2016.01.07

新春暴論2016――「性的少数者」としてのオタク

山口浩 ファィナンス / 経営学

社会 #新春暴論#性的少数者

何やら、毎年この時期に「新春暴論」と題した文章を書く流れになっているっぽい。「暴論」かどうかは皆さまにご判断いただくとして、今年もひとくさり。

いつもの通り長いので、要点を以下の通りまとめておく。

◎性的少数者をあらわすことばとして最近よく「LBGT」が使われるが、他にも多様な性的少数者がいる。LGBTはこの意味で限定的な概念であり、他の多様な性的少数者を切り捨てている部分がある。特に、性的少数者の概念が提唱された当初は含まれていた、性的嗜好に関する少数者を含めていないこと、また彼らを一段下に見ているふしがあることは、社会における多様性を旗印とするLGBTの主張との間に齟齬があるように思われる。

◎小児性愛やレイプなど、実行すれば犯罪となる行為を描いたマンガ、ゲームなどの創作物を消費する一部のオタクは、これにより自らの性的嗜好を実行に移すことなく充足させ、社会と共存している性的少数者といえる。犯罪抑止効果のないマンガ等のさらなる規制は、彼らの権利を不当に侵害するものである。表現規制に反対する根拠として、従来の表現の自由と併せて、こうした性的嗜好に関する少数者の権利を主張していくべきではないか。

「少数者」の権利

2015年は、いわゆる性的少数者の権利や社会的立場に関して大きな動きのあった年だった。

米国では6月、同性婚を禁じる州法が合衆国憲法に反するとする判決が出た。この時点で同性婚は、36州とワシントンDCで行われ、14州で禁止されていたが、これで保守的な風土の諸州を含む全米で合憲となった。

同性婚「全米州で合憲」 連邦最高裁判決、論争に決着(朝日新聞2015年6月27日)

http://digital.asahi.com/articles/ASH6V7R3KH6VUHBI044.html

これ自体は世界的にみれば必ずしも早いというわけではない。同性婚および登録パートナーシップなど同性カップルの権利を保障する制度を持つ国・地域は世界中の約20%の国・地域に及ぶという。ヨーロッパでも少なからぬ数の国ですでに合法化、あるいは一定の対応をとっている。それでも、世界で最も影響力の大きい国であり、かつ宗教右派との関連で抵抗の大きい州もあるにもかかわらず全米で、というのが大きなインパクトを持つ。

世界の同性婚

http://emajapan.org/promssm/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%90%8C%E6%80%A7%E5%A9%9A

同性婚との関係ではカトリックも否定的だが、この点で注目されるのは5月、カトリック信者が多数派を占めるアイルランドで同性婚を認める憲法改正が行われたことであろう。国民投票でこれを認めるのは世界初だという。

同性婚、国民投票で認める アイルランド、賛成6割(朝日新聞2015年5月24日)

http://digital.asahi.com/articles/ASH5S2SF4H5SUHBI00W.html

もちろんこれは、カトリック全体の話ではない。バチカンは10月、「家族のあり方」を論じる世界代表司教会議における3週間の議論の末、これまで通り同性婚は認めないことを確認する報告書を発表した。

同性愛など原則維持 カトリック司教会議、差別は戒める(朝日新聞2015年10月26日)

http://digital.asahi.com/articles/DA3S12035181.html

 

カトリック信者の多いスロベニアでも12月、国民投票が行われたが、アイルランドとは逆に、同性婚は認めないとの結論が出た。

スロベニア、同性婚に「ノー」 国民投票で反対多数(朝日新聞2015年12月21日)

http://digital.asahi.com/articles/ASHDP5H56HDPUHBI02Y.html

しかし、こうした否定の動きも、同性婚容認の動きが世界的に盛り上がっているからこそ出てきたものといえる。法王フランシスコは自らの改革路線を否定された後も、「神は新しいことを恐れていない」とのメッセージを出した。

法王フランシスコ「神は新しいことを恐れていない」 同性愛者の許容案が保守派の反対で立ち消えた翌日に(The Huffington Post2014年10月20日)

http://www.huffingtonpost.jp/2014/10/19/vatican-catholic-scrap-welcome-to-gays_n_6011014.html

一方日本では、現在のところ、憲法第24条に反するとして同性婚を認めていない。しかし地方自治体の中には、渋谷区のパートナーシップ条例のように、法的には認められなくとも、同性カップルに対し、一定の社会的に認められた地位を与えようとの動きが出ている。世田谷区にも同様の動きがある。

同性パートナー条例成立 渋谷区 全国初、偏見解消促す(朝日新聞2015年4月1日)

http://digital.asahi.com/articles/DA3S11681216.html

 

