2014.12.28

『絶叫』――人生は、壊れるときには壊れてしまう

葉真中顕×水無田気流

情報 #新刊インタビュー#絶叫#シングルマザーの貧困

『絶叫』著者であるミステリー作家・葉真中顕さんと、『シングルマザーの貧困』著者の社会学者・水無田気流さんによる特別対談! 母の呪い、家族のかたち、自由論議……同世代の二人が語りつくす。(構成/山本菜々子 sponsored by 光文社)

母の呪い

水無田 『絶叫』読みました。とても緊張感があるミステリーでしたね。特にオチがすばらしいですね。もう、これは!

葉真中 ありがとうございます!

水無田 『絶叫』は、日本の高度成長期を背景にしたギリシャ悲劇のようですね。物語の中では「母」が大きな役割を果たしていますが、母親との対峙に成功している点でも、大変に珍しい作品です。

日本の小説には、母性に対する幻想が捨て切れなかったり、結局は母性に回収されて終わりという話が多い中で、きちんと母性と対決している。そして、あの結末にいたります。

葉真中 それはまさに核心で、あの結末は書き始めてすぐに決まったんです。長い小説なので書いているうちに、迷うこともたくさんありました。でも、とにかく、この結末に着地できればそれなりのものになるという確信だけはあって、それを頼りに筆を進めました。

と、話を進める前にまず、拙著『絶叫』の内容を簡単に。本作は、マンションの一室で腐乱死体となって発見された鈴木陽子という女性がどのような人生を歩んできたのかを描いた小説です。この死の謎を追う女刑事と、死んでしまった鈴木陽子に「あなた」と呼びかける何者かの二つの視点で話が進みます。

女はなぜ死んだのか、そして女に「あなた」と呼びかけているのは誰なのか、純粋に娯楽としても楽しめるように、いろいろとミステリー的な仕掛けや工夫も凝らしました。私なりに、すべてを書き切ったつもりの自信作ですので、是非多くの方に読んでいただければと思っています。

さり気なく宣伝をかましたところで(笑)、「母」ですね。冒頭で謎の死を遂げた女・鈴木陽子が、物語の主人公なのですが、彼女は1973年に日本海に面した架空の地方都市に生まれます。ちょうど日本が高度経済成長期から安定成長期へ移行したとされる年ですね。それから40年、バブルが来て、崩壊して、長期にわたる低成長とデフレに見舞われて──という時代を陽子は生きます。

その中で、彼女はまるで呪われたように、一家離散、離婚、貧困といった様々な困難に直面し、やがてある犯罪に関わってゆくことになります。では、彼女に、誰がいつどういう形でこの「呪い」をかけたのか。この小説の中では、それは、母親なんですね。

人は誰しも自分の思い通りには生きられません。そもそも、自分の意志で生まれる人なんていませんしね。作品の中では「自然現象」という言葉がキーワードになっていますが、人生における困難を「呪い」と呼ぶなら、それは生まれたときからかかっているのだろうと。鈴木陽子にとっては、この時代に、あの母親の元に、女性として生まれたこと、それ自体が呪いです。

最近は「毒親」とか「毒母」という言葉がありますが、鈴木陽子の母・妙子は不可避な呪いの源泉としての「母」でもあります。ただ、私自身は男性なので、こういった形で「母性」や「女性」を描いて良いのか悩む部分もありましたが、チャレンジしてみようと思いました。

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『絶叫』著者・葉真中顕氏

水無田 妙子はまさに、高度経済成長期の呪いを体現したような人物ですよね。娘の陽子にむかって、「あなた、嫁に行かないわね」と見下す発言をするじゃないですか。

社会経験が乏しく、娘の陽子が成長するにしたがって、自分が馬鹿にされているのもうすうす感じとっていて、そのことについてのもやもや感も抱えていて……でも、女としては私が上なのよっていう。葉真中さんは、なぜこんな女性の意地悪な感じが分かるんですか(笑)。

