2013.07.26

終わりなき日常を生きる未確認政治物体EUの実像

遠藤乾×吉田徹

情報 #EU#新刊インタビュー#統合の終焉#東アジア共同体#ジャン・モネ#ジャック・ドロール

2013年4月、国際政治学者の遠藤乾氏が『統合の終焉――EUの実像と論理』(岩波書店)を上梓した。本書は、連邦国家という大文字の「統合」が終焉したEUがいまだ生き続いているのはなぜか、その論理と実像に迫る意欲作であるのみならず、国境を越えたガバナンスをどう構築していくかのヒントに満ちている。終わりなき日常を生きるEUからわれわれが学ぶべきこととは? 政治学者・吉田徹氏によるインタビューをお送りする。(構成/金子昂)

日本は歪んだヨーロッパモデルを輸入している

吉田 最初の質問なのですが、国際政治学、EU政治を研究されている遠藤さんは、いまはどんな研究をされているんでしょうか?

遠藤 「なぜ遠藤が?」と思う方もいるでしょうけど、2010年に中国の漁船が尖閣諸島付近で海上保安庁の巡視船に衝突してから、日中関係や日本の安全保障について頭から離れなくて。どうしても離れないんですよ。

吉田 それは専門のEU政治と繋がりがあるんですか?

遠藤 もちろん。繋がっていますよ。

吉田 やはり「東アジア共同体」というアプローチになるのでしょうか?

遠藤 「地域」というのは頭にありますが、そう簡単ではないでしょうね。まず、吉田さん自身もそうかもしれませんが、ながらくヨーロッパをある種の鏡として使いながら日本の政治状況を推し測ってきたのだと思いますし、近代化のためとか、多極共存型デモクラシーとか、ウェストミンスター型民主主義とか、二大政党制、オリーブの木……なんでもいいんですけど、手を変え品を変え、日本はヨーロッパを国内政治のモデルとしてきたわけですよね。

それがいまでは、本家本元のEUがユーロ危機などでずぶずぶになってしまって、さらに民主党が政権をとっても、政権交代が機能したといえず、スウェーデンのような福祉国家になったわけでもなく、ぐだぐだと終わってしまい、また東アジア共同体との関係でいえば、EUと東アジアは状況がまったく違うことはあきらかで、ヨーロッパをモデルとして期待している人は、国際政治においても国内政治においても昔ほどはいなくなりました。

もはやヨーロッパの輝きは自明のものではない。むしろくすんでみえる。いきおい、力の増している中国やアメリカに目が行くようになり、日本人の目がヨーロッパから離れてしまっているんですね。

吉田 「ヨーロッパは遠くになりにけり」といった所でしょうか。

遠藤 そう、よっぽど工夫しなくちゃ誰も話を聞いてくれないんですよ。

そもそもね、日本人のヨーロッパを見る目はものすごく浅薄なんですよね。だってEUに対して「法的統合を進め、市場と通貨を機能的に統合して、その枠のなかで独仏が和解して……」という……。

吉田 神話を語っている。

遠藤 ええ、「いつかは独仏の対立が止揚して、欧州合衆国になる」という物語が語られている。やっとヨーロッパを語る日本人がいると思ったら「EUに比べて日本はなにをやっているんだ」という批判をしているわけで、ぼくはその物語に違和感を覚えていて。どうも日本人はヨーロッパに対して歴史的に一面的で、歪んだかたちのヨーロッパモデルを輸入し、浅薄に利用しているように思えるんですよ。

EUとアメリカの関係もまったく勘違いしていてね。東アジア共同体を語る人の多くは反米なんですよね。それはEUがアメリカに対して影響力を持つまでになっているからなのだと思いますが、そもそもヨーロッパの統合は、アメリカとヨーロッパが「大西洋共同体」という土台を築いた上で進められてきたわけで、アメリカとの関係は基本的に調和的だったんですよ。それどころか冷戦下でソ連に対抗するために、アメリカが戦略的に後押ししたところがあります。でも「東アジア共同体」ってアメリカに弓を引くようなイメージがついてしまっているでしょう?