同性カップル対象、世田谷区も証明書(朝日新聞2015年7月30日)

http://digital.asahi.com/articles/DA3S11888507.html

概観すると、異論はあるにしても、これまで認められず苦しんできた性的少数者たちの存在と権利を認める社会へと動き始めているようにみえる。いろいろご意見はあろうが、個人的には「人に迷惑をかけない限り自由がいいのではないか」と考える立場なので、全体として結構なことではないかと思う。

LGBT以外の性的少数者

ここまでが前置き。さて本題。

「性的少数者」ということばは「sexual minority」のほぼ直訳だろうと思うが、近年はこれに代わって「LGBT」がよく使われる。この表現は、見ての通りLGBT、すなわち「Lesbian、Gay、Bisexual、Transgender」の4種類を列挙したものだ。

これを推進した人たちは、「sexual minority」の「minority」という表現自体が一種の差別的ニュアンスを含む、代わって用いられた「gay」だとLやBやTの人たちが含まれない、などの理由から、よりポジティブなことばとして、この表現に至ったらしい。

しかし、LGBTは全体からみれば数%の少数派ではあるので、個人的には「sexual minority」という表現の何が問題なのかいまひとつ実感がわかない。少数者として差別されてきた歴史的経緯があるのはわからなくもないが、現在は過去ほどではないだろう。「少数者」という呼称自体を差別と感じるのは、そう感じる人自身にも少数者を低くみる発想があるからではないか、という気がしてならない。

性的少数者は7.6% 7万人対象、電通ネット調査(朝日新聞2015年4月24日)

http://digital.asahi.com/articles/ASH4R5TZ1H4RUTFL00H.html

レズビアンやゲイ、性同一性障害者ら性的少数者の割合は7・6%――。電通が、成人約7万人に実施したインターネット調査の結果を発表した。2012年に行った同様の調査では5・2%で、19人に1人から13人に1人に増えた計算だ。

また、どんな集団も、細かく分ければ少数者の集まりなのであって、それを何らかの旗印を掲げて集めれば、その勢力を拡大することができる。それが多様性を認めようという旗印であるなら、「少数者」グループの中でも比較的「多数派」であろうLGBTだけ取り上げるのは、性的少数者の多様性を考えると排他的であり、それ以外の少数派をminorizeするという意味では、多様性という旗印に逆行する、いわば天に唾する行為ではないかとも思える。

似たようなことを考える人はいるようで、他の類型の人たちも含めようという話が出ているわけだが、何しろ性的少数者は実に多様なので、頭文字を集める方式だと、略称はどこまでも長くなる。

LGBTQ(LGBTにqueerを加える)やLGBTI(intersexを加える)あたりはまだ短い方で、長くなるとLGBTTQQIAAP(LGBTにtranssexual、queer、questioning、intersex、asexual、ally、pansexualを加える)とかLGBTTQQFAGPBDSM(LGBTにtranssexual、queer、questioning、flexual、asexual、gender-fuck、polyamorous、bondage/discipline、dominance/submission、sadism/masochismを加える)とか、とても覚えられそうにないところまでいく。これでも全部ではないだろう。

一部には「GSD」(Gender and Sexual Diversities)という表現を提唱している人たちもいて、これはかなり包括的だし短くていいと思うが、何と呼ぶかより重要なのは、実際に何を含めることにするかという定義の問題だ。

Wesleyan University creates all-inclusive acronym: ‘LBTTQQFAGPBDSM’(February 25, 2015)

http://theweek.com/speedreads/541158/wesleyan-university-creates-allinclusive-acronym-lbttqqfagpbdsm

 

‘Gender And Sexual Diversities,’ Or GSD, Should Replace ‘LGBT,’ Say London Therapists(The Huffington Post 02/25/2013)

http://www.huffingtonpost.com/2013/02/25/gender-and-sexual-diversities-gsd-lgbt-label-_n_2758908.html

たとえば、2015年7月に米国モンタナ州の男性が、彼の2人の妻との結婚を認めよと結婚届を提出した、と報じられた件がある。米国でも重婚は法律で禁止されているはずだから、かつての同性愛と似た状況だ。

「宗教上の理由」(多くの場合はカルトだろう)で、こうした人々は米国に一定数いるらしく、2011年にも、4人の妻と結婚しているユタ州の男性が重婚禁止法を違憲として訴えた事例がある。

Montana man applies for polygamous marriage license(USA TODAY Network July 2, 2015)

http://www.usatoday.com/story/news/nation-now/2015/07/02/montana-polygamous-marriage-license-supreme-court/29612673/

 

Polygamist, Under Scrutiny in Utah, Plans Suit to Challenge Law(The New York Times JULY 11, 2011)

http://www.nytimes.com/2011/07/12/us/12polygamy.html

いうまでもなくこの人々も性的少数者だが、LGBTには含まれていない(polyamorousの一類型ではあるのだろうから、LGBTTQQFAGPBDSMであれば含まれることになろう)。

カルトに関しては別の問題もあるのだろうが、たとえばイスラム教のさかんな国では男性が複数の妻と結婚することが許されている場合もあるから、イスラム教徒の比率が上がりつつある欧米社会において、今後重婚の問題がよりクローズアップされるタイミングはあるかもしれない。その際には、ポリアモリーの人々の権利や社会的立場についても議論になるのだろう。

深海菊絵(2015)『ポリアモリー 複数の愛を生きる』平凡社新書.

