‘seminar’ カテゴリーのアーカイブ

58.大野更紗「社会モデルへのパラダイム転換 – コミュニケーション不全から脱却するために」

2011年11月4日 金曜日

今日の日本社会が抱える広範な課題は、3月11日に突然出現したものではない。戦後の日本社会システムがその生成時点から抱え続けてきた慢性的機能不全が、震災という大きなショックを契機に、わたしたちの目前に露出し突きつけられている。

震災後の議論、特に人の生存権や社会権に抵触する領域について、具体的な対策を議論をしようとするとき、わたしたちはコミュニケーション不全に陥る。最低限の「共通言語」の概念の共有すらなされていないのが、今日の日本の言論の現実である。共通言語の不在は、各分野の論者による政策論連携の阻害要因ともなっている。日本社会のシステムがそうであるように、ディシプリンや言説も「タテ割り」の傾向がいまだ強い。

超高齢化という未知の人口変動やグローバリゼーションの進行、情報の不確実性や認識エラーの発生は、避けがたい自明の現実である。エラーの連鎖は、ときに紛争と化し、「不毛な議論」への対応に論者たちはエネルギーを割かなくてはならなくなる。かつて「全知全能」の神々であった言論は、万能性がその代償に孕む脆弱性にさらされている。他者のエラーや失敗を容認するためのパラダイム転換なくして、「わからないことが多い」時代の言論は協働しえない。

常に変化してゆく現実の動態に柔軟に向き合い、建設的な議論をしてゆくために。いかにして互いのコミュニケーション不全から脱却し、パラダイム変換を果たせるか。参加者の方々と、人のQOL(生活の質)を確保する「臨床の武器」たる共通言語を、ともにこの場でもつことができればと思う。

57.猪飼周平「超高齢社会の先にある未来について ―― 病院の世紀の理論からの視座」

2011年10月4日 火曜日

近年の社会保障改革その他の広義の福祉政策についての議論は、そのほとんどが「いかにして超高齢社会を乗り切るか」に焦点をおいてきた。また、専門家も一般国民もそのような福祉政策のアジェンダ設定を当然のこととして受け止めてきた。

もちろん、日本の人口高齢化の進行が、日本の社会・経済・文化に深刻な影響を与えてきていること、これから数十年の間はこの影響と日本社会が向き合わなければならないこと自体は疑いの余地がない。だが、高齢社会を乗り切ることそれ自体は、日本社会の未来をつくり上げる行為そのものでないということには注意が必要である。その意味では、日本の福祉政策が高齢社会対応に専心すればするほど、わたしたちは日本社会の未来の展望から遠ざかることになるのである。

筆者が昨年上梓した『病院の世紀の理論』は、直接的にはヘルスケア政策に関する歴史社会学的研究であるが、従来近視眼的な性格を有してきた政治・行政的思考の限界をこえた長期的政策展望の生み出し方についての研究でもある。セミナーでは、筆者の研究のあらましを紹介した上で、長期的政策の可能性について参加者と議論を深めることができればと思う。

56.松永和紀「報道はなぜ、科学を大きくゆがめてしまうのか?」

2010年11月23日 火曜日

科学技術は私たちの暮らしに深く関わっているが、マスメディアは往々にしてバイアスのかかった情報を一般市民に提供している。取材者側が、急激に進み変わって行く専門知識、情報を吸収咀嚼することができず、思い込みに基づく情報発信をしている場合が多いが、話題を呼ぶことを狙って意図的に情報をねじ曲げるケースも散見される。特に、慣例、慣習が重んじられ保守的になりがちな食品の報道においては、その傾向が顕著で、その結果、市民が必要のない不安にとらわれたり、根拠のないバッシングに加わったりする事態となっている。そこで、最近話題となった食や農業問題を具体例に、メディアがバイアスのある情報を発信してしまう理由、組織としての構造的な問題を検討し、一般市民が対処する方法論を考える。

