2015.12.14

LGBTと「異常動物」のゆくえ――差別発言の報道をめぐって

遠藤まめた 「やっぱ愛ダホ!idaho-net」代表

社会 #LGBT#差別報道

昨今、LGBTなどの性的少数者に対する発言が物議をかもしている。

11月29日には海老名市議がツイッター上で、同性愛者について「生物の根底を変える異常動物だということをしっかり考えろ!」などと書き込み、批判を受けてツイートを削除。酒を飲んでいたせいだと弁明した上で「同性愛は個人の自由だと思うが、基本的には男女の別があるので少しおかしい」と述べた。12月3日、海老名市議会は同市議に対する辞職勧告を賛成多数で可決した。

また、11月29日、岐阜県庁の職員もツイッター上に「同性愛は異常でしょ」などと書き込み、他にも信用失墜行為のあったことから、県は同職員の処分を検討。さらに、12月10日、岐阜県議が本会議の最中に「同性愛は異常」とヤジをとばし、翌日に謝罪会見。県議会政治倫理審査会委員長と自民党県連政調会長の辞任を申し出る結果となった。

これらのニュースは、少なからぬ人々からのリアクションを引き出し、関心を惹いている。

私はLGBT当事者だが、エイリアンや「深海からの物体X」でもなければ、おそらく「異常動物」でもない。あえて平凡で善良な市民ぶりをアピールするのはヤボだろう。日常はぼんやりと勤め人をしている。そんな中で、ニュースを見て最初に思ったのは「うーん、こんな人どこにでもいるじゃんね」ということだった。

「こんな人」とは、LGBTについて否定的な言動をする人のことだ。

この2015年も暮れに差しかかるニッポンにおいて、良し悪しはともかくも、大多数の人はLGBTのことをきちんと知らない。多くはノホホンと、無理解や無知を披露しあってこれまで生きてきている。

学校の休み時間、親戚の集まり、職場の飲み会、テレビ番組にいたるまで(今年も紅白歌合戦で「桃組」はやるんだろうか?)とにかく安易かつ深くものを考えずに、これまで「あいつホモなんちゃう?」「オカマみたいで笑える」と、みんながゆるやかに差別をしてきたのではなかったか。身近にはありえない存在として……。

このようにいたった経緯には、日本の教育施策や、当事者が姿を見せづらい社会であることなど、さまざまなことがある。差別をしてしまうのは、けっして個人がトンチンカンだから、悪意があるからではない。

もちろん報道をめぐっては「公人の発言だからケシカラン」という向きもあろうが、私たちは、だれかの友人や同僚や家族として、つまり私人としてこそ、多様性の問題について考える必要がある。事件は日常で起きているからだ。

単なる処分や発言の自粛といった安易な解決方法は、多様性の味方にはならない。そうではない道を、本稿ではみなさんと一緒に模索したい。

「キモい」のは空気のせい?

まずは○×クイズだ。以下の5問、正確に答えられるだろうか。

(1)同性愛者は、努力すれば異性を好きになれる

(2)同性愛は人間だけのもので自然界にはない

(3)性別を変えるのは、楽をしたいからだ

(4)LGBTを認めると、少子化が進む

(5)LGBTを認めると、LGBTが増える

正解は全部×だ。詳しく知りたい方は、下記リンク先のQ&Aをご覧いただきたい。

セクシュアル・マイノリティ/LGBT基礎知識編

リンク先にはないが、(4)については、同性婚を合法化した社会ではおおむね出生率が向上していることを言い添えたい。個人の生きやすさにフォーカスすれば、もっと子どもを安心して産み育てられる社会が作れるということだろう。

さておき、このクイズ、全問正解できただろうか。おそらく全国の正答率はだいぶ低いだろう。低いにも関わらず、LGBTについて否定的なイメージをもっている人が多いのだ。

LGBTに対して「だってキモイじゃん」「でもフツーじゃないし」と思う感じ方のことを、同性愛嫌悪やトランス嫌悪(男らしさや女らしさの典型にあてはまらない人への)という。

これらの感じ方は、幼い頃からの周囲とのやりとりや刷り込み、「空気」によって、私たち一人ひとりにもたらされている。空気を読めば、私たちはだれもが同性愛嫌悪やトランス嫌悪を身につけてしまうおそれがある。だれもがLGBTについての歪んだイメージをもたされ、正確な知識を得る機会さえないままに暮らしてきている。