多様性の中の「切り捨て」

その観点でもう1つ、現代の議論の中であらかた抜け落ちているものがある。性的嗜好に関する少数者だ。LGBTにBDSMが含まれていない点は上記の通りだが、性的嗜好はもちろんこれだけではない。

WHO が定める疾病及び関連保健問題の国際統計分類であるICD-10では、性的嗜好の障害として、次の10の類型を挙げているが、あまりに多様なので、数の少ないものに関しては、後ろの方で「その他の」とくくっている。

かつては同性愛も以前のバージョンのICDには含まれていたが、ICD-10策定の際に削除された。念のため書いておくが、このリストに名前が挙がっているからといって、これらの性的嗜好そのものが精神障害であるというわけではなく、精神障害がこうした性的嗜好の形をとってあらわれるということである。

The ICD-10 Classification of Mental and Behavioural Disorders

Diagnostic criteria for research

http://www.who.int/classifications/icd/en/GRNBOOK.pdf

F65.0 Fetishism

F65.1 Fetishistic transvestism

F65.2 Exhibitionism

F65.3 Voyeurism

F65.4 Paedophilia

F65.5 Sadomasochism

F65.6 Multiple disorders of sexual preference

F65.8 Other disorders of sexual preference

F65.9 Disorder of sexual preference, unspecified

LGBTの権利は話題に上るようになったのに、こうした性的嗜好の人々の権利はそうはならないのはなぜだろうか。LGBのような性的指向とこれら性的嗜好は異なる、というロジックなのだろうが、もともと1960年代にスウェーデンのUllerstamが、ethnic minorityになぞらえて初めて「性的少数者」の概念を提唱したとき、その中にはこれら性的嗜好に関する「少数者」も含まれていた。

Lars Ullerstam (1967). The Erotic Minorities: A Swedish View.

Calder & Boyers, London. (Originally Published in 1964 (Swedish).

確かに現在、性的指向と性的嗜好は区別されている。性的嗜好には選択の余地があるが性的指向にはないというロジックだそうだが、実際のところ、選択の余地のないほど強い嗜好(性嗜好ゆえに犯罪にまで走る人は概ねそうなのではないか)もあれば、選択の余地のある弱い指向(bisexualにはそういう人もいるだろう)もある。

専門家の議論に素人が口をはさむのもどうかとは思うが、この区別はやや恣意的な、もしくはLGBを病気扱いさせたくないがゆえの為にする議論のようにもみえる。

Committee on Lesbian and Gay Concerns (1991). “Avoiding Heterosexual Bias in Language.” American Psychologist 46, 9: 973-974.

http://www.apa.org/pi/lgbt/resources/language.aspx

いわゆる適応的基準(所属する社会での生活が円滑にできるかどうか)や価値的基準(規範から逸脱しているかどうか)の観点から性的指向と性的嗜好を分ける議論もある。前者は社会に適応できるが後者はできないというロジックであろうか。

しかし前者が社会的に適応できるようになったのはLBGT運動の結果でもあるから、それで区別の根拠を説明しようとしても、「性的指向は社会的に許容すべきだから許容される」という循環論法にしかならない。

LGBのことをよく「恋愛対象が~の人」などと説明するが、それは同時に「性的関心の対象が~の人」をマイルドに言い換えたものでもある。後者の意味でなら、それは性的嗜好の問題に近いだろう。異なるものをいっしょにすべきではないというなら、そもそもLGBTも性的指向であるLGBと性自認であるTをいっしょくたにしている。

いずれにせよ、医学的な診断として両者を区別するのが正しいとしても、人の権利として考える際に、性的指向の少数者の権利は尊重するが性的嗜好の少数者の権利は尊重しなくてよいというような区別をすべき合理的な理由は私には見いだせない。

要するにいいたいのは、当初は含まれていたにもかかわらず、現在、多様な「少数者」の中で一部ないし全部の性的嗜好を除いているのは、「何を守るべきか」に関する意図的な選択だということだ。

