2016.03.07

外交政策はいつどうして変わるのか?

『苦渋の選択』著者デイヴィッド・A・ウェルチ氏インタビュー

政治 #苦渋の選択

国家の外交や対外政策はいつ、どのようにして変化するのか。そうした問いの視角からは、いまの東アジア情勢はどうみえるのか――安全保障問題の世界的な権威であり、現在北海道大学法学研究科に招聘されているウェルチ氏に、日本政治を専門とする佐々田博教氏がインタビューした。(構成 / 吉田徹)

佐々田 『苦渋の選択』はこれまで国際政治学のように、国家が「どう動くか」ではなく、国家の「対外政策の変化」、あるいはそのパターンに焦点を当てています。

ウェルチ 国際政治学でも、国家が「どう動くか」についてのきちんとした一般理論はありません。あるのはいかに国家が「動かない」かについての理論だけです。有名な「デモクラティック・ピース」(民主国家同士は戦争しないという説)にしても、国家が「動かない」ことを前提にしています。しかも国が戦争をしない理由を説明するものですから、国際紛争がいつ、どのようにして起きるのかは説明できません。

国家の行動は、国際、国内、組織、指導者がどうあるのか、時々の状況に応じて変わるため、理論的な一般化には向きません。ただし、国の対外政策が大きく変化するのは稀なことで、大体は同じ方向に進んでいきます。だからこそ、どういう時に国の対外政策が大きく変わることになるのかを問うことが大事になってきます。それというのも、国際紛争は対外政策が変化する時にこそ生じやすいからです。

リスクの回避からリスク受容への変化なぜ生じるか

 

佐々田 この本は合理的選択論やリアリズムと距離をとって、組織理論や認知心理学、プロスペクト理論といったあまり聞きなれない概念を使って、対外政策の変化を説明しようとしていますね。

ウェルチ 国家はとても大きくて複雑で、それゆえ慣性にしたがって動きます。だから、なぜ変化が起きないのかを説明する組織理論は、対外政策がなぜ慣性にしたがって動くかを説明するだけでなく、どのような条件なら変化が生じるのかの説明に役立ちます。対外政策が結果として合理的であっても、その背後には人々の感情やストレスがあります。一般的に、人は変化を嫌うものです。それでも、それまでと大きく異なる選択をせざるを得ないのはなぜなのか、それを説明するには認知心理学などの「ポスト合理的選択論」の領域が必要になってきます。

プロスペクト理論も、人が大きな損失を被ると予感した時、それを回避するためにあえてリスク取るのだ、とする行動経済学の理論です。国家がそれまでの政策を劇的に変えて、リスクをとるようになる、そのような時にこそ、国家の外交は変化します。

佐々田 そのように考えたとして、国際政治、あるいは一般的に外交に携わる政策決定者が参考にすべき点があるとすれば何でしょうか。

ウェルチ ひとついえるのは、国家が場当たり的に政策を変える場合、リスキーな選択はしないので、心配には値しないということです。たしかに場当たり的に対応してリスクを取ろうとする指導者がいないわけではありません。イラク大統領だったサダム・フセインはその典型かもしれない。でも一般的には、損失を回避しようとしてそれまでの方針を大きく変える「苦渋の選択」こそが大きな悲劇をもたらします。

それゆえ、誰がなぜ、どのような損失に苦しんでいるのか、ということにこそ注意を払う必要があります。これは危機管理にとって大事な視点です。政策決定者が自分たちの損益の分岐とみなす「参照点」がどこにあるのか、彼らが「これ以上の不正義や損失は受け入れられない」と仮定する状況とはどのようなものかをきちんと把握しなければなりません。彼らがそう宣言する時、その言葉は真面目に受け取った方がよい。

したがって、国家間交渉でも、交渉術でいうところの「相手が譲れない線」がどこにあり、「交渉可能な範囲」がどこにあるのか見定めることが死活問題になってきます。交渉術に通じている人々ならば、この本から学ぶことは余りないかもしれない。でも、外交安保のインテリジェンス・コミュニティはまだこうした理論に馴染みがありません。

佐々田 ここでいう政策決定者が受入れ可能なものが決まる「参照点」というのは、どのように形成されるものなのでしょうか。

ウェルチ いい質問です。というのも、参照点がどう形成されるかについてはまだ十分な説明がないからです。一般的には、その人が暮らしてきた文化的なもの、その人の個人的な信念などが形成に寄与します。ロシアのニコライ1世がクリミア戦争に火蓋を切ったのは、彼の信念や条約の解釈を間違えた結果でした。参照点は理論から演繹されるものではありません。

佐々田 この本ではベトナム戦争などのケースから、ジョンソン大統領やマクナマラ国防長官といった政策決定者が損失の程度を見誤ったために、非合理でリスク受容的な決定を下していったことが説明されています。政策決定はなぜこのような間違いを犯すのでしょうか。

ウェルチ 自国の損失の程度を過大に見積もってしまうためです。たとえば1941年に日本が太平洋戦争に突入してリスクをとったのも、アメリカの経済封鎖によって日本は立ち行かなくなるからとの判断があったからです。でもいまでは、そうした認識は誤りだったと、多くの歴史家の手によって明らかになっています。

