2011.05.09

Head of Stateの存在理由  

清水剛 経営学 / 法と経済学

政治 #元首#クーデター未遂事件

天皇皇后両陛下が5月6日、被災した岩手県を訪問された。その前には東京や埼玉の避難所、そして千葉県や茨城県、東北では宮城県の被災地を訪問され、また震災後には異例のビデオメッセージを発せられている。これらを報じる一連の報道を読みながら、Head of Stateというものについて改めて考えていた。

元首とはいったい何か?

Head of Stateは日本語では国家元首と訳される。別にこれで間違いではないのだが、国家元首という言葉はどうも国内的に主権者や統治者に近いニュアンスをもってしまう。しかし、少なくとも現代においては、国内的にどのような権限をもつかに関わりなく、対外的に国家を代表する個人(まれに団体)がHead of Stateと呼ばれる。以下、元首という言葉はこのような意味でのHead of Stateを(とりあえず)意味するものとして使用する。

上で述べたことから分かるとおり、現代においても元首の存在は外交的な意義をもつ。たとえば、外国に派遣される大使は政府の代理人というよりも元首の代理人とみなされ、その任命は派遣国の元首から受入国の元首に当てられた文書(信任状)により通告される。

しかし、国内的にはその権限はさまざまであり、儀礼的な権限以上のものはもたないことも多い。大統領制の国家であれば通常大統領、立憲君主制の国家であれば君主(国王など)、社会主義国であれば国家主席などが元首とされるが、たとえば米国の大統領やサウジアラビアの国王が強い権限をもつのに対し、ドイツの連邦大統領やスウェーデンの国王は比較的弱い権限しかもたない。

日本は、憲法上元首に関する規定を有さないが、天皇陛下が対外的に日本を代表する権限の一部をもっており、上記のような意味での元首とみなすことができる。ただし、よく知られているようにその権限は国事行為にかぎられており、国政に関する権限をもたない。

そうであるならば、元首というのはそもそもなぜ、いまに至るまで存在しているのだろうか? 現代でも通常、国家は何らかのかたちでの元首をもっているが、文字通りの君主制国家がまだ相当多かった19世紀ならいざ知らず、現代においては多くの元首が儀礼的な役割しか果たさないというのであれば、なぜ多くの国がそのような存在を維持しているのか分からなくなる。そもそも、元首とはいったい何なのだろうか?

王の二つの身体

歴史的にみると、Head of Stateという概念は中世ヨーロッパにおける国家の捉え方の発展とともに形成されてきた。つまり、中世においてヨーロッパに存在した王国の行政機構が整備されるにともない、王国というものをひとつの団体あるいは法人として捉えるような見方が形成されてくる。

そして、そのような見方は、生身の人間(自然人)である国王の身体と、「もうひとつの身体」として国家=王国を、二重写しにするようなかたちで発展していく(このような考え方は「王の二つの身体」という言葉で表現される)。つまり、国家とはそれ自体がひとつの身体であり、国王はそのような国家という身体の文字通り「頭(head)」として、国家そのものを人格的に(あるいは身体的に)体現する存在として考えられていたのである。

面白いことに、このような考え方は法人としての国家だけでなく、他の法人―地方自治体から大学、さらには企業まで―においてもみられるものであった。つまり、すべての法人には「頭」が必要である、と考えられていたのである。

この影響は現在まで残っており、たとえばアメリカの古い大学の(法人としての)正式名称をみると、ハーヴァード大学がPresident and Fellows of Harvard College、ウィリアム・アンド・メアリー大学がPresident and Masters (あるいはProfessors) of the College of William and Mary in Virginia, イェール大学がPresident and Fellows of Yale Collegeとなっており、必ず法人のHeadとしてのPresidentの存在を明示している。

しかし、現在ではこのような意味での、法人のHeadであるような特定の個人は必要ないものとされている。もちろん、事業法人には意思決定を行う機関としての取締役会はあり、さらに日本であれば法人を対外的に代表するものとして代表取締役が存在する。しかし、上のような見方からすれば、Headとは文字通り「頭」として法人を人格的に体現する存在であり、この意味で代表取締役は法人を人格的に体現するとはいいがたい。

一方で国家についてみると、Head of Stateに関する儀礼や慣習は、Head of Stateとは儀礼的なものではあれ、国家を人格的に(あるいは身体的に)体現する存在だと考えると理解しやすいものとなる。つまり、国家は上のような意味でのHead of Stateを現在もなお残しているのである。

それでは、なぜ国家は、国家そのものを人格的に体現するような個人を必要とするのだろうか?

