民主主義は問題解決にならないか

「民主主義はもはや問題解決のためのシステムではない気分が蔓延している」―― これは、各国要人やデシジョン・メイカーが出席する「ミュンヘン安全保障会議(MSC)」での、イタリア首相マリオ・モンティの言葉だ。いうまでもなく、昨今の欧州経済金融危機についての発言だが、この「気分」は欧州だけでなく、日本を含む他の先進国をも覆っているようにみえる。

 

モンティの問題意識は簡単だ。すでに市場から否認された各国政府の中で、危機を収拾できない国では、イタリアを含め「専門家内閣」が要請され、ギリシャでは箸の上げ下げまでIMF、ECB、欧州委員会の「専門家」によるチェックを受けるようになっている。いわば、それまでの「民主主義」による統治が失敗した証拠だというわけである。同様の認識は、ギリシャ救済に対するドイツ国民の消極的態度を指して、たとえば真鍋昭夫氏が示している(「今の民主主義では経済危機を止められない?ユーロ不安は金融市場によるポピュリズムへの警鐘か」ダイヤモンド・オンライン)。

 

反対に、たとえば中国やロシア、観方によってはブラジルといった権威主義的な政治体制は、「新興国」として順調な経済を経験している。つまり、民主主義は経済危機を招き寄せ、経済危機は民主主義の信頼性を失わせているのではないか、という疑念が高まっているといっても過言ではないだろう。日本の今の政治が、民意の複数かつ場当たり的な表出(小泉改革への支持、新自由主義への嫌悪、政権交代への期待と衆参のねじれ)によって袋小路に追い込まれ、有意な政策を打てなくなっているという認識とも近いものがある。それゆえ、民主主義を保証する統治機構・制度の改革が支持されていると解することができる。

 

こうした「問題としての民主主義」論が拠って立つ根拠は、民主主義が各ステークホルダー間の合意と説得を前提とするから、ルーティンを外れる何らかの危機に際して、時間と実効性の面において民主主義的な決定は劣っているという点にある。さらに、少なくともマジョリティーが好ましいと考える最適解は、政策上の最適解とイコールではない、という前提が置かれている。次元は異なれども、これに対してシュミットのいうような「例外状況」における「委任独裁」の方が、効率的で実効性のある政策を採用することができるのではないか、という推論が出て来るのも当然である。

 

これまで民主主義的な決定プロセスが持つ様々な問題については、多くの議論が交わされてきた。アローの不可能性定理やコンドルセのパラドクス、A.センのリベラル・パラドクスなどはその代表的なものだ。しかし、これらは、民主主義的な意思決定のプロセスが、結果として全員の厚生を満たすことができないということを主に指摘するもので、民主主義的な意思決定プロセスそのものを疑問に付すものではなかった(だからパラドクス=逆説と呼称される)。現在の民主主義的意思決定プロセスへの疑問が問うているのはプロセスそのものに対してだから、事は深刻なのである。

 

いうまでもなく、民主主義(デモクラシー)といった場合、そこには「統治制度」のニュアンス(意思決定のシステムと言い換えてもよい)と「理念」のニュアンス(討議/熟議の重視と言い換えてもよい)の2つが込められている。冷戦時代を含めて「理念」としての民主主義を批判する潮流は絶えなかったが、少なくとも先進国では「理念」としての民主主義は支持される傾向にある(世界価値観調査[World Values Survey]による)。その反対に「統治制度」としての民主主義については不信感が増加する傾向にある。そのギャップにこそ、現代の民主政治の課題がある(Colin Hay, Why We Hate Politics, Polity, 2008)。民主主義についての政治理論は数多存在するが、ここでは主に民主主義が持つ機能的な特性に注目して、そのバランスシートを作成してみよう。

 

 

「民主主義の失敗」に対する三つの処方箋

 

さて、「市場の失敗」ならぬ「民主主義の失敗」があるとして、これを是正するには三つの処方箋が考えられる。

 

ひとつは、「専門家」による決定権を確立することである。民主主義的な意思決定プロセスが時間も手間もかかるのであれば、政策的な中立性(ここでの中立性は、政策の出力効果を最重要視して逆算して導き出された意味での中立性である)を前提として、つまり党派性を棄却することで民主的プロセスを無視することの正当性を担保することで、「スピード感」と「価値中立的な」意思決定を下していこうとする考えだ。