55.菅原琢「データで政治を可視化する」

2010年10月12日 火曜日

メディアを通してわれわれが目にする政治は、政治部の取材体制によって規定されている。大物政治家を中心とする政局報道が政治ニュースの中心となるのは、政治現象を少ない人数で把握するのにそれが効率的な方法だったからに他ならない。派閥と族議員を中心とする自民党政治は、そのような取材体制と表裏一体のものだったとも言えるだろう。しかし、小泉政権と政権交代を通じ、すでに派閥領袖中心の政治は終焉を迎えており、政治を理解するツールとしての政局取材も刷新が求められている。
そこで、今回のセミナーでは、政治を理解する、現実政治を可視化する方法としてのデータ分析について紹介する。政治現象がいかに数値化され、説明されるのか、講師がこれまで行ってきた分析を中心として実際の例を見ていく。その過程で、データ分析の長所、短所などについても論じる。
今のところ、取り扱う題材としては、一票の格差、世論調査、議員行動、選挙ポスター、政治意識の国際比較などを考えている。

54.矢野浩一「繰り返し計算で行こう! 〜ベイズの定理と繰り返し計算と経済〜」

2010年8月25日 水曜日

「繰り返し計算と事前分布と事後分布と経済分析」について話をします。
え?「そんなマニアックな話を聞きにくる奴いるのか」って?いやいや、皆さん、毎日「繰り返し計算」しているんですよ(そう意識していないだけで)!たとえば、朝起きてテレビを付けて天気予報で「今日は午後から雨になる模様です」って言っていたら、ほとんどの人が「ああ、今日は傘を持っていかなきゃなぁ」と考えますよね。これって「今日の午後に雨の降る確率についての事前分布を繰り返し計算で改訂して事後分布を形成している」ということです。
それ以外にもメールソフトで迷惑メールを指定していると、段々と迷惑メールが指定したフォルダに自動的に分類されるようになりますよね?それも繰り返し計算のおかげ(の場合が多い)です。その他にも、総理大臣が変わったら株が上がったり下がったりしますよね?それも繰り返し計算(と事前分布と事後分布)のおかげ。
じゃあ、日銀総裁が「命をかけてマイルドインフレを実現します!」と国会で宣言したら・・・ああ、後は当日のお楽しみ。え?「セミナー概要がふざけ過ぎ?」いやいや、これでも真面目に書いたんですよ!

53.井出草平「社会学は役に立つのか?~ひきこもりの研究と政策を具体例として~」

2010年7月9日 金曜日

本セミナーでは社会学の有用性について考えたい。社会学では、研究を行った上で、政策の提言を含めた社会へのコミットメントを、学問のテーゼとしている。
社会学の始祖とされるオーギュスト・コントは、フランス革命後の荒廃した社会を改良すべく、研究を行っていた。また社会学を確立したエミール・デュルケームも、自殺現象や教育研究から、社会改善に尽力をしていた。学問の始祖たちは、学問領域が規定されていないなかで、自身の研究分野の確立をする必要があり、対外的に「社会学の有用性」をアピールする必要があったのだろうと考えられる。
現在、彼らの活躍もあり、社会学は大学に学部が構えられるほど大きいものとなった。しかし、安定した地位を得ると、対外的にアピールすることは忘れられがちになる。はたして現在の社会学は、「役に立つもの」であり続けられているのだろうか?
もちろん学問は必ず「役に立つ」ものでなければならない訳ではない。「役に立たない」ものも研究されなければならないし、いまは役に立たなくても、数百年後に注目を浴びて役に立つなどということもあるだろう。問題はそれほど単純化はできない。
そのような前提に立ちつつも、本セミナーでは、マックス・ヴェーバーの「価値自由」(Wertfreiheit)や、アミタイ・エツィオーネの「応答するコミュニタリアン」の議論の骨子として使いながら、発表者が行ってきたひきこもり現象の研究と政策立案を具体例として、社会学はどのような役割を果たしうるのかについて検討していきたい。

