2017.08.04

「真正なる日本人」という擬制――蓮舫議員の二重国籍と戸籍公開をめぐって

遠藤正敬 政治学

社会 #二重国籍#蓮舫

二重国籍は「罪」なのか

さる7月27日、蓮舫参議院議員が民進党代表を1年足らずで辞任する意向を表明した。彼女を追いつめた要因が一連の二重国籍騒動にあることは大方の察するところであろう。昨年9月の党代表選出後に蓮舫氏が「台湾籍離脱の手続きは済んだ」と記者会見で発表し、とうにほとぼりの冷めたはずであったこの問題が、あろうことか党内から攻撃の火の手が上がり、再燃した。口火を切ったのは今井雅人衆議院議員である。彼は7月9日にツイッター上で、東京都議選で民進党惨敗という結果を受け、その咎は蓮舫代表の二重国籍疑惑にあるとして、「自ら戸籍も見せて、ハッキリ説明することから始めなければいけない」などと述べ、蓮舫氏に戸籍の公開を要求した。

加計学園問題、稲田防衛相問題と、相次ぐマイナス材料を抱え込んだ安倍政権の支持率が下降線をたどる中で、巻き返しを図りたい民進党の党勢が後退している原因が、ひとえに蓮舫代表の二重国籍問題に帰するわけもなく、「多様な価値観や生き方、人権が尊重される自由な社会」「誰もが排除されることなく共に支え、支えられる共生社会」の実現をめざすと党綱領に掲げながらの蓮舫氏に対する狭量な批判は「看板倒れ」のそしりを免れず、なおさらおのれの首を締めあげるに等しい。

蓮舫氏は降りかかる火の粉を払うべく、7月18日の記者会見で、日本および台湾(中華民国)の二重国籍解消を証明する戸籍情報などの関連資料を公開し、単一の日本国籍であることを説明した。これにて蓮舫氏は説明責任を果たし、峠を越えた、と思った矢先の辞任劇である。

蓮舫氏が二重国籍であることの問題点として指摘されてきたのは、二点に集約できる、

第一に、「法律違反」という点である。幾度も指摘されているように、国会議員が二重国籍であることは公職選挙法上、禁止されていない。よって、法律違反というのは、国籍法第14条第2項にある重国籍者の国籍選択に関する規定に対してということになる。

規定によれば、日本国籍の選択は、(1)外国の国籍を離脱する (2)日本国籍を選択し、かつ、外国の国籍を放棄する旨の宣言をする、のいずれかによって有効となる。蓮舫氏が採った方法は(2)である。この(2)は、法務省官僚によれば「日本国籍を維持し、併有する外国国籍を一方的に放棄するとともに、可能な限り外国国籍を離脱すること及び以後外国国籍に伴う権利・特権を行使しないこと等の意思があることを、我が国に対して宣明すること」である(黒木忠正・細川清『外事法・国籍法』ぎょうせい、1988、405頁)。

だが、諸外国においては自国民の国籍の離脱を制限ないし禁止している国もある。また、出生によって偶発的に国籍を取得した国の国籍法を本人が詳細に調べ、規定の手続きを履行するのは容易なことではない。こうした過重な負担を負わせてまで重国籍者に重国籍の解消を厳格に義務づけるのであれば、日本国籍の選択の方をあきらめる可能性が高くなる。だからこそ、国籍法第16条第1項では日本国籍を選択した場合も、外国籍を離脱するのは「努力義務」と規定するにとどめているのである。その努力義務を怠っても制裁は課せられないので、法務省官僚曰く「訓示規定」なのである(同上書、407頁)。

とどのつまり、国籍選択制度は重国籍解消の完遂を期待したものではなく、国籍選択の宣言は「忠誠の宣誓」のような儀礼的行為であり、選択宣言を済ませれば重国籍であり続けることに違法性はないということになる。「国籍唯一の原則」といっても、他国の法制との関係がある以上、これを貫徹するのは無理があり、このように緩和的にならざるを得ないのである。

