生命美学とバイオ(メディア)アート——芸術と科学の界面から考える生命

生命と芸術の感得様式の親和性:「生命とは何か」という問いをめぐって

 

その問題意識を踏まえ、芸術を参照しながら生命を探究するアプローチが特に重要だと僕が思う点について、少し理論的に記述してみたい。まず、芸術活動は本来生命探究と相性がよいはずだ、という見通しを与えてみたい。それは、芸術の立場から自然科学的な生命探究を捉え直す試みでもある。ここからしばらくは、生物学がどのように生命を捉えているのか、をある程度具体的に整理しつつ、それを問い直していくことにする。

 

生物学では、しばしば次のような問いかけがなされる。「生物はどのような物質からできているのだろうか?」「どんな種が存在するのだろうか?」「どのように進化してきたのだろうか?」「どのように環境に適応しながら生きているのだろうか?」いずれも興味深い問いであり、生命科学は多くの知見を明らかにしてきた。

 

たとえば、生物はDNAを遺伝情報として持っており、生体高分子などの化学物質からできている。内と外を分ける細胞膜などを持ち、代謝を行うことで常に物質とエネルギーを外部と交換しながら自律的に増殖したり恒常性を維持する。自己同一性を保ちつつ、常に変異を起こし、進化・適応することで多様性も生み出してきた、といった具合だ。

 

いっぽう、次のように問うこともできる。「僕たちは日常的に生命をどのように感得しているのだろうか?」「生命という概念の哲学的な基盤とは何か?」「時代や文化によって、生命観はどのように異なるのか?」これらの問いは、一般的には「文系的」な問いとみなされ、生物学の教科書には普通書かれていない項目だ。だが、重要な問いであることは疑いがない。たとえば、「活き活きと」とか「活気に満ちた」という表現に見られる躍動的な生命感、死者を想う時の粛然とした気分、深い森の中にいる時の自然への畏怖の感覚、親しい存在や動植物に感じる愛着など、僕たちの死生観に関わる印象は、いずれも「僕たちにとって」生命が何なのかを示している。

 

ここでは、生命は「観察者と対象との情動的な関係性の中で感得されるもの」であり、必然的に主観的で情動的な要素を含む。それに対し自然科学では、一般的に(一部の脳科学・認知科学などを除き)主観性や情動性を排除しようとする。そこで上に書いた生物学的な立場では、生命は特定の対象(生物学的生命としての生物や細胞)に内在する特性として記述されていく。換言すれば、自然科学では生命は対象に宿るが、日常的に感得される生命は、対象と僕たちの関係性の中に宿るのだ。

 

この見方は芸術に関する古典的な議論と重なる。芸術を対象(作品)に内在的に宿るものとしてみるか、あるいは鑑賞者と作品の関係性の中に宿るものとしてみるのか、という議論だ。ある絵画作品が、どのような構図や技法、配色で描かれているのか、といった作品分析は、ある意味生物学的に生物の在りようを分析する試みだ。と同時に、作品との関係性において僕たちは「芸術的な体験」をするというわけである。

 

生命の問題もこれと似たところがあるのではないか。生命が生物に内在する固有の特性であることと、僕たちが対象との関係性において生命性を感得・体験するということ、その両面に目を向けないといけない。その際に、その両面を常に認識している芸術という立ち位置は参考になるのではないか。生命と芸術を感得する様式には、こうした共通項がある。

 

 

「生命をつくる」試み:人工細胞+人工生命

 

かつて、物理学者のリチャード・ファインマンは「つくれないうちは理解したことにはならない」という趣旨の格言を残した。確かに、パソコンを一から組み立てることができる人を見れば、僕らはその人物がパソコンのことを深く理解しているはずだと思うだろう。この基準では、少なくとも生物学的な意味での生命を、僕たちはまだ理解できているとは言えない。では、ファインマン先生に倣って、生命をつくってやろう、と思ったらどこから手を付けたらよいだろう?

