早野龍五教授最終講義「CERNと20年福島と6年 ―311号室を去るにあたって」

2017年3月、物理学界・福島において、数々の功績を残した早野龍五・東京大学教授が退官を迎える。早野教授の最終講義が行われた3月15日夕刻、東京大学の小柴ホールには、大勢の人々が集った。福島の人々は「物理学者・早野龍五」を、物理学界の人々は「福島に力を注ぐ早野先生」を、それぞれ初めて見ることになった。講義後のカクテルパーティでは、福島から酒樽を担いできた人と、世界的な物理学者とが、和気藹々と盃を交わす光景が見られた。(構成/服部美咲)

 

 

311号室を去るにあたって

 

CERNで20年、福島で6年というタイトルでお話をいたします。

 

たまたま私の大学の居室は311号室です。この数字には何か因縁を感じます。大勢の方々、恩師、学生、同僚、そして本日は女性の比率が多い。物理の最終講義でこれほど女性が多いことはありません。

 

「数式を使うな」と多くの方に言われましたが、これだけは知っていていただきたい。まずは物性物理学、次に物は原子からできているということで、原子物理学。原子の中には原子核があります。そこを研究するのが原子核物理学。原子核は中性子と陽子からできていますが、もっと基本的な粒子としてクォークなどの素粒子があり、それを研究するのが素粒子物理学。そしてこれら各々に実験と理論がある。私は主に実験をやってまいりました。

 

大学以前から2011年3月11日以降の話までを、全部通して聞いたことのある方は1人か2人しかおられません。今日のスライドは222枚。果たして本当に終わるのか。やってみます。

 

 

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研究者への道を選ぶ

 

生まれは1952年1月3日、出身は岐阜県の大垣市です。生家は岐阜大に寄付いたしまして、現在はセミナーハウスとして使っていただいております。父が信州大医学部の眼科学の助教授として松本に赴任し、私も高校を出るまでは松本で暮らしました。

 

バイオリンを弾く子でありました。子供に音楽を教えて人を育てる「スズキメソード」創始者の鈴木先生の愛弟子でした。1964年、仲間とともに10人で全米ツアーに行きました。スズキメソードが世界に広まるきっかけになったツアーです。

 

高校は松本深志高校、将来何をやろうかと真剣に悩みました。「音楽で一生食べていくのか?」とも考えてみました。僕の答えは「NO」でした。父、母、祖父も医者でしたから、「医学かなあ」なんて思いつつ、「二重らせん(ジェームズ・D・ワトソン)」を読んでいました。そして高校3年になると「物理の散歩道(ロゲルギスト)」が愛読書になり、「研究に惹かれるなあ」と思いました。どの大学に願書を出すか迷っているときに、「研究者になるなら医師免許状いらない。2年早く大学を卒業できる」と、これは父が言いました。そうか、と妙に納得しまして、東大理科一類に1970年に入りました。

 

 

1973年夏の事件

 

大学では、山崎敏光先生にお世話になりました。卒業論文はないのですが、大学4年生で研究室に配属になり、特別実験をやります。山崎先生の研究室紹介はこの通りでした。まず、「バークレーで実験準備をしている」。それから、「研究室は本郷にない」。ただし、「夜はサイクロトロン(円型の加速器)を使える」。そして最後に、「僕はとても忙しいから、あなたがたの面倒は見られない」と言い放ちました。それをとても楽しそうに言っておられたのが印象的でした。

 

白金の医科研の隅に、サイクロトロンはありました。そこで1973年の夏、事件が起こります。女性技官がサイクロトロンの部屋から出ようとすると、警報が鳴り響きました。体をサーベイメータ(放射線測定器)で調べたら、全部が汚染されている。技官はたちまちシャワー室に行き、残った皆で辺りをサーベイします。すると、実験室の中は汚染されていない。汚染は廊下で見つかりました。足跡です。技官は外から歩いてきた。どうも外が汚染されている。外は雨でした。葉っぱに黒い付着物がありました。「ゲルマニウム半導体検出器を持ってらっしゃい」ということで、これを測りました。そこで先生が「これはフォールアウトに違いない」と仰った。あとで新聞の縮刷版をみると、中国が核実験したものをみていたようです。

 

 

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「リュウ」「トシ」と呼び合う理由

 

1974年、大学院に進学しました。お約束通り山崎先生はおられません。そのかわり、ミュンヘン工科大のポール・キンネ先生がいました。修士1年生がドイツ人の先生と過ごすなんて当時は珍しいことです。そこで最初にやった仕事は、短波のアンテナ設営でした。僕は高校時代にアマチュア無線をやっていたので、お手のものです。これは何かと言いますと、キンネ先生はFCバイエルンのファンだったんですね。そして次の指示は、「辛いダイコンを買ってこい。薄切りにして塩でもんでビールを飲むぞ」と。3番目に命じられたのは、本物のキルシュトルテです。これは当時東京で探すのはとても難しかったのですが。