また、鳩山さんが東アジア共同体の話を持ち出して、結局、それはガラガラと音を立てて崩れていきましたが、それは東アジア共同体とアメリカとの関係を誤って捉えていたせいでもあると思うんですよ。

たとえば西ドイツのブラント首相は、冷戦中、東方政策を進めて、ベルリンの壁を越えて東ドイツやソ連に手を差し伸べようとしたとき、きちんとフランスなど西側諸国に対して仁義を切っていましたよ。西側の一員であり同様に一敗戦国でもあるドイツが、鉄のカーテンを超えて東側に手を突っ込むことの難しさに気づいていたから、彼は同時にヨーロッパ統合を進めたのですね。

でも鳩山さんは、中国に手を伸ばそうとしたとき、アメリカに仁義を切ってない、というかむしろ、沖縄の基地問題で日米関係をぐちゃぐちゃにしてしまっていた。

吉田 そんな状況に遠藤さんはもう我慢ならなくなった?

遠藤 いや、「我慢ならない」っていうと、まるで怒りの拳を振り下ろしているみたいだけど(笑)。「なんだかおかしいんじゃないかな?」とは思っています。ヨーロッパ統合のプロセスをつぶさに見て学ぶべき歴史的経緯、大事なスキル、エッセンス、留意点がまったく抜け落ちているんですよ。

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「終わりなき日常」を生きるEU

吉田 ここからが本題ですが、遠藤乾さんの新刊『統合の終焉』は、EUの神話を乗り越えて、EUが持ついやらしさみたいなものを過不足なく読み取れる本になっていますよね。帯に「大文字の『統合』は終わった。けれどもどっこいEUは生きている」とあります。つまり大文字の「統合」は終わったけれども、歴史的、あるいは地理的な条件のもとで、EUは、「終わりなき日常」を生きざるをえないんだという風に要約できると思いますが、どうでしょう。

遠藤 そうそう。「EUの終わりなき日常」っていいコピーだね。

「大文字の『統合』は終わった」というと、「じゃあEUは崩壊するんですね」と勘違いされるんだけど、そうじゃなくて、最終的に連邦国家、欧州連合国に向かっているというシナリオは終わったよ、という意味ね。

どういうことかというとね、EUって、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)のような小さなセクターの統合から始まり、市場、通貨、市民権というプロセスで機能的に統合を進めてきて、最終的に憲法を作って連邦国家になるのだという統合主義者って多かったわけだけど、2005年にフランスとオランダが国民投票でEU憲法を蹴とばした時点で、そういう連邦国家構想は大崩れしているんですよ。もはやそんなシナリオははっきりと「ない」といったほうがいい。

そのときに「ということは、EUは崩壊するんだ」と簡単に考えるのではなくて……。

吉田 ユーロ危機のあたりから、「ギリシャは日本の明日だ」みたいな話ばかりが囁かれるようになりました。ぼくは当時ヨーロッパにいましたが、日本の読者にそういう問題のフレーミングにすべきではない、と説明するのに苦労しました。

遠藤 そうなんですよ。そのうえ、「ギリシャがかわいそうだ」「スペインがかわいそうだ」「失業率が高くて、年金が切られて、自殺者があいついでいて……」とか危機ばかり指摘される。たしかに問題はいろいろとありますよ。でも5億人の市場を抱え、アメリカをしのぐ経済規模をもち、15兆円の予算があり、さらにその4分の3を工業化されていない貧しい地域に再分配している、それくらいの社会的な紐帯はいまだEUに存続しています。大文字の「統合」が終わってしまって、先ほどの吉田さんの言葉を借りれば、「終わりなき日常」を生きるEUが、なぜ続いているのかを問わなくてはいけない。それを本書で説明してみたかったんです。

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21世紀の新しいデモクラシー

吉田 そのEUがしぶとくも存続している理由のひとつに、「明るい専制」とでもいえるような、ガバナンス能力の高さが特徴にもなっています。ただ歴史的にいっても、ガバナンスはそもそも事物を対象とするもので人間を対象にするワードではない。それと民主制が衝突する場面がありますよね。

遠藤 ええ、それをEUはガバナンス先行型で、民主的でない、いま吉田さんがいったように「明るい専制」、あるいは「EUは横暴だ」といって批判することができます。

なぜそうなっているかというと、権限をブリュッセルに集めたけれど、民主主義がそれに追いついていないから。民主主義の統合は難しいし、そもそも国ごとに留まっている。すこしずつましになっているものの、欧州議会も人工的なところがあって、各国の議会ほどには機能できていない。それはEUの弱みにもなっている。

