2012.09.13

新しい生命の哲学/社会

檜垣立哉×粥川準二

科学 #生命科学#バイオテクノロジー

21世紀、それはいうまでもなく「生命」の世紀です。臓器移植、遺伝子医療、脳科学からES細胞・iPS細胞といった言葉はいまや新聞で目にすることも多くなり、私たちにとっても身近なものになっています。

そのような20世紀後半からの著しい「バイオテクノロジー」の進歩は、医療技術や生命科学といった領域を変貌させるだけでなく、私たちの「生のかたち」そのものを変えようとし、またこれまでにない多くの問題とともに優生学などの問題も再び提示しています。そう、いま私たちは生とは何か、そして人間とはいかなる存在なのかを、あたらしい枠組みで思考する必要にせまられているのです。

生のありようについて哲学的に考察し続けてきた檜垣立哉氏と生命科学の最先端と向き合いながらジャーナリスティックな視点からもアプローチし続けている粥川準二氏という、いま、その私たちの「生」について、最前線で考え続けているお二人が、生命をめぐる問題について語りつくします。(リブロ池袋HPより)

フーコーの「人間の消滅」説

檜垣 檜垣と申します。現在大阪大学の教員をやっているのですが、元々東京の人間で、今回の会場である西武コミュニティカレッジには思い出があります。というのも、私は83年に大学に入学しまして、85年か86年に当時現代思想で有名だった丹生谷貴志さんの授業をこの場所に聞きにきたことがありました。

その時のコミュニティカレッジの担当者が、現在芥川賞作家の保坂和志さんでした。僕が質問とかしたら、保坂さんに「飲みに行こう」と誘われて話をした経験もあります。考えてみればいい時代でした。西武さんには申し訳ないですが、西武セゾン文化が一番華やかだった時代ですね。

粥川 粥川準二と申します。1969年生まれで愛知県の出身です。学部を卒業した後に雑誌の編集者を3年ほどやっていました。その後フリーライターとして独立して、主に科学技術や医療問題を取材・執筆の領域として仕事をしてきました。翻訳や編集もやっています。

ある時期から特に思想分野の勉強不足を実感し、一念発起して2004年に大学院に入学して社会学を専攻しました。ジェンダー論で知られる加藤秀一先生について勉強して、6年かけて2010年に博士号を取得しました。ですから制度的な学位は社会学ということになります。

僕は圧倒的にジャーナリストとして紹介されることが多いのですが、これはあくまでも便宜的なもので、現在の職能は4つあります。執筆、編集、翻訳、そして教育。週1回ですが明治学院大学と国士舘大学で教えています。

檜垣 編集業もやっておられるんですか?

粥川 やっています。ほとんどが医学書ですが。例えば2010年に『がん・放射線療法2010』という著者が100人程いる分厚い放射線関係の本を編集しました。その後に原発事故が起こり、その時の知識が役に立って、『バイオ化する社会』の第7章を書けたかなという感じはあります。檜垣先生の本の内容ですが、『ヴィータ・テクニカ』は具体的にどのような内容なのでしょうか。

檜垣 僕は文学部の哲学科を出て埼玉大学の教員をやったあと、大阪大学の教員をやっています。ずっと教養学部とか人間科学部といったところにいたので、いわゆる難解なフランス語を読みましょうというような哲学の勉強だけでなく、いろんなことを考えていました。

その中でも僕としては「生命」という問題が非常に重要だと考えていて、本の中では、20世紀から21世紀の哲学における、生命の問題について書いています。粥川さんも『バイオ化する社会』の中で書かれていますが、ミシェル・フーコーは表面だけみると簡単に見えるかもしれませんが、そこで何が言われているのかを考えると非常に難しいんですね。そもそも彼は常識的な哲学者のような記述はしませんし、かといって歴史学者でもない。この人の概念が何を示しているかを論じるだけでかなりの議論になります。