 

やがて、山崎先生から「バークレーにいらっしゃい」とお誘いを頂きました。中間子工場、メソンファクトリーが建設されつつありました。湯川秀樹先生が予言なさった中間子です。最初は宇宙線の中で見つかったπ中間子、これは放っておくと、μとニュートリノに壊れます。このμも最初は宇宙線の中に見つかった粒子です。陽子を加速して、金属標的にぶつける。それでπ中間子やμを大量に生成します。これを使って何か新しいことをやろうという企画です。

 

山崎研は、その前哨戦として、バークレーにあった184インチサイクロトロンで実験をしておりました。さて、僕がバークレーに着いた最初の日。ご挨拶に行ったのはオウエン・チェンバレン先生。反陽子という、陽子と質量が同じで、マイナスの電荷を持っている、そういう粒子を発見して、1959年にノーベル賞をお取りになった先生です。挨拶をしていたら、研究室のドアから若い大学院生がひょいと体を半分入れて、「ハーイ、オウエン!」と言いました。これはえらいところに来たものだ、と。ノーベル賞を取られた先生を、ファーストネームで呼んでしまうわけです。以来、僕は山崎先生を「トシ」と呼び、先生は僕を「リュウ」と呼びます。

 

 

理論を実験で見る

 

それから博士号を取るまで、ほとんどアメリカ西海岸で過ごしました。そこで、私の出世作とも言える研究をまとめることができました。

 

それが、「ミューオン」。これは磁石のような性質を持っています。壊れるときに、「パリティ非保存」と言いまして、電子がスピンの方向に出やすいか、反対に出やすいか、というのがあらかじめ決まっています。そしてプラスのミューオンというのは、スピンの方向に陽電子を出して壊れる。だから、電子が出る方向を見れば、崩壊したときにスピンがどっちを向いてるのかがわかる、というものです。さらに磁石の性質をもってますので、磁場をかけてやると歳差運動をします、「ぐりぐりっ」と。それが、寿命2.2マイクロ秒で壊れる。その様子を見てやると、時間と共に、ミューオンが回りながら壊れていく様子がわかる。

 

私が博士論文を書いた頃は、皆がスピンに対して垂直に磁場をかけていました。私は、磁場をかけない、ないしはスピンに対してちょっとだけ、弱い磁場をかける、こんな装置を作りました。博士課程3年目、あるときこの装置を使ったら、意味ありげなデータがとれました。当時は電子メールがないもので、航空便かFAXかで送りました。すると東京から指令が届きまして、「もっと長い時間のデータが見たい」と。そこで、データを取りました。すると、グラフが段々盛り上がってきた。実は、これは久保亮五先生が修士論文で書かれたものが、初めて実験で見えたのでした。久保亮五先生、ご存じない方もおられるかもしれませんが、平成の元号を制定したときに委員をされていた物理学者です。

 

久保亮五先生が書かれたのは、全くアカデミックな論文で、「この世で実際にそれが見えることはないだろう」と思われていたのが、今回実験で見えたので、大変喜んで頂けました。

 

その後、高温超電導体が見つかって話題になったとき、私のそのときの論文がずいぶん引用されました。現在までに580くらいの引用です。私のヒット作ですね。

 

 

アマチュアの心で、プロの仕事を、楽しそうにやること

 

物質を研究するためには、たとえば「磁場をかける」とか「低温にする」という手段があります。原子物理学の代表的な実験手段は、レーザーです。素粒子物理学、原子核物理学では加速器と放射線検出器。私はこれらの道具を使って、物性物理学の実験をするということを、博士論文を書いた当時はやっておりました。

 

このころ私が学んだこと、そして先生に教えられたことは、まず「国際的であること」。これはかなり叩き込まれました。そして、「学際的であること」。〇〇学と〇〇学の間にはおもしろいものがあります。それから、「原点にもどって考えること」。

 

研究としては、「人がやらないことをやること」。この、「人がやらないことをやる」ということは、やり始めたときにはアマチュアなんです。知らないことをやってるわけですから。だから、「アマチュアの心で、最後はプロの仕事としてまとめること」。そして、もっと大事なことは、「楽しそうにやること」。決して楽しくないんですよ。駄目な日もいっぱいあるんだから。だけど、それでも「楽しそうに」やること。これは、長く続けるためにはとても大切なことです。

 

 