最近では、韓国がアメリカのミサイル防衛システム(MD)に参加したことが、中国の安全保障を損なうものだとする中国当局の見方も、脅威を過剰に見積もった事例でしょう。その逆に、南シナ海への中国の海洋進出の脅威は、各国政府やメディアで強調され過ぎている脅威です。中国が南シナ海での領有権を主張しているのはいまになってからのことではありません。

しかも、中国は領有権が認められなければ武力行使するぞと脅かしをかけているわけでもない。国家の意図や動機が明確でなく、それが攻撃的なものだと仮定されてしまった場合、相手が為すこと言うこと、すべてが脅威に感じられます。他方で、南シナ海問題も中国の自信の表れではなく、不安の表れだと解釈すれば、その行動はまったく違ってみえてきます。しかし、対外政策が劇的に変われば、その影響は広範囲に及ぶことになります。

「何を信じているか」こそが重要

佐々田 中国の話が出たので、いまのアジアの安全保障環境について伺いましょう。たとえば本の中で展開されている理論と照らし合わせて、東アジアの領土・領海問題について関係国の政策変更はあり得ると考えられるでしょうか。

ウェルチ 関係国の何れもが、いかに損失を回避するかの枠組みでもって問題を認識している点が重要です。

尖閣諸島問題をみてみましょう。尖閣諸島は日本の施政下にあり、領土問題は存在しないというのが日本政府の公式的見解です。尖閣諸島だけをとってみれば、日本は損失回避枠組みでしか判断していません。ただし中国の台頭によって、国際政治のルール形成が変化したり、台湾が併合されたりすることがあれば、それが地域秩序変動の引き金となり、もはや日本にとって受け入れがたい損失として認識されます。

それゆえ、安倍政権の安保法制関連法案の整備や、検討されるかもしれない憲法第九条の改正などは、こうした望ましくない変化に対する保障ということになります。これらは劇的な政策変更というより、環境変化に伴う調整とでもいうべきしょう。

中国側の事情は違います。中国が尖閣諸島の領有権をかつて主張したことはありませんでしたが、それが変わったのは1970年代後半のことです。それまで中国の指導者や国民は尖閣諸島が自国領土だと考えたことすらなかった。ただ日本政府が1985年に、尖閣諸島で領有権の問題は存在しないとの見解を出してから、損失回避の枠組みに突入しました。この年の前と後との違いが参照点となったのです。もっとも、尖閣諸島をめぐる損失が中国の政策を劇的に変化させるほどの「苦渋の選択」を導くかといえば、そうはいえないでしょう。

理解すべきは、関係国が「何が正しいか」としていることではなく、「何を信じているか」です。中国が尖閣諸島の領有権を有するとする記録は存在しなかった。日本も1985年までは、領有権を主張していたわけでもなかった。それでも政治的決定における事実とは、問題がどう認識されるかにかかっています。法廷の場で事実を明らかにするのとは話が違います。つまり、中国にとって尖閣諸島は象徴的な意味において重要なのです。領土問題はアメリカとカナダの間にも存在しますが、深刻なものとはならない。日中間に歴史認識の問題があるからこそ、領土問題も先鋭化するのです。

北朝鮮問題には外交的な手法で対処を

 

佐々田 将来、アジアで対立が深刻なものとなるなら、どこになるでしょう。

ウェルチ 間違なく朝鮮半島でしょう。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の政治体制は核開発とミサイル開発の方針を撤回しません。それが国内経済に大きな負荷となっています。結果として、もし体制が崩壊すれば、地域秩序が一気に流動化します。こうした状況下で指導者は解決策を外に求める傾向がある。

あるいは、金正恩第一書記は彼の祖父が成し遂げられなかったこと、つまり半島の武力統一に傾くかもしれない。いずれの場合も、「国家は損失をいかに回避するか」という認識から行動するというわたしの理論とは適合しませんが、金正恩はそもそも失うものがない。ヒトラーのような誇大妄想者だとすれば、場当たり的な利得優先の行動に出かねないということになります。

問題は、いまのところ、どの関係国も北朝鮮問題を統御することに成功していないばかりか、連携も不十分なところにあります。手をこまねいているだけでは不十分だと考える国が出てくることも考えられないわけではない。こうした観点からいえば、北朝鮮制裁に際しての2月末の米中合意は大きな進展でした。もし制裁案に中国が追随するのだとすれば、それは中国の劇的な対外政策の変化のひとつに数えることができるでしょう。

佐々田 ただ、中国が制裁に乗り出すとすれば、逆にそれは北朝鮮を追いつめることになり、北朝鮮が損失回避戦略を取りづらくなるのではないでしょうか。もし金正恩第一書記がヒトラーのような一方的な利得追求者だとしたら、なおさらです。

ウェルチ そうだとすれば状況の静観は逆効果で、一刻も早い行動が必要です。ヨーロッパ各国がナチスドイツに対して1930年代前半の段階できちんと対応していれば、第二次世界大戦があそこまで拡大することはなかったのと同じです。