たとえば、フーコーといえば「生の権力」や「バイオ政治学」が有名ですが、実は書物の中では少ししか書かれていない。

粥川 実はそうなんですよね。

檜垣 後でみんなが乗っかって色々と書いているだけで(笑)。まあ哲学っていうのはそういう側面がありますからね。本人がちらっと言ってみただけなのに、それが影響力を持ってしまって、どんどん意図を変えて修正されていく。それは悪いことでも何でもなくて、歴史とはそういうものです。

一般的なフーコー学者というのは、バイオ的な権力というものを非常に悪く捉えていますが、僕はそこに関しては、フーコー自身が何を考えているのか分からないということで、両義的だと捉えています。一方、フーコーは例の有名な「人間の消滅」を言った人でもあります。

粥川 『言葉と物』の最後の部分ですね。

檜垣 フーコーは、全ての人間は明るく消えていくと言っています。多くの人がそう述べる時にありがちな悲壮な感じはない。むしろ人間はなくなってせいせいするという言い方をしている。僕はこれをどう捉えるかということが、大きな問題ではないかと思うんです。

ですから、『ヴィータ・テクニカ』を書く時に念頭にあったのは、人間の消滅を考えた時に何が問題になるかという点です。フーコーは、人間はさっさとなくなるのがいいと思っていた部分がありますが、本当にそうなのかなと。

フーコーは1984年に亡くなっていますから、その後の90年代、2000年代の免疫や脳の話については知らないわけです。もしフーコーが生きていたら、こうしたテーマをどう扱っていたのかなという思いがありました。

人間と自然の関係をどう捉えるか

粥川 ポストフーコー主義者の人たちがいろいろ言っているわけですね。

檜垣 ええ。例えばアガンベンが言っていることは非常に重要で、何かある一つのことがあった時に、善か悪かはっきり言えないようなグレーゾーンが出てきていると。

今、動物論が哲学の領域で流行っています。いわゆる英米圏で言うような「自然保護」や「動物の権利」という話ではなく、人間は動物だということから考えていこうという学問です。やはり、生態系の中には人間がいじれる部分といじれない部分が存在するということは、考えざるを得ないと思います。

こうした議論はドゥルーズとつながってもいるんですが、身体に関する思考を大きく書き換える可能性があると思いますね。いままでの哲学は「生物性」ということをあまりに無視してきた。

要は「バイオテクノロジーをどう捉えるか」ということです。例えばベンヤミンやドゥルーズは、テクノロジーは自然から人間を理解するという発想をしています。テクノロジーが見せてくれる生の自然というものもあるわけです。

すごく分かりやすい例で言うと、アメリカの地形をずっとカメラで撮ったとして、1分間で4万年分を早回ししたら、地形だって生物みたいにうにょうにょ動いているのが見えるだろうと。私たちは、地形は全く動かないものだと思っていますが、カメラで回すと生き物のようになるわけです。すると、何が自然なのかという話になる。

自然と人間の関係が変わってきたんですね。今までは、自然とは自分の身体の向こう側にあるものとして捉えていたのが、例えばMRIで見た自分の脳を「自然」と捉える考え方もあるわけです。近代エコロジーの考え方は19世紀イギリスの産業革命の後に出て来ましたが、その時には自然は「向こう側」として想定されていました。

マルティン・ハイデガーは20世紀最大の哲学者だと思いますが、ハイデガーの技術論は典型的で、「技術は自然の搾取だからだめだ」と言っています。ですから、ハイデガーにとって善き人というのは農民です。悪いものは工場。

一方ドゥルーズは、平滑空間と条理空間という言い方で、人間が大地を計画化して物を搾取するのも実は農業なんじゃないの? と反論しています。これは考えてみれば当たり前ですよね。農業以上に自然を人工化しているものはない。そして人間の歴史の大転換点は農業の成立だと思います。例えば飛行機に乗って空の上から見ると分かりますが、ドイツって全面四角いんですよ。

粥川 農場が四角く区切られているということですか?