葉真中 いや、分かるわけでは……(笑)。まあ「意地悪」というのは、必ずしも女性特有ではなく、割と普遍的なものですよね。男性だって多くの場合、働く中で周りをキョロキョロ見ながら、周りとの比較で自尊心を保ったり、嫉妬したりしている。これが専業主婦の立場で、外との関わりが少ない状態だったら最大の比較対象相手は家庭の中になるんじゃないかと。

旧来型の社会モデルでは、男性は社会的な地位を比べがちだし、女性はどれだけ良い家庭を築けるのかを比べがちになるのではないでしょうか。だから、母親の妙子は、娘の陽子を「結婚できない」という形で否定していくんです。

ここからは読者がどう読むかという話になってくると思いますが、妙子はいつまでも結婚しない娘をうらやましいと思う感情もあったのではないか。自分の優位性を家庭の中で維持するために、そういう発言を繰り返している。

私は、親子や家族って愛情だけの関係ではないし、そんなの幻想だと思うんです。たとえ家族であっても、多かれ少なかれ、闘争的なことにならざるをえない。それを病的な形で出しているキャラクターとして、母・妙子を作りました。

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家族のかたち

葉真中 現実の世界に目を向ければ、いまや日本的家族の幻想が、土台からぐらぐら音を立てて崩れているのは明らかです。前作の『ロスト・ケア』では家族介護の困難を書きました。ですが、実際は家族もいない高齢者の方がどんどん増えています。

それなのに、いまだに社会は「家族で物事を解決しろ」というスタンスですよね。言わば家族にセーフティネットとしての機能を期待しているわけです。けれど、少子化と核家族化が進み、家族の構成員が減っていますから、その網の目は粗くなっている。たとえば借金とか、DVとか、病気とか、なんでもいいんですが、何か一つの問題を抱えてしまっただけで、家族が崩壊してしまうことは決して珍しくない。『絶叫』の鈴木陽子がまさにそうなのですが、家族というセーフティネットからこぼれるようにして、社会の底の方へ落ちていってしまいます。

水無田 その日本的な家族観が作られたのは、高度成長期ですよね。大枠で、戦後昭和を象徴するような時代のミステリー作品は、コミュニティの崩壊と土着性からの離脱が背景にあったように思います。代表的なのは、松本清張の『砂の器』ですよね。コミュニティから逃れようとする和賀英良が、コミュニティの代表者である善意の人・三木謙一を殺してしまう。悪意が不在のまま、日本人が戦後捨て去ろうとした戦前の土着性に絡め取られ、そして悲劇が起こるという……。

ですが、『ロスト・ケア』を読むと、そんな村社会の土着性すらユートピアに見えてしまう。日本型コミュニティの課題を描いたという点で、日本のミステリーの王道を引き継ぎつつ、今日的な状況を端的にあらわした作品ですよね。

葉真中 ある種の解決不可能性というか、視界の果てまで荒涼とした世界が広がっていく状況に、2000年代以降のリアリティがあると思っています。それは私が自覚的に書いていこうとしていることの一つです。

私のような作風の作家は過去にたくさんいたと思いますが、21世紀に新作として小説を書いていくには、現代のリアリティを作品に入れ込む必要が、やはりあるのだと思うんですよね。

水無田 そのご説明は、すごくしっくりきます。

葉真中 家族を描いたフィクションの典型的なパターンとして、「それでも家族が好き」と、愛憎をくぐり抜けた先にある家族の絆を描くものがあります。一読者としてそういう作品を好ましく思うこともあるけれど、私のリアリティは「その家族が危ない」です。

水無田 人間は、なかなか自分が好ましいと思うもの、かけがえがないと思っているものを切り離すことは難しいですから……。家族に関していえば、家族一丸となって社会と戦うことはできるけれど、自分が背中をあずけた相手に撃たれるような小説は、なかなかうまくは書けない。たとえ書いても、陳腐な裏切りの物語になってしまって、日本型家族幻想の中枢までは踏み込めない。そういうことなんでしょうね。日本には、母性神話を信仰する家族教社会という側面がありますよね。

