2013.11.08

支援者の「バカの壁」 ―― 「どうせ・しゃあない」を乗り越えて

『権利擁護が支援を変える』著者・竹端寛氏インタビュー

情報 #新刊インタビュー#権利擁護が支援を変える#専門家支配

11月8日に出版された『権利擁護が支援を変える――セルフアドボカシーから虐待防止まで』(現代書館)の著者・竹端寛氏は、支援現場には、生きづらさを抱える人々を無力化させる「専門家支配」という権威主義的な構造があると指摘し、その構造を転換するために、「権利擁護」を主軸にした新しい支援のありかたを提示する。当事者と支援者が共に物語を紡いでいく「権利擁護」支援とは一体どんなものなのか、お話をうかがった。(聞き手・構成/金子昂)

「説得モード」ではなく「納得モード」で

―― 本書では、現在の高齢者・障害者支援には専門家支配という権威主義的な構造があると指摘されています。どういった構造で、何が問題なのでしょうか。

そもそも支援とは、その人の願いや思いを支えるものです。でも実際の「支援」現場では、支援者と当事者が対等な関係にある支援ではなく、上下関係にある「支配」となってしまう場面があります。そこには、権威主義的な構造が働いています。

「裁判を起こす」「入院して手術する」といった場合、情報の非対称性が大きいので、何を目指すのかという目的も、どうやってそこに至るのかという方法論も、弁護士や医者にお任せしなければうまくいかないことが多いですよね。でもそれは裁判所や病院という限られた空間で、ある目的を果たすための、時間と空間が限定された出来事です。一方、地域で生活支援に関わる支援者は、対象者が暮らしている世界の中で、対象者と全人的かつ継続的に関わることになりますから、「専門家支配」と言われるような「支援」をしてしまうと、まさに対象者の全生活を支配することになります。

当然のことですけど、支援の主人公は本人です。対象者が子供でも患者でも障害者でも高齢者でも同じです。対象者にとって支援とは、生活を継続していく上でより自分らしく生きられるようになるために必要なものです。教育・福祉的支援、あるいは在宅医療の支援なども、支援対象者にとって、それらの支援は生活のすべてではなく、自分の人生の一部分でしかないはずです。

そのような地域生活での病気や障害の「しんどさ」や生活の「しづらさ」の内実を、誰が一番把握しているか。それは言うまでもなく、その「しんどさ」「しづらさ」を抱えるご本人ですよね。しかし権威主義的構造においては、専門家がある種の思い込みでそれらを「知っているふり」をして、さまざまな「支援」を本人に押し付けて、対象者を結果的に「支配」してしまう。それはときに、本人の実存に破壊的なダメージを与えることだってあります。

「支配者」という位置づけでは、一方的に「~しなければいけない」という「説得モード」になります。しかし誰もがそうだと思いますが、いくら他人に「~すべきだ」と言われても、納得できなかったら、いくら良いアドバイスであっても、自分の行動変容につながりませんよね。支援を求めているということは、何かに困ってるということ、まさに「困ってるズ」なわけですが、そのとき「~すべきだ」と一方的に規範を押し付ける上下関係ではなく、「何に困っておられるのですか? よかったら、どうしたらいいか一緒に考えてみませんか?」と共に考え合う中で、本人が納得して行動変容できるような支援が必要です。つまり、「納得モード」においては、対等あるいは斜め上から引っ張っていく関係が大切なんです。これは支援する側とされる側が、対話する関係の中から、一緒に支援の物語を紡ぐ関係になっている。「説得モード」とは違って、めっちゃ面白いですよね。

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「病気に疲れ果てた。退院したくない」

―― しかし権威主義的な構造では、支援を受ける側が、いったい自分が何に困っていて、何をしたいと思っているのかわからなくなってしまうとお書きになっていました。

そうなんです。大学院生のときに、NPO大阪精神医療人権センター(http://www.psy-jinken-osaka.org/)という、大阪府内にあるすべての精神科病院に訪問活動をしているNPOでボランティアをしていました。そのとき、衝撃的な「入院患者さんの声」に出会ったんです。

「病気に疲れ果てた。退院したくない」

論理的に考えてみてください。「病気に疲れ果てる」ことと「退院したくない」は、そのままではイコールでは結ばれないですよね。

うつ病や統合失調症になる方の中には、失恋や受験勉強、就職活動の失敗や結婚の破綻、リストラ……といった人生の危機によって、追い詰められる経験がきっかけになる人も少なくなりません。人生の危機で、たとえば眠れない日々が続くと「お前はバカだ!」といった幻聴が聞こえる人もいます。そして聞こえてくる声が嫌でなんとかしようと行動すると、「錯乱状態」と言われて、救急車に乗せられ精神科病院に強制入院させられるケースもある。