もちろん、運動は当事者が自分たちの権利を主張するものである以上、最初は声を上げた同性愛者自身の権利を中心に据えるのは当然だろう。しかし、社会の中での多様性を旗印としてLGBTの権利を謳うのであれば、その他の多様な少数者たちをすくい上げる必要があるのではないかと思う。

残念ながら、現在に至るまでそうした動きは弱い。多様性という割には、LGBTという限定列挙になってしまっているだけでなく、LGBTの中ですら、たとえばLGBの人たちがTの人たちを排除しようとする動きがある。LGの人たちがBを排除する動きも、LとGの間の対立もあったと思う。

“T”がLGBTから除外される?オンラインで数百の署名が集まる(LETIBEE LIFE 2015/11/9)

http://life.letibee.com/community/drop-t-petition/

 

性的嗜好を含めない理由として、それらは性に直結していて、正面から認めづらいということもあるだろう。「性的関心の対象」を「恋愛対象」と言い換えてしまうあたりも、おそらくは性的関心を程度の低いものとみている表れだ。

中には小児性愛や窃視のように、実行すれば犯罪となりうる行為も含まれていて、これらを権利問題の論点とすれば自分たちが批判されるかもしれない、という点も、排除したくなる要因だろう。

しかし、あえて悪い言い方をすれば、このようなやり方は、自分たちだけ特別扱いで権利を主張し、そこから漏れた人たちを切り捨てる「名誉白人」型アプローチであるともいえる。

GSM acronym better than LGBT alphabet soup(Collegeate Times October 23, 2014)

http://www.collegiatetimes.com/opinion/gsm-acronym-better-than-lgbt-alphabet-soup/article_f7a325a4-5acd-11e4-bf0d-001a4bcf6878.html

運動をしかける側として、多くの賛同を得るために、賛同を得られにくい要素を切り離すこと自体は、理解できる。しかし、それでいて多様性や少数者の権利を主張するのは、やはり自己矛盾であろう。私がLGBT運動に基本的には賛同しつつもいまひとつ乗り切れないのは、そうしたある種の「ご都合主義」のようなものを感じるからだ。

もちろん、LGBT運動やその意義を否定するつもりはない。苦しい状況から地道な努力で成果を積み重ね、世界規模で大きな社会的変革をなしとげつつある。ただ、少なくとも現時点で、この運動の周辺に多くの「切り捨てられた少数者」たちが存在することは否定できない。

LGBTでない人たちの中に多様な性的嗜好がある以上、LGBTの人たちの中にも、性的嗜好の上で何らかの少数者である人がいるだろう。そうした人たちもまた、切り捨てられる側に含まれる。

性的嗜好と性犯罪

上記のような、性的嗜好に関する主張をすると、「お前は変態なのか」といった声がすぐに上がる。「気持悪い」とか「人間性を疑う」とかもいわれるかもしれない。これらはかつて(おそらく今も)LGBT運動の支援者たちを苦しめた言説と同種のものかと思う。せっかくの新春「暴論」であり、言い訳をすること自体この差別構造に乗っかってしまうことでもあるので、そうした、人を黙らせるための言論は気にせず進める。

もちろん、性犯罪を許容せよというような話ではない。そもそも性的嗜好と性犯罪を直結させること自体がまちがいだ。どんな性的行為も相手の同意なしに行えば犯罪になる。BDSMも、同意の上で行われることを前提として上記の長ったらしい15文字の中に入っているわけだ。

そのまま行えばまごうことなき性犯罪であるレイプにしても、合意の下でロールプレイとして行う分には他人が口出しする領域ではない。実際、よくいわれる「レイプ願望」は、性的ファンタジーのモチーフとしては珍しくない、という研究がいくつもある(だからといって実際のレイプが肯定されるわけではないことはいうまでもない)。

Joseph W. Critellia & Jenny M. Bivonaa (2008). Women’s Erotic Rape Fantasies: An Evaluation of Theory and Research. The Journal of Sex Research 45, 1: 57-70.

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/18321031

 

Arndt, William B.; Foehl, John C.; Good, F. Elaine (1985). “Specific sexual fantasy themes: A multidimensional study.” Journal of Personality and Social Psychology, 48, 2: 472-480.

http://psycnet.apa.org/?&fa=main.doiLanding&doi=10.1037/0022-3514.48.2.472

小児性愛については、意味のある同意ができる年齢に達していない相手に対して、同意がある状況を考えるのは難しいだろうが、それとてファンタジーのレベルでそうした願望を抱くこと自体が糾弾されるいわれはない。

実際、子供に対する性虐待の約半分は小児性愛でない人々によって行われており、またこの傾向のある人であっても実際に子供への性虐待に走るのは一部であるから、小児性愛の傾向を持つ人を性犯罪者予備軍であるかのようにみるのは、男性同性愛者は男子更衣室で他の男性にセクハラを働くに違いない、女性同性愛者は女性用トイレで覗きをするのではないか、といった類の差別的な言説であろう。