葉真中 でも、それが「神話」であることは、明らかになっていますよね。家族がボロボロになった時、家族のようで家族でない「疑似家族」が生まれる。私は、これが時代のキーワードだと思っているんです。

『絶叫』では6本指を持つ神代という男が出てきます。彼はNPO法人をつくって、社会から棄てられた人たちのネットワークを構築し、疑似家族の「父親」として、犯罪者やホームレスの面倒をみている。けれど、善意でそんなことをやっているわけじゃない。まるで沼のように、寄る辺のない人々を自分の世界に引きずり込み、君臨し、支配しているのです。

水無田 彼は稀代のトリックスターですよね。

葉真中 そうなんです。神代はえげつないおっさんで、善悪で言ったらそりゃ悪なんでしょうが、突き抜けたものがあるので、書いててすごく楽しかったんです(笑)。彼が疑似家族を作るのは、まさに後ろから撃つためなんですね。

水無田 今まで「疑似家族」は、新しい家族の形として、好意的に取られてきたじゃないですか。80年代は消費社会化の成熟とともに、旧来のコミュニティがどんどん解体してきて、新しい選択縁を基軸とした疑似家族の可能性が希望として語られました。吉本ばななの『キッチン』のように。でも、そのダークサイドに目を留めれば、表層的にいい家族を装って、後ろから撃つことを目的に近づいてくる悪意の相手がいるんだと。

葉真中 昨今話題になった尼崎事件や、京都青酸カリ事件を見ると、そういう悪意のリアルを感じます。神代みたいな人間も、きっと本当にいるはずです。

水無田 でも、陽子は彼にも飲み込まれることなく、向かい合います。ある意味では、疑似家族の「父」である神代とも対峙し、母とも対峙している。今までにないヒロインですよね。

旧来の性別分業的な意識を取り去るために、弟の「声」を魂にインストールして、アンドロジナス(両性具有)になっていくのが面白い。勝手な解釈かもしれませんが……。

葉真中 アンドロジナスですか! なるほど、いや確かにそうなのかもしれません。そうやって、言語化されると、自分が何を書いたのかが改めて分かりました(笑)。

「私、幸せ」

水無田 陽子の母・妙子がしきりに「幸せ」と言うじゃないですか。すごく象徴的ですよね。

73年生まれの陽子は団塊ジュニア世代で、日本の専業主婦比率が一番高かった時に生まれています。幸せな家族幻想がピークを迎えたと同時に、ここからジェットコースターのように下がり始めるとき。

そういった時代の女性をあえて登場させて、「幸せ」と殊更に言う母親の下に生まれさせた。葉真中さんはなぜ、この年代のサラリーマン世帯を選んだのでしょうか。

葉真中 私自身も団塊ジュニア世代なんですよ。自分の世代が見てきたものを、別の視点で、しかも女性を主人公にして書こうと思ったのが、執筆の最初の動機です。

いま30代40代になった団塊ジュニア世代で、様々な問題に直面し、ボタンの掛け違いみたいなものを感じる人は少なくないでしょう。私もそうです。そのしわ寄せというか「上手くいかなさ」みたいなことを書ければなと。

ボタンが掛け違っているとして、それはいま突然起きたわけでなく、もっと前から、それこそ親にあたる団塊世代のころからあったはずなんですね。そういった部分は、陽子に対して抑圧的に振る舞う母親のキャラクター造形に反映されていると思っています。

陽子の母・妙子は、決して娘を抑圧したくて抑圧しているのではありません。陽子は物語の中で、困難をさまよってゆきますが、その母親もまた別の困難を抱えているのです

水無田 親の因果がめぐっていると。高度成長期の「幸福幻想」は一時代に特化したものだから、時代が変わると簡単に掛け違ってしまいます。その感覚はすごくよく分かりますね。

陽子の母・妙子の親の世代というのは、出身が長野ですし、たぶん産業構成比などを考えれば、農家の嫁だったのでしょう。それが、妙子の世代から、庶民の女性が農家の嫁からサラリーマンの妻に「ジョブチェンジ」していく傾向が顕著になりました。

