「どうなっているのか」と「どうすべきか」を一緒に考える

大好評「高校生のための教養入門」シリーズ! 今回は、教育社会学者の本田由紀先生にお話を伺ってきました。「教育学はなんとなくわかる気がするけど、教育社会学ってなに?」そんな素朴な疑問をぶつけてきました。すると、思春期の若者のように自らのアイデンティティに苦しんできた教育社会学の姿が……。いじめ問題など、さまざまな教育問題が取りざたされるいま、まずは教育社会学について知っていただければと思います。(構成/金子昂)

 

 

教育社会学ってなに?

 

―― 本田先生のご専門についてお聞かせください。

 

端的にお答えすると、わたしの専門は教育社会学です。

 

どの学問にも狭義と広義があると思いますが、教育社会学の場合、狭義は教育という対象を社会学的なアプローチを使って研究する学問、広義は純粋な社会学に限らず、文化人類学や経済学、政治学など、その他の社会科学的なアプローチも使いながら研究する学問といえると思います。どちらにせよ、他分野との境界がはっきりしているというよりは、連携や連接のある学問だと思ってください。

 

 

―― 教育学と教育社会学ってなにが違うんでしょうか?

 

話がややこしくなってしまうかもしれませんが、教育学にも狭義と広義があるんですね。これはわたしなりの見方ですが、まずもっとも狭義の教育学は、教育思想や教育哲学のような、「教育とはどうあるべきか」を思弁的に追及する「規範学としての教育学」。そしてその外側に、やや広義の教育学として、学校現場に入りながら教育の実践をよくするための手法などを提言したり教員を養成したりする、「方法学としての教育学」があります。

 

このふたつはやり方は違うものの、「どうすべきか」「どうすればいいか」といった価値や規範とは切り離せない点で、共通点がありますよね。これらが教育学のコア部分で、その外側に、さらに広義の教育学として、なんらかの意味で教育に関わる現象を客観的に把握し明らかにする「事実学としての教育学」があります。ここには教育社会学など多様な分野が含まれます。

 

たとえば東京大学の教育学部には、狭義の教育学に近い「基礎教育学」と呼ばれるコースもあれば、わたしが属している「比較教育社会学」という、社会科学のアプローチを使用するコースもあります。それ以外にも、教育心理学や身体教育学など、非常にさまざまな学問的アプローチを使った研究があるんですね。身体教育学の場合、脳や筋肉の発達を扱っていて医学とかなり接近していますから、自然科学的なアプローチです。

 

というように、広い意味での教育学は、教育や人間の発達をテーマに扱っていれば、人文科学、社会科学、自然科学など、アプローチの種類を問わない学問です。そのなかに、社会科学のアプローチを使う一群があり、さらにそのなかで主に社会学のアプローチを使って研究をするのが「教育社会学」なんです。

 

 

教育社会学は第二次世界大戦後に生まれた

 

―― 社会学は人によって定義の異なる学問で、なにをやっているのかよくわからないところがあります。社会学的なアプローチをとる教育社会学も「いったいどんな学問なんだろう?」という疑問があるのですが……。

 

一言で説明するのが難しいんですよね。社会学そのものがさまざまな学問の境界領域にありますし、さらに教育社会学は、社会学と教育学の積集合にあたるところに位置しますので、これまでずっと、「いったい自分は何者なんだ?」とアイデンティティに苦しんできました。

 

教育社会学は、第二次世界大戦が終わってから、民主主義的な新生日本を担う市民を育成するための新たな教育を創り出すためには、教員を養成する課程において社会学的な知識が必要だろうということで、急ごしらえで発足されました。

 

それ以前に「教育社会学」を名乗って専門的に研究する組織や研究者はほぼいなかったわけで、教育社会学の学会である教育社会学会は、教育学を研究していた人と社会学を研究していた人の寄り合い所帯のようなかたちで立ち上げられたんですね。教育学寄りの人と社会学寄りの人がいるわけですから、簡単にひとつに融合はできなかった。学会長を決めることもできなかった時期がしばらくあったくらいです。

