・シディベに変わって以降、エイズ対策のトレンドは大きく変化します。2012年には、これまでの「ミレニアム開発目標(MDGs)」に変わる、2016年〜2030年の「持続可能な開発目標(SDGs)」をめぐる議論が(2015年までの期限付きで)始まりました。ここでUNAIDSとしては何としてでも「エイズ」の項目を入れなければならなりません。そうでないとSDGsの時代にはエイズは重要でないことになってしまうからです。

実際、これまでエイズ対策に膨大な資金が流れていたために色々な弊害が生まれてきた、という不満の声も、他の保健セクターから上がっていました。医療従事者もNGOも「エイズをやる方が儲かるから」という理由で、他の分野から離れ、エイズに流れてしまったケースが多くあったからです。だからSDGs時代においては、エイズ以外の分野にこそ光を当てるべきでないか、というような考え方です。

たとえばインドは、人口が多いために、HIV陽性者の数はトータルでは多いですが、人口比で言えば非常に少ない。となると、インドではエイズ対策をするよりも、乳幼児死亡率低下のためにお金を使った方がいいんじゃないか。その方が安いお金でたくさんの人を救えるのではないか。そういう発想が出てくるわけです。

さらに、これまでエイズ対策に投資してきた先進国の政府や援助機関としても、今回、エボラ・ウイルス病(エボラ出血熱)が流行したことで、さらにエイズの比重が下がりかけてきました。「もうエイズはいいだろう」というわけです。金を出す側は、非常に移り気で無責任なんです。しかし、UNAIDSとしてはこのような連中をなんとかつなぎとめて、ポスト2015目標にエイズを入れてもらわなければならない。そのために、あらゆるレトリックを行使していきます。

最初に出してきたのは、2011年の国連エイズ・ハイレベル会合で提示された「三つのゼロ(Three Zeros)」という目標です。これは、新規感染ゼロ(Zero New Infection)、差別ゼロ(Zero Discrimination)、エイズ関連死ゼロ(Zero AIDS Related Death)を目指すということ。その後、究極の伝家の宝刀として「エンド・エイズ(End AIDS)」というスローガンが登場してきました。ここまでインパクトのあることを言わないとドナーが見向きもしなくなるからです。

 

「エンド・エイズ」とは、端的に、SDGsの期限である2030年までに「エイズを終わらせる」こと。ただ実際にエイズがなくなるわけではありません。いまも3000万人以上の方がHIVと共に生きているからです。つまりこれはレトリックであって、実のところは「End AIDS as One of the major global health threats」=公衆保健上の主要な脅威としてのエイズを終わらせる。要するに、「エイズは存在するが、もはや大した病気ではない」という状況にしよう、という意味合いです。

さらに2013年に米国のワシントンDCで開催された国際エイズ会議では、「画期的」な研究結果が発表されます。それは感染して間もなくエイズ治療を導入すれば、HIV陽性とHIV陰性のカップルの96%が(コンドームなしのセックスをしていても)HIV感染を防ぐことができる、というもの。感染初期にエイズ治療薬を投入することでHIVウイルス量を検査で確認できる値以下にしてしまうからです。

それなら、感染した段階ですぐに治療に繋げてしまえばいい。つまり「PITC(Provider Initiated Testing & Counseling)」で、とにかく病院に来た人全員を検査し、HIV陽性者を見つけ出してすぐに治療につなげてしまおう。そうすれば相手に感染しないわけだから「治療=予防(Treatment as Prevention)」になる。とりあえず治療につなげてしまえば予防も同時にできるので、「効果がわからず、面倒くさい」啓発などは、しなくてもよい、もしくは、それほど比重を置かなくてもよいことになります。

こうした「治療=予防」が主流化し、次にUNAIDSが提唱したのは「90-90-90」目標というものでした。これは2020年までに「HIV陽性者の90%を検査し、その90%を治療し、その90%のウイルス量を検出可能値以下に下げる」(90% Tested, 90% Treated, 90% HIV Suppress)という目標です。

「90-90-90」目標を達成することで、2030年までに「エンド・エイズ」を成し遂げる。そのためにはエイズ対策に対して今まで以上の投資をしなければなりません。こういうレトリックになっているのです。

――「エンド・エイズ」と聞くとエイズを「完治する病気にする」という印象を受けますが、そういう意味ではないんですね。

「『AIDS cure(HIVの完治)』を目指す」という話が出てこないというのは非常に重要なポイントです。というのも、HIV陽性者とは「治療薬の消費者」ですから、製薬企業としてはこの収入がなくなっては困るわけです。