檜垣 そうです。全ての土地が耕作されていて、しかも真四角で、計画的農業がすごく進んでいる。デンマークもそうですね。

ともかく、二人の議論が示しているのは、どこからが自然でどこからが人間なのか、あるいはどこからが善でどこからが悪なのかが分からなくなってしまっているということ。

バイオの話になるとさらに分からなくなります。人間が過去に築き上げてきた「人間のイメージ」のようなものを持たないと判断できないわけだけれども、基調が変わったときに同じことは言えないわけです。違うことを言っても世間に通用するわけではない。では誰が判断するの? と言っても、みんな分かりませんとなる。

結局最後には儲かる、儲からないという経済的合理性の話が前面に出てきてしまって、儲かるものを良いものにしようとなる。でも、倫理的に考えると難しいですよね。つまり、ここから先は誰がどう結論を出しても、「暫定的な結論」でしかなくなります。

粥川準二氏

バイオ化とは何か

粥川 その場で暫定的に出していくしかないという意味で、僕自身も『バイオ化する社会』を中間報告として出したつもりなんです。

大雑把にいえば、「バイオテクノロジー」のターニングポイントは2000年前後にあったと思っています。それは97年のドリーの誕生報告であり、98年のヒトES細胞の作製成功であり、2000年のヒトゲノムのドラフトシークエンス、つまり大まかな塩基配列の決定だと思っていて、これに関しては当時何冊か本を書いています。そうした今までの問題意識に、震災が起きてからの思考の変化を加えて、地震と津波、原発事故について新たに書き下ろした感じですね。

本にするからには一本の筋をつけたいと思って考案したのが「バイオ化」という言葉でした。医療社会学や医療人類学では、すでに「医療化」という言葉があります。それまで医療の管轄ではなかった物事が医療の管轄に入っていくということです。

例えば、昔だったら単に落ち着きがないとしか言われなかった子どもたちが、現在ではADHDという病名がつけられて医療の管轄下に入っているというようなことです。

さらに、分子生物学や発生工学がどんどん医療に応用されていくについて、「生物医療化」という言葉が出てきました。この言葉を使って議論を展開した代表的な書物は、アデレ・クラークという社会学者らが書いた『Biomedicalization』です。英語圏の社会科学でそう呼ぶようになってきたんです。医療に生物学的な発想がどんどん組み込まれていくことを。

そして先ほども話に出たミシェル・フーコーの『性の歴史』で提起された「生権力」「生政治」というキー概念ですね。生権力についてフーコーは、「『死なせるか生きるままにしておく』という古い権力に代わって、『生きさせるか死の中に廃棄する』という権力が現れた」と説明しています。

つまり、「死なせるもの」から「生きさせるもの」へと権力の重点がずれてきた。間違いなくアデレ・クラークもフーコーの影響を受けています。フーコーは政治や権力が生物学化していると言ったのだと思いますが、クラークらは医療化という社会科学的な概念そのものが生物学化していると言っている。そのことを言うために、Biomedicalizationという言葉を使ったのだと思います。

「医療化」「生物医療化」ときて、僕自身はそれでもまだ言い足りないのではないかと思いました。「バイオ医療化」と呼ばれる現象もしくは社会変容は、「医療化」というよりは「脱医療化」と呼んでも良さそうな部分があるのではないかと考えたわけです。

一つ典型的なのは生殖補助医療ですね。例えば不妊治療というのは、別に治療をするわけではなくて、あくまでも生殖/再生産を補助するだけです。これを医療と呼んでよいのかというのは非常に微妙な問題です。

医療とか治療というものの対象は疾患です。「悪くなったものを治す」という意味だったはずですが、その定義から逸脱したものまで医療と呼ぶようになってしまった。ただ、これだけであれば、医療の管轄が広がったという意味で「超医療化」と呼んでしまえばいいのではないかとなるんだけれども、調べていくと、そうした医療技術のかなりは、実は失敗しているんですね。

檜垣 なるほど。

粥川 一次資料に当たって調べてみると、「成功した」とか「治療ができた」と呼ばれているもののうち、かなりのものについては「これを成功と呼んでいいの?」と疑問を持ちたくなるのです。この本で特にページを割いたのは、生殖補助医療、うつ病治療、痛みの治療についてです。