 

 

アイデンティティに悩む教育社会学の足跡

 

ちょうど2012年11月に、日本教育社会学会の大会で「教育社会学(教育)の質保証は可能か」というテーマで、教育社会学がこれまでにどんな研究を行ってきたのかを振り返った研究を発表しました(参照:本田由紀・齋藤崇徳・堤孝晃・加藤真「日本の教育社会学の方法・教育・アイデンティティ―制度的分析の試み―」『東京大学大学院教育学研究科紀要』52巻、2013年3月)。教育社会学会は『教育社会学研究』という学会誌を発行しています。その学会誌で組まれた特集テーマをみれば、その時期に注目されているトピックがわかりますよね。教育社会学の研究者である藤田英典さんによる時期区分も使わせてもらいながら、まとめてみました。

 

それぞれの時期を簡単にお話しますと、第一期(1951~59年)が「再建と確立の時代(実態調査)」。つまり自分たちがこれからやるべきことはなにかを定義しようとした時代です。学問として独自性を打ち立てようと努力するとともに、戦後の混乱期のむちゃくちゃになった教育において、なにが起きているのかをざっくりと実態調査をし、それを通じて教育を再建しようとしていたんですね。

 

第二期(1960~69年)が「拡大・発展の時代(機能主義)」です。機能主義とは、タルコット・パーソンズを代表とする、1950年代、60年代のアメリカで大流行した社会学の理論のことです。教育社会学もその影響を受けて、実態調査だけでなく教育事象に対して理論的な解釈を加えて行こうと、つまり「もっと学問っぽくなろう」としていた時期なんです。

 

さらに第三期(1970~79年)の「構造変容の時代(実証主義)」の頃、統計的な分析手法が発展し、コンピューターも使いやすくなって、いろいろな分析が行えるようになりました。主に統計的、計量的なものを中心に、実証研究がブワッ! と発達したのが第三期ですね。

 

そして第四期(1980~89年)が「懐疑と調整の時代(脱構築主義)」です。第二期の「拡大・発展の時代(機能主義)」においては「教育は素晴らしいものであり、優れた人材を形成し、産業も発達し、各国の経済発展に貢献する」といった楽観的に考えられていましたが、70年代、80年代にかけて「戦後民主化、経済発展、イエーイ!」というハッピーなムードに陰りがさしてきて、見直しが始まったのが第四期です。

 

この頃、「教育ってそんなにいいものなのかな?」「階層の再生産に寄与しているだけなんじゃないの?」「教育や学校は人々を支配する装置なんじゃないの?」という疑念が広がっていました。それを決定的にしたのが、フランスの哲学者のミシェル・フーコーでした。フーコーが『監獄の誕生』で行った、遍在する権力という観点から教育をとらえ直そうとする試みは、日本の教育社会学に大きなインパクトを与えました。第三期の、統計的な手法を使って「AはBに何パーセント影響している」といった研究のさらにその先に、「わたしたちは教育というある種の牢獄のなかで、まとわりついてくる権力の視線にさらされて、自ら統治されようとする。近代社会が生み出した、この教育なるものとは……」と、「教育」そのものの奥底へ潜り込んでそれを「脱構築」しようとしていた。第四期はそんな時期でした。

 

 

悩んでいる暇なんてない!?