ただ逆に、こういう問いを立てることもできます。「一国ごとの国民国家は、『自分たちのことは自分で決める』というそれぞれの民主制に従っていれば、さまざまな問題を解決できるのだろうか?」たとえばもし、ユーロが導入される前のフランス・フランでもイタリア・リラでもなんでもいいんですけど、自国の通貨がグローバルな市場から狙い撃ちにされたら、一国だけじゃ到底太刀打ちできなくて、すってんてんになっちゃいますよね。

吉田 1990年代後半のアジア通貨危機がしめすように、一国単位では限りなく脆弱な存在になってしまう。

遠藤 その通りです。つまり、「自分たちの国のことは自分たちで決める」といったところで、けっきょく世界市場に翻弄されるのであれば、それは本当にデモクラシーにとっていいことなのだろうか、本当に「自分たちで決めている」ことになるのだろうか? という問いはありえると思うんですね。つまり、グローバル化時代のデモクラシーって、どこまできちんと成立しうるのか。

そしてもうひとつ問いが立てられる。ナショナルなデモクラシーに問題はないのか? 国民国家ごとの民主制ってそんなにわかりやすいのだろうか? という点です。

民主制を「総選挙があって、大統領選挙があって、国の統治者が選ばれて……」とすっきり説明することはできます。でもね、たとえば選ばれた安倍首相で政治のすべてを説明できるわけではないでしょ。なかには民選という意味では民主的とはいえないような「テクノクラティックな装置」もある。財務省の主計局や日銀、公正取引委員会で参加型民主主義を貫徹されたら機能しないよね。

そういう意味では、「実際に存在しているデモクラシー(really existing democracy)」って、選挙というインプットや民選指導者、あるいはそれをつなぐ政党政治に還元できるものではないのではないか。EUが民主的ではないという批判は一面ではあたっているけれども、民主国でも、EUほどではないにせよ、テクノクラティックな要素が埋め込まれて民主主義が成り立っているところがあるわけですよ。その意味でぼくは、デモクラシー談義ってやや狭いような印象を受けています。

もしかしたら21世紀の新しいデモクラシーは、EUのようなテクノクラティックな覆いがあって初めて機能する側面があるかもしれないと思っていて。EUを解体して、統合した市場も通貨も全部なくしてしまったら、グローバル化市場やアメリカや中国といった大国が狙い撃ちしてきた場合、自分たちの運命をコントロールしえないわけです。

まるで井戸の中で「自分たちのことは自分で決める」と叫んでいながら、井戸の外からいろいろなものを投げ込まれるような、そんなデモクラシーになりかねないのではないか。それは結局、自分たちのことを自分で決められていないことになるんじゃないか。それに近い状態を作り出すためにも、国際・国内に実際にあるデモクラシーの支持メカニズムにもっと目を配るべきなのではないか。

違う言い方をすれば、「ナショナルはガバメント」、「EUはガバナンス」と思われがちだけど、実際はナショナルにもガバナンスはあるんじゃないか。「ナショナル VS EU」「ガバメント VS ガバナンス」という二項対立でいいのか、と考えています。どっちも、デモクラティック・ガバナンスの程度問題というところはないのか。

グローバル化の荒波を狡猾に生きる

吉田 いまの話は、『中央公論』に遠藤さんが書かれた「グローバル化2・0 ― TPP賛否両極論を排す」(2013年3月号)という論考の話にもつながります。この論考をぼくは、「グローバル化は不可避なものであり、いまはこのグローバル化を乗り越えられるような論理が必要とさせている。TPPをそのように捉えなおせないのか」と読みました。

いま日本中でTPP反対論ばかり渦巻いているなか、グローバル化に対してどれだけ狡猾になっていけるか、その知恵を遠藤さんはどうやって授けたいと思っているのでしょう?

遠藤 授けていくってまた、それじゃあ偉そうじゃないですか(笑)。ひとついわせてもらうと、ぼくは反対論が渦巻いているとは思っていません。

吉田 いわゆる「論壇」では少なくとも反対論が目立ちますよね。

遠藤 そうですかね?