檜垣 うつ病については、抗うつ剤がどんどん増えているのに、うつ病患者もどんどん増えていると書かれていたのが印象的でした。

粥川 そうなんです。抗うつ薬なるものの効力も厳密に見てみると意外とない。生殖医療や幹細胞に関しては、これまでも生命倫理学者や医療社会学者がいろいろ述べていますが、第6章で書いた「痛みのバイオ化」については、僕自身が当事者として書いています。

僕は2007年以降、かなり重度の腰痛を患っています。一番ひどい時には右足を引きずりながら歩いたり、30分椅子に座っていられなかったりという状況が続いて、医療機関を7つくらい回りました。最終的に日常生活には復帰できましたが、その過程で痛みの治療について徹底的に調べていくと、今整形外科とか整骨院で行われていることの大部分は「こんなもんなの?」と言われるレベルの有効性しかないということが分かったんです。実際その痛みがどうして起こるのかという考え方そのものの想定が間違っているのではないか、ということをこの本に書きました。

第7章「市民のバイオ化」では原発について触れています。震災後、2011年5月頃から現地取材を始めました。岩手、宮城、福島には何度も足を運び、石川県の志賀原発も訪問しています。

バイオ化のいくつかの側面の一つとして、これも英語圏の医療社会学の中から出てきた言葉ですが、「生物学的市民」という言葉があります。一言で言ってしまえば市民権そのものが生物学化しているということです。その言葉の出所が、実はチェルノブイリ事故なんです。

檜垣先生が翻訳してもうすぐ出版される、ニコラス・ローズの『生そのものの政治』という本を私も原著で読みまして、その中にも出てきますね。アドリアナ・ペトライナがウクライナでチェルノブイリの生存者を分析した研究の中から生まれた言葉が拡張されて、バイオテクノロジーを論じる中で使われています。

ニコラス・ローズはそれとはまた別のルートで出てきた「genetic citizenship=遺伝学的市民権」という概念と重ね合わせる形で「biological citizenship=生物学的市民権」という言葉を掲げています。僕もそうしたものを検討しつつ書いたのが第7章です。福島原発事故の本質は放射線ではないだろう、ということを書きました。

何が善で何が悪か、境目の曖昧さについて

檜垣 僕は結構若い頃から、躁鬱が激しくて、20代の半ばから30代の頭にかけてひどい鬱状態になったときが数回ありました。

粥川 そうだったんですか!

檜垣 40代になるとそれこそ、フーコーの『自己のテクノロジー』ではないですけれども、気分が落ちてくるとどうすれば良いのかが大体分かるようになりました(笑)。

若い時はダメになるとがんばるだけがんばるんですよね。そしてがんばるとどんどんダメになる。ところが、もうすぐ50という年齢までくると、落ちてくればとりあえず寝てればいいんだということがだんだん分かってきて、そうするとそんなに悪くならないんですよ。だから、今までありとあらゆる抗うつ剤を飲んできましたが、これが最新の薬ですと言われて飲んでも、大体効いた試しがない。

飲んだ中で最も効いたのは睡眠薬で、これは抗うつ剤にもなるってよく言われています。眠らせるものは効果が実感できる。あと、僕はパニック障害にもなったことがあって、その時の安定剤はすごく効きますね。

いろんなものを飲んできましたが、効いたのはそれくらいです。抗うつ剤というのは安心剤としての効果があるだけで、安心しているうちに治ってくるようなもの。ですから躁鬱に関しては根本的な人間の生物学的リズムによるんじゃないかなと思っています。

薬というのは非常に難しいものです。さらに言えば、人類学で問題としてよくあげられるのが、例えばアメリカの製薬会社が、南米で原住民が昔から治療薬として使っている薬草を採ってきて、それを使った薬品は全部うちが特許を取りましたからもう使用できません、みたいなことを言うわけです。