その頃には家族関係もぐちゃぐちゃで、下手をすれば絶縁状態になっていて、入院したら社会と繋がるチャンスがほとんどなくなっていたりする。さらに入院先が、長期入院を当たり前と考え、支配的な関わりしか出来ない病院なら、本人中心のケアなんてやってくれるはずもない。そんな絶望的な状況が重なる中で、「もう病気に疲れ果てた。自分の望みもかなえられないんだったら、何を望んでも仕方ない。それならもう、退院せんでええわ」となってしまうんです。

そして、その言葉だけを聞いて私たちはつい「これは自己決定だ」と思ってしまって「退院したくないならここでしっかりケアさせていただきます」と言ってしまう。でもね、ちょっとまてよと。それは「学習された無力感」、つまり抑圧的な構造の中にずっといる中で「ここしかないんだ」とすべてを諦めきった上での自己決定なわけですよね。それで本当にええのかと。

この医療や支援が構築してきた構造を、「どうせ障害者(認知症者、ホームレス……)だから、しゃあない(仕方ない)」ですませていいわけがない。その構造を明らかにした上で、新しいアプローチで支援していったら随分変わるんじゃないか。そのアプローチが、本書のタイトルにもある「権利擁護」あるいは「セルフアドボカシー」なんです。

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「~したい」を見つけてもらうための支援

―― 権利擁護は手法であって、目的ではないとありました。

権利擁護は、自分らしく生きられず「無力化」された状態に置かれている人自身に、自分たちの権利に気付いてもらい、支援を活かして、自分で選んだ、自分らしく生きる力を高めることを支援する手法です。

無力化された人に対して「~すべきだ」と言えば、簡単に支配者になってしまいます。一方、権利擁護とは、無力化されている人に「~したい」と思ってもらえるように関わる支援であって、権利擁護自体が目的ではないんですね。

例えば訪問販売に騙されるお年寄り、のことを思い浮かべてみましょう。その人がさらなる被害にあわないように金銭管理をする、だけでは、実は権利擁護上の問題が解決したことにはならない。高額な商品を騙されて買ってしまったお年寄りが、なぜ必要もない商品を買ってしまうか。それを紐解くと、「寂しさ」に突き当たる場合もある。お金はあるけど人との関わりがない中で、訪ねてきてくれた人が優しそうに声をかけてくれるのが嬉しいからつい買ってしまう。そういう場合、被害にあったお金を取り戻せば、それですべて解決というわけではないんです。

この本では薬物依存症からの回復支援に取り組む倉田めばさんの「薬物依存者が薬物をやめると依存が残る」という言葉を引用しました。薬物依存の人は、薬物依存という形でしかSOSの自己表現が出来ない状態に陥っている、ともいえるのかもしれません。だから薬をしてもいいというのではなくて、単純に薬物だけを抜いてしまったら依存が残ってしまって、アルコールやDVといった別のものでまた依存に陥るかもしれない。であれば、依存状態の構造を変えるような支援をしなくちゃいけないんです。

権利擁護は決して目的ではありません。権利擁護支援を通じて、依存構造とは違う、心からの「~したい」という自己表現の方法を見つけてもらうための手法なんです。

「支援者のバカの壁」を自覚する

―― 無力化された人たちに「~したい」と思ってもらえるように、まずは無力化させるような構造の中で支援をしているということを自覚しなくちゃいけませんね。

ええ、ぼくは養老孟司さんの『バカの壁』(新潮新書)をもじって「支援者のバカの壁」と呼んでいますが、前著『枠組み外しの旅』(青灯社)はこの「支援者のバカの壁」を自覚化するための方法論について書いた本です。良い支援をするためには、自分が権威主義的な構造の中で支援を行う可能性がある、という自らの支援の盲点に気がつかなくてはいけません。ただ支配者になっている支援者ほどその自覚化を拒否するんですよ。支配はある種の全能感に浸れますし、「~すべき」を押し付けるほうが楽ですから。

でもね、本当に何かを変えたいなら、実は他人を「~すべき」といって変えるよりも、自分のアプローチを変えるほうが早いんですよ。ただ、そのためには、自分が何に限界を感じていて、どの部分を「どうせ」「しゃあない」と諦めてしまっているのか自覚するのが大事なんです。あと、自分の「取るべき責任」と、「取れない責任」を明確化することも大事。

というのも、そもそもある人の全生活をコントロールすることなんて出来る訳がないんですよ。それができると思い込んでいるという意味で、支援者は「取れるはずもない責任」をとらされているんですよね。だったら支援を受ける対象者が、自分自身の物語の主人公だということを思い出してもらって、「取るべき責任」をその人に返したほうが支援者にとっても楽なはずなんです。だって物語の主人公である本人が、できることを少しずつ取り戻して行けば、中長期的に言えば支援者のすることは少なくなっていくわけですから。

