2013年、政治学はどう動いたか

中東地域研究、社会哲学、政治学、社会学……。2013年、各学問分野の動向を振り返った、α-Synodos年末特別企画「2013年、学問はどう動いてきたか」より政治学分野から吉田徹氏の論考の一部をお届けする。

 

 

政治学の「自分探し」

 

「政治学者って自分探しが本当に好きな人たちなのですね」――ずいぶんと前に歴史学者から言われた言葉が印象に残っている。政治学は一体何を、何のために、どのようにして分析する学問なのか、実際のところ、それほど確固たる答えがあるわけではない。多くの人文社会科学で、その分野/ディシプリン(例えば社会学)がどういうものなのかという問いは一般的なものだろう。しかし、その分野/ディシプリンが何のためにあるのか(例えば社会学は何のためにあるのか)という「自分探し」は、他分野と比べて、政治学ではかなり意識されている問いであるように思える。

 

この「自分探し」の意識が、ますます高まっているようにみえたのが2013年だった。今年の日本政治学会の共通論題(学会が指定する共通テーマのもとに会員全体が参加する分科会)は、「社会科学としての政治学の有効性」がタイトルだった。このテーマが意味するところは、つまり「社会科学として政治学は無効なのではないか」という意識の裏返しだ。

 

昨年の政治学会でも「政治学の再構築」といった分科会があったり、他の政治学系の学会(国政政治学会や比較政治学会)でも、政治学は何のためにあるのか、これまで何をやってきたのか、これから何をやったらよいのかなどの「自分探し」のテーマ設定は珍しくなくなり、こうしてタイトルだけ並べてみると、学会というよりは自己啓発セミナーの類かと見紛うほどだ。もちろん、こうした傾向は日本だけではなく、ヨーロッパでもアメリカの政治学会でも、多かれ少なかれみられるようになっていることは想起しておくべきだろう。

 

こうした「自分探し」は、政治学が古くから、とりわけマキャヴェリ以降の近代政治学を起点とした時から抱えてきたものであるし、これからいうように、政治学が「べき論」(規範)と「技術」(ハウツー)の間で又裂きに合わざるを得ない学問なのであれば、むしろその生きづらさの感覚は大事にすべきものだろう。

 

この生きづらさを反映するかのように、今年は日本政治史の泰斗、三谷太一郎による『学問は現実にいかに関わるか』(東京大学出版会)が公刊された。もっとも読者マーケットを意識しないでつけられる同書の英文タイトルはScholars in Modern Japanese Politicsとなっているから、この危機感も割り引いて考える必要があるかもしれない。経済学者・宇沢弘文『経済学は人々を幸福にできるか』(東洋経済新報社)も出版されて、果たして<自分探し>が政治学固有の傾向なのか、人文・社会科学(あるいは3.11後の理系も含め)に共通するものになってきているのかについては、さらに詰めて考えるべきことだろう。

 

この小論は、今年出版された(比較的狭い意味での)政治学についての、あるいは政治学の概念を用いて現実を分析・批評した本を素材に、近年の政治学のトレンドを筆者なりに論評したものだ。もちろん政治学といっても、そこには政治思想・理論、政治哲学、政治分析、政治史、政治過程論、比較政治学、国際政治学、国際政治経済学などの多くの下位分野に分かれており、しかもその内部でも細かな分業体制があるから、全てを網羅するのは到底無理である。最近では刊行点数の増加もあって、仮に政治学関連やその周辺の本を全て入手できるとしても、それら全てを読破するのはほぼ不可能だ。

 

何かを評するということは、必ず何らかのバイアス(偏見)がかかるので、極めて主観的なものであるということもお断りしておかなければならない。少なくとも、学問が「普遍的」なものであることを建前としている限りは、最低限、こうしたことを宣言しておかなければならない。大切なことは、どうしてそのようなバイアスを持っているのか、それによって何がみえて、何がみえないのかを、なるべく読者にわかるようにしておくことにある。

 

 

経済学×社会学=政治学!?

 

政治学の「自分探し」は、総体としていえば隣接分野へのライバル意識、もっといえばコンプレックスから派生してきている。政治学は、時間を追うにつれて、その問題意識は社会学に類似し、方法論は経済学から借用するようになってきているようにも思う。

 

例えば、アメリカの政治学会会長ともなったロバート・パットナムが流行らせた「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」は、今でも政治学での最重要トピックのひとつだが(パットナム編『流動化する民主主義』、善教将大『日本における政治への信頼と不信』)、その端緒となったパットナム『哲学する民主主義』(原著1994年)は、人々の信頼という社会的次元を数値化し、それを民主政治の質や民度とつなげて論じたものだった。もっと昔にさかのぼれば、同様の問題意識はトクヴィルの『アメリカの民主主義』からあったが、方法論の観点からみれば、より洗練されたものとしてリバイバルされたのである。

 

それでも政治学が生み出すことのできた理論や定説、モデルの数は経済学のそれに遠く及ばない。確かにいくつかの「定説」があるものの、多くの異論が例外とともに提出され、結果としてファシズムとはどう定義されるのか、民主主義と経済成長がどのように関係にあるのか、未だに定説がない状況なのである。

 

その多様性自体はまた、政治という人間の営みが多様であることの証左でもあるが、このことはそれだけ政治学の「予見可能性」という科学としての価値、すなわち将来において、何がどの程度生じそうなのか、という「水晶玉」が傷つくことを意味している。語弊を恐れずいえば、理論やモデルというのは、ある状況においてある特定の配置があると、このような結果がこのような確率で生まれるだろう、ということをいうために考案されるものだからだ。ところが、政治学では人間行動の複雑さがあり(それは政治という営みの固有性と不可分な関係にもある)、もうひとつはこうした政治的行動にまつわる人間行動や集合行為を科学化する努力が足りないために、経済学ほどの「確実さ」をもって未来を予見することができない。

 

 

 

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