戦前の農家の嫁は、家制度の中では地位も低いですし、重労働を担わされてきました。農作業、家事育児から夫の両親が倒れたら介護までしなければならないので、24時間体制で戦わなければならない。自由なんてないわけです。

妙子はその母を見ているから「私は幸せ」と言ったのかもしれません。ですが、そんなことを殊更に言う人は、本当は幸せではないんですよ。彼女はどこか満たされなさを感じていた。おそらく、妙子は自分の母と比べれば幸せ、娘の陽子と比べれば女として勝っている……と、比較によってしか自分の幸福感すら確認できない、とても空虚な人物ですね。

でも、それは高度成長期の日本の女性が、「個人」としての幸福を追求してこられなかったという「呪い」を見事に体現した結果だと思います。

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『シングルマザーの貧困』著者・水無田気流氏

葉真中 まさか、主人公の母親のそのまた母親の出身地まで読みこんでいただけるとは! 嬉しいです。

陽子の母親は「幸せ」と言っているけれど、本当に幸せな人はそうやって幸せを確認しない。実は満たされていないわけです。彼女は本当は進学したかったんだけど、それを許されず、家庭に入りました。一応、居場所は得たわけですが、そこで自己実現はできていない。これは団塊世代の専業主婦の「満たされなさ」の典型かもしれません。

一方で、その娘である団塊ジュニア世代の陽子の、デフレ危機に直面していくような「満たされなさ」は、レベルが違います。自己実現以前に、普通に自活していくのが厳しい。やがて陽子は生命の危機すら迎えます。母・妙子と比べ、欲求の段階がずっと下がったところで「満たされない」のです。そんな世代間の残酷な対比も書きたかったことの一つです。

水無田 専業主婦が「幸せ」の中で、退屈な思いをしている感じは、今まで様々な作家によって書かれてきています。ですが、その時代がユートピアに思えるほど、陽子は転がり落ちてしまうんですよね。

葉真中 こういうことを言うと、どこかから怒られてしまうかもしれませんが、「退屈」を問題にできるなんて、ずいぶんと贅沢な話なんですよ。昨今はブラック企業の問題がクローズアップされていますが、多くの人が退屈なんて感じる暇もなく、働いて、消費してを繰り返していかないと回らないようになっているんじゃないでしょうか。

小説の中盤で、鈴木陽子もブラックな保険会社で半ば洗脳されたような状態で働くことになります。この部分は、多くの読者から「リアル」「怖い」との反響をいただいてます。

ただ、『絶叫』はフィクションですから、現実にああいう保険会社があるということではありません(笑)。この場面にリアリティが宿っているとすれば、ディティール以上に、現代の日本において、働くということが孕んでしまう病的な側面を上手く描けたんじゃないかな、と自分では思っています。

黒山もこもこ

水無田 私も団塊ジュニアとほぼ同世代で、高度経済成長期に大量生産された子供の中の一人です。自分が「ザコキャラ」だという意識が、子どものときからずっとあったんですよね。

葉真中 わかります。僕も、脇役感っていうか、何かを成したところで、いつまでもone of themのような感覚があるんです。

水無田 郊外の、一学年10クラスもあるような小中学校で育って……。その感覚を『黒山もこもこ、抜けたら荒野』という本で書かせていただきました。

葉真中 今回、対談の前に読ませていただいて、まさにこれは『絶叫』で書こうと思っていたことと共通する部分が多いと感じたんです。

主人公の鈴木陽子は団塊ジュニア世代のピークに生まれた設定です。陽子は当時、一番多くつけられた名前なんです。しかも、名前も鈴木です。

水無田 それほど、「平凡」な女性であると。

葉真中 「平凡」は文字にすると、そこに意味が発生します。本当の平凡は「平凡」という言葉を使わずに表される。あえて平凡とすることで、読者に投げかける意図もあるんです。