「本人にさせて、もしものことがあったらどうするのか?」っていうのは「出来ない100の理由」である場合が少なくありません。「精神障害(知的障害、認知症……)だから~したら危ない」と「安心・安全」の錦の御旗を掲げてしまったら、本人の物語の主人公性がなくなってしまうでしょ。「支援者のバカの壁」を自覚することで、「出来る一つの方法論」をご本人と支援者が一緒に模索することが出来ますし、そのプロセスの共有の中で、支援の形も質も劇的によくなります。そしてそれこそが支援の醍醐味であり、楽しさだと思うんですよね。

水先案内人NPOの手引きで代弁者制度を

―― 権利擁護の具体的な実践例として、アメリカの権利擁護支援の制度や日本での先駆的な取り組みについてご紹介されていました。

アメリカでは1970年代から、精神科病院に強制入院させられた際に、当然の権利である本人による異議申し立てを、患者側にたって代弁するための代弁者制度が確立されてきました。この点に関して第二章で、カリフォルニア州の公的な権利擁護機関DRC(Disability Rights California)の取り組みを主に紹介しました。

第三章で取り上げたNPO大阪精神医療人権センターの病院訪問活動は、事務局長の山本深雪さんが1990年代にDRCの代弁者制度の取り組みを学び、日本でもその必要性を感じ、先駆的に始めた活動なんです。

今年度の通常国会で、精神保健福祉法の改正案のもととなった検討会の中では、強制入院時における代弁者制度を日本でも導入すべきだという議論がありました。しかし審議が始まると、代弁者制度の「だ」の字もなくなっていました。議員の働きかけによって付帯決議の中に「代弁者制度を検討する必要がある」と書かれはしましたが、結局まだ代弁者制度は実施されていません。

日本には精神科病院のベッドが34万床もあります。これは諸外国に比べておよそ3~5倍。欧米でも、以前は精神科病院での隔離・拘束は当たり前のように行われていたのですが、今の世界の主流は、重度の精神障害がある人でも、急性期の患者でも、なるべく地域で支え続けるやり方です。強制入院や収容主義をできる限り減らすのが世界の常識です。でも残念ながら日本では、病院中心主義が残り、その結果として、権威主義的な構造がいまだに残ってしまっているんです。

NPO大阪精神医療人権センターは、閉鎖的な精神科病院の扉を開こうと、精神科病院を訪問し患者の声に耳を傾けて、精神科病院の中の風通しをよくしようとしています。精神科病院に入院している人は、社会との関係性が切れてしまっている人が多く、さらに強制入院させられてしまうと、本人が出たいと思っていても出られなくなってしまう。そのとき患者側に立って、患者側の声に基づいて代弁していく存在はいまとても必要とされているんです。国も病院もそういった制度に前向きでない中で、大阪のNPOによる病院訪問活動とは、社会起業家精神に基づいた先駆的に活動である、ともいえます。

―― アメリカは公的に制度化していて、州によっては積極的に取り組んでいる一方で、日本ではNPOが頑張っている状況にあると。

そうです。代弁者制度はNPOがボランタリーにやり続けるのではなく、公的な制度にしないといけないと思っています。NPO法人フローレンスの駒崎弘樹さん達が取り組む病児保育にしても、NPO法人自殺対策支援センターライフリンクの清水康之さん達が取り組む自殺予防にしても、まずはNPOで先駆的に問題解決に取り組んで、その後に制度化していく政策提言(アドボカシー)活動をされていますよね。

ボランティアは水先案内人と言われますが、まずNPOが水先案内人として先駆的に取り組むことで「問題」を「問題」として社会に認知させ、いずれ政策の変更に繋げていく。権利擁護のミクロ・メゾ・マクロという三段階の視点にあわせて、セルフアドボカシー、市民アドボカシー、司法/立法アドボカシーという三つのアプローチがあるのですが、こうした現場からの政策提言の取り組みこそ、市民アドボカシーであり、司法/立法アドボカシーなんです。

社会起業家精神をもった支援者が社会を変える

―― 現場での取り組みが、制度を変えることもあるわけですね。

そうなんですよ。

ぼくは博士論文を書くとき、京都府にいる117名の精神科のソーシャルワーカーにインタビューをしました。その調査の中で気がついたのですが、本気で現場を変えている人は、「支援者のバカの壁」に気がついて、自らのアプローチを変えた人でした。