佐々田 もし国際社会が北朝鮮問題に対処するとすれば、どのような手段があるでしょうか。制裁でしょうか、軍事力の行使でしょうか。

ウェルチ いわば「静かな接近」を試みるべきでしょう。たとえば、半年間のモラトリアムを与えて、その間に核開発放棄の保証がなければ、関係各国が現体制以外の当事者を交渉相手として認めるという方法が考えられます。北朝鮮は体面を重んじる体制ですから、大きなプレッシャーとなるでしょう。様々な資源へのアクセスにも制約がかかって、金体制の正統性も危機に晒されることになります。これは制裁でも軍事力でもなく、純粋な外交的解決です。外交とは力ずくではなく、相手の行動を変化させる問題解決の手法をいいます。

佐々田 ただ、これは北朝鮮が合理的な行動をするという前提に基づいています。

ウェルチ その反対にヒトラーのような人物なのだとしたら、いずれにしても戦争になるでしょうね。リーダーの性格を見極めることも必要です。

長期的にみて、もうひとつの懸念は台湾をめぐる問題です。台湾の人々は中国から政治的にはますます距離を取りたがっているし、中国はその距離を埋めようとするでしょう。そうした状況は軍事力行使の可能性を高めます。中国が台湾に利益を見出さなくなる前に堪忍の緒が切れるか、堪忍の緒が切れる前に利益を失うか。いずれにしても双方が損失を回避しようとする枠組みで行動するゆえに、大きな変動を生む可能性があります。

 

 

誰が大統領になっても日米関係は変わらない

佐々田 11月に大統領選があるアメリカの外交に焦点を当てましょう。日本にはアメリカがアジアに留まり続けるという意見と、反対にアジアから徐々に退いていくのではないかという意見とに分かれています。

アメリカでも地政学を専門にするイアン・ブレマー、あるいは国際政治ジャーナリストのファリード・ザッカリアなど、アメリカはかつてのような世界の警察官の役割は果たすべきではない、果たせないとする論者もいれば、ジョセフ・S・ナイのように、依然として国際公共財を提供し続けるのだとする立場もあります。アメリカ外交は、果たして変化するでしょうか。

ウェルチ 誰が大統領になるかで、その見通しも変わるでしょう。ただ、日米関係に関して言えば、アメリカの国際政治観の中に日本は固定的なかたちで埋め込まれています。だから日米間系は大きく変わることもなければ、誰も変えたいとも思っていません。変化は違う側面で表れるはずです。

たとえばヒラリー・クリントンが大統領になれば、オバマ政権以上にアジアにコミットするでしょうが、中国と北朝鮮に対してはより強硬な態度に出るのではないでしょうか。その上で、前任者よりは、少しだけ武力行使に前向きになるはずです。共和党候補のドナルド・トランプやテッド・クルーズが大統領になれば、武力行使にはさらに積極的になるでしょうから、懸念すべきことです。

佐々田 ルビオ候補は他の候補者より外交政策に精通していると自負していますが。

ウェルチ そうみえるべく努力しているようにはみえますがね。民主党候補のサンダースが大統領になれば、国内問題に傾注するでしょうが、1929年に大統領になったフーバー以来、国内問題だけに専念できた大統領は1人としていません。サンダースはまだ外交政策のビジョンがないので何ともいえませんが、いずれにしても日米関係に変化はないでしょう。アジアから遠ざかるのは選択肢ですらありません。中東の地域戦争に巻き込まれるということはあるかもしれませんが。

佐々田 他の地域ではどうでしょうか。ウクライナやシリア問題もあります。

ウェルチ 明らかなのは、アメリカは1950年代のように他の国がどう振る舞うべきか、もはや指図できる立場にないということです。それはアメリカにとっても、その他の国にとっても健全なことです。

1980年代、私が安全保障問題を討議するために訪日した時、いかにアメリカ人が傲慢かに驚きました。いまでは、少なくとも耳を傾けて対話しようとしている。アメリカがこれまでも、これからも世界随一の軍事大国である事実は揺るぎません。しかし軍事力で解決できる問題はますます少なくなっているゆえ、アメリカは他国と協調していく以外の道はありません。だから、協調に至る道は、いずれであっても歓迎されるべきことです。

プロフィール

デイヴィッド・A・ウェルチ国際政治学

1960年生まれ。1983年トロント大学トリニティ・カレッジ卒業、1990年ハーヴァード大学でPh.Dを取得、現在ウォータールー大学教授、北海道大学法学研究科・公共政策大学院教授。ジョセフ・S・ナイとともに世界中で使用されている国際政治学の定番テキスト『国際紛争』(田中明彦・村田晃嗣訳、有斐閣)を共同執筆した。「日本の未来プロジェクト(JFI)」(https://uwaterloo.ca/japan-futures-initiative/)運営メンバー。

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佐々田博教政治学

1974年熊本生まれ。ワシントン大学大学院政治学研究科博士課程修了。博士(政治学)。現在北海道大学国際本部准教授。著書に『制度発展と政策アイディア』(木鐸社 2011年)、The Evolution of the Japanese Developmental State: Institutions Locked-in by Ideas(Routledge 2012年)がある。

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