52.河合香織「ノンフィクションの現場」

2010年6月4日 金曜日

「たとえ象が空を飛んでいるといっても、ひとは信じてくれないだろう。しかし、四千二百五十七頭の象が空を飛んでいるといえば、信じてもらえるかもしれない」

これはノンフィクションとフィクション両方を描いたことで知られる作家ガルシア・マルケスの言葉です。ノンフィクションは「事実」にこだわりますが、それはたいてい理不尽さに満ちています。なのにどうしてそこに立ち向かい、煉瓦の壁を蹴って足を痛めるような行為を続けるのでしょうか。私自身がどのようにしてテーマを探し、取材し、それを描いていくのかという実例を交えて、ノンフィクションという世界を考えていきたいと思います。

51.菊池誠「科学と科学ではないもの」

2010年4月12日 月曜日

科学を装っているが実は科学とは言えないものを我々は便宜上「ニセ科学」と呼んでいる。科学とニセ科学のあいだにきちんとした線が引けるわけではないが、一方、明らかに「ニセ科学」と呼ぶべきものもある。身の回りには、そんな「ニセ科学」があふれている。もちろん、日常のあらゆる場面で科学的・合理的に判断しなくてはならないわけではないが、いっぽう、政策など社会的な意思決定が「ニセ科学」に基づいては困る(ので、ときとして困る)。今回は、科学とニセ科学とその周辺の問題について、少し詳しく議論したい。科学ではないものを通して、科学とはどういうものなのかを考えてみたい。

50.西田亮介「「新しい公共」は可能か? ― 日本型コミュニティの現状とレバレッジポイントを探す ― 」

2010年3月8日 月曜日

民主党政権が「新しい公共」を掲げている。脱官僚、民間の活用、社会起業家やNPOの政治過程への参加促進といった各論が細切れに提出されてはいるものの、「新しい公共」の具体的なビジョンは見えてこない。もちろん、村落共同体から地方自治体に到るまで、公的領域とそれを支える日本型コミュニティのガバナンスが機能不全を起こしていることは了解可能である。しかし、現状を変えていく、すなわち「新しい公共」を創り出すためには、現状の公共と到達点について正しく理解しておく必要がある。本セミナーでは主に日本の社会貢献活動と地域社会論の視点から、「新しい公共」を問い直す。そのなかでも特に「新しい公共」の担い手として注目されている社会起業家やNPOの現状と登場の経緯、そして、その他のソーシャル・イノベーションのレバレッジポイントの所在について言及する。これらの問題圏は複合的であるので、適宜、地方自治体の現状やコミュニティ・ビジネス、限界集落の出口といった周辺のテーマについても触れることになる。

49.伊勢田哲治「科学の拡大と科学哲学の使い道」

2010年2月4日 木曜日

科学哲学は名前のとおり哲学の一分野であり、哲学という観点から科学を分析する学問である。もとよりあまり実用性を志す分野ではないが、そういう分野にも使い道というのはあるのだろうか。今回のセミナーでは「科学の拡大」という観点から科学哲学の使いどころを一緒に考えていきたい。科学の拡大といってもいろいろあるが、ここでは二つの面を扱う。一つは応用の文脈で行われる科学的探求、いわゆるモード2科学で、従来の科学とは目標や組織原理が大きく違う。情報科学、環境科学など、科学が現代の諸問題を解決すると期待される局面では、実は科学のあり方がモード2に変化している。もう一つはニセ科学と呼ばれるものの流行である。科学の装いを持っていながらきちんとした検証を経ていない美容・健康グッズが世の中には多く出回っている。こうして対比すると、前者は科学の正しい拡張、後者は誤用・乱用、という印象を受けるが、実は共通点も大きく、脳科学を利用した言説などグレーゾーンも大きい。こうした領域において情報の質保証をどうするのか、どういう条件を満たしたら科学と呼べるのか、というのは科学哲学の知識を使いながら考えることができる問題ではないか。そういうことを考えてみたい。