先進国においては一人当たり年間200万円という膨大な資金が、それも国民の税金から支払われています。エイズを治癒する薬ができて、これが全てなくなってしまうと、製薬企業にとって大きな打撃になりますよね。もちろん、現在でも「AIDS cure」に取り組んでいる研究者はいます。しかし、(因果関係は不明ですが、)そこにはあまり投資がされておらず、投資を促進するためのイニシアティブも存在していないのが現状です。

エイズ対策における医学の奪権闘争

――最近の動向はこれまでのエイズ対策とはどのような比較ができますか。

「90-90-90」目標に代表される最近のトレンドは、「治療」中心のエイズ対策です。つまり、PITCで徹底的にHIV陽性者を見つけ出し、すぐさま「治療=予防」につなげる。悪い表現をすれば、「薬漬け医療」をやっていこうとしているのです。

これはミレニアム開発目標(MDGs)時代のエイズ対策とは大きく異なります。そもそもMDGs(2000年)以前の途上国の状況というのは、治療を受けられる体制が全くできていませんでした。ですから、どうせ治療に繋がらないなら検査結果はいわば「緩慢な死刑宣告」にあたるものです。

さらには、すぐに差別や偏見の目にさらされるとなれば、誰も検査なんて受けようと思いません。こうした状況でしたから、まずは、せめてケアの体制を作り、また差別をなくして、検査を受けることやコンドームを使うといった予防策を受け入れることメリットを作り出そうとしたわけです。これがうまくいったのが90年代のウガンダでした。

ウガンダの首都・カンパラ、草の根のエイズ・キャンペーン(この市場では、どこに行ってもエイズ・メッセージを目にする)
ウガンダの首都・カンパラ、草の根のエイズ・キャンペーン(この市場では、どこに行ってもエイズ・メッセージを目にする)

その後、途上国でもエイズ治療を普及させようという方針が出てくると、検査の受診には一層のメリットが出てきます。治療薬の調達体制を整備し、「予防→検査→治療」とつながるように外部資金を流していきました。また、治療の甲斐なく亡くなってしまった場合は、残された子どもたちのサポートや社会の体制構築が必要となるので(エイズ死によるインパクトの軽減)、特定のコミュニティにおける予防やケア、政策提言のための投資も行われました。これは特に、MSM(Men who have Sex with Men)やセックスワーカー、ドラッグユーザー、移民、少数民族、先住民など、感染率の高いコミュニティに対する投資です。

結果として「予防→検査→ケア→治療→インパクト軽減→予防……」と循環するシステムをきちんと機能させていく。こうした取り組みが2000年のミレニアム開発目標(MDGs)以降かなり進められてきたのです。予防や検査、インパクト軽減とは「社会的介入」であり、これらが優位性を持っていたのがMDGs時代のエイズ対策でした。

治療を導入しても、「治癒」するわけではありませんし、一生薬を飲み続けるためには、治療薬を飲むことの動機づけを社会的に作り出すことが不可欠です。ですから、そこに「医学」が占める割合は低く、むしろ治療のインセンティブを上げることも含め、いかに社会的介入がエイズの負荷を軽減していくのかが非常に重要だったのです。

ところが時代が変わり、市民社会の力が徐々に弱体化していく中で、社会的な側面についての認識も弱くなり、代わりに、とにかく治療を早期に導入しよう、予防も薬を使ってやっていこう、といった、医学的介入優先の傾向がどんどん強まっていきます。「エンド・エイズ」戦略においては、治療や医学の面が、かつて社会的介入との関係で占めていた割合を逆転する形となっています。いってみれば、医学による「奪権闘争」が行われているわけです。

 「我々なくして『エンド・エイズ』はない」

――これからアフリカ諸国や途上国のエイズと闘っていく上でどのような対策が望ましいのでしょうか。

最も基本的なことは、これまで積極的に行ってきたコミュニティ・ベースの社会的な介入について、手を抜かずにしっかりとやるということです。例えば予防対策で言えば、これまでもあちこちで行われてきたように、コンドームへのアクセスを高めることが重要です。たとえばアフリカで非常に多いのは、長距離のトラック運転手とセックスワーカー間の感染と言われています。アフリカは54カ国もある広い大陸なので隣国との国境線を超えなければならない。その際に国境付近の街で何日も待たされることがあります。そのときに売春街でセックスをして感染してしまうケースが多いのです。