M. Ashley Ames, David A. Houston (1990). “Legal, social, and biological definitions of pedophilia.” Archives of Sexual Behavior 19, 4: 333-342.

http://link.springer.com/article/10.1007%2FBF01541928#page-1

 

Michael C. Seto (2009). “Pedophilia.” Annual Review of Clinical Psychology 5: 391-407.

http://www.annualreviews.org/doi/abs/10.1146/annurev.clinpsy.032408.153618

すなわち、一見「危険」「異常」とも思える性的嗜好を持っていても、犯罪を犯すことなく円満に通常の社会生活を営んでいる人が多数いるのであって、それはLGBTの人たちの多くが(生きづらさを感じているとしても)社会と共存して生活しているのと同じことだ。性的嗜好を性的指向より格下の、一緒に扱ってはいけない存在であるかのようにみるのはまちがっている。

表現規制とオタク

こうした性的嗜好に関する「少数者」たちは、上記の研究などによれば、LGBTの人たちとそれほど変わらない比率でいるようにみえるが、その権利を主張する人はほとんどいない。

LGBTについては彼らが社会生活を送る上で感じる「生きづらさ」やいじめに遭うことなど、さまざまな問題に対する配慮を行うべきとする考え方が出始めているが、性的嗜好に関する「少数者」たちについて、こうした動きはみられない。

これらの人たちが特段生きづらさや不便など感じていないというなら、別に問題はないのだろう。では実際のところ、彼らはLGBTの人たちのような生きづらさを感じていないのだろうか?

私が知らないだけなのかもしれないが、少なくとも、LGBT運動の中で、性的嗜好における少数者の問題を取り上げたものを見たことはない。ただ含まれていないだけではない。

かつてある心理学者が、LGBTの権利に関連して、性的指向と性的嗜好を混同してちゃかす趣旨の発言をツイッター上で行った(後にこの学者は謝罪した)際に起きた炎上の経過を見ると、批判者たち(LGBT、支援者、あるいはシンパシーを感じている人が多いのであろう)の批判の中には明らかに、性的嗜好を性的指向より劣ったものとみる考えがあることがうかがわれた(この心理学者の当初発言を擁護するものではない。念のため)。

性的嗜好といっしょにされたことで、性的指向であるLGB、性自認であるTがばかにされた、と感じたようだ。

「同性愛サポートか~次はロリコンとか熟女マニアとかもサポートしなくちゃな。」(Togetter – 2013年1月)

http://togetter.com/li/435173

米国において、アングロサクソン系市民の差別の対象だったアイルランド系、イタリア系市民が最もアフリカ系市民を差別したという話を思い出す。ハワイにおける戦前の日系移民が韓国系移民を差別したという話も聞いた。

見下した視線の対象となること、社会的に認められないことが生きづらさにつながるというのであれば、これは十分、生きづらい状況だろう。特に性的嗜好はデリケートな問題であり、知られれば名誉や交友関係、社会的地位やときには仕事まで失いかねない状況があるかもしれない。もしそうならこれは、差別に苦しんでいる、といってもいいのではないか。

本稿では特に、小児性愛やレイプ、あるいは窃視など、実際に行えば犯罪となるような行為を扱ったマンガやゲームなどの創作物の愛好者を取り上げてみる。

こうしたテーマは、マンガやゲームなどの中では1つのジャンルになっていて、比率はわからないが、数多くの作品がある(以前、コミックマーケットで買った「エロマンガ統計」というタイトルの同人誌によれば、2007年2月時点で流通していた成人マンガ誌――一般人の目に触れないよう配慮の上販売されているもの――に掲載されたマンガのうち、女性に対する強姦的な行為が描写された作品は全体の33%、女性キャラクターが高校生以下である作品は全体の40%であったという)。

サークル:でいひま (2007)「エロマンガ統計」

http://ventdejade.seesaa.net/

それだけ多くの作品があるのであれば、それなりの数の読者がこうした作品を読んでいることになる。こうした読者の多くは、読んでいるぐらいだからそうした性的嗜好を持ってはいるのだろうが、これらを娯楽作品として消費するだけであって、実行に移そうなどとは思っていないだろう(極端な場合には、実在の人間より表現物の中のキャラクターに惹かれる層もいる。いわゆる「二次コン」である)。

こうした層の人々を、以後本稿では「一部オタク」と呼ぶことにする。マンガやアニメ、ゲームなどのファンを意味するいわゆるオタク層の中の一部、ぐらいの意味であり、これ自体に特段の意味をこめたものではない(本稿タイトルの「オタク」もこの意味であるが、以下の本文においては「オタク」と「一部オタク」は使い分けている)。