そもそも国籍というのは、単に持っているだけでその国に居住の実態がなければ、国民としての権利を保障されないことが多い。例えば、国籍と選挙権の関係を考えてみればよい。「日本国民」であっても、一定期間、居住して住民登録した選挙区の選挙人名簿に記載されなければ、選挙権を行使できない。現実としては、重国籍者における片方の国籍は実効性のない形骸的な記号と化すのが専らである。

第二に、政治家としての責任という点である。それは、例えば次の如く語られる。国会議員は主権国家にあって国民の代表として立法府を構成する地位にあり、まして野党第一党の党首ともなれば、内閣総理大臣の座に就いて日本国民を統治する行政府の長となる可能性もある。そういう立場にある者が二重国籍を持つとなれば、二国間で紛争に至った時、日本に忠誠を尽くせるのか。万一、その国と内通することなどあれば国家の存亡に関わるではないか、という疑念を招く。だから、二重国籍という疑惑を晴らすべく、戸籍を公開して現在までの自身の国籍関係について明瞭な説明をすべきだ、というものである。

机上の議論としては、一応、成り立つ設定である。だが、実際には政治家には選挙という関門がある。もし二重国籍でありながら国政の中枢に昇りつめようと志す人間が立候補した場合、有権者が上述のような危惧を抱くのであれば一票を投じはしないだろう。逆にその者が当選したら、それは二重国籍でも政治的リーダーとして支持するという民意の結果である。 

これもすでに指摘されていることだが、欧米ではおおむね二重国籍を容認しており、米国、イギリスなど国会議員の二重国籍保有を禁止していない国も少なくない。これは、国会議員が重国籍であっても国政にさしたる弊害をもたらすことはないという認識の反映でもあろう。むしろ、蓮舫氏や小野田紀美氏のように立法府に従事する国会議員をもってしても国籍が二つあることに長年、気づかなかったように、片方の外国籍は希薄な記号と化すのである。

「戸籍をみせろ」という圧力

蓮舫氏が日本国籍者であることに疑いの余地はない。公職選挙法および同施行令により、国政選挙・地方選挙において、候補者は立候補するにあたり当該選挙の選挙長(選挙管理委員会に選出される)に日本国籍の証明として戸籍謄本を提出することが義務づけられている。したがって、蓮舫氏は立候補の時点で戸籍の提示によって日本国籍者であることを承認されている。

それでも、戸籍を公開せよ、という一部勢力からの要求は、昨年秋に二重国籍問題が浮上した時から噴き出していた。なぜ二重国籍の有無を調べるために戸籍を確認する必要があるのか。これは、戸籍法第104条の2により、重国籍者が国籍選択の宣言を行うには、国籍選択届を市区町村長に出すこととされているためである。では、なぜ国籍選択の宣言を戸籍に届け出るのか。それは、戸籍が「日本人」の登録簿であり、日本国籍を有することの公証資料であるからに他ならない。

ただし、「戸籍を公開する」と一口にいっても、戸籍の何を公開するかによってだいぶ意味は変わってくる。同じ戸籍にある家族すべての情報を記載した戸籍謄本なのか、個人の部分だけの情報を記載した戸籍抄本なのか、戸籍に記載されている情報のうち、必要な部分のみを証明する「戸籍記載事項証明書」なのか。蓮舫氏の国籍選択宣言の履行を確認したいのであれば、戸籍記載事項証明書があれば足りる話であり、わざわざ出生地や家族などの情報が載っている戸籍謄本を全国に開示する必要などない。