共著者リストが1ページで終わらない実験

 

当時はパソコンができる前の時代でしたから、ミニコンピュータといいました。これが実験室に入ってきて、コンピュータ・ネットワークが始まった時代。私はそういう時期にアメリカ西海岸で教え込まれましたので、後に東大に来てから、「計算物理」を書きました。これで勉強された学生も多いでしょう。1980年代、つくばの高エネ研(高エネルギー加速器研究機構)の助教授をやっておりました。この時期に、初めて海外から日本のコンピュータへのハッキング事件があり、私がそれを見つけて、ドイツだと特定しました。

 

さて、その後の私がなにをやっていたかというと、論文を651本書きました。h-index82、すなわち80人以上に引用された論文が82本ということで、この研究分野では比較的多いです。この論文を全て話すことはとても無理なので、今日はかいつまんで話すわけなんですが、そうすると、「ああ、せっかく聞きに来たのに、私の関係した研究はすっとばされた」と感じられる方も多いかと思いますが、ごめんなさい、すっ飛ばします。

 

1986年に、僕は東大に助教授として着任いたしました。すると、隣の研究室にいた先輩に、突然重大なことを告げられました。

 

「僕、まもなくコロンビア大の教授になるねん。君、高エネルギー重イオン実験の日本側代表になってくれへんか」

 

「え?」

 

いえ、僕はそんなことやったことないんです。でも、「人から物事を頼まれているうちが花かな」と思い、お引き受けいたしました。

 

原子核を高いエネルギーにして、「がちゃん」とぶつける。すると真ん中に高温状態ができて、もしかしたら、クォークやグルーオン(いずれも素粒子)が自由に飛び交う「クォーク・グルーオン・プラズマ」というものに相転移をするのではないか、というのが1980年代に話題になっておりました。初期の宇宙、ビッグバンの後は、実は陽子も中性子もなくて、宇宙にはこういうものがあったのではと信じられています。おそらくそうです。それを実験室の中で遡って、一瞬だけでも見られないか。これを目指した、アメリカのロングアイランドのブルックヘブン国立研究所というのがあるんですが、ここで博士をとったのが、今日の司会者(櫻井博儀教授)です。

 

私はそこの重イオン衝突型加速器(RHIC)で始まったPHENIX実験の創立メンバーでした。実験全体の設計やマネージメント、予算獲得や測定器の設計と製作など、日米のメンバーと日々、喧々諤々やっておりました。毎月ニューヨークに飛ぶ生活です。論文を書くと、共著者リストが1ページでは終わらない、という大きな実験でありました。私はその後ニューヨークからジュネーブに転身いたしますが、PHENIXで当時からその後もクォーク・グルーオン・プラズマを研究されて、2011年の仁科記念賞をとられた秋葉康之さんも、本日は来ておられます。

 

 

何かを精密に測ることが学問を進歩させる

 

僕の研究の多くは分光という分類ができます。光と言っても、見える光だけではありません。分光というとおそらく皆さんご存じなのはニュートンですね。プリズムで太陽の光を当てると虹になる、とこれを最初にやりました。それをもっと専門的にやった人が、フラウンホーファー。ドイツのミュンヘン辺りに実験室を持っていました。彼が見つけたのがフラウンホーファー線。太陽の光の中に黒い線が見えるというものです。黒い線のいくつかは太陽の中にある水素が原因であります。それからいくつかは、当時まだ地上では見つかっていなかったヘリウムの証拠となります。

 

このように、何かを精密に測るということは、学問を非常に進歩させます。縦軸と横軸を設定して数字を入れていくと、やがてピークが見える。この「ピークが見える」というのが実験していて嬉しいんですね。いかにも「見つけた」という感じがします。

 

 

ハイパー核の研究

 

1980年代、最初は「ハイパー核」というものの研究をしていました。クォークは6種類あることが知られていますが、陽子と中性子の中に入っているのはこのうち2つだけです。しかし実験室の中では、もう1つ、「ストレンジクォーク」というものを不純物として入れることができます。陽子や中性子に、このストレンジクォークを入れる。すると「ハイペロン」というものに化けます。ラムダハイペロン、シグマハイペロン、そういったものに化けさせることができます。

 

それを原子核の中の陽子や中性子に対して行いますと、それが例えば「ラムダハイパー核」。ラムダハイパー核は当時既に存在が知られていて、よく調べられていました。国際的に議論があったのは、「じゃあシグマハイパー核は存在するかどうか」ということ。これは世界中でものすごく物議を醸していました。「シグマは、原子核の中で、もっと安定的なラムダにたちまち化けてしまう。するとシグマが消えてラムダが残るので、シグマハイパー核っていうのはそう実験で見えるかたちでは存在しないだろう」と言われていました。

