何のために学ぶのか、何のために考えるのか?

 大学で学ぶべきリベラル・アーツというものの真の姿

 

finalvent より具体的には、飯田先生のお話からすると ――学生の期間の話であれば―― 、まずは「『知』や『真理』に近いものに到達する手順」というものを大学で覚えておくといいと思いました。それが大学でまず学んでおくべきリベラル・アーツの真の姿であろうと。

 

簡単に言うと、分野は何でもいいんでしょうけど、現在の大学でひとつの分野の論文を徹底的に読む訓練をやっているのかなという疑問があります。論文やレポートには、レファレンス(=参考文献一覧)がありますよね。そのレファレンスを徹底して読むとか、レファレンスを自分で作成するとか、専門の辞書を引くとか、そういうなんか徒弟訓練みたいのを一分野でもいいからやっておけば、基本的に「学の構造」はどの分野も同じです。なのでその後も自分で勉強ができるわけです。とくにレファレンスを探っていけば、ちゃんとした知識に到達できる。

 

飯田 たしかに、何かの分野について勉強する場合に、参考文献をたどって、「この論文がこれの元だからこれを読んで……」という感覚で泥縄で知識をつけていくと、意外とその先の知識というものがわかったりしますよね。逆に経済学の教科書を丸暗記しても何の役にも立たない。もちろん公務員試験には受かるけど。

 

finalvent 「人生を豊かにする教養」というものと、「知に到達する基礎力」っていう意味での教養をぼくはわけて考えているのですが、「人生を豊かにする教養」という意味ではなく、いざというときに「知に到達する基礎力」という意味での教養も、大学のうちに身につけておくといいのではないかと思います。

 

いざというときというのは、たとえば司法に訴える事態が起きたから裁判をしなきゃいけないという場面や、難病にかかったから専門医を探さなきゃいけないという問題に直面したときに、学問の基礎でかなり対応できるということです。

 

 

文学の本当の力

 

finalvent 一方の「人生を豊かにする教養」という意味では、自分の専門分野だけに教養を縛るのではなく、literatures ――文学―― から得られる教養というものは、誰もが基礎としてもっておく必要があると思いますね。

 

飯田 それはなぜでしょうか。

 

finalvent ちょっと大げさですけど、人間的な苦悩というのを、30歳を過ぎたあたりから誰もが抱き出すものです。その人間的な苦悩っていうものに、人類はみんな直面してきて、なんらかのソリューション(解決法)を見だしてきたわけです。それが文学というかたちになってきたんで、古くさくて決して現代人にとって役立たないものではない。

 

文学というものは、30歳、40歳、さらに50歳になったときに、君が生きるのに必要なモノだよ、と先人が残してくれたものに違いない。そんな印象がありますね。

 

ですから若いときに分からなくても、なんとなく、「あっそっか。ここの道、こっちの道あったな」みたいに一定の年齢で思い出すといいです。今回の本も、ひとつの側面として、そういうもののひとつとして読んでいただきたいとも思いました。

 

現代だと、結局ぼくも含めてなのですが、皆さん、文学に対して、自分の人生に対する即物的な答えや楽しみを求めているケースが多いように思います。でも本来、文学というのはそういうものではない。もっとお腹にギリギリとくるものだし、本当に文学って面白いですよ。あなたがいつかトンでもない不倫を犯して友達を自殺に追い込むかもしれませんよ。そういう局面に追い込むことがあるかもしれませんよ。そういうものを描いているものが文学です。

 

そういう意味では、文学から得られる教養というものは、人生へのヒントにはたしかになりえるものです。が、もちろん、エンターテイメントというかたちでも読めるものです。それによって楽しむこともできますよと。

 

 

教養を得れば「世界の構造すら完全に可視になる」

 

飯田 さっきのお話で面白かったのが、「人生を豊かにする教養」と「知に到達する基礎力としての教養」は違うという話です。その「知に到達する基礎力」という意味での教養というのは何のことなのでしょう。

 

finalvent  こういう言い方していいのかわからないんですけど、知識・知というものは、ある程度のレベルに達すれば、アメリカの学会が握っているということが見えてくるようになります。

 

ここまで言うと割り切りすぎなんですけど ――アメリカの学会が学問の動向を握っていて―― 、主流のスクール(=学)が存在していて、そのスクールのなかでどういう構造になっているかがわかるようになる。で、そこから生まれた知から権力が発生している。その「知」というものがちゃんと世界を支配しているんです。もう少し分かりやすく言えば、知識が世界を方向づけているということです。

 

これを陰謀論としてとらえられると困るのですけど、たとえば軍事という側面で見ても、知のスクールのなかから系統立てて戦略が組み立てられています。それは知識が世界を方向づけているという意味です。

 

経済学も医学の世界でもちゃんとそうなっています。そして一定の学問の手順を踏めば、その「知」に誰でも、可能性としては到達できるようになっている。きちんと大学レベルの知識があれば、世界の成り立ちを裏づける知識が見える。その知識が公開されているというのが、民主主義なんですよ。

 

民主主義というのはあなたに基礎知識があれば、ちゃんと最高峰の学識の上に登れますよと。いや、そこまで登れないのならば、登った人を信頼できますよということです。

 

学問が信頼できるというのは、まさに大学レベルの知識の成果ということです。民主主義国の知識というのは、そういう構造になっている。これは誰にも知っておいて欲しいんです。ちょっと偉そうになるんですが、この基礎感覚をもっていない人が多いように思える。

 

飯田 自分の教養を高めることによって、世界の構造は見えるようになると。

 

finalvent はい、世界の構造は可視です。非常に明瞭に視ることができる。

 

そして、その基礎は、学問に対する信頼が市民にあるということです。たとえば、アメリカがすごいなと思うのは、リーマン・ショックの後、バーナンキ(アメリカの中央銀行であるFRBの現議長)がちょっと采配を間違えたら、世界経済は吹っ飛んでたと思うんです。あのリーマン・ショックの後 ――この件に関してニューズウィークで論評を読んだんですけど―― 、バーナンキはQE1~QE4(FRBによる大規模量的緩和政策第一弾~第四弾)を実行に移す前ですが、「金融政策でバズーカを打つ」と示唆していました。バーナンキがそれを米国政府に示唆していなければ、次の週が開けたときに世界経済は存在していないかもしれないという状況でした。

 

そしてバーナンキが「バズーカを打つんだ」と一言言ったら、どんなにそれまでバーナンキに反対してた人たちでも「わかりました」ってなる。わかりましたっていうのは、彼の経済学の知識を信頼するということです。つまり、バーナンキに象徴される経済学の知識に対する信頼が、アメリカには確固たるものとしてあるんですね。だからアメリカはリーマン・ショックで大打撃を受けた後も、今なお力強い回復期を迎えている。

 

それで今ようやくアベノミクスによって、そういった経済学の知識が日本でも受け入れられつつあるのですが、ではどうしてリーマン・ショック後の、本当に日本経済に対して重要な局面だったときに、「なんで米国の金融政策がきちんと日本で伝えられないんだろうと」不思議に思いながら見ていました。この例は経済に関してなんですけど。

 

 

 

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