あるいは、鉱山に単身で労働しに来ている人たちが労働の後に買春をして感染をしてしまう場合もあります。特に南アフリカ共和国の場合は、アパルトヘイト政策で単身の黒人労働力を必要なときに必要なだけ導入するシステムがありました。このシステムを発動すればするほどHIVの拡大は大きくなったという背景があるのです。これらの性行為感染を防ぐためには鉱山や黒人農場などでコンドームのアクセスビリティを高めることが効果的です。これは以前から変わっていません。

そして、肝心なのは治療につながった人がきちんと薬を飲み続けていくことです。それを明確に実施するためには、その人が属する地域コミュニティや社会的コミュニティにおいて、治療を継続するための恒常的な動機付けが必要です。「治療=予防」といって、検査後すぐに治療につないで「つながった、よかった」と言っているだけでは不十分なんです。

昨今、コミュニティに対するエイズ対策は軽視される傾向にあります。とくにMSMやセックスワーカー、ドラッグユーザー、移民、少数民族、先住民など、感染リスクの高いコミュニティに関しては、「対策」として重要なのではなく「人権問題」として重要だ、と言い縮められてしまう傾向が出てきています

単なる「人権問題」となると、それは政治の課題であると見なされ、投資の対象としては弱くなってしまうのです。そうなると啓発・予防や、コミュニティの力を強めるための具体的な対策に力が注がれなくなります。

スラムに生きるKENWA(ケニア・エイズと共に生きる女性たちのネットワーク)
スラムに生きるKENWA(ケニア・エイズと共に生きる女性たちのネットワーク)

とくにドラッグユーザーのコミュニティについては、問題が大きくなってきています。東欧・旧ソ連などの諸国は社会主義体制の崩壊以降、違法薬物が大量に流入したことと、多くの人々が生活苦や将来に希望のない状態に放り出された結果、薬物使用につながったということで、薬物の影響が非常に大きい地域です。ウクライナはHIV感染率が全体の2%以上。これはアジアの中で最もHIV感染率が高いカンボジアと同じくらいですが、その8割がヘロインの静脈注射など、薬物の回し打ちによる感染と言われています。

ロシアも同じで、人口の1%以上が感染しており、そのうちの8割はヘロインの静脈注射など、薬物の回し打ちで感染しています。このような地域におけるエイズ対策について、たとえば日本や、その他、薬物による感染がそれほど多くない地域と同じ発想で行うことはできません。ヘロインの回し打ちなど、HIVの感染につながる行為を行う人の割合が、日本などでは考えられないほど高いからです。このような地域では、第一にドラッグユーザーの感染を防ぎ、その健康被害を軽減することが非常に重要となるはずです。清潔な注射針の供給と一度使った注射針の回収(Needle exchange)を、緊急に行わなければなりません。

しかし、「そんなことをしたら、薬物使用を認めるのと同じだ」というロジックも、社会の主流から常に出てくるわけです。また、グローバルファンドの援助があったころは、外部資金を使うだけなので目をつぶることもできたわけですが、経済成長などで一人当たり国民所得が増え、外部資金が撤退すると自国で注射針の供給・回収を行わなければなりません。当然、「そんなやつらのために国民の税金を使われてたまるか」という不満が出てくる。

ですから、これほど深刻な健康問題であっても、たとえばロシアは、国としての積極的な対策は取らず「見て見ぬふり」をしてきたのです。あらゆる意味で、今コミュニティに基づく社会的介入が軽視されてきています。こうした傾向が強くなればなるほど、本来取り組むべき問題を見えなくなり、結果としてエイズ対策の根本そのものが揺らいでしまいます。この問題を克服していかないと、「持続可能な開発」など実現できません。本当に薬漬け医療をやっていくのなら、ずっと治療の継続を担保する仕組みを作らなければならないはずです。

WHOやUNAIDSが主導する、「エンド・エイズ」、「90-90-90」目標といったレトリックは、それが独り歩きすることで、大きなリスクを抱えています。現在の医学重視の対策は途上国における腐敗・不正による治療薬のアクセス途絶の問題などをほとんど想定していません。だから、現場でHIV/AIDSに取り組んでいる人たちは、政策の現場で言われている内容を自分たちの現場に応用できないという限界性を、みんな感じているはずです。

要するにこれは「数値至上主義」の弊害です。コミュニティによる社会的介入はその効果が数字で表せないので何も確証が持てませんが、「治療=予防」なら「HIV陽性者の○%に薬を飲ませ、△%の感染を防いだ」と数値で実績が出せるから、なんとなく確実なような気がします。ドナーは「我々の投資した額に見合った成果を(数値で)出してくれないと困る」という「パフォーマンスを踏まえた資金拠出」(Performance-Based Funding)の考え方に基づいて投資を行い、実績が出なければすぐに資金を減らしてしまいます。ですから、資金を確保するためのアドボカシーとしては「三つのゼロ」「エンド・エイズ」などといった呪文を延々と唱え続けなければならない。

