2011.01.18

世論は存在しない? ―― 「世論調査ポリティクス」の功罪 

吉田徹 ヨーロッパ比較政治

政治 #オピニオン・リーダー#世論調査ポリティクス

世論調査の数字でもって、政権の行方が左右されるようになってから久しい。頻繁に行われるようになった世論調査で内閣支持率が30%を切ると、もはや「危険水域」であるとされ、政治家もマスコミも浮き足立ち、次の首相候補や解散総選挙に関する見通しばかりが喧伝されるようになる。政治の大部分を決めているのは、もはや政治家の言説や政策でもなく、この「世論」、そしてこれを足場にする「世論調査ポリティクス」だとしても過言ではないだろう。

良し悪しは別として、これには致し方ない部分がある。いわゆる「無党派層」が増加したことで、利益団体や党派によらない「民意」が多数になり、他方で「オピニオン・リーダー」や「論壇」といったカテゴリーも、そして政策や人事を裏で決めていた「派閥」も消滅しつつある。為政者も有権者も、またメディアも、一見中立的にみえる「世論(パブリック・オピニオン)」以外に、依拠できる基準をもたなくなってしまったのだ。

もっとも、有権者も、政治家も、学者も、マスコミが普段何気なく使う「世論」という言葉だが、じつは「世論」が何であって、何でないかを考えると、必ずしも明確なものではない。日本でも「世論調査ポリティクス」が定着するようになって、世論調査そのものについての関心は高まったが、それでもまだ調査の手法といった技術的問題か、世論調査の是非についての意見表明に留まっているのが現状のように思われる。以下では、もう一歩進んで、「世論」、そして「世論調査」が何であるかについて、根源的な問いを提起してみたい。

「世論調査」の起源

各国で世論調査が本格的に実施されたようになったのは20世紀初頭、そもそもは長期化する第1次世界大戦に際して、国民感情を計測し、政策に反映させるのが目的だったといわれる(歴史家がそれ以前の世論分析をする場合は、当局の内部文書等で確認するのが常だった)。

いまにみるような、民間の世論調査会社が設立されるようになったのは1930年代のことだ(世論調査会社として有名な米ギャラップ社は1935年に設立されている)。こうした調査会社の名目は、民主主義の強化に貢献し、市民を政治家のデマゴギーから守ることにあった。いうなれば、世論調査は当初、政治が国民を誘導するために開始されたのだが、それから1世紀が経って、今度は国民が政治を監視する道具として使われるようになったのである。

ちなみに、アメリカはもちろんのこと、イギリスやフランスでは、民間調査会社独自で、あるいはこれが報道機関からの依頼で調査を行うのが一般的で、日本のように報道機関のみが世論調査事業を独占しているのは先進国では例外的だ。

「世論調査」の3つの前提

「世論は存在しない」――この言葉は、社会学者のピエール・ブルデューによるものだ。この有名な言葉は、世論についての分析する際の社会学での重要なレファレンスとなっているが、その内容は必ずしも知られていない。この挑発的な言葉でもって彼が告発しようとしたのは、世論調査によって、回答者の「無意見」が「有意見」に変換させられる暴力的な構造であり、そこから派生する不可避的な不正確さであった。やや入り組んでいるが、以下に解題してみよう。

ブルデューは、世論調査の設問項目やワーディングが恣意的だったり、質問の仕方によって回答が異なるといった一般的問題をも指摘しているが、それ以上に問題視したのは、世論調査が「意見の集積が特定の問題に対して意味をもつこと」、「対象者の全員が意見(オピニオン)をもっていること」、「あらゆる意見が有意であること」の3つを前提にしていることである。しかし、これらの前提条件がなければ、そもそも世論調査の存在意義がないという所がミソである。

調査結果は何のため?

さて、ここから出てくる問題は、以下の3つだ。

ひとつは、世論調査それ自体が尊重されるのではなく、目的的に利用されることである。たとえば、世論調査の結果のみで政策が決められるのでないとすれば、世論が賛成している・反対しているという主張は、権力を行使する側、される側の、それぞれ立場を裏づけるための論拠としてしか作用しない。ブルデューの言葉を借りれば、「(世論調査という)科学的な主張は、改宗者に説教するローマ法王の勅書のようなもの」であって、それを信じている者の主張を裏づけるためだけに用いられるというわけだ。

つぎに、世論調査で問われる設問項目によって、回答者の意見が伸縮することである。たとえば、「○○内閣を支持しますか?支持しませんか?」という単純な質問はともかく、さらに知識が必要とされる質問(「○○党は○○党と連立すべきだと思いますか?」)、あるいは個人の倫理感に係る質問(「死刑制度に賛成ですか?反対ですか?」)などは、個人の回答能力に差が生じるから、「正確」な世論は抽出できない。

そもそも、質問で問われている内容が、回答者にどのような意味をもつのかによって、どの回答を選ぶのかが異なってくることが予想される(たとえば自民党員と共産党員では質問の受け止め方が違ったり、世論調査を受けることの意味合いも異なるかもしれない)。また、設問によっては、回答者が意見をもち合わせていないのにも拘らず、「意見」を引き出してしまう可能性もある。ということは、世論調査は実際の人々の意見を反映しているのではなく、むしろ人々に世論を恣意的につくらせる作用をもっていることになる。