粥川 生物学的な海賊行為、いわゆるバイオ・パイラシーですよね。

檜垣 そうです、そうです。すると現地の人がそれを使うことができなくなるとかいう変な話になります。薬の話というのはそういう意味でも興味がありますね。あとは、麻薬でも、大麻が本当に危険かという話はよくされます。大学生が押し入れに大麻を持っていて捕まるという話も関西ではよくありますけれども。大麻はナチュラルドラッグじゃないですか。植物ですから、言ってみればタバコの……。

粥川 延長じゃないかと。

檜垣 ですよね。だけど今本当に問題なのは、抗うつ剤と同じで、本当に化学的に純粋合成された麻薬ですよね。あれだと、要するに脳のどこに効くかをコントロールできちゃうわけでしょう。それはまた大麻とは違うわけです。そうすると、何が危険なのか、何が薬で何が薬でないのか、植物であるのか植物でないのか、本当をいえばただの食べ物なんじゃないかというところが、差はありながらも曖昧ですよね。

科学が出す資料もある程度誠実な資料ではあるんでしょうが、やっぱり社会との関わりの中でその問題をどう扱うかによって、倫理的な考え方や善悪の基準や判断というのはかなり決まってきます。「グレーゾーン」というのは、バイオの話ではまさに曖昧な領域になっていると感じます。

内なる優生学が抱えるパラドックス

檜垣 『バイオ化する社会』の中に出てきました、森岡正博さんの「内なる優生学」に関連する実例は、バイオ医療化がなされてきてからどんどん出てきています。例えばダウン症児は増えているが減っていると。要するに、産む前に調べることができるから、増えているけれども、現実的にダウン症だと分かると中絶してしまうから、この世に生まれてくる数は減っていると。

粥川 そういうことですね。

檜垣 森岡さんはフェミニズムの文脈で論じていますが、水俣病やスモン訴訟の時代に、「産む、産まないは女の自由だから、女に堕胎の自由を認めるべきだ」と主張していたわけですよね。ただ、そこで「青い芝の会」という過激な左翼の身体障害者団体が、「フェミニストはこんな子が産まれたら面倒くさいと言って堕胎を女の権利だと主張するけれども、それは弱い者がさらに弱い者をいじめているにすぎないじゃないか」って言うわけですよ。そうすると、フェミニストの物書きとして結構有名だった田中美津という人が「それは本当にそうだ」と言って困ってしまったわけです。

要するに、そういったことがバイオ化され、今はもっと先鋭化されて出てきているんですよね。例えばチェルノブイリ事故を、ジャーナリストが写真を撮って報道するのは本当に善意に満ちていて、まさに必要なことです。「こういう悲惨な奇形児がたくさん生まれています」と知らせることは、ジャーナリストとしては間違っていないわけです。

一方で、これが喚起する一つの現象として「こんな奇形児が生まれてはならないね」ということに結びついてしまうと、福島で穫れた野菜は危ないなどとなってしまって、その写真が逆に私たちの内なる優生学を喚起してしまう。

粥川 おっしゃる通りです。

檜垣 これはもうパラドックスですよ。この問題を解決せよというのはどんな人間にもできない。だからこそ、どうしたらいいのかというのが非常に大きい問題だと思うんです。

もう一つ、本の中で非常に面白いと感じたのは、手とか足が大きくなる「ベックウィズ-ウィーデマン症候群」について。これは果たして障害なのか個性なのかという話です。つまり、バイオテクノロジーが進んでいくと、価値基準そのものも変わってしまうことがあるわけですよね。

これは哲学者の楽天主義と言われてしまうかもしれないですが、バイオサイエンスやバイオテクノロジーによって、例えば障害を個性と捉えられるようになる、私たちが今まで見えていなかったものを「これも自然だ」と見えるように変わっていく。でもそれはどうだろうと考えたりするわけです。