この一部オタクは性的嗜好における少数者にあたるわけだが、彼らは以前から、差別的視線にさらされ続けてきた。最もひどかったのは、1988~89年に発生した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の直後だろう。

精神鑑定の結果、犯人は本来的な小児性愛者ではなく、成人との関係を結ぶことをあきらめて幼女を代替としたものであったとされるが、彼が自室に大量の性的な――俗にロリコンものと呼ばれるジャンルの――マンガやアニメなどを蒐集していたと報じられたことから、こうしたコンテンツの主な消費者である一部オタクは、その後激しい差別と嫌悪の目にさらされることとなった。

実際のところ、犯人の自室にあったものの大半は性的なものではなく、報道による印象操作が行われたとする証言があるが、その真偽はともかく、差別が起きたのは事実である。

事件報道のリソースに「恣意的な映像」を加えていたマスコミ、それを黙認するマスコミ。

http://archive.is/20120709165211/erict.blog5.fc2.com/blog-entry-165.html#selection-83.1-83.42

その後、オタク全般に対する社会的認知が次第に進み、1990年代ほどひどい差別は影を潜めつつあるが、だからといって、一部オタクに対する差別がまったくなくなったわけではない。現在、これが最も鮮明なかたちで出てきているのは、マンガやアニメなどに関する表現規制の問題ではないかと思う。

この問題に関する一部オタク擁護論はこれまで、主に表現の自由という観点から論じられてきた。もちろん、あらゆる表現が無制限に許されるというわけではない。たとえば刑法第175条のわいせつ物頒布等の罪、児童ポルノ禁止法、あるいは各都道府県の青少年の健全な育成に関する条例の該当規程など、さまざまな規制がある。しかし、憲法が保障する表現の自由との関係で、そうした規制も必要最小限にとどめるべきである、という主張だ。

しかし近年、マンガなどの創作物における性表現の規制、もしくは事実上の規制につながる動きがあちこちで出ている。特に大きな問題となったのは児童ポルノ関連であろう。

2010年に東京都少年の健全な育成に関する条例が改正された際に「非実在青少年」なる珍妙な定義でマンガが規制の対象となりかけ、最終的に「違法な性的行為や近親相姦を、不当に賛美し又は誇張している」との定義で「非実在性犯罪」を規制することとなった件、2014年に児童ポルノ禁止法が改正され、単純所持が違法となった際、マンガやアニメが規制対象となりかけた件など、規制強化に向けた動きが相次いだ。

都育成条例改正案、成立 本会議で可決(ITmediaニュース2010年12月15日)

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1012/15/news051.html

 

児童ポルノ禁止法が改正、単純所持に罰則 漫画・アニメは除外(The Huffington Post 2014年06月18日)

http://www.huffingtonpost.jp/2014/06/18/child-porn_n_5505956.html

こうした動きは政党、特に与党の政策とも関係しているが、同時に国際的な圧力を受けたものでもある。2009年、国連女子差別撤廃委員会は日本に対し、マンガやゲームを児童ポルノとして規制すべきとの勧告を行った。

女子差別撤廃委員会の最終見解(仮訳)

http://www.gender.go.jp/whitepaper/h22/zentai/html/shisaku/ss_shiryo_2.html

35.委員会は,「児童買春・児童ポルノ禁止法」の改正によって,この法に規定する犯罪の懲役刑の最長期間が延長されたことなど児童買春に対する法的措置が講じられたことを歓迎する一方,女性や女児への強姦,集団暴行,ストーカー行為,性的暴行などを内容とするわいせつなテレビゲームや漫画の増加に表れている締約国における性暴力の常態化に懸念を有する。委員会は,これらのテレビゲームや漫画が「児童買春・児童ポルノ禁止法」の児童ポルノの法的定義に該当しないことに懸念をもって留意する。

36.委員会は,女性や女児に対する性暴力を常態化させ促進させるような,女性に対する強姦や性暴力を内容とするテレビゲームや漫画の販売を禁止することを締約国に強く要請する。建設的な対話の中での代表団による口頭の請け合いで示されたように,締約国が児童ポルノ法の改正にこの問題を取り入れることを勧告する。

「わいせつなテレビゲームや漫画の増加」が「性暴力の常態化」であるとする恐るべき短絡ぶりだが、彼らは大まじめだ。2015年10月には「子どもの売買、児童売春、児童ポルノ」に関する特別報告者であるマオド・ド・ブーアブキッキ氏が来日し、記者会見において、日本に対し、子どもを「極端」に性的に描いた漫画を禁止するよう呼び掛けた。

「極端な」児童ポルノ漫画は禁止を、国連報告者が日本に呼び掛け

AFP BB NEWS 2015年10月26日

http://www.afpbb.com/articles/-/3064264

 