 

ここまでが藤田英典さんによる時期区分で、この先はわたしが独自に区分したものです。第五期(1990~99年)は、「パラダイムと理論の模索の時代(反省主義)」といえると思います。いままでお話しした一連の流れのなかで、教育社会学は拡大成長を遂げてきました。学会員も増え、知見も積み重ねられてきた。そういう意味では順風満帆だったわけですが、成長を遂げるうちに、いろいろな分派も生まれて、いわばわけがわからなくなっていたんです。そこで「じゃあどうしようか」と、教育社会学をもう一度考え直して統合を模索する時期が90年代でした。

 

このように教育社会学がうろうろしているうちに、ご存知のようにバブル経済が崩壊し、現在にいたるまで、格差や貧困、若年雇用問題の顕在化など、日本社会は崩れ落ちるように変化を遂げてきました。教育社会学は、世紀が変わるころになってようやく「あれ、自分たちがうろうろしている間に世の中がすげえ変わってる! あんなテーマもこんなテーマもいままで十分に扱ってこなかったけど、大問題じゃないか!」と、なった。これが第六期(2000~現在)の「新たな諸問題への直面の時代(実践主義)」です。

 

 

―― ではいまは「自分たちについて悩んでいる暇なんてない! いま起きている具体的な問題について考えなくちゃ!」となっているわけですね。

 

はい。教育社会学はつねに自分たちのありようを反省してきた学問ですので、すでに、その状況への反省も始まっています。いまは第七期の始まりなのかもしれません。

 

2012年12月に出た『社会学評論』に、教育社会学者の中村高康さんが、「テーマ別研究動向(教育)―教育社会学的平衡感覚の現在―」という、教育社会学を振り返る論文を書いています。中村さんによれば、教育社会学はどちらかというと自らを社会学の一分枝とみなして、社会学の理論を取り入れ、分析方法を精緻化してきた。つまり教育学よりも社会学として学問を確立させてきたはずなのに、いまは、緊迫している社会的課題に引きずられるかたちで、価値や規範が中心にある教育学に近づきすぎているのではないか。もう一度、社会学としての自分たちのあり方を立て直すべきなのではないか。安易に教育学化して、大ざっぱな調査やいい加減な理論の取り入れに基づいた提案よりも、学問的な知見を実証面でも理論面でも出していくことにより、教育社会学は社会学というアイデンティティを取り戻すべきなのではないかと書かれています。

 

このように教育社会学は、つねに自分たちを振り返り、「これでは駄目だ」「どうしよう」と、往復運動を続けてきた学問なんです。

 

 

教育社会学がもつ複雑な構造

 

―― なんだか思春期みたいですね。

 

思春期のまま拡大してきたところがありますよね。

 

教育学は、「どうすべきか」「どうしたらいいのか」といった規範や価値を積極的に提示しようとする学問であり、社会学は現実から距離をとって、現実を客観的に捉えて行こうとする学問です。ベクトルとしては反対向きなんですね。ここに「越えられない壁」、解決できないアポリア(難題)があります。

 

教育学も社会学も独自の発展をとげてきました。社会学であれば、理論面での発展と実証面の発展があり、そのなかで社会学内でも分派が生まれます。理論を突き詰めるにしても、実証を突き詰めるにしても大変な作業ですから、研究者は自ずとどこか特定のポイントに自分の位置を見出そうとし、研究分野全体は細分化していくんです。

 

さらに時代が経過すると、理論や実証のなかでもさらに分岐がうまれてくる。実証方法だけとっても、質的な手法と計量的な手法が、それぞれ高度化すればするほど細かく分かれていきます。質的な研究だけとっても、参与監察、インタビュー、エスノメソドロジー、言説研究などさまざまですし、計量研究も日進月歩でいろんな分析手法が発展しています。また、分析対象である「教育」といっても、学校教育だけでなく、家族、企業、地域もありますし、ミクロな相互作用や長期的なライフコースまで観点を広げると、ありとあらゆるものが広い意味での「教育」といえます。

 

それだけ多くの分派や要素のある複雑な構造のなかで、それぞれの研究者が自分の力量や問題関心の範囲のなかで、「えいっ! このあたりを研究する!」と選んでいるようなのが現状なわけです。だから「教育社会学とはなんぞや?」という質問に簡単に答えられないんです。

 

 

 

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