だが、蓮舫氏に戸籍開示を求める声は、「戸籍謄本をみせろ」という要求にほぼ収斂していた。蓮舫氏が戸籍謄本を公開することに対しては、党内から、そして人権団体や有識者やマスメディア(特に『朝日新聞』)から次のような反対の声が上がった。戸籍謄本は重要なプライバシーを含むものであり、戸籍が出自に基づく差別を生み出してきた歴史を考えれば、たとえ「公人」であろうと公開すべきではない。ここで蓮舫氏が圧力に負けて戸籍を公開すれば、今後、個人の出自を問いただす時に戸籍を提示させるのが当然だという「悪しき前例」をつくることになる。

では、なぜ戸籍が差別と結びつくものであるのか。

元来、戸籍は、国家が徴兵や徴税の対象となる国民を把握するために作成した台帳であった。それが国民の身分登録へと装いを改めたのは明治維新においてである。1872年に全国統一戸籍として「壬申戸籍」が編製されたが、これは動乱後の秩序を回復する目的もあって警察的な観点が強く、身許調査も兼ね備えていた。「士族」「平民」といった族称、前科、氏神神社などの記載がそうである。とりわけ被差別部落出身者について「新平民」「元穢多(えた)」、アイヌについて「旧土人」などと記載するなど、差別の意図が明らかな記録もあった。

この壬申戸籍の記載内容は、1886年に戸籍の様式が改製された後も引き写されたものがあり、これが大正、昭和になっても残っていた。それ以外にも、「私生子・庶子」、「棄児」などの記載や、出生地が刑務所や療養所であるといった記載がなされた戸籍もあった。こうして冷徹なまでに個人の出自を差別的に記録する戸籍に込められた国家の意図は、表面上は水平な「日本臣民」としつつ、そのなかに上下関係および抑圧関係を創り出し、重層的に管理・統合していくことであった。

そして戸籍は、「家の系譜」として長期間、保存される。戸籍に記載されている者が他の戸籍に入ったり、死亡したりして誰もいなくなると、その戸籍はお役御免となって「除籍簿」に綴られて保管される。また、戸籍法の改正によって戸籍が新しい様式に改製されると、改製前の戸籍(「改製原戸籍【はらこせき】」という)も保存される。どちらも2010年に保存期間が80年から150年に延長された。これにより家の血統のみならず、個人の詳細な出自について、戸籍を何代もさかのぼって追跡することができる。

加えて、1898年制定の戸籍法から「戸籍公開の原則」が明文化され、1976年の法改正までは、何人でも手数料を収めれば役場で自由に戸籍を閲覧することが認められていた。このため、興信所の身許調査などに戸籍が利用されたりすることで、社会において差別が再生産されてきた。そうした歴史と関わってきた人々からすれば、戸籍謄本をテレビカメラの前で全国公開しろと迫る空気は鳥肌が立つものであろう。

戸籍は「日本臣民」の証し

執拗に蓮舫氏に戸籍の公開を言い立てる人々に、「では、なぜ戸籍が「日本人」の証明となるのか?」と尋ねたら、どこまで明確に即答できるだろうか。答えは単純明快、戸籍には日本国籍をもつ者しか記載されないから、である。

近著『戸籍と無戸籍―「日本人」の輪郭』(人文書院、2017)でも述べたところであるが、戸籍は本来の目的や実質的な機能を離れて、「真正なる日本人の証し」という精神的価値をもってきた。古代から戸籍は天皇からみた臣民簿であり、戸籍に登録されない者は「まつろわぬ者」として監視された。大陸からの渡来人は、日本に帰化したら戸籍に記載され、異民族が天皇の「徳」に帰服した証しとして「氏」を授与された。

明治国家においては、1898年の明治民法施行により、国家の基盤として家制度が確立された。「家」とは、戸主によって統率される親族集団、換言すれば戸主と同じ戸籍に入っている集団である。そして1898年戸籍法は第170条第2項に「日本ノ国籍ヲ有セザル者ハ本籍ヲ定ムルコトヲ得ズ」として、戸籍に登録される(つまり家に入る)のは「日本人」に限られるという“純血主義”を宣明した。この条文は、1914年の改正戸籍法において“いわずもがな”の規定として削除された。ここにおいて戸籍法を貫く純血主義は自明の不文律として確立され、今日まで維持されている。