児童ポルノ等に関する国連特別報告者との面談

山田太郎 2015年10月22日

http://www.huffingtonpost.jp/taro-yamada/child-pornography_b_8353022.html

性的少数者としての一部オタク

ここでいわれているような規制が行われれば、一部オタクがこれら規制対象となったコンテンツを楽しむ権利を阻害するだろう。しかし一部オタクたちは、そうした内容のマンガ等を消費することで、実際に行えば犯罪となるような性的嗜好を犯罪を犯すことなく充足させ、社会と円満に共存している。それが規制されることは、不当な権利制限とはいえないだろうか。三次元、すなわち実際に行うことができない行為を二次元、すなわちマンガなどで疑似体験して解消することは、規制されるべき行為なのだろうか。

もちろん、それが目的に照らして有益であり、かつ不可欠な規制であれば、やむをえまい。しかし、実際はそうではない。

ポルノグラフィの流通が性犯罪の増加につながるかどうかは、各国で研究されているが、政治的な意図をもった結論ありきの一部研究以外では、そのような関係は見出されていない。日本でも同様である。

Milton Diamond, Ph.D. and Ayako Uchiyama (1999). “Pornography, Rape and Sex Crimes in Japan.” International Journal of Law and Psychiatry 22, 1: 1-22.

http://www.hawaii.edu/PCSS/biblio/articles/1961to1999/1999-pornography-rape-sex-crimes-japan.html

日本で問題となったマンガについては、問題視されているものの多くは実際には成人向けではなく一般向けのものだが、1980年から1990年までの10年間でマンガ雑誌の売上げはほぼ倍増、マンガ単行本の売上げは3倍以上に増大となったが、強姦で検挙された刑事責任年齢少年男子は半分以下に減少(984名から445名)している。

松文館裁判 意見証人意見書(MIYADAI.com blog 2003-05-03)

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=59

そもそも、こうした創作物においては、被害者はいない。児童ポルノ規制において、児童に対する性虐待の防止は最大の法益ではないかと思うのだが、少なくとも日本の児童ポルノ規制を推進している人々は、マンガなど被害者のいない表現物を規制対象としたい意向を隠さない一方で、いわゆる着エロなど性虐待の成果物を規制対象外としていることには特段の問題意識を感じていないかのようである(この、着エロなどを対象外としていることについては、上記のブーアブキッキ氏も問題視していた)。

さらにいえば、一万歩譲って、そうしたマンガなどが犯罪を助長するなどの有害性を持っていたとしても、そもそも有害かどうかだけで決まる話でもない。たばこや酒、ギャンブル(日本では合法的なものは「遊戯」と呼ばれる)のように、健康や社会生活の安定に害がありうるにもかかわらず一定の制約つきで許されている場合は少なくない。

単に害があるかないかではなく、どの程度の有害性なのか、それはメリットを上回るほどのものなのか、規制以外に方法はないのか、どのような規制が有効なのか、規制の弊害は何かなど、総合的にその影響や意義を考えなければならない。そうした議論の積み重ねなしにただ規制してしまえばいいと主張するのは、てんかん患者には自動車運転免許を与えるな、HIV感染者は就職させるなといった主張と同じ類いの妄言だ。

科学的根拠に欠ける規制強化論者は、根拠がないとの指摘をいくら繰り返しても、聞く耳をもたないことが少なくない。科学的エビデンスをいくら積み重ねても放射能の恐怖を言い立て福島からの移住を叫ぶ人々を思い出す。

さまざまな「根拠」をつけて正当化されてはいるが、その裏にあるのは、つきつめれば「このような表現は保護する価値がない」といった価値判断、あるいは「ああいうのは嫌い」といった感情論である。

2017年4月に行われる予定の消費税率引き上げの際、同時に導入される予定のいわゆる軽減税率の対象品目に書籍など出版物を含めるべきかという議論において、「有害」出版物の存在が問題になっているのも、同じ理由だ。

軽減税率、出版物の線引き難航 自公が議論(朝日新聞2015年12月15日)

http://digital.asahi.com/articles/ASHDG6T2LHDGUTFK01K.html

青少年への悪影響が懸念される出版物を対象とすることには慎重論があり、その扱いや線引きが焦点となりそうだ。

とはいえ、表現の自由論だけでは、一般の人々に対する説得力が今ひとつ弱いのも事実だろう。表現の自由は「有益な表現だから守る」わけではなく、むしろ「無益、あるいは有害な表現であっても守る」という類のものだからだ。一部オタクたちが愛好するマンガやアニメなどに、一般の人たちが何か「積極的」な価値を見出すのはなかなか難しいだろう。