吉田 反対派の意見は声高に聞こえてくる。反対に賛成派の本は少ないし、売れていない気もします。

遠藤 そりゃ売れないでしょうけど……。まあ北海道ではほぼ反対一色ですかね。でも、東京では逆ですし。

とにかく、ぼくは別に反対派が渦巻いているからあのような論考を書いたのではなくて、いま反対派と賛成派がお互いに悪魔呼ばわりして対話不能になっていることを危険に思うし、国益を損なっていると思ってあの論考を書いたんですね。

いま世界中で飛び交っている通貨、物流、感染症、旅行者、移民などを日本が独力で簡単に止められるならば、そうしたらよい。あるいはもう一度、江戸時代のように鎖国して、あとは野となれ山となれで、自分の国だけでやっていってもいいでしょうよ。

でもね、ぼくはそれができるとは思わない。やったところで、日本が数世代に渡って蓄積してきた富を食いつぶして、貧窮化の途を歩むんじゃないかと心配している。だからグローバル化は不可避だと、そうならば、それを受け入れて、どのようにコントロールしていくかを考えるべきだと思っているんですよ。

吉田さんのご指摘の通り、ぼくのなかではEUとTPPの話は結びついています。なぜならEUはグローバル化の潮流のなかで、自らをマネジメントして生きながらえてきたから。というのも、たとえばベルギー、ポルトガル、ルクセンブルグのような小さな国は、いや、フランスやドイツといった大国ですら、一国だけでは世界市場や政治に対して、大した影響力をもてません。

EUに加盟する前のフィンランドがわかりやすい例だと思いますが、1990年代初め、フィンランドは当時の主要産業であるパルプ産業をアメリカに狙い撃ちにされました。アメリカに報復しようと、フィンランドがたとえば「もうフォードは買いません」といっても、アメリカにとっては痛くもかゆくもない。

それが、フィンランドが95年にEUに加盟すると、当時でいえば4億人の豊かな市場とEU全体の制裁可能性をアメリカは相手にしなくてはいけなくなった。こうして、アメリカに対するフィンランドの貿易交渉力があがっている。

EUは、一国で保全できない影響力を、仲間作りをするによって影響力を引き上げていった。そうして市場の荒波を乗り越えたり、自分たちの望ましいと思う流れを作ろうと働きかけたんですね。

吉田 日本では、そういう二枚腰のリアリズムが見られないところが歯がゆい。

遠藤 そうなんだよね。TPPの議論をする前に入口で賛成派と反対派が悪魔呼ばわりしているばかりで。仲間作りするわけでもなく、グローバルスタンダードを自分たちに近づけようとするわけでもなく、「黒船がやってきた!」と騒いでいる。ぼくはね、「黒船は、賛成派と反対派で、外国とも一緒になって作っていくものなんですよ、そういうイメージをしませんか」と提案しているんです。

もしそれで望むようにTPPを染めることができそうもなかったらTPPに参加しないという選択もありでしょう。でも日本は腐ったって世界3位の経済体ですし、もし「アメリカは日本の市場が欲しくてTPPを使って日本市場を蹂躙しようとしているんだ」という陰謀論が本当なのだとしたら、むしろ日本のほうに交渉力があると思うんですよね。向こうが欲しがっているものがあるわけで、こちらがその開閉を握っているわけですよね。先方の欲しがるものをあげる代わりに、こちらが欲しいものを要求すればいい。

改めていうと、ぼくは賛成派でも反対派でもありません。ただぼくは、賛否が両極化し、EUの経験がTPPで活かされていないのが不満で、あの論考を書きました。そこでは、貿易自由化をする際、環境とか消費者保護とか、そういった分野で高いレベルの規制がある場合、それに合わせることはあっても、むやみに規制緩和して基準を下げることはしない(ハーモナイズ・アップ)という原則があります。そうやって仲間づくりをしながら、グローバル化や自由化をヨーロッパ色に染め上げようとしているのです。

外野で反対、反対とだけいっているが人たちは、結局それをコントロールできていない。グローバル化をどういう手法でコントロールするのかという知恵を提示し、賛否をブリッジすることこそ、責任ある行為なのではないでしょうか。

