人民の意思を待ちながら 

いま、政府によって出された命令があなたにとってきわめて不条理であり、従うことが到底できないと感じられたとしよう。あなたとしてはそれに反発し、そのような命令に従う理由はないと主張したいのだが、では何をその根拠にするべきだろうか。

 

 

私の意思を根拠にできるか

 

ひとつの考え方は、とにかく私が従いたくないのだから従わないと言えばよいというものである。しかし、もちろん現実にそう言い放つことは可能だが、その主張を正当化することはなかなか難しい。

 

なぜなら、少なくとも民主政国家では政府の命令の背後に、そのような命令を出すことを認めた人民の支持があると想定しなくてはならないからで、にもかかわらず私は従わなくてよいというなら、その時、私自身を人民の多数より優先すべき存在として・特権化して扱ってしまうことになるだろうからである。これは個々人の自由と平等を基礎とすべき近代社会においては、非常にまずい。

 

特権化という批判を避けるために、あらゆる人がそのように、自分の従いたくない命令に従わないと言ってよいのだと主張してみようか。平等の要請を満たすことはできるだろうが、しかし大方の人がただちに予想するとおり、そのような社会は機能しないだろう。

 

世の中に稀少な財(需要の合計が供給量を上回るような財)が存在するかぎり、その分配が何らかの方法で決定されなくてはならず、そして全員の需要を満たすことは(定義上)できないのだから、誰かが感じるだろう不満を抑えて一定の分配状況を強制することが、社会を安定的に存在させるためには必要だからである。

 

私の意思だけを根拠にする議論は、どうにもうまくいきそうにない。

 

 

普遍的理念か、「我ら人民」の意思か

 

だとすれば残された選択肢は、大きくふたつである。

 

第一に、人権とか自然法とか、とにかく普遍的で人為では動かし難いなにものかに訴えること。第二は別のかたちで表現された人民の意思を根拠とする方法。個人か組織かという問題を横におけば、問題の構図は司法府による違憲立法審査権の正当化と同じことだ。

 

人民の代表たる議会が制定した法律を、そのような民主的正統性を欠く裁判所がなぜ無効にできるのか。法律家はえらいので人民とは違う特権的な地位が与えられているのだというモデルを取らないとすれば、答は先程の二つの選択肢に対応したものになる。

 

つまり、人民の意思といえども、人権とか自由とか平等とか正義とかいった普遍的理念を犯すことはできないのであって、それらを守るべき役割が裁判官には与えられているという考え方がひとつ。だが、ただちに問題になるのは、本当にそのような普遍的理念が人民の意思すらも制約し得るようなものとして存在するのかということと、それを解釈する権限がなぜ裁判所にのみ与えられているかということである。

 

これらの問題を回避しようとすれば、もうひとつの選択肢を取ることになる。つまりたとえば、違憲立法審査の根拠となる憲法自体が、人民の意思にもとづいて作られたものであり、しかも多くの場合にそれは、人民の大多数の承認にもとづくか、革命のように特権的な瞬間に由来するものだ。

 

違憲立法審査とは、だから、司法府と立法府の対立ではなく、憲法に表現された人民の意思と・現在の政府を選んだ人民の意思の相克、同じ人民の意思のうちどちらを優先させるかという問題だと理解するのである。

 

そして、憲法を作った政治は「我ら人民」が直接に関与した特権的なものだと、たとえばアメリカの憲法学者ブルース・アッカーマンのように主張するか、あるいは長期的に安定し・熟慮にもとづいた結果としての憲法を、選挙結果に表現されるような短期的な意思、移ろいやすく感情に左右されて不安定なものよりも尊重すべきだという、共和政的な議論を選ぶことになるだろう。

 

 

 

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