 

生物学では、生命の基本を細胞に求めることが多い。細胞は、細胞膜を介して内と外を分ける境界を持ち、代謝(物質やエネルギーのやりとり)を行い、自律的に増殖する単位と考えられている。したがって、多くの研究者は生命をつくる(再構築する)なら細胞から、と考えてきた。とはいえ、「単細胞」の単純なイメージと裏腹に、細胞はめくるめく小宇宙で、直径100分の1ミリに満たない小スペースの中で、数万とも言われる化学反応が常時動き続けている、想像を絶する複雑系だ。とても一朝一夕に再現できるわけがない。

 

そこで、細胞を特徴づける要素(サブシステム)を少しずつ再構成していって、やがて増殖できたり進化できたりするものがつくれたら、と研究者たちは考えてきた(注7)。たとえば、DNAが複製する反応、タンパク質を合成する反応などが再現されている。ここまで本質的なところではないが、僕自身も、体内時計(生物時計)と呼ばれる細胞内で生じる24時間周期の振動現象を、世界で初めて試験管内で再構成した瞬間に立ち会った経験がある(注8)。それはなかなか感動的な瞬間だった。

 

(注7)岩崎,前掲書;岩崎秀雄(2010「バイオメディア・アート:美学的見地から観た合成生物学の可能性」科学(岩波)747-754;土居信英・柳川弘志・浅島誠・板谷光泰・菅原正・四方 哲也(2010『合成生物学』岩波書店など参照

(注8Nakajima M, Imai K, Ito H, Nishiwaki T, Murayama Y, Iwasaki H, Oyama T, Kondo T. (2005) Reconstitution of circadian oscillation of cyanobacterial KaiC phosphorylation in vitro. Science 308: 414-415.

 

こうした生体反応だけでなく、器(うつわ)をつくる研究も重要だ。人工脂質膜を用いて、細胞のような微小なスケールの容器を再構成したり、その中に遺伝子やタンパク質を導入して特定の生体反応を模倣する技術などが少しずつ開発されてきている。ある特定の条件では、こうした人工細胞の容積を増やし、分裂させることもできるようになってきた(注9)。さらに、多少人為的な操作も含まれてはいるが、一種の進化のプロセスを再現することもできるようになっている(注10)。

 

(注9Kurihara K, Tamura M, Shohda K, Toyota T, Suzuki K, Sugawara T. (2011) Self-reproduction of supramolecular giant vesicles combined with the amplification of encapsulated DNA. Nature Chem. 3:775-781

 

(注10)Ichihashi N, Usui K, Kazuta Y, Sunami T, Matsuura T, Yomo T. (2013) Darwinian evolution in a translation-coupled RNA replication system within a cell-like compartment. Nature Communications.,4(2494),1-7.

 

では、こうして作られる人工細胞は、はたして「生きている」と言えるだろうか? 逆に言えば、どこまでが物質(の集合体)で、どこからが生命なのだろうか? その問いは、結局上に掲げた「生命とは何か」という根源的な命題に回帰する。

 

その時、僕たちには複数の道が拓かれている。ひとつは生物学的に議論される「膜による内外の区別、物質とエネルギーのやり取り(代謝)、自律的な秩序形成、増殖、進化可能性」といった性質が満たされているのか、を判定していく道。そして、もう一つは「その人工細胞に接した(観察した)人が、そこに生命性を感得できるか」ということで判定していく道である。科学的な記述を連ねたのちにこう言うと、なんとなく拍子抜けした気分になるかもしれない。しかし、これは案外強力な判定基準でもある。

 

逆に考えてみよう。ぬいぐるみは、生物学的にはどうみても生物の規範たる多くの事柄を満たしてはいない。しかし、それをあたかも生物のように子供は(場合によっては大人も)かわいがることができるし、傷つけられたぬいぐるみに哀れみすら感じることができる。これは、生物学的生命の定義を満たさない対象に対しても、「関係性の中に宿る生命性」と似た状態を、ぬいぐるみと僕たちの間に創発することを示唆している。それは、「岩石を砕いた物質(絵具)の集合に過ぎないはずの画面(絵画)との関係性において芸術的な体験をすること」になぞらえることのできる話だ。