これまでの表現の自由論に加えて、彼ら一部オタクを性的少数者の一部であると位置づけ、そうしたコンテンツを消費することを性的少数者の権利であると主張してみてはどうであろうか。かつてそうだったように、性的少数者の中に、性的指向や性自認における少数者と同様、性的嗜好における少数者も含める、ということだ。

性的少数者である一部オタクたちは、犯罪に走るでもなく、誰に迷惑をかけるでもなく、社会と協調し平穏に暮らしながら、静かにマンガやアニメなどを楽しんでいる。それは、犯罪者の活躍を描いた映画を楽しんで見る観客が自ら犯罪を犯すわけではないこと、疾病を抱えた人が薬を飲みながら平穏な社会生活を送ることなどと似ている。

映画やマンガなどに影響されて犯罪に走る者も中にはいるかもしれないが、それは薬の乱用による副作用のようなものだろう。表現物の規制に走る前に、犯罪者に対する処罰や治療、あるいは犯罪を予防するための教育などで対処していくべき問題だ。上記のような表現規制への動きは、性的少数者への不当な差別以外の何物でもない。

もちろん、現状で何も変える必要がないというわけではない。対応が必要な分野はある。

上記の通り、現在の児童ポルノ禁止法は、着エロのようなものを規制対象としていない点で、法の目的と規制内容の間に齟齬がある。性虐待と無関係の表現規制を行おうとしている点もさることながら、何より実際に起きている性虐待を放置したままである点は容認できない。早急に法改正すべきであろう。これらに対しては、さらに厳しい取り締まりと被害者の保護、被害者予備軍をこれらから守るための諸施策がとられるべきである。

「児童ポルノ」でなく「児童虐待記録物」と呼ぶべきであるとする主張があるが、賛成だ。児童に限らず、ポルノコンテンツの制作過程において、性虐待が行われるケースは少なくない。業界構造に踏み込む政策的対応が求められる。

また、一般の人々の不快感の多くは、こうしたマンガ等の内容そのものより、それらが街中にあふれていることに向けられている。このことを考えれば、販売方法には改善の余地がある。成人指定となっている書籍についてはすでに販売場所の分離などがなされているが、問題は一般向け書籍における性表現だ(コンビニなどで売られているのはこちらだ)。

成人指定とすることで販売場所などの制約を受け、売上が落ちることを懸念しているのだろうが、こうした販売方法が表現規制への積極論を引き出しかねない状況に対して、もう少し敏感であるべきだろう。

多様性こそ豊かな文化

繰り返すが、LGBTの運動自体を否定するものではない。しかし現在のあり方は、社会における多様性を認めていくべきとする旗印に沿ったものとはなっていない部分があるように思う。

多様性を謳いたいのであれば、名称として、一部で提案されている、より包括的なGSDのようなものの方がより望ましいと思うが、仮にそのように変えたとしても、現在は残念ながら、それにふさわしい状況ではないのではないか。

もし、性的嗜好に関する少数者を性的少数者に含めることが、LGBT運動を貶めるものと考えているのであれば、それは内なる差別感情を暴露するものであり、少なくとも多様性を謳う主張とは相容れないだろう。

本稿は、マンガやアニメ、ゲームなどのさらなる規制をはかる動きに対して、表現の自由の観点に加えて、性的少数者の権利という観点から反論していくことを提案するものである。表現の自由は、それが民主主義社会の根本原則であると同時に、多様な表現が文化を豊かにし、社会の発展をもたらすとの考えに基づくものであろう。

多様な表現が文化を豊かにするのは、多様な人々が表現を発信できるからであると同時に、それを受け取る人々が多様だからでもある。

架空の表現が現実の犯罪に結びつくといった理由で規制強化を主張する人は、彼ら自身が架空と現実の区別がついていないだけでなく、自分たちの内なる差別意識が無関係な他人の権利を不必要に侵害し、傷つけていることに気付くべきだろう。

人口が減少に転じ、相対的な経済力も低下傾向にある我が国にとって、豊かな文化は、今後拠って立つべき付加価値の源泉である。

多様性を認め、互いを尊重しあう社会をめざすことは、少数者が生きづらさを感じずにすむ社会であるだけでなく、誰もが文化に貢献できるという意味で「一億総活躍社会」の旗印にふさわしいものであり、また、世界からさまざまな文化を取り入れさらにそれらを改良しながら独自の文化を作り上げてきた日本の伝統に沿ったものともいえるのではないだろうか。

プロフィール

山口浩ファィナンス / 経営学

1963年生まれ。駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授。専門はファイナンス、経営学。コンテンツファイナンス、予測市場、仮想世界の経済等、金融・契約・情報の技術の新たな融合の可能性が目下の研究テーマ。著書に「リスクの正体!―賢いリスクとのつきあい方」(バジリコ)がある。

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