だからこそ市民社会は、国際エイズ会議などの場において、UNAIDSなどが「エンド・エイズ」などと鼓吹するのに対して、逆に「我々コミュニティの存在なくして『エンド・エイズ』はない」と言っています。本当に「エンド・エイズ」を目指すのであれば、コミュニティや社会の力をより動員していかなければなりません。市民社会からもそうした声が上がっているのです。ただ私個人としてはそれだけでは不十分だと思います。まずは途上国における腐敗・不正の問題をしっかり指摘し、批判していく必要があり、その上で、こんな状況において本当に医学的介入重視の対策を進めていくのが正しいのかどうか検証していかなければなりません。

 

「政策一貫性」が失われつつある

――最後にエイズのジェネリック薬に対するTPPの影響について教えてください。

先進国の一部の特許法では、製薬企業が持つ臨床試験のデータを保護する規定がありますが、その他の国にはありません。そこでTPPは、臨床試験のデータ保護期間を新たに統一し、それを各国の特許法における標準的な装備にしようとしているのです。

TPP妥結前によく報道された通り、TPP交渉ではその保護期間を12年、8年、5年のいずれにするのか議論され、結局8年に決まりました。経緯としてはオーストラリア、ニュージーランド、ベトナムは5年を希望しましたがアメリカが12年と強く主張したため、「それなら間をとって8年にしましょう」と日本が勧めたわけです。これは、米国同様に知的財産権保護を強化したい日本が、漁夫の利を得るためによく使う手口です。

このルールが適用されると、保護期間中はジェネリック薬に臨床試験のデータを添付できなくなります。するとその薬は臨床試験を経ていないと見なされ、当然、認可されることはなくなり、市場には出せません。これはまさにインドやその他の地域のジェネリック薬企業を狙い撃ちにするものです。

これだけでなく、米国は、医薬品における知的財産権保護の強化のために、あらゆる手段を講じています。その例としてよく挙げられるのが、期限が切れそうになると少し成分や形を変えて特許を取得し直し、さらに20年間延長する、いわゆる「常緑化」(エバーグリーニング)です。

先に述べた通り、「TRIPs協定」は2001年の「ドーハ宣言」で、各国は国民の健康を守るための措置として知的財産権に一定の柔軟性を持たせることを可能としました。これに対してアメリカの製薬企業協会(PhRMA)は圧倒的なロビーを展開し、結果として、米国は経済連携協定(EPA)、自由貿易協定(FTA)の交渉において、臨床試験のデータ保護と常緑化を常に求める「TRIPs+」というパッケージを常に強制しようとするのです。

これは、保健・医療産業の側が一方で「途上国でも治療薬のアクセスを拡大しよう」などと綺麗事を言いつつ、実際に目指していることは何か、ということを非常に明確に表しています。これまでMDGsの時代は、援助効果の文脈において「政策一貫性」が強調されてきました。この「政策一貫性」というのは、あらゆる政策を「途上国の開発の促進」に向けて調和させていこう、ということです。ところが、特に知的財産権の問題に対しては、政策一貫性とは真逆の方向を向いているわけです。

2016年から世界の開発・環境・地球規模課題戦略となっているSDGsは、「持続可能な世界」に向けた「変革」の重要性を強調しています。実際、国連で採択された文書のタイトルは「我々の世界を変革する」(Transforming Our World)です。しかし、私たちは、SDGsの下の世界において、先ほども見た通り「エンド・エイズ」「三つのゼロ」といった、いわばラディカルなスローガンが氾濫する一方で、肝心の政策については、いたるところでMDGs時代から逆行する事態が起きている、ということについて、強い危機感を持たなければなりません。

スローガンに踊らされるのでなく、そのスローガンが実際に意味するところを実現するには何が必要か、ということを、市民や当事者の立場から強く主張していかなければ、我々はSDGs時代に、MDGsにおいて達成したことの多くを失うことになりかねません。「真の変革のために闘う」ことこそが、市民社会に求められているのです。

プロフィール

稲場雅紀NPO法人「アフリカ日本協議会」国際保健部門ディレクター、「動く→動かす」事務局長

1969年生。1994年~2001年、「動くゲイとレズビアンの会」アドボカシー・ディレクター、副代表理事。2002年より(特活)アフリカ日本協議会 国際保健部門ディレクター。2009年より、国際協力NGOのネットワーク「動く→動かす」(74団体加盟)事務局長。

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