 

1980年代の終わり頃、僕が仲間と共につくばの高エネ研で実験したスペクトルに、ちょっと山がありました。そこに理論の助けもあって、「ヘリウムのように小さな原子核の中の陽子や中性子にシグマを入れた場合、シグマハイパー核は存在しうる」と言うことができた。そして1989年に、「存在しないと思われていたシグマハイパー核が、少なくともヘリウムのシグマという状態なら存在する」という論文を書きました。これによって1998年に井上学術賞をいただきました。

 

 

長い失敗の末に得た、クォーク凝縮の実験的証拠

 

さて、今度は電子です。電子は原子核の周りを回っている。ここには、「プラスとマイナスで引き合う」という引力が働いています。すると、「マイナスの電荷をもっている粒子であれば、別に電子でなくても原子になりうる」ということですね。

 

その1つがπ中間子。π中間子は非常に重たい。重たくて、原子核にほとんどめり込むような形で、グルグル回っている。これを調べて、「π中間子が真空中にある場合と、原子核の中にちょっと入ってるような場合とで、違いが見えるか」というのが、1990年代に大変話題になりました。

 

この実験を始めてから完成するまでは、長い長い失敗の連続でありました。カナダに行って失敗をし、ベルリンの壁が崩壊する頃にフランスで失敗をし、そして最後はドイツでうまくいきました。ドイツの重イオン研究所です。比連崎悟さんが、「重陽子を原子核にぶつけて、ヘリウム3というものを検出する、というやり方ならば、原子核に非常に近い場所にπ中間子を置き去りにできる」という理論を予言されて、これを我々も実験でたしかめることができました。めでたく、ピークが見えました。やっぱりピークが見えると嬉しいですね。

 

そのときの論文はこんな論文。タイトルに、カイラル対称性の自発的破れの部分的回復、とあって、こんな風に日本語に訳すと訳がわからないですが、これは南部陽一郎先生の「自発的対称性の破れ」に関係しています。

 

陽子の中にはクォークとグルオンがあることを我々は知っている。ただ、クォークとグルオンの質量を足しても陽子の質量にはまったく足りない。クォークとグルオンにはほとんど質量がないのに陽子はとてもヘビー級です。この状態を説明できるのは、「真空の対称性が自発的に破れている」という考え方です。「真空の中にヒッグスが凝縮していて、それでクォークも凝縮している。これによって陽子が質量を得ている」というものですね。

 

我々がやっていた研究は、真空とパイ中間子、そして原子核の質量。それがどこで最大に破れていて、質量を増やしていくとちょっと減っていく、そういうことを定量的にみた最初の実験です。理論の方々からも評価され、2014年にドイツで賞をいただきました。

 

 

物理学最終講義、唯一の数式

 

1997年からはジュネーブで研究をしています。ヘリウムの原子。2個の電子のうち1個を反陽子におきかえて、原子をつくることができる。これが比較的安定して存在することを偶然見つけました。修士1年目で最初に挨拶をしたノーベル物理学賞のオウエン先生が反陽子の発見者であることを考えると、これも因縁めいたものを感じます。

 

これを詳しく研究するために、ジュネーブのCERN(欧州原子核研究機構)で作ったグループ、頭文字をとって「ASACUSA(アサクサ)」と呼んでますが、僕はここのチームリーダーを務めております。

 

普通、原子にレーザーを当てて分光するときは、電子の軌道を変化させます。でも我々がやっているのはそうではなく、反陽子の軌道を変化させています。そして、これが今日の唯一の数式。ごめんなさい、1つだけ数式を書きます。この数式の左側はレーザーの周波数、これは我々が測定をします。右側は水素の電子に似た、理論の式です。これは理論の方が、心を込めてやってくださいます。すると、作り出されている反陽子の電子の質量を精密に求めることができます。それを陽子と電子の質量と比べて、陽子と反陽子の質量と等しいか等しくないかということを見ます。

 

そんなことをやっている最中に肺がんになりまして、右肺の上葉を切除するという手術も受けました。しかし、実験はその後もうまくいきまして、「Nature」や「Science」にも論文が出ています。

 

この約20年の間で、反陽子の質量を決める精度が、当初5ケタほどだったのが、10ケタに届くほどに上がりました。反陽子は非常に稀な粒子なんですが、その質量を、ごくありふれた陽子に匹敵する精度で決めることができるようになりました。これで2008年、仁科記念賞をいただきました。

 

そして、2011年3月11日を迎えます。【次ページにつづく】

 

 

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○シン・編集後記(山本ぽてと)