世論は存在しない? ―― 「世論調査ポリティクス」の功罪 

世論調査の数字でもって、政権の行方が左右されるようになってから久しい。頻繁に行われるようになった世論調査で内閣支持率が30%を切ると、もはや「危険水域」であるとされ、政治家もマスコミも浮き足立ち、次の首相候補や解散総選挙に関する見通しばかりが喧伝されるようになる。政治の大部分を決めているのは、もはや政治家の言説や政策でもなく、この「世論」、そしてこれを足場にする「世論調査ポリティクス」だとしても過言ではないだろう。

 

良し悪しは別として、これには致し方ない部分がある。いわゆる「無党派層」が増加したことで、利益団体や党派によらない「民意」が多数になり、他方で「オピニオン・リーダー」や「論壇」といったカテゴリーも、そして政策や人事を裏で決めていた「派閥」も消滅しつつある。為政者も有権者も、またメディアも、一見中立的にみえる「世論(パブリック・オピニオン)」以外に、依拠できる基準をもたなくなってしまったのだ。

 

もっとも、有権者も、政治家も、学者も、マスコミが普段何気なく使う「世論」という言葉だが、じつは「世論」が何であって、何でないかを考えると、必ずしも明確なものではない。日本でも「世論調査ポリティクス」が定着するようになって、世論調査そのものについての関心は高まったが、それでもまだ調査の手法といった技術的問題か、世論調査の是非についての意見表明に留まっているのが現状のように思われる。以下では、もう一歩進んで、「世論」、そして「世論調査」が何であるかについて、根源的な問いを提起してみたい。

 

 

「世論調査」の起源

 

各国で世論調査が本格的に実施されたようになったのは20世紀初頭、そもそもは長期化する第1次世界大戦に際して、国民感情を計測し、政策に反映させるのが目的だったといわれる(歴史家がそれ以前の世論分析をする場合は、当局の内部文書等で確認するのが常だった)。

 

いまにみるような、民間の世論調査会社が設立されるようになったのは1930年代のことだ(世論調査会社として有名な米ギャラップ社は1935年に設立されている)。こうした調査会社の名目は、民主主義の強化に貢献し、市民を政治家のデマゴギーから守ることにあった。いうなれば、世論調査は当初、政治が国民を誘導するために開始されたのだが、それから1世紀が経って、今度は国民が政治を監視する道具として使われるようになったのである。

 

ちなみに、アメリカはもちろんのこと、イギリスやフランスでは、民間調査会社独自で、あるいはこれが報道機関からの依頼で調査を行うのが一般的で、日本のように報道機関のみが世論調査事業を独占しているのは先進国では例外的だ。

 

 

「世論調査」の3つの前提

 

「世論は存在しない」――この言葉は、社会学者のピエール・ブルデューによるものだ。この有名な言葉は、世論についての分析する際の社会学での重要なレファレンスとなっているが、その内容は必ずしも知られていない。この挑発的な言葉でもって彼が告発しようとしたのは、世論調査によって、回答者の「無意見」が「有意見」に変換させられる暴力的な構造であり、そこから派生する不可避的な不正確さであった。やや入り組んでいるが、以下に解題してみよう。

 

ブルデューは、世論調査の設問項目やワーディングが恣意的だったり、質問の仕方によって回答が異なるといった一般的問題をも指摘しているが、それ以上に問題視したのは、世論調査が「意見の集積が特定の問題に対して意味をもつこと」、「対象者の全員が意見(オピニオン)をもっていること」、「あらゆる意見が有意であること」の3つを前提にしていることである。しかし、これらの前提条件がなければ、そもそも世論調査の存在意義がないという所がミソである。

 

 

調査結果は何のため?

 

さて、ここから出てくる問題は、以下の3つだ。

 

ひとつは、世論調査それ自体が尊重されるのではなく、目的的に利用されることである。たとえば、世論調査の結果のみで政策が決められるのでないとすれば、世論が賛成している・反対しているという主張は、権力を行使する側、される側の、それぞれ立場を裏づけるための論拠としてしか作用しない。ブルデューの言葉を借りれば、「(世論調査という)科学的な主張は、改宗者に説教するローマ法王の勅書のようなもの」であって、それを信じている者の主張を裏づけるためだけに用いられるというわけだ。

 

つぎに、世論調査で問われる設問項目によって、回答者の意見が伸縮することである。たとえば、「○○内閣を支持しますか?支持しませんか?」という単純な質問はともかく、さらに知識が必要とされる質問(「○○党は○○党と連立すべきだと思いますか?」)、あるいは個人の倫理感に係る質問(「死刑制度に賛成ですか?反対ですか?」)などは、個人の回答能力に差が生じるから、「正確」な世論は抽出できない。

 

そもそも、質問で問われている内容が、回答者にどのような意味をもつのかによって、どの回答を選ぶのかが異なってくることが予想される(たとえば自民党員と共産党員では質問の受け止め方が違ったり、世論調査を受けることの意味合いも異なるかもしれない)。また、設問によっては、回答者が意見をもち合わせていないのにも拘らず、「意見」を引き出してしまう可能性もある。ということは、世論調査は実際の人々の意見を反映しているのではなく、むしろ人々に世論を恣意的につくらせる作用をもっていることになる。

 

これらの可能性を排除できない時点で、先にあげた世論調査が拠って立つ3つの前提条件は、崩れてしまっているのである。

 

余談だが、筆者自身、学生時代に大手新聞社の世論調査のアルバイトをした経験がある。偏差が出ないように抽出された戸別訪問による世論調査だったが(費用と手間がかかるので最近ではあまり実施されないらしい)、それでも数十に渡る設問の種類によって、回答者の回答時間は異なったし(長ければ思考をし、自ら回答を決めるというプロセスを経たと仮定できる)、訪問する時間帯(時間のある昼なのか忙しい夕方なのか)によっても、回答にかける時間に随分と幅があったことを記憶している。

 

 

 

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