そのリスクは「リスク」たり得るか

粥川 僕は、この『バイオ化する社会』を構想している最中に、3.11を経験したと言いましたが、そこでもう一つ浮かび上がってきた論点というのが「リスク」なんです。

技術にはもちろんメリットがあるわけですが、当然リスク(危険の可能性)があります。第1章では、体外受精を中心とした生殖医療について論じました。体外受精では直接精子と卵子を器具で扱うことになるので、何らかのリスクがあるのではないかということは、実は黎明期からずっと言われていました。そのリスクとは3つあります。

1つは「卵子を提供する女性へのリスク」。排卵誘発剤には相当の副作用があります。2つ目は「実際に子どもを産む人へのリスク」。提供卵子による体外受精も少しずつ行われるようになってきています。不思議なことですが、体外受精をすると普通の出産よりも、例えば妊娠高血圧になる確率が高くなるといった知見が少しずつ出てきています。

そして3つ目のリスク、これが特に重要ですが「生まれてくる子ども達へのリスク」です。簡単に言うと、先天的な障害、俗にいう奇形ですね。体外受精で生まれた子供たちが通常の出産で生まれてくる子供たちよりも、先天障害を持つ可能性が高いのか低いのかということはその黎明期からずっと言われてきました。最近では多いという知見がだんだんと増えてきています。

つい先日出たメタアナリシス論文(複数の論文から得られたデータを統合して分析する論文)には、「体外受精が先天的な異常の発生率を高めるか」というクエスチョンに対して「増える」という答えが出ていました。よって、現時点では子供たちへのリスクもあるだろうというのが答えになりますが、それには僕は留保したいと考えています。

子どもが大きく生まれる「過大子症候群」や身体の一部が変形して生まれてくる「ベックウィズ-ウィーデマン症候群」など「奇形」を、社会が「あってはならないもの」と考えるならば、その発生率が増加する可能性をリスクとして捉えることができます。しかし、そうではない社会、つまり「あってもよいもの」と考えることも、少なくとも概念的には考えられるわけです。

つまり、身体が大きかったり、一部が変形したりすることは単なる「個性」に過ぎないと考えることができます。したがって、体外受精に対する批判として「先天障害が生まれるから」と主張する人もいますが、僕はそれについては少し説得力が弱いなと思っています。

何がリスク要因なのか

粥川 そのこととパラレルなのが原発事故による放射線をめぐる議論です。放射線によって先天障害を持つ子供が増えるのではないかということは、チェルノブイリやスリーマイル島の事故の時から言われていました。3.11以降、インターネットを中心に話題になりました。

分かりやすい例として本の中で挙げたのが、映画『チェルノブイリ・ハート』です。この映画では、ベラルーシの福祉施設にいる、重度の先天障害を持つ子供たちが映されています。それを見るとどうしても、「やっぱりこれは放射線の影響だろう」と考えてしまうわけです。実際にネットでは、「だから原発は危ないし怖いんだ」というような紹介がなされていたんだけれども、僕自身は、ちょっと待てよと思ったわけです。

複数の論点があって、科学的論点と社会学的論点に分けると、一つは「本当にそれって放射線の影響なの?」ということです。重度の先天障害児を集中的にケアする施設は日本にも当然あって、福島にもあるでしょう。そこに行ったら同じような光景があると思いますが、それは別に原発事故がなければ普通に起きた障害だと考えられるわけです。

しかし原発事故の直後に同じ光景を見ると、どうしても原発事故と結びつけたくなる。もし結びつけるのであれは、統計学的なデータに基づく必要があるわけですが、そうしたデータはこの映画ではいっさい語られていない。これが科学的に言える論点の一つです。

もう一つがさっき述べたことで、先天障害の子供が生まれてくることを、「恐怖の対象」あるいは「あってはならないこと」としている前提の下に描いてしまっていないか、ということですね。優生学を定義づけることは非常に難しいですが、これは優生学とはイコールではないものの、極めて優生学に近い発想だといえます。優生学者だけではなくて、ほぼ100%の人間が内に抱えているものですよ。僕自身も含めて。