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普遍的な価値観に訴えよ

吉田 この本には、初期の欧州統合の立役者で、石炭鉄鋼共同体(ECSC)高等機関の初代議長だったジャン・モネ、それから中興の祖とでもいえる、1980年代から90年代にかけて欧州委員会委員長だったジャック・ドロールにかなりのページが割かれています。遠藤さんはテクノクラート・エリートあるいはエリート・テクノクラートに対して信頼があるんだな、とも感じます。

遠藤 うーん、難しいなあ……。

それはちょっと誤解かも。どうもぼくはデモクラットではないと思われているみたいなんだけど(笑)、それはじつに心外で。ぼくは根本的にデモクラシーの支持者です。その上で話すと、モネはテクノクラシーを越えた人なんだと思っているんですよ。

吉田 ぼくがいいたかったのはそれです。モネにしろ、ドロールにしろ、冷酷無比な、機械的なテクノクラートではなくて、情熱をもって、国家の論理を超える論理を生み出していったところがあるように思える。

遠藤 彼らは国家を忘れていないけどね。

吉田 はい。そしてテクノクラートへのイメージと違って、説明責任も結果責任も免除されているわけではなくて、それに応えつつ走った人たちだと思うんですよ。遠藤さんはそういう人たちに魅かれているのかなあと思って。

遠藤 たぶんぼくと吉田さんのモネやドロール観にはズレがある気がしますね。

モネは高校もでていません。たたき上げの人です。この人はどんな苦境にあっても次の解決策を探っていく、問題解決型の人です。いってみれば、コニャック商人に始まったグローバルなロジ屋さん。

そうしていくなかで、ヨーロッパにあるさまざまな問題に気がついていく。たとえば第一次世界大戦でドイツに対して戦争しているフランスとイギリスが絶交関係みたいになるのはなぜなのか。それを物流や船舶などで繋ごうとしたのがモネです。

第二次大戦後には、狡猾にも、フランスの国民経済を再建するために必要なものをうめていくために、たとえば「エネルギーがないと発展しないからドイツの石炭が欲しい」というときに、あなたの言葉を使うと、「論理」を用意するわけです。それが独仏和解であったりする。

ECSCはものすごく多くの変数(たとえば、冷戦や米国内政治など)を処理するものでしたが、それを、欧州合衆国だったり、平和とか和解とかいう普遍的な価値を掲げながら、進めていくわけですね。それがすごい。

あと吉田さんが惚れられないドロールも、モネと様相は異なるけれど、同様に説得力のあるひとだったと思う。ドロールはグローバル化の荒波は不可避なものだ、という前提のもとで、社会的な連帯をいかに保持するかを考えて、EUというある種の防波堤を築き、その枠内で社会的な紐帯を守っていこうとヨーロッパにいる左翼を説得したわけですよ。ここがうまいと思いますね。

やっぱり日本は、右翼も左翼も、とりわけ左翼はグローバル化を悪だと思っている。べつにレッテルを貼るのは勝手だけど、レッテルを貼ったからといってグローバル化の潮流はかわらない。であるならば、グローバル化を前提に、日本の社会的な紐帯を守っていく方法を考えればいい。しかもそれを、モネのように、普遍的な価値を掲げて説得していくべきなんです。

つまり「TPPによって地方が苦境に陥って、ある産業が潰れてしまうから反対!」というようなクリンチで逃れるような言い方じゃなくて、普遍的な言葉でくるんで、交渉相手に訴えて、守りたい利益を守っていけばいい。

たとえば食の安全・安心は、カルフォルニア郊外に住む市民にとっても大事な話でしょう。薬が安くあるべきだって、オーストラリアの人も思っているはずです。国民皆保険だって、オバマさんが導入しようとしたときに、支持者がいたはずです。そういった共通利益を国を超えたところに見出して、こちらの部分的な利益を守ってというのでなく、普遍的な価値にくるんで提示して、その結果としてこちらの利益が守られるようにしていく。そういうことを考える機会を、賛否両極化は奪っている。

吉田 いずれにしても、偉そうな物言いにはなりますね(笑)。

遠藤 あはは、偉そうか(笑)

吉田 正しいか正しくないかは別として、ドロール的なものに対して惚れられないひとつの理由かもしれない(笑)。

遠藤 なるほどね、そっか、偉そうか。カチンとさせちゃうのかな(笑)。

方法論的なナショナリズムではとらえられない未確認政治物体EU

吉田 最後にお聞きしたいんですけど、この本には「方法論的なナショナリズム」という印象的な言葉が出てきます。

いままで政治学などの社会科学は国民国家を分析するために、そして国民国家とともに発達してきたと思うんですが、方法論的ナショナリズムを超えられる方法論とは何でしょう?