鈴木陽子は水無田さんの表現を借りれば「黒山もこもこ」の時代に生まれ、「抜けたら荒野」だったと。

水無田 私の人生は、陽子のように極端ではないですが、その感覚はすごくよく分かります。私たちの世代は、普通に生まれたはずが普通の幸せがものすごく遠くなってしまった。個人史レベルで、ジェットコースターの様に落ちていく体感を覚えた人が多いと思うんです。

葉真中 やっぱり経済が縮小していく状況は、人間のストレスになりますよね。「世の中経済だけじゃない」と言われるかもしれませんが、経済的な豊かさを子供のころにメディアなりで経験して、いざ社会に出るとそれが無くなっているというのは、つらいでしょう。というか、実感としてつらいです(笑)。

これは作品の中でも触れていますが、海外の貧困を引き合いにして「どこそこと比べたら幸せじゃないか」とか言う人がいますけど、そういう問題ではないですよね。

水無田 社会学では、それを相対的剥奪感と言います。人間は、自分の立ち位置を周囲の人たちや自分の過去の状態などと比較し、相対的に物事をみているんです。子供の時期にあって、失われたものがあるとするならば、それは剥奪感の源泉になります。

葉真中 なるほど、剥奪感というのは重要ですね。私は、人間って何のために生きるのかと言えば、シンプルに「幸せになるため」だろうと思っています。でも、「幸せ」って、空気みたいで、そこにあるときは当たり前のように享受していて、なくなった途端に意識するようになるんです、たぶん。だから剥奪感の多い社会や時代は、幸せを掴みにくくなる。

小説の中では「見えざる棄民」という言葉を使いましたが、社会の光の届かない部分には、与えられるべきものを奪われ、棄てられてしまったような人々がいる。『絶叫』は、鈴木陽子という平凡な女性が、この「見えざる棄民」へと転落してゆく物語でもあります。後半、神代という男の元で、陽子と疑似家族になる元犯罪者やホームレスたちもまた棄民と言えるでしょう。棄てられた者たちです。

私は生きづらさを全部時代のせいにしたくはないのですが、個人の努力や決断ではあらがえない大きな流れってあると思うんです。そこを、鈴木陽子の40年で上手く書ければと。それが多くの人に、当事者性を持って訴えられる物語になると思いました。

水無田 「人生は個人の選択とは関係なく、壊れるときには壊れる」という表現がすごく象徴的ですよね。それなのに、社会が大きく変化してきた2000年以降、殊更に「自己決定・自己責任」が問われるようになってきました。そこで思考停止してはいけないと思います。

子供の平等

葉真中 これは、水無田さんの新刊『シングルマザーの貧困』にもつながる話ですよね。たとえば夫のDVで離婚するなど、個人の選択ではあらがえない問題でシングルマザーになり、貧困に陥ってしまうようなケースを見ると、やはり、何らかの社会的な支援が必要だと思わされます。

水無田 そう読んでいただければ嬉しいんですが、実は批判も受けたんですよ。そんなの、自分で勝手に離婚した母親が悪いんだろうと。

葉真中 うわぁ、そうなんですか。

水無田 もちろん、このテーマで書くときに想定はしていたんですが、風当たりの強さは結構つらくて。

シングルマザーを支援するべきだと言うと、わがままで勝手に離婚した母親を救済するから、益々離婚が増えるなんて声も聞こえてきます。

ですが、この支援の本質は、子供の間の平等を守るためなんです。感情論だと難しいので、法律や制度で守ってあげなければいけない。でも、それが通じない。

先ほども言いましたが、いま、自己決定・自己責任という言葉がよく言われますね。でも、この社会の原理を自己責任に求めるならば、子供は生まれてくる環境を自分では選べないという根本的な矛盾に突き当たりますよね。

生まれてくる次世代の平等は確保しないと、自己決定、自己責任なんて前提は、本当は成り立たないはずなんです。「子供がかわいそうだから離婚すべきではない」とよく言われますが、「たとえ両親が離婚しても子供たちが極端な不利益をこうむらないよう支援すべき」という意見は、残念ながらまだまだ通りが悪いんです。背景には、家族の物語を壊す存在に対する忌避感があります。