檜垣 それはそうですよね。

粥川 写真家の広河隆一さんはこういうことを言っています。「放射能の恐ろしさを訴えるために、このような強調をしてよいのだろうか。人はみな健康でありたいと思う。親は子どもの健康を望む。けれども『身体異常の子供ができるから原発に反対だ』という言葉は、障害者に『自分のような人間が生まれないために原発に反対するのか、自分は生まれてはいけなかったのか』と考えさせるだろう」と。

広河さんは反原発の立場のジャーナリストでチェルノブイリの取材もしています。気持ちとしては僕も賛成なんですけれども、敢えて追記しておきます。広河さんは「原発は、あらゆる形の差別を引き起こす要因にもなる」、つまり原発が差別を引き起こすと言っています。しかし、僕自身は「原発事故は、事故以前から既にある差別を顕在化させるだけではないか、と思っています。その辺りの説得力に関してはどうでしょうか。

檜垣立哉氏

私たちに何ができるのか

檜垣 なかなか難しいと思いますが、結局どうすればいいのか、ということなんです。哲学者も社会学者もそんなに偉いことはできないので。

粥川 せいぜい論点整理ですよね。政府も東京電力も、世間からものすごいバッシングを受けました。確かに、政府も東京電力もマスコミも、科学者だって間違えることはあります。しかし、同じように市民社会も間違える可能性はあるわけです。

檜垣 それは本当にそうだと思います。市民感覚が正しいかと言うと、必ずしもそうではない。それをどういうふうに言っていけば良いのかな、ということはよく考えます。例えば、粥川さんは臓器移植のコンセンサス会議などには参加されていますか。

粥川 はい、そうした類いのイベントに参加したことはあります。

檜垣 このような会議では、リスクの議論に対して、当事者も含めて文句も言いますが、全体として言えば会議が開かれるだけで感情をコントロールする側面があります。確かに合意は重要だし民主主義なんだからそれに基づくべきだというのはその通りだけども、もう少し別の形での科学と社会と哲学、広く言えば哲学倫理学のあり方を作っていくべきなのかということを原理的に考えていく必要はあるんじゃないかなと思っています。

今後、原発はどうなるの? という問題に関して、哲学者は黙っていればいいかというと賛否両論あります。怒る人もいれば、その通りだという人もいます。例えば、奇形があっても本当に放射能の影響かどうかということは哲学者は判断できないわけです。

吉本隆明とドゥルーズの類似性

檜垣 吉本隆明さんが亡くなって、それに関してもいくつか文章を書きました。例えば吉本さんの『<反核>異論』の論旨は、大江健三郎さんなどが核兵器を持つことに反対しているのに対して、なぜソ連に対しては批判しないんだ、と簡単に言えばそういうことです。

吉本さんはそうした反核異論の延長で反原発に異論を差し挟んでいる部分がある。もちろん原発は核爆弾とは違いますから問題は錯綜しています。でも吉本さんは原発に反対するだけでは何も問題は解決されないと思っている部分がある。

といっても吉本が原発肯定であるわけでなく、要するにいかなる処理をしたところで原発が安全になるまでは何も言えない。

廃炉に20、30年かかるわけですよね。吉本は多分ドゥルーズと似ているところがあるんですね。

粥川 それは具体的にどういうことですか。

檜垣 例えば、吉本は『<反核>異論』で核兵器の撤退は不可能だと言っています。つまり核兵器が人類の知として一旦蓄積されてしまった以上、政治が核兵器を作ってはいけないと禁止すること自体が問題になる。

吉本が生きていたら、おそらくは、原発をやめさせる手段は一つしかないという考え方に至っただろうと思います。それは、自然エネルギーの可能性です。科学者が総力を結集して、原発より安くて遥かに流通性の高いエネルギーをどんどん開発していけば、原発を使おうなんていう人間は誰もいなくなる、そう言ったと思います。原発反対ではなく、新しいエネルギーの推進にいち早く着手すべきだと。