 

この意味で、なんらかの情動性を呼び起こす芸術や、そこに強い思い入れを見いだすフェチシズムの対象をつくることは、一面では「生命をつくる」ための(人工細胞的な探究とは異なる)道の一つである。考えてみれば、芝居や芸術作品の核心を「生命」になぞらえることはそれほど珍しいことではない(「命を宿した演奏」など)。とすれば、創作を行うこと自体、実はオルターナティブな意味での「人工生命」の試みなのかもしれない。

 

2016年に茨城県北芸術祭の一環として、僕たちmetaPhoerstのチームは「人工細胞+人工生命の慰霊碑」をつくるというプロジェクトに取り組んだ(”aPrayer: まだ見ぬつくられしものたちの慰霊”,2016,注11)。

 

(注11)石碑:茨城県常陸太田市折橋町799 折橋コミュニティステーション(旧酒蔵金波寒月)内。

https://www.waseda.jp/top/news/44775(プレスリリース)、https://www.youtube.com/watch?v=tf4ikiq-3EU(いずれも201767日閲覧)

 

 

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aPrayer: まだ見ぬつくられしものたちの慰霊(2016)

 

 

周知のように日本には、古来動植物だけでなく、針や人形、筆などの生物学的生命ではない対象をも慰霊する習慣がある。これは、慰霊という儀式を通じて、無生物に対して生命性を感得する、あるいは生命認定をする儀式として考えられる。

 

そこで、敢えてまだ完成しているとは言いがたい人工細胞や人工生命の慰霊という場面を想定し、それらは慰霊の対象になり得るのか、そもそもそれらの生命性とは何なのかを捉え直すことを試みた。その際,多くの人工細胞・人工生命研究者たちや地元の醸造業者の方々に長時間インタビューし、その記録映像も作った。さらに、墓標や慰霊碑として一見最も無生物的と考えられる石が使われていることの意味も踏まえ、地元の方の多大な協力を得ながら常陸太田市に石碑を実際に建立した。

 

細胞や生体を用いたバイオアートの作品は、一般的には一過的で保存することが困難なものが多いが、このプロジェクトではむしろ石碑の形で「世代を超えて生命について考えるためのモニュメントを遺す」という逆の方向性を敢えて目指したのだった。

 

 

表現としての生命科学

 

いっぽう、自然科学的なアプローチは上述したように、極力「主観性」を排除しようとするが、そもそも生命とは「一種の主観性あるいは生きることの主体性」を前提とした概念でもある。たとえば「自律性」というが、一体物質がどうやって主体性を獲得するというのか。これは強度に哲学的な難問だ。このことから、自然科学における生命言及は、それ自体一種アクロバティックな表現世界を現出しているところがある。

 

たとえば、生物学では生体高分子や酵素はほかの物質を「認識する」としばしば記述されるが、これは物理学では通常許容されない記述様式だろう。いや、それは単に特定の分子と衝突し、反応しているだけだ、という反論がありそうだが、ならば敢えて認識するなどという擬人的な表現は避けたほうがずっと「客観的」であるようにも思える。

 

では、認識ということで何がもたらされているのだろう。それは、分子レベルの「主体性」に他ならない。これは主体概念の上層(細胞や個体)から下層(分子)への一種の還元とみなされなくもない。万物に生命性を認めるのはアニミズムだが、こうして生物学が分子を擬人的に語る時、そこに希薄化されたアニミズムの気配を感じることがありうる。

 

それは、生物学がまだ物理学のように厳密化されていないところから来ると言うよりも、「科学的に主体性を記述することの困難」を前に、生物学者たちがギリギリのラインで選択してきた絶妙な言語表現として捉え直せないだろうか、というのが僕の見通しである(注12)。

