『専門家』の責務としての科学コミュニケーション

2011年3月11日の東日本大震災と福島第一原発の事故は、さまざまな意味で日本社会に大きなインパクトをもたらしたが、そのなかでも大きなもののひとつは、「専門家」への信頼の深刻な毀損だ。一時流行語にさえなった「想定外」というコメントを耳にするたびに、また次々と重大な情報が伏せられていたことが明らかにされるたびに、地震予知や災害対策、あるいは原子力工学や放射線医学をはじめとする、災害や事故に直接深く関係する分野の専門家に対する信頼は大きく傷つき、また強い不信を抱かれるようになった。

 

このような状況になってしまった最大の原因は、もちろん、今回の事態への対応がうまくなかったことにある。彼らが次々と発生する事態に対して適切な対処ができなかったといういわば「能力の不足」への落胆には、少なくとも素人目には充分な根拠があるようにみえる。この点については、シノドスジャーナルの以前の記事「「ゼロリスク幻想」とソーシャル・リスクコミュニケーションの可能性」(http://synodos.jp/society/1764)において、いわゆるゼロリスク幻想との関連で取り上げたことがある。よしあしは別として、専門家たちは、ゼロリスクであるというメッセージを発しつづけてきたのであるから、それがそうでないことが明らかとなってしまった以上、不信を抱かれるのはいわば当然だ。

 

また、彼らがことさらに事実を明らかにせず、あるいは事実と異なる説明をするなど、私たちの信頼を裏切るかのような行動をとってきたことについては、弁解の余地はない。どう理由をつけようとも、広い意味でそれが彼ら自身の保身のため故意におこなわれたという要素は否定できない。やはり素直に反省し改めるべきところだろう。

 

しかし、今回のことを今回固有の問題とだけ考えていていればいいというものではない。専門家に対する同種の不信は他の分野でもかねてよりあったはずで、いわば既視感の強い見慣れた問題の一事例でもあるように思われるのだ。であれば、もっと一般的な文脈でとらえるべきなのではないか。

 

その観点で注目したいのは、専門家たちが、一般への知識の「啓蒙」に取り組んだほど熱心には、専門家間の見解の相違とその意味について、一般向けに説明しようとはしてこなかったのではないかという点だ。

 

 

すべては仮説・・

 

地震規模の予測にせよ低レベル放射線の人体への影響にせよ、科学的な知見には、必ずしも「正解」がわかっているとはいえないものが多い。社会科学や、自然科学でも実験が難しい分野、比較的新しい分野などであればなおさらだ。科学はそもそも「正解」を出しておしまいというものではなく、仮説をつねに検証しながらアップデートし、あるいは新たな仮説と入れ替えていくプロセスである。現実の課題に対して、専門家たる研究者のあいだで意見が異なることはごくふつうにみられる。

 

もちろん、多くの分野では「定説」、あるいは「有力説」といったものがあって、この点に関してはどちらかといえばこう考える人が多い、といったおおまかな認識ができていたりする。地震や原子力のような分野でどうであるかについてよくは知らないが、いわゆる「御用学者」批判が多くあったことからみて、そうしたものはあるのだろう。とはいえ少数派が存在したのも事実であろうから、議論がまったくなかったわけではないはずだ。

 

異なる学説や主張にはそれぞれの根拠があり、それぞれを裏付ける数々の研究成果がある。また、異なる分野の研究者が同じ問題に対して異なる見解を有することもままあることだ。実験や実践を伴う分野であれば、それぞれに成功例や失敗例があろう。つまり、現実の課題に対しての考え方が議論の余地がないほど一致していることはそれほど多くない。しかし、そうした状況は、研究者コミュニティの外にはあまり伝えられていない。

 

 

「先生」としての専門家

 

たしかに、研究者が一般の人々に対してその知見を伝える機会は、テレビなどのマスメディアを通じたものを含めれば、それなりに広範に存在する。しかし多くの場合、そうした場で意見を大きく異にする複数の研究者が同席することはない。1人しかいないということは、その研究者は、当該分野について「正解」を知っている啓蒙者としてふるまうことを期待されているわけだ。当然、その場ではその研究者の考えが「正解」とされるわけで、それとは異なる考え方があることに言及されることは少ない。これは別に「上から目線」だとかそういう話ではなく、知識のレベルに大きな格差があるがゆえに、自然といわば学校の先生のような役割を期待されてしまうということだ。

 

だから、仮にその場で、「正解」はまだわかっていないと正直に伝えたとしても、おそらくそれは聞いている人たちの記憶には残らないだろう。ほとんどの人は、「先生」の「教え」を疑うマインドセットにはないし、そもそも疑うほどの知見を持ちあわせていない。教えられたことをそのまま受け取るか、単純に忘れ去るだけだ。別の場で別の「先生」から別の意見を聞けば、それで知識を上書きするかもしれないし、しないかもしれない。共感すれば受け入れ、共感しなければ割り引いて聞くだけのことだ。なかには、異なる意見だということすら気づかない人もいるだろう。

 

こうした状況でも、通常は特段の支障はない。もちろんジャンルにもよるが、多くの場合、専門家から発信される情報の大半は、一般の人たちにとっては、日常生活の中では知らなくてもいい類のものなのだ。たとえ潜在的には自分たちに大きな影響が及ぶものだとしても、しかるべき人たちがしかるべくやっといてくれるだろうから、わざわざ口をはさむまでもない。せいぜい、居酒屋談義のネタになればいいという程度だろう。

 

しかし、いまはちがう。地震にせよ原発事故にせよ、今後どうなるかについて専門家の意見が分かれていて、かつその経過によっては、わたしたちが大きな影響を受けるかもしれない状況なのだ。これまで「正解」があると思っていた問題に異なる考え方があり、「先生」として信頼していた専門家はそのうちひとつの立場を代表しているにすぎず、少なくとも今回に関しては必ずしも状況を適切に扱えていないことがわかった。そしてそれゆえに、わたしたちは不安になっているわけだ。なかには、これまでの専門家はもう信用できないとして、「代替の選択肢」を提供してくれる別の専門家を信奉しようとする人もいる。

 

既視感をとくに強く感じるはこのあたりだ。これはわたしたちが政治や経済の分野で日々目にしている状況と瓜二つではないか。これらの分野では、「正解」が何なのかは必ずしもはっきりしていないし、実際「正解」と思われたことがそうでなかったことが明らかになるのも日常茶飯事だ。そして、当該専門家たちが状況をうまく扱えないことがわかった時点で、異なる考えの専門家が現れ、人々はそちらに乗り換える。そしてその後はまた同じことが繰り返されるわけだ。つまりこの問題は、専門家が関与する領域であればどこでも発生する可能性がある問題なのだろう。もちろん、後から出てきた方が正しいという保証はないし、そもそも盲信する先を乗り換えるだけではそこに進歩はない。

 

 

 

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