 

「政治」そのものを縮小することで、公正な統治を行っていこうとする考えは、古くから存在する。プラトンの「哲人政治」はいうまでもなくこうした思考の系譜に属するし、異なる文脈ではあるがアメリカ建国の父たちも過度の党派性を警戒して統治に関わる恣意性を排除しようとした(「良い統治とは少ない統治のことである」とはジェファーソンの言葉である)。冒頭で引用したモンティ伊首相は、右派支持層に対しては増税、左派支持層に対しては労働市場の柔軟化を進め、双方の既得権益に切り込むことで、有権者からの信頼を勝ち得ることに成功している。ちなみに専門家自身が中立性を欠いていたり、能力に劣っているという可能性が排除できないことは、原子力事故の事例やその他をみても明らかだ。しかしそれは専門家自体の資質を問うことにはなっても、処方箋そのものの弱点ではない。

 

この方途に欠点があるとすれば、その存在理由は政策的効果を保証することにあるから、ひとたび共同体の構成員の厚生が損なわれることになれば、きわめて脆弱な立場に追いやられてしまうという点にある。政策形成のプロセスそのものではなく、結果に正当性を依存しているので、これは当然のことだ。さらに、意思決定者の選出プロセスも必ずしも確立されていないのだとすれば、仮にパフォーマンスが悪化しても、その責任を問うて、意思決定権を剥奪することも難しくなるかもしれない。

 

次は、政治によって市場そのものをオーヴァーライドすることだ。昨今の民主主義に対する疑念は、直接的には経済市場から国民国家単位の経済運営が否認されつつあることに由来している。経済成長が頭打ちになり、パイの再配分の公平感が失われてしまっているのであれば、共同体の構成員の厚生を維持・拡大できない民主制が支持を失うのは当然のことだ。人々は自分のために生きているのであって、民主主義のために生きているわけではないからだ。そうであれば、市場そのものを政治的権力によって囲い込み、民主政治と摩擦を起こさないようにしてしまえばよい。具体的には、国民国家経済の単位を強化し、貨幣を共同体の中だけで循環させることができれば、少なくとも経済運営そのものが外部から否認されることはない。この場合、グローバルな金融市場を規制するといった「政策論議」は直接には関係してこない。それは統治制度としての民主主義とは直接に関係しない話からである。

 

もちろん、この処方箋も危険に満ちたものだ。市場を人為的に管理しつつ経済成長を実現することの難しさは、社会主義経済がすでに示した通りであるし、その理論的説明もオーストリア学派によってすでに手がけられた。市場が政策の方向性を全面的に左右するのはたしかに危険でも、民主主義が抱える問題を解決するために市場そのものを排除してしまうのは、本末転倒といってもよい。

 

じつはこの2つの選択肢は、すでに日本でも部分的にトライされている。

 

最初の「専門家支配」の原型は、小泉政権時代の「経済財政諮問会議」だ。首相が議長を務め、内閣官房長官、経済閣僚、日銀総裁に加えて、財界と経済学者それぞれ2名を迎えたこの会議は、総体的に案件に精通している少数のサークルの決定をトップダウンで実行していくことを可能にした。野田政権が行財政改革に関する臨調設置を目指しているのも、党内・議会での党派性と熟議過程(すなわち民主主義的常態)で生じている袋小路を打破したいとの思いからだろう。

 

二番目の市場のオーヴァーライドは、混合経済という形で55年体制下で実践されてきた。単純な比較はできないが、90年代半ばから日本経済に占める公的部門のウェイトは対GDP比率の約4割に達している(ちなみに先進国のなかで高いシェアであるわけではない)。つまり、日本市場は、是非はともかく、政府部門の支出がなくしては機能しないというのが現実であり、国レベルであれ、自治体レベルであれ、このことは世界経済・金融市場からの余波を吸収するのに役立っているのはたしかなのである。TPPに対する忌避感はこのことを本能的に感じるところから来ているのかもしれない。

 

 

 

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