「キモい」のは空気のせい、もっと言えば、多様な性についてのまっとうな教育や人権啓発を行ってこなかった日本の制度のせいである。

しかし、今では正確な知識や、生身の当事者の姿はどんどん見えてきている。食わず嫌いだったなら、関連図書を手に取ることから「味見」してもよいのではないか。

差別をめぐって起きる反応

今回のような差別発言があると、私たちは百人百論になる。みんなそれなりに正義感や傷つきの経験をもっている。差別快楽主義者でもない限りは、私たちは好んでだれかを傷つけたいとは思っていない(少なくとも表面上は)。

LGBTというトピックに限定されないことかもしれないが、差別というテーマをめぐっては、私たち一人ひとりの中に、複数の声があらわれてくるように思う。大きく分けて「傷つく人」「ドキッとする人」「管理する人」の三役だ。

(1)傷つく人

今回の件であれば「異常動物」扱いされたLGBTの当事者は、自分の存在が軽く扱われたことに多少なりとも傷つくが、傷つく人は、それだけではない。自分自身が当事者ではなくても、大事な友人や家族を貶められた人は、自分のこととして傷つくだろう。子どもをもてない異性愛者が傷つくこともあるし、単身者が傷つくこともある。

人間の性を「正常/異常」と切り分ける発想自体をプレッシャーに感じ、自分もまた「異常」になってしまうかもしれないと、心のどこかで恐れてしまう人も多いだろう。事実これらの傷つきによってこそ、同性愛嫌悪やトランス嫌悪は、根拠もなく人々の間で正当化されていくのだ。

傷つく人は、尊厳を回復するために「こんなこと言うやつは許せない」と怒ったり、傷つけられたことへの復讐心から「あいつはどうしようもないバカだから」「相手のほうが異常動物だ」などと反撃したりすることもある。

これらは尊厳を守り、力をもった相手を振り向かせるためにはある面では有効だが、一方では「だれもが差別をする可能性がある」という側面について見落としてしまうことになる。前述したように、LGBTについて無知で無理解なのは、個人の責任やトンチンカンさのみに責任を負わせられない部分もある。

一方で、「怒る声」の大きさにかき消されがちな「これ以上もう傷つけられたくない」としゃがみこんでしまう人たちがいる。数年前に、石原都知事(当時)が同様の差別発言をしたとき、あるゲイの大学生からこんなメールが来た。

「ただでさえビクビク暮らしているのに、ぼくはもうこんなことを言われて耐えられない。これまで、自分の悪いところを直せば差別されないんじゃないかだとか、自分の性格をこう変えてみようとか、いろんな努力をしたりしてきたけど、さすがに、どうして、ここまで、バカにされなくちゃ、いけないんですか……。」

傷つく人々が見せる「怒りのパワフルさ」は、一面でしかない。【次ページに続く】

(2)ドキっとする人

差別について話題になるとき、私たちの中には必ず「ドキッとする人」があらわれてくる。「うわ~。自分も、知らないうちに差別している側にいたらどうしよう」というアレである。自分も同じように糾弾されてしまったらどうしょうと妄想し、シミュレーションし、冷や汗をかきそうになる。同時に、そのテーマについて何を話してよいのかわからなくなってしまうのだ。

たとえば私はLGBT当事者なので、このトピックについてはマイノリティだが、日本国籍があるので、外国人差別について話す場で緊張してしまうこともあるし、高学歴かつ正社員なので、そうでない人たちの目に自分がどのように映っているのかは、なかなかわからない。

差別というのはあまりに「してはいけないこと」と固定化されているために、たいていの場合、私たちは「差別について話すとき」に、自分が差別者の側にまわることだけはカンベンこうむりたいと願う。

その結果、私たちはお互いのことを話せなくなる。

心理学者のA.ミンデルは、反差別主義(差別をなくすべきという考え方)は、マイノリティに対する抑圧や偏見を見えなくさせて、問題に取り組むことを難しくさせてしまうと指摘している。実際のところ、「ダメ・ゼッタイ」的なアプローチでは、私たちは、お互いの違いについてさえ話せなくなってしまうのだし、差別の問題は、本当は「いつも、どこでも、だれにでも」起きていることなのだ。