これらの可能性を排除できない時点で、先にあげた世論調査が拠って立つ3つの前提条件は、崩れてしまっているのである。

余談だが、筆者自身、学生時代に大手新聞社の世論調査のアルバイトをした経験がある。偏差が出ないように抽出された戸別訪問による世論調査だったが(費用と手間がかかるので最近ではあまり実施されないらしい)、それでも数十に渡る設問の種類によって、回答者の回答時間は異なったし(長ければ思考をし、自ら回答を決めるというプロセスを経たと仮定できる)、訪問する時間帯(時間のある昼なのか忙しい夕方なのか)によっても、回答にかける時間に随分と幅があったことを記憶している。

「暴力」としての世論調査

世論調査がもつさらなる問題は、調査の回答がまったくの社会的影響や関係性と無関係になされていると、しばしば受け止められていることだ。しかし、実際には、調査の回答者はそれまでに自分が見聞きした社会の雰囲気や他人の言動を忖度し、自らの回答がどう受け止められるかを計算した上で、調査に回答する可能性がある。こうして世論調査の結果は、「予言の自己実現」(皆が信じることで実際に出来事が生じる)の場合と同じく、多くの人が信じていると考えられているものへと収斂していくことになる。

個人の意見は真空のなかで形成されるのではなく、さまざまな社会関係(ブルデューの言葉でいえば「場」)のなかで形成される。そして、個人が選択した回答が、どのような背景や力学によって選ばれたのかを明らかにできないのであれば、それは個々人の選好を明らかにしたことにはならない。

ブルデューの分析は、階層なり党派なりによって、社会が比較的構造化されていることを前提としたものだったが、「世間」からの圧力が内面化されやすいとされる日本では、この最後の指摘はかなり有効と思われる。しばしば「世論調査は民意の写真」と表現されることがあるが、それは半ば暴力的なかたちで(この言葉が強すぎるのであれば、不自然な形で)「世論」は、人為的に生産され、可視化されているのである。

民主政治にとって有用なのか?

もちろん、ブルデューが指摘するように、この議論は世論調査そのものを否定するものではなく、世論がいかに作為的なかたちで形成されていくものであるかに注意をうながしているにすぎない。世論調査でもってみえる現実もあるが、他方で世論調査が中立的な数字であるかのようにとらえる単純さを、彼は批判しているのである。数年に一度しかない選挙だけで「民意」を計るのが間違っているのと同じように、一ヶ月に数回行われる世論調査だけで「世論」を計るのも間違いなのである。

もっとも、政治家も有権者も、もちろんマスコミも、世論調査のもつこうした「当たり前」の特徴を忘れて、それぞれに都合良く結果の数字を解釈するようになる(先にあげた第1の問題)。いわゆる「世論調査の数字が1人で歩きだす」状況である。

しかし問題はそのことよりも、それぞれが勝手な解釈を施すことによって、政治家は民意を間違って読み、有権者は政治家に間違ったメッセージを送る「ミス・コミュニケーション」が生じ、双方の便益が低下してしまうかもしれないことにある。

たとえば、子供手当てや高速無料化のように、調査で肯定的な回答が出たからといって、そのまま政策に移せば世論が納得するとはかぎらない。世論は、こうした新規な政策に賛成すること自体に、メッセージを込めているかもしれないからだ。そして「民意」の「真意」は、世論調査では明らかにはならない。

また、たとえば内閣支持率が低いからといって、有権者は必ずしも首相の交代を求めているともかぎらない。支持しないことで、たんにその行動のあり方の変更を求めているだけかもしれないからだ。

こうした、メッセージの送り手と受け手側のあいだでボタンの掛け違いが続けば、相互不信は増していくことになる。世論調査の結果を「生」のままに解釈することで生じる誤謬であり、世論調査が必ずしも民主政治にとってプラスとはならない理由のひとつである。

比喩的にいえば、「民意」と「世論」は太陽と鏡の関係に似ているかもしれない。太陽は裸眼でみることはできないから、鏡に反射させて存在を確認するしかない。しかし鏡に反射される太陽は、実際の太陽の姿ではないのである(比喩をつづければ、鏡に反射させた光線の方が強力な熱線となる)。

「世論調査」に対するリテラシー

冒頭でいったように、民主政治が、統治する側とされる側とのあいだに介在する、さまざまな媒介手段や集団を排するかたちで民主的圧力を強める方向に進めば、政治はますます「インスタント」で「直接的」な結果を求める方向へと向かうことになる。いまの民主政治は、少なくとも内在的には、この傾向を押し留めるロジックをすでにもち合わせていない。為政者は「民意」の代表者であるがゆえ、「世論」というかたちで不完全に表明されるわれわれの意識や感情に追従するしかないのである。

民主政治にまつわる多くの事柄と同じく、簡単な解決策はない。世論そのものを無視しては統治できない。かといって世論にとらわれていても統治はできない。求められるのは、為政者も有権者も、そしてメディアも、かくして圧倒的になりつつある「世論調査ポリティクス」に対する適切なリテラシーをもつことである。そうすれば、「世論」は民主政治のなかでの適切な地位を、改めて見出すことになるだろう。

推薦図書

「世論は存在しない」というエポックメイキングな言葉を経て、それまで「実証的」であることを命にしてきた社会科学はさまざまな方向性(批判理論や社会構成主義)へと分化し、発展を遂げてきた。これらが目的にしているのは、この世の中を分析する視座を内在的に再編することである。「世論は存在しない」の翻訳は、ブルデュー著『社会学の社会学』に所収されているが(「世論なんてない」)、こちらはQ&Aの形をとった、より平易なブルデュー社会学への入門書。「リフレクシヴ=反省的に考える」ことが、「世論調査ポリティックス」に埋没しないための第一歩である。

プロフィール

吉田徹ヨーロッパ比較政治

東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。

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