例えば精神科病院で20年暮らしていた人が「ぼく、結婚したいんですよ」と言ったとき、「模範的」な支援者は「あなたは金銭管理ができていないし、薬もちゃんと飲めていないんだから云々」と「説教モード」にはいってしまう。でも現場を変えてきた支援者は「そうかあ、あなたは結婚したかったんかぁ……初めてあなたの本音を聞かせてもらったよ。さて、どうしよかー。まず退院して、彼女と出会うチャンスがないとなぁ。それに二人暮らしの場所も必要だし」って本人が結婚するためにどうしたらいいのか、本人の「したい」ベースにアプローチを変えるんですよ。

するとね、結局一つの現場、一つの福祉施設だけじゃ完結しないんです。「支援のバカの壁」に気づいた社会起業家的精神を持った支援者達は、「出来る一つの方法論」を模索するため、課題を共有する仲間を増やし、立場や所属を超えていろいろな人を巻き込んでいく中で、働く場や住まいの場などの社会資源を地域の中で作り出してきました。たとえば、有名レストランのシェフを引き抜いて、障害者も働くおしゃれなレストランを作ったりとか。そういう役割が提供されたら、病院の中で「無力化」されて「どうせ」「しゃあない」と諦めていた人が、キリッとしながらお客さんにサービスするようになって、誇りとやりがいを取り戻したり、とかね。

これって社会起業家精神(Social Entrepreneurship)そのもの、なんですよね。いま、社会起業家って、コミュニティービジネスなど、ビジネスの面が強調されることが多いですが、社会起業家はそもそも社会問題を先駆的に解決する手段をゼロから作ったり、そのために既存のシステムを作り替えたりした人々なんです。本気になって支援現場を変えてきた人々の営みは、社会起業家精神そのものなんですよ。既存の枠組みでは飽き足らず、イノベーティブな方法を見つけて、社会を変えてきた人じゃないですか。そういう意味で、社会起業家と支援現場を変えてきた人は共通点が多いんですよね。

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物語を紡ぐ支援が、社会を変える

―― 竹端さんはこの本をどんな人に読んでもらいたいと思っていますか?

ぼくは支援を諦めたくないんです。「どうせ」「しゃあない」で終わらせたくないんですよね。

支援が必要な人って、絶望的な苦悩に追い込まれて「どうせ俺なんて」って思ってしまっている。支援の醍醐味って、そういった人たちが再び物語の主人公に戻っていくところにあると思うんですよ。そのイノベーティブな要素が全然語られていない。そして社会を変える支援があるということも全然語られていないこともすごく残念なんです。

この本は、そして前著『枠組み外しの旅』(https://synodos.jp/welfare/848)も、僕自身が構成員として関わった国の障がい者制度改革推進会議の骨格提言が反故(https://synodos.jp/welfare/1805)になった瞬間に「書かなあかん」と思って書きだしたんです。社会を変えるには、49対51にもっていかなくちゃいけませんが、あのときはまだ49対51じゃなかった。

ぼくが今の立ち位置で出来ることは何か、を考えたとき、本人中心の支援システムへと変わっていくためにはどうすればいいか、それを考える起爆剤として、理論編の『枠組み外しの旅』と、実践編の『権利擁護が支援を変える』という二冊の本を書いたつもりです。もちろん、当事者団体も声をあげていますが、支援者だって自らの枠組みを外して、変わっていかないといけない。せっかく支援に携わるなら、専門家主導の支配的関係を超えて、当事者と支援者が一緒に支援の物語を構築し、社会を変えていこうよというメッセージを伝えたかったんです。

清水さんや駒崎さんなどの実践者がやっていることにはとても及びませんが、ぼくは研究者という立ち位置から、本というメディアを通じて、社会を変える方法論を少しでも整理して伝えられないか、を模索しています。支援はイノベーティブで、もっと価値あるもので、物語を一緒に紡いでいく面白さがある。絶望的な苦悩に追い込まれた人も、再び自分の人生を取り戻すことができる。そのことを現場実践に取り組む支援者にも、そして一般の方に伝えたいと思います。

*追記:序章の一部と目次はぼくのブログ(http://www.surume.org/2013/11/post-613.html)にもアップしております。

プロフィール

竹端寛障害者福祉政策 / 福祉社会学

兵庫県立大学環境人間学部准教授。専門は福祉社会学、社会福祉学。大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科講師・准教授・教授を経て、2018年より現職。元内閣府障がい者制度改革推進会議総合福祉部会構成員。著書に『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』(青灯社、2012年)、『権利擁護が支援を変える-セルフアドボカシーから虐待防止まで』(現代書館、2013年)、『「当たり前」をひっくり返すーバザーリア・ニィリエ・フレイレが奏でた「革命」』(現代書館、2018年)など。

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