葉真中 極端な自己責任論でシングルマザー支援を批判する人が、同じ口で「少子化が大変だ」とか言ったりしていますよね。正直「なんだかなあ」と思ってしまいます。

『シングルマザーの貧困』を読むと、陽子が生まれた70年代は、出生率が2.0を超えていて、そのころの成婚率は95%ですよね。いわゆる「日本的家族制度」を維持したまま、出生率2.0を目指すには、成婚率がこんなに高くないといけないってことじゃないでしょうか。

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水無田 70年代を通じて20代だった、1950年生まれコーホート(同時出生集団)の女性の人生をトレースすると、49歳までに95%が結婚して子供を産んでいます。70年代は、30才を過ぎた男女は9割結婚していました。当時は、生涯未婚率、つまり50歳時点で一回も結婚していない人の割合が一番低いときで男性で2%、女性で3%くらいなんです。つまり陽子が生まれた頃って、日本人が一番結婚していた時期なんですよね。

葉真中 すごい数ですよね。

水無田 男性片働きモデルで年々豊かになっていく生活、というのを前提にしているから、景気が低迷すればたちどころに矛盾が噴出してきます。専業主婦というのは高度経済成長期に一般に普及したもので、よく誤解されているように、太古の昔からある伝統的なものではないんです。

そもそも、日本人は明治維新のころは9割が農民ないしは漁業民でした。戦後まもない1950年の段階でも、就業者の半数は農林漁業従事者です。第一次産業従事者が多いということは、その妻の女性も貴重な労働力で、ともに農作業などの生産労働に従事する生活スタイルとなります。

ですが、高度成長期には工業化が進み、製造業や建設業などの第二次産業が経済成長の牽引車となりました。これは、男性を好んで採用する職種でもあり、またなんと言っても経済成長率も高かった。だから、女性は結婚したら家事育児などのケアワークに専念したほうが、合理的だったんです。

この奇跡的な成功譚が、たとえ景気が低迷しても、産業構成比が変わっても、家族の現実的な課題が変わっても、なかなか日本人は忘れられないのが問題です。その最大の犠牲になっているのが、次世代の子供たちではないでしょうか。

「超」のつく少子化や、マタハラ、ベビーカー論争、それにシングルマザーへの強い風当たりなども、すべては子供たちの権利よりも家族規範を優先する、この社会の問題から派生しています。

自由と不自由と

水無田 『絶叫』は、「母」や「家族」「時代」がキーワードですが、一方で「自由」について深く考えている作品ですよね。「人間は戦って自由を手に入れるのではない。自由だから戦うんだ」と。これって、近代社会の個人の自己や主体が転倒しているんですよ。

葉真中 おっしゃる通りで、「自由」はこの小説の裏テーマなんです。私なりに突き詰めたものを書きたいと思っていました。

小説の中では、子供のころに死んだ弟が金魚の姿をした幽霊となり、陽子の前に姿を現します。この幽霊が語るのは、「世界の行く末はすでに決まっている」という決定論に基づく、個人の主体や自由への懐疑です。

私たちの社会は、人間に自由意志があることを前提とし、自己決定を尊重し、またその責任を問うことで回っています。しかし、人が何かを選択するときって、必ずしも合理的に考えて決めるわけじゃない。そもそも、合理的に結論を出せるなら選ぶ必要なんてないですしね。

選択というのは、好き嫌いといった好みや、そのときのひらめきに支配される行為です。でも、好みやひらめきって、自由じゃないですよね。ということは、選択という行為自体も突き詰めれば自由ではあり得なくなってしまう。

最近では脳科学の見地からも、どうも人間には自由意志はないらしい、なんてことが証明されつつあるようです。「私」という主体自体が、もしくは主体があるという認識自体が、壮大なフィクション──つまり、嘘なのでしょう。

なのに、世間にはやたらと自己決定や自己責任、個人の選択を重視する風潮がある。それはそれで、必要な嘘なんでしょうが、息苦しさを生む一因でもあると思います。だから、小説という最初からフィクションと決まっている世界の中では、主人公がこの嘘を突破していく様を描けたらと思いました。