‟家の登録簿‟という意義が加わった戸籍は、日本独特の家族国家思想を支えるものとなった。すなわち、「万世一系」の現人神天皇が家長として治める「日本」という「家」(国)に、「赤子」としてすべての「臣民」が包摂される、というもので、この家族国家思想こそが「万邦無比」と仰がれた「国体」の根本をなす思想であった。近代日本の国籍観念も、この家族国家思想と結びついていた。1899年から1950年まで施行されていた旧国籍法の下では、外国人は日本人との婚姻や養子縁組などによって日本の家(戸籍)に入れば当然に「日本人」となった。

戦後、新憲法の下で天皇は神格を否定され、家制度も廃止され、「国体」はその思想的基を失ったといえる。だが、戸籍は引き続き国民登録制度として残された。天皇・皇族を除いて「日本人」のみを登録する「臣籍」という性格も不変である。

何より日本の国籍法は、一貫して血統主義を維持している。すなわち、血の継承をもって「日本人」の身分が取得されるのであり、親子の血統を証明するのが戸籍である。それゆえ、日本では戸籍が「日本人」の血統を証明すると同時に日本国籍の証明になる。よって、戸籍は「国籍」と「民族」と「血」の一体性を想起させやすい。戸籍を強制的に提示させて「真正なる日本人」か否かを分別しようという意識が現れる時、その行く先はまぎれもないレイシズムである。

「日本人の血統」とは何か?

蓮舫氏は単一の日本国籍となった。だが、彼女が「愛国心」「忠誠心」に満ちた「日本人」として、日本国家に一身を捧げて奉仕するという姿勢を強調しても、日本と台湾という二つのルーツをもつことで今後も“観念的な二重国籍”とみなされるであろう。日本では国籍を「忠誠心」の源泉とみなしつつも、国籍の内なる「血」を重視する傾向が強い。外国人参政権に頑なに反対する人々は、二言めには「参政権が欲しければ、日本国籍を取れ」という。だが、帰化した「日本人」が何か突出した政治的発言をしようものなら、「出身国がどこか」などとその「血」を詮議する。

やはり「戸籍を見せろ」という集団的圧力の噴出は、戸籍は「真正なる日本人の証し」であるという幻想を抱く人がいまだに多いことを示唆しているのではないか。なぜ幻想かといえば、戸籍は人類学的意味での「日本人」を記載するのではなく、戸籍に記載された者が「日本人」として認証されるものだからである。

古代の渡来人や、近代のアイヌ、琉球人は日本の戸籍に編入されて「日本人」となった。植民地統治においては、朝鮮人や台湾人も、日本人(内地人)との婚姻や養子縁組などを通して日本(内地)の戸籍に入ることが認められていた。さらに旧国籍法では、外国人も同様の手段で日本の戸籍に入れば国籍上「日本人」とされたのは前述の通りである。

つまり、「日本人」の系譜は、さまざまな異民族との“血の混交”を伴いつつ現在の戸籍に行き着いているということを看過してはならない。「民族」や「血統」なるものは限りなく擬制に近づくということを、まさに戸籍の歴史が証明しているのである。

日常においてまず我々の意識に上ることのない戸籍というものについて、今回の二重国籍騒動は、はからずもその存在理由を見つめ直す契機となった。「真正なる日本人」とは何なのか。戸籍が示すのは「日本人」という”輪郭”だけである。

プロフィール

遠藤正敬政治学

1972年生まれ。早稲田大学台湾研究所非常勤次席研究員。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。博士(政治学)。専攻は政治学、日本政治史。近著に『戸籍と無戸籍ー「日本人」の輪郭』人文書院、2017.その他『戸籍と国籍の近現代史ー民族・血統・日本人』明石書店、2013など。

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