国家を人格的に体現するHead of State

ここで、Head of Stateが国家を人格的に体現するということをもう少し考えてみると、このことはHead of Stateの行為がそのまま国家の行為とみなされる(少なくともその可能性がある)ことを意味する。

たとえば、国家が相互に矛盾した行動をとる、あるいは矛盾したメッセージを発するような場合には、最終的にはHead of Stateの行動やメッセージによってその国家の行為とみなす、ということが可能になる。

そもそも、法人としての国家は自然人と同じような意味での意思をもつわけではなく、統一された意思決定ができるとはかぎらない。一方で、単一の法的人格である以上、あたかもひとりの人間あるかのように行為しなくてはならない。そのような矛盾を最終的に解決する存在として、国家そのものを人格的に体現し、その人の行為をもって国家の行為とすることができるような個人がおかれていると考えればよい。

これは、必ずしも対外的な側面だけにかぎられるわけではない。国家の内部に対しても、Head of Stateはその国家を人格的に代表してメッセージを発し、行為することもできる(このようなことは、いわゆる統治者や主権者でなくても可能であることに注意してほしい)。国民はそのようなメッセージを受け取ることで、国家のあるべき姿を認識し、行動することができるようになる。

もちろん、各国の行政機構が整備され、また国際法が発展することにより、このような意味での元首の役割は限定されていき、儀礼的な権限以上をもたないことも多くなった。そうであるがゆえに、「なぜ必要なのか」というわたし自身が上で述べたような疑問も出てくるわけである。

非常事態とHead of Stateの役割

しかし、国家そのものを人格的に代表するという意味でのHead of Stateは、どうやらいまなお役割を失っていないようである。このような機能は、国家の機構が正常に動いているうちには発揮されないが、たとえばクーデターのような非常事態には国家を体現する存在である元首の振る舞いやメッセージが大きな意味をもつ。

実際、1981年のスペインのクーデター未遂事件(23-F事件)では、国王親政を求めるクーデター側の要求を国王ファン・カルロス1世が拒否し、テレビを通じてクーデターへの不支持を表明するとともに民主政治の維持を訴えた。この結果クーデターは失敗に終わり、その後スペインに民主政治が定着するきっかけになったといわれる。

そして、日本においてもHead of Stateのこのような役割は残っているのではないだろうか。もちろん、上で述べたように、日本における天皇陛下は元首として位置づけられているわけでもなく、国政に対しては何の権限もない。

しかし、今回の大震災のような非常事態において、天皇皇后両陛下は日本という国家(および国民)の意思を体現する、あるいは象徴するかのように振舞われているようにみえるし、そのような振る舞いは被災した方々や日本国民全体、さらには海外に対する日本という国家のメッセージになっているように思う。

Head of Stateというのはたんなる歴史的な遺産ではないかと思っていたが、どうもそうではないらしい、といまは考えている。

推薦図書

国家を法人と観念する考え方は、もともとローマ・カトリック教会にその淵源をもつ。この本は、そのローマ・カトリック教会における法人としての教会という概念の形成から、「王の二つの身体」という考え方の成立と展開を説き起こす大著である。はっきりいって読みにくい本(あまりに事実関係が錯綜するため、わたしはこの本を読むためだけに年表をつくった記憶がある)だが、上記のような問題を考えるためには一度読んでみてほしい。

プロフィール

清水剛経営学 / 法と経済学

1974年生まれ。東京大学大学院経済学研究科修了、博士(経済学)。東京大学大学院総合文化研究科・教養学部准教授。専門は経営学、法と経済学。主な著書として、「合併行動と企業の寿命」(有斐閣、2001)、「講座・日本経営史 第6巻 グローバル化と日本型企業システムの変容」(共著、ミネルヴァ書房、2010)等。

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