ハイパーテクノロジーの可能性とは

檜垣 テクノロジーをなくすことは無理です。やはりハイパーテクノロジーを作っていくしかないと思うんですよね。例えば甲状腺被爆があると分かったら、甲状腺がんにならないためのメディカルサイエンスを作るしかない。ますますバイオ化が進みますね。

粥川 はい。念のため述べておくと、僕はバイオテクノロジーを100%否定してはいません。弱点は弱点としてきっちり見分けながら、テクノロジーを利用していくべき、ということを言っているんですね。

生命倫理上非常に重要な事件として、韓国で起きたファン・ウソク事件があります。ソウル大学の教授が、ヒトクローン胚からES細胞をつくることに成功したと発表したのですが、卵子の入手方法に問題があったこと、成果そのものが捏造だったことが発覚した事件です。ファン・ウソク事件と福島原発事故、この2つには類似性があります。日本がこれから脱原発や再生可能エネルギーをすすめていこうというときに、原発がだめだから次は太陽光だ、風力だ、という形で飛び乗ることには陥穽があると思うんですね。

エネルギーの生産方法が原発かどうかは、僕は問題の本質ではないと思っているんです。例えば、幹細胞問題についても同じことが言えます。ES細胞に倫理的な問題があるということは、特にキリスト教徒の間ではずっと言われていて、日本国内でも抵抗感がある人は多いです。拒絶反応を回避するためにクローン技術と組み合わせることで、セラピューティック・クローニングという医療モデル、つまりアイディアが提案されたんだけれども、それがファン・ウソク事件によって出鼻を挫かれた。

その出鼻を挫かれてしばらくたったとき、iPS細胞というのが出てきたわけですが、それに安易に飛びつけば良いのかというと、そうでない。その細胞がES細胞かどうかっていうのは問題の本質ではないわけです。本の中ではあえて挑発的に書きましたが、原子力だから悪い発電方法であるということは、再生可能エネルギーだから良い発電方法であるということと同じくらい意味がないと思っています。

檜垣 そうですね。

粥川 治療ができる見込みが高いES細胞というものを拒否して、見込みの低いiPS細胞を選ぶというのも、本末転倒とまでは言わないにしろ、患者の利益にはならないですよね。同じようにより安全な原子力と、より危険な再生可能エネルギーがあるとしたら、前者を拒否して後者を選ぶというのはあまり賢明ではない、といったところでしょうか。

本当に重要なことは、ある治療方法や発電方法がそれ以外の治療方法や発電方法と比較して、どんな利益と不利益があり、それらがどう分配され、そして人々の自律性がどれだけ担保されているかということです。それぞれの点で何が優れているかを厳密に見ていく必要があります。

福島原発事故はファン・ウソク事件と同じく、そうした点をねばり強く検討することを怠った結果、起きたのではないかと思うんですね。技術の問題を技術で解決していくこと、それ自体を否定するつもりはないんだけれども、古い技術であらわになった弱点、もっといえば、技術そのものの弱点というより社会の弱点を忘れてしまってはだめです。それらをちゃんと抑えた上で先に進むのが賢明かな、と今のところは考えていますね。

プロフィール

粥川準二

1969年生まれ、愛知県出身。ライター・編集者・翻訳者。「ジャーナリスト」とも「社会学者」とも呼ばれる。国士舘大学、明治学院大学、日本大学非常勤講師。博士(社会学)。著書に『バイオ化する社会』(青土社)など、共訳書に『逆襲するテクノロジー』(エドワード・テナー著、早川書房)など、監修書に『曝された生』(アドリアナ・ペトリーナ著、森本麻衣子ほか訳、人文書院)がある。

この執筆者の記事

檜垣立哉

1964年埼玉県生まれ。1992年東京大学大学院人文科学研究科博士課程中途退学。現在、大阪大学大学院人間科学研究科教授。専門は現代フランス哲学・日本哲学・生命論。主な著書に、『瞬間と永遠』(岩波書店、2010年)、『フーコー講義』(河出書房新社、2010年)、『ドゥルーズ入門』(ちくま新書、2009年)、『賭博/偶然の哲学』(河出書房新社、2008年)など多数。

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