遠藤 吉田さんにとっての歴史は、国民国家が織りなす歴史なのかな?

吉田 もちろん、その神話性を含めて、ですけどね。

遠藤 ああ、それは相当程度そうですね。

吉田 この本を読んでいると、EUは、その社会科学像をぼやかせるような存在のように思えてくる。歴史なき社会科学はありえるのだろうか、あるとしたらそれは限りなく無味透明のものになるんじゃないか、という批判はあり得るかな、と思ったんですよ。

遠藤 グローバル化にもEUにも「歴史」はありますよ(笑)。

ともかく、ぼくがこの本でいいたかったのは方法論的なナショナリズムを消し去れってことじゃないです。よく歴史性から離れて、客観的、中立的であるというけれど、社会科学自身がそうとう歴史性に規定されていると。つまり、政治学はもちろん、国際関係論も、社会学ですら、へたしたら経済学ですら、国民国家を前提にしているんじゃないかと思ったんですよね。

もちろんそれを意識しながら、国ごとの社会、政治、歴史を考察していくことはありだと思いますよ。外からみていて、また偉そうに見えるかもしれませんが(笑)、ぼくの学問的な関心として、みなさんを外から括ってみようと思ったんですね。

自分の対象に引きつけていえば、その非常にドミナントな、支配的な認識、枠組となる方法論は、EUを把握するにあたってすごい妨げになっている。EUの存在を気持ち悪いものとして捉えているように思えるんですよね。この認識が、EU崩壊論の底流にあるんだと思うんですよ。

ドロールはUFOならぬUPO(未確認政治物体)っていっていたけど、そもそもEUは国民国家じゃないし、さっきいったようにもう連邦国家になるシナリオも消えた。国があって、元首がいて、議会があって、政党があって、民主制がまわっていて、ある種の比較政治で語れるような国民国家モデルでは語れない。

スイスのような「政体」とよくEUは比較されますが、EUにはスイスのような一般意思のようなものをひとつの声にする国民投票のようなメカニズムもないんですから、方法論的なナショナリズムはそれをうまく捉えられないんですよ。だから、なんか異物扱い。そうした括り方自体は、EUの存在自体を安定したものとして捉えない運命にあり、結果としてEUは安定して見えなくなると思うんですよね。

吉田 存在論的な認識に迫るってことですね。

遠藤 そうなんだよ。これはもうイデアの問題だろうというところまでに行きつく。

じつはEUは、理念としての補完性(サブシディアリティ)をもって、ある種の多元多層的な政治帯が連鎖するような政治システムを捉えようとしているんだと思うんですよね。そういう認識枠によって初めて、存在が安定するんじゃないか、と。

吉田 EUを問うことはわれわれが問われていることを意味するのでしょうね。今日はすごく面白いインタビューになりました。ありがとうございました。

(2013年7月2日 遠藤乾研究室にて)

プロフィール

遠藤乾政治学者

1966年生まれ。北海道大学法学部卒業。カトリック・ルーヴァン大学修士号、オックスフォード大学博士号。欧州委員会「未来工房」専門調査員、欧州大学院大学ジャン・モネ研究員、米ハーバード法科大学院エミール・ノエル研究員、在台湾国立政治大学客員教授等を歴任。現在、北海道大学大学院法学研究科・公共政策大学院教授。専攻は国際政治、ヨーロッパ政治。著書にThe Presidency of the European Commission under Jacques Delors: The Politics of Shared Leadership (Macmillan, 1999)、『統合の終焉』(岩波書店、2013年、第15回読売吉野作造賞)、編著に『ヨーロッパ統合史』(名古屋大学出版会 2008年)、『EUの規制力』(日本経済評論社2012年)など。

この執筆者の記事

吉田徹ヨーロッパ比較政治

東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。

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