水無田 なるほど。「個人の自由」から自由になったから、自由になるということですね。

葉真中 少しややこしいですが(笑)。まさにそういうことです。

水無田 面白い提言ですよね。近代が今まで獲得しようとしてきた自由を、逆説的に転倒させてしまう怖さもありますよね。

葉真中 この「自由」とか、あと「豊かさ」もそうですが、近代が獲得してきた価値って、人を幸せにするのか怪しいところがありますね。自由は悩みや後悔とセットだし、豊かさは格差とセットです。

ただ恐ろしいのは、これらの価値は一度手に入れてしまったら、失うことに耐えられないことです。もしかしたら、自由も豊かさも、所与のものとして与えられていないのであれば、人はそういうものだと納得して生きていくのかもしれません。先ほどの相対的剥奪感にも通じますが、やはり一度与えられた後で梯子を外されてしまうのが一番つらい。

自由や豊かさが人を幸せにするのかは怪しいけれど、それを奪われることは確実に人を不幸にします。ちょっと余談になりますが、私は、上の世代のお金持ちの人たちが「もう経済成長はいらない」とか「これからは経済よりも心の豊かさ」なんて言うとき、すごく憤りを感じるんですよね。

水無田 よく、わかります。

葉真中 そりゃ、この世にはお金以外にも大事なものはありますし、心の豊かさも結構です。けれど、やはり基盤となる経済がしっかりしていないと、あっちこっちに貧困を生み出してしまう。成長を諦めることで、そのしわ寄せを食うのは、これから社会に出ていく人、特に立場の弱い人たちです。「貧すれば鈍す」と言いますが、心の豊かさのためにも、経済的な豊かさは必要なんですよ。

水無田 お金じゃなくて、精神的な豊かさだとか貴重な経験が大切だというような「脱物質的」傾向は、たしかに団塊世代の人たちのニーズには適合的でしょう。でも、世代間ギャップが大きい点も指摘されます。、20代・30代はむしろ物質回帰傾向が見られるんですよね。昔のように、何でも「人並み」に揃えることに興味はないけれども、厳選したものは欲しい、という傾向が見られます。でも、なかなか買えない……というのは、やはり相対的に若年層が貧しくなってきているからでしょう。団塊世代はじめとする上の世代との落差は大きいと思います。

葉真中 そういう人たちが言っている「脱物質」って、ロハスとかスローフードとか、生活に取り入れようとすると、結構、お金と時間がかかることだったりしますよね。私たちは別に裸でマンモス狩ってるわけじゃないですから、現代社会では非物質的な経験だって、ある程度はお金で買うんですよね。

水無田 裸でマンモス……(笑)。たしかに、非物質的な経験は一見お金がかかっていないように見えて、その機会を獲得するには相応の社会資源も時間も必要です。

自分の裁量で長期休暇を確保でき、かつある程度以上の収入水準を保てるのは、やはり限られた層でしょう。日常的な長時間労働や、周囲に遠慮して実質的に取得できない有給休暇など、正社員でも時間が自由にならない人が多すぎるのは本当に問題です。

日本の企業で働く人たちの有給休暇取得率は、現在5割を切っています。さらに、非正規雇用の人たちは、有給休暇など夢のまた夢。ましてや、介護や育児などのケアワークを抱え込んでしまったら、仕事と両立は困難です。これは、日本社会が「時間権」ともいうべき人間の権利を無視してきたからではないかと思います。

就労時間以外は基本的に対価がなく、評価もされない。だから、社会保障制度もケアワークに時間が取られる人の、ケアの時間を保障するという方向性にはなかなか行かない。だから日本では、弱者ほど「時間貧困」になってしまいます。シングルマザーなどを見ていても明らかで、それは子供たちの経験の貧困にもつながっていきます。

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左から水無田氏、葉真中氏

まだ人間に絶望していない

葉真中 いま、すごい勢いで人口構成が変わっている中で、家族の形態一つをとっても、なかなか従来の価値観を崩せない。それどころか「昔は良かった」と、過去への回帰を望む人すら一定数います。