 

(注12)岩崎、前掲書

 

逆説的なことに、ある存在に主体性を見いだすことは、しばしば観察者にとって「その存在を見通せない」ことと裏腹の関係にある。機械のように御しやすい対象ではない、予定調和的ではない存在である、ということだ。

 

見通せないからこそ、なんとかコミュニケーションを図ろうとする。近づけて理解し合えたような気がするが、しばしば裏切られたり予想を外れた行動に出会ったりする。これが主体性を持った他者との付き合いであることを、僕たちは経験的によく知っている。いわば、そういう「付き合い」をしていくうえで、できるだけ誤解のないように厳密な記述を心がけることの極北が、学問(とりわけ自然科学)という探究方法であり、論文という表現様式なのであった。

 

先に、僕は芸術を総合的な知的な活動であるというニュアンスを持ってバイオを巡るアートについて書いてきた。と同時に、今度は生命の自然科学的探究とその成果たる論文を、表現文化史の中に位置づけて捉えなおすことが絶対に必要だ。とりわけ、生命科学や医学においては芸術に自ら接近している面がある。

 

というのも、これらの論文の中核に位置するのは図表であり、写真、描画、グラフという視覚表現の形で最も重要な実験データがまとめられているからだ。テキストの多くはそうした図表の注釈であり、それらを導くための手法や条件の記述である。だからこそ、顕微鏡や細胞の染色法、遺伝子発現動態などに関する日進月歩の可視化技術の革新は、生物学を日々刷新する大きな原動力であり続けている。それがあれば確実に僕たちの視覚に入る世界の幅は広がる。これを視覚表現文化の大きな担い手として把握しないとすれば、明らかに片手落ちと言わねばならない。

 

“Culturing <Paper>cut”という僕の作品は、こうしたことを踏まえた試みの一つだ。自分で執筆・発表した論文(paper)から切り絵(papercut)をつくり、そこから論文の題材になっているバクテリアが増殖していく作品である。

 

 

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Hideo Iwasaki “Culturing <Paper>cut”(2013-)

 

 

先程書いたように、客観性を旨とする科学論文にも、実際には主観的見解、主体的観察の過程が刻印されている。そうした部分が、写真の右側のようにところどころ切り取られている。テキスト以外の部分は、一見有機的で抽象的な模様が工芸的に刻まれているが、論文の図やグラフの意匠は積極的に残してある(写真の左部分)。この論文―切り絵を滅菌してから培地に載せ、主観的として切り抜かれたテキストの部分にシアノバクテリアという生物を植菌し,展示期間中培養(culture)し続ける。このようにして、ここでは科学的表象としての図、工芸的もしくはファインアート的な造形としての切り絵、そして増殖に伴って独自の複雑な模様を展開するバクテリアのパターンという三者の意匠と情報が、共存しながら絡み合っていくという作品だ。

 

学問と芸術は、世界を把握し、何らかの形で脳内変換したものを表現したもの、という意味では共通である。そして生命の探究とは、なんらかの主体的な存在をどのレベルでどのように認定するのか、ということの不断の試行錯誤とコミュニケーションを要請する活動なのだ。

 

そのためには、必要に応じて自然科学であれ、社会科学であれ、人文学であれ、芸術的手法であれ、あらゆる手法や表現を総動員することが望ましいし、そうでなければ取り組めないほどに「生命」とは錯綜した、複合的なスーパーコンセプトだと言わねばならない。だが、それは同時に僕たち自身の生き方の問題であり、生の条件を巡る最も身近で切実な拠り所でもあるのだ。

 

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

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〈生命〉とは何だろうか――表現する生物学、思考する芸術 (講談社現代新書)

岩崎秀雄 (著)

 

「ポピュリズムはなぜややこしいのか?」

 

「日本社会は本当に右傾化しているのか?――”ネットとレイシズム”から読み解く」

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