必要な情報を知らなければ、人権を守ることのほうが難しい。

(3)管理する人

傷ついたり、ドキッとしたりする人に対して、あらわれてくるのが「管理する人」だ。私たちは感情的なコミュニケーションや、自分が差別者の側に立つかもしれないという不安からは解放されたいので、なんとかして問題を解決しようとする。

すると、結果としてあらわれてくるのは「心で何を思っても良いが、口に出すのがいけない」「差別だとネーミングし、問題視するほうが悪い」「公人としての立場にそぐわないからいけない」「とにかく問題になることが問題」といった、言動のあらわれ方についての議論が立ちあがってくる。感情にふれることはやっかいなので、ここで一つ問題が表面化しないようなルールを作っておこうというわけである。

公の場でのマナーや社会常識というのはある程度は必要だし、公務員倫理などの規範をある程度定めておくことは有効だろう。しかし、それでは差別や抑圧の構造はいつにたっても解消されない。前述したように、大半の人はLGBTについて正確な知識をもっていない。

その中で、単に「よく知らないが、LGBTについて失礼なことを言うのはマナー違反」という新たな常識ができたところで、新たな常識や新たな多数派、新たな力が、古い常識や古い多数派をやりこめるだけでタブー化していくだけである。

必要なのは個人の素質をなじることではなく、人権を守るために最低限必要な知識を、だれもが得られるような環境を作ることだ。

感情こそが大事

昨年ニューヨークを訪れたとき、同性婚の運動を進めていたアクティビストがこう言っていた。「平等には、二つあるんだ。法的な平等(Legal Equality)と、生身の平等(Lived Equality)だ。どれだけ法律や制度が変わっても、感情が変わらなければ安心して生きやすい社会にはならないだろう」と。

彼は、たくさんの物語を話してくれた。片方がパーキンソン病にかかったレズビアン・カップルのおばあちゃんの話。その二人の連れ添った人生や、パートナーの献身がどれほど素晴らしかったのか。指輪をつけることができずに、胸におそろいの小さなアクセサリーをいつも身に着けていた彼女たちの権利が守られないことがどれほど悲しいことなのか。

あるいは、楽しみにしていたディズニーランドにいった子どもが、突然救急車で運ばれたときのこと。その小さな子どもは「お母さんはだれ?」と言われ、二人のマミーがいると答えているのに「ひとりを選びなさい」と何度も強く言われてしまったこと。ディズニーランドが好きだったのに、それがトラウマになってしまったということ。

このような、これまで聞かれなかったような大切な物語は、日本にもたくさん溢れていて、LGBTをめぐる問題の焦点とは、法律や制度などいろいろあっても、結局は感情の問題に集約されていくのだろうと思う。

みんなが納得もしていないことを規則で決めても、その規則は実際には重宝されない。それどころか、何がいけないのか理解することもなく感情を封じ込められた人は、傷ついているマイノリティのことを勝手に「力のあるモンスター」のように誤解するようになってしまう。

管理する人によって、感情を軽んじられないようにすることがもっとも大事ではないだろうか。「嫌いと言ってはいけません」でも「嫌いになってもいけません」でもなく、「あいつは友だちとして好き」と言える関係をどう増やしていくかを考えていきたい。

☆最後に宣伝。10000人の医療・福祉関係者にLGBTのニーズを知ってほしい!という冊子プロジェクトを現在やっています。クラウドファンディングのページはこちら。ぜひお力を貸してください!
「10,000人の医療・福祉関係者にLGBTのニーズを知ってほしい!」
http://japangiving.jp/p/2689

プロフィール

遠藤まめた「やっぱ愛ダホ!idaho-net」代表

1987年生まれ、横浜育ち。トランスジェンダー当事者としての自らの体験をもとに、10代後半よりLGBT(セクシュアル・マイノリティ)の若者支援をテーマに啓発活動を行っている。全国各地で「多様な性」に関するアクションや展開している「やっぱ愛ダホ!idaho-net」代表。著書に『先生と親のためのLGBTガイド もしあなたがカミングアウトされたなら』(合同出版)

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