しかし、このままでは社会の中身と器のミスマッチはどんどん大きくなっていって、そこからこぼれ落ちる人──鈴木陽子のような「見えざる棄民」──が、増えていってしまうんじゃないでしょうか。正直、明るい未来が描きづらい。私は、こういう話をしていると、いつも暗い気持ちになって、暗い気持ちになると……、何か書きたくなるんですよね(笑)。

水無田 それは良いことですね。

葉真中 私自身、子供がいるのですが、今後、ますます高齢化が進んで、社会保障が崩れたとしても、自分の子供が大人になったときに日本社会が無くなるとは想像できないんですよ。どれだけ大変になろうが、社会は変わらずに続いていくものだって思うんです。

よく、少子高齢化に対しては「最終バスが行ってしまった」という言い方をします。今から対策しても手遅れなんだと。しかし、たとえそうだとしても、今生きる私たちは、未来に対してなんらかの責任を負うべきなんじゃないかと思うんです。たとえ根本的な解決ができなくても、なんらかのアクションをしていくべきなんじゃないかと。

だって、最終バスが行ってしまおうが、手遅れだろうが、社会が消えてなくなるわけじゃない。少子化とはいえ、今日も新しい命は生まれていて、20年先、30年先も、未来は確実にあるわけですから。

水無田 おっしゃりたいことはよく分かります。思想でも文学でも、現状に対するニヒリズムに陥ってしまいがちですよね。でも、それでは未来が開けないですよね。

葉真中 いよいよどうしょうもない現実が襲ってきたときに、人間の心はどうしてもニヒリズムに傾いてしまう。でも、そこには抵抗していかないといけない。

水無田 ニヒリズムとリアリズムが混同されていることは、本当に問題です。創造的なことを述べたら、楽観的過ぎると捉えられ、冷笑に支配されてしまう。そういう言葉を読むたびに、インドの詩人・タゴールの詩集を読み返すんですよ。好きな詩の一節に

こどもは誰でも、ことづてをたずさえて生まれてくる。

神はまだ人間に失望していないということづてを。
(出典:『迷い鳥』川名澄訳、風媒社)

というものがあります。

葉真中 ああ、いいですね。本当に、とてもいい言葉ですね。私もどこかで引用しようかな(笑)。

水無田 戦後昭和的レジームに比べれば、確かに今の日本では少子高齢化が進行し、経済成長も鈍化してきて、「昔に比べて今はダメだ」というダメ出しばかりが流行っていますが、対抗し得るのは未来と創造しかありません。もちろん、できる範囲は狭いですよね。微力ですけど、でもやるしかない。

葉真中 そうですね。私も微力ながら、小説を書いていければと思います。フィクションのいいところは、嘘や悪、間違いを書いてもいいこと。むしろ、そいうものを上手く書けたときに真に迫るものになるのですから。

水無田 陽子は、時代に翻弄され淡々と落ちて行きながらも、最後、それを突破していきますよね。「平凡」と言われながらもすごいヒロインだと思いました。よほど魂が錬成されているんでしょうね。

葉真中 最後に陽子が掴もうとしたものは何だったのか、ぜひ『絶叫』を読んで確かめていただければと思います。

プロフィール

水無田気流詩人・社会学者

1970年、神奈川県出身。詩人、社会学者、一児の母。東京工業大学世界文明センターフェロー。著書に『無頼化する女たち』(洋泉社新書y)、『平成幸福論ノート 変容する社会と「安定志向の罠」』 (光文社新書、本名田中理恵子名義で発刊)等。詩集に『音速平和 sonic peace』(思潮社、第11回中原中也賞)『Z境』(思潮社、第49回晩翠賞)。

この執筆者の記事

葉真中顕作家

1976年東京生まれ。2009年児童向け小説「ライバル」で角川学芸児童文学優秀賞受賞。コミックのシナリオなどを手がけながら、本作品でミステリー作家としてデビュー。

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