「真正なる日本人」という擬制――蓮舫議員の二重国籍と戸籍公開をめぐって

元来、戸籍は、国家が徴兵や徴税の対象となる国民を把握するために作成した台帳であった。それが国民の身分登録へと装いを改めたのは明治維新においてである。1872年に全国統一戸籍として「壬申戸籍」が編製されたが、これは動乱後の秩序を回復する目的もあって警察的な観点が強く、身許調査も兼ね備えていた。「士族」「平民」といった族称、前科、氏神神社などの記載がそうである。とりわけ被差別部落出身者について「新平民」「元穢多(えた)」、アイヌについて「旧土人」などと記載するなど、差別の意図が明らかな記録もあった。

 

この壬申戸籍の記載内容は、1886年に戸籍の様式が改製された後も引き写されたものがあり、これが大正、昭和になっても残っていた。それ以外にも、「私生子・庶子」、「棄児」などの記載や、出生地が刑務所や療養所であるといった記載がなされた戸籍もあった。こうして冷徹なまでに個人の出自を差別的に記録する戸籍に込められた国家の意図は、表面上は水平な「日本臣民」としつつ、そのなかに上下関係および抑圧関係を創り出し、重層的に管理・統合していくことであった。

 

そして戸籍は、「家の系譜」として長期間、保存される。戸籍に記載されている者が他の戸籍に入ったり、死亡したりして誰もいなくなると、その戸籍はお役御免となって「除籍簿」に綴られて保管される。また、戸籍法の改正によって戸籍が新しい様式に改製されると、改製前の戸籍(「改製原戸籍【はらこせき】」という)も保存される。どちらも2010年に保存期間が80年から150年に延長された。これにより家の血統のみならず、個人の詳細な出自について、戸籍を何代もさかのぼって追跡することができる。

 

加えて、1898年制定の戸籍法から「戸籍公開の原則」が明文化され、1976年の法改正までは、何人でも手数料を収めれば役場で自由に戸籍を閲覧することが認められていた。このため、興信所の身許調査などに戸籍が利用されたりすることで、社会において差別が再生産されてきた。そうした歴史と関わってきた人々からすれば、戸籍謄本をテレビカメラの前で全国公開しろと迫る空気は鳥肌が立つものであろう。

 

 

戸籍は「日本臣民」の証し

 

執拗に蓮舫氏に戸籍の公開を言い立てる人々に、「では、なぜ戸籍が「日本人」の証明となるのか?」と尋ねたら、どこまで明確に即答できるだろうか。答えは単純明快、戸籍には日本国籍をもつ者しか記載されないから、である。

 

近著『戸籍と無戸籍―「日本人」の輪郭』(人文書院、2017)でも述べたところであるが、戸籍は本来の目的や実質的な機能を離れて、「真正なる日本人の証し」という精神的価値をもってきた。古代から戸籍は天皇からみた臣民簿であり、戸籍に登録されない者は「まつろわぬ者」として監視された。大陸からの渡来人は、日本に帰化したら戸籍に記載され、異民族が天皇の「徳」に帰服した証しとして「氏」を授与された。

 

明治国家においては、1898年の明治民法施行により、国家の基盤として家制度が確立された。「家」とは、戸主によって統率される親族集団、換言すれば戸主と同じ戸籍に入っている集団である。そして1898年戸籍法は第170条第2項に「日本ノ国籍ヲ有セザル者ハ本籍ヲ定ムルコトヲ得ズ」として、戸籍に登録される(つまり家に入る)のは「日本人」に限られるという“純血主義”を宣明した。この条文は、1914年の改正戸籍法において“いわずもがな”の規定として削除された。ここにおいて戸籍法を貫く純血主義は自明の不文律として確立され、今日まで維持されている。

 

‟家の登録簿‟という意義が加わった戸籍は、日本独特の家族国家思想を支えるものとなった。すなわち、「万世一系」の現人神天皇が家長として治める「日本」という「家」(国)に、「赤子」としてすべての「臣民」が包摂される、というもので、この家族国家思想こそが「万邦無比」と仰がれた「国体」の根本をなす思想であった。近代日本の国籍観念も、この家族国家思想と結びついていた。1899年から1950年まで施行されていた旧国籍法の下では、外国人は日本人との婚姻や養子縁組などによって日本の家(戸籍)に入れば当然に「日本人」となった。

 

戦後、新憲法の下で天皇は神格を否定され、家制度も廃止され、「国体」はその思想的基を失ったといえる。だが、戸籍は引き続き国民登録制度として残された。天皇・皇族を除いて「日本人」のみを登録する「臣籍」という性格も不変である。

 

何より日本の国籍法は、一貫して血統主義を維持している。すなわち、血の継承をもって「日本人」の身分が取得されるのであり、親子の血統を証明するのが戸籍である。それゆえ、日本では戸籍が「日本人」の血統を証明すると同時に日本国籍の証明になる。よって、戸籍は「国籍」と「民族」と「血」の一体性を想起させやすい。戸籍を強制的に提示させて「真正なる日本人」か否かを分別しようという意識が現れる時、その行く先はまぎれもないレイシズムである。

 

 

「日本人の血統」とは何か?

 

蓮舫氏は単一の日本国籍となった。だが、彼女が「愛国心」「忠誠心」に満ちた「日本人」として、日本国家に一身を捧げて奉仕するという姿勢を強調しても、日本と台湾という二つのルーツをもつことで今後も“観念的な二重国籍”とみなされるであろう。日本では国籍を「忠誠心」の源泉とみなしつつも、国籍の内なる「血」を重視する傾向が強い。外国人参政権に頑なに反対する人々は、二言めには「参政権が欲しければ、日本国籍を取れ」という。だが、帰化した「日本人」が何か突出した政治的発言をしようものなら、「出身国がどこか」などとその「血」を詮議する。

 

やはり「戸籍を見せろ」という集団的圧力の噴出は、戸籍は「真正なる日本人の証し」であるという幻想を抱く人がいまだに多いことを示唆しているのではないか。なぜ幻想かといえば、戸籍は人類学的意味での「日本人」を記載するのではなく、戸籍に記載された者が「日本人」として認証されるものだからである。

 

古代の渡来人や、近代のアイヌ、琉球人は日本の戸籍に編入されて「日本人」となった。植民地統治においては、朝鮮人や台湾人も、日本人(内地人)との婚姻や養子縁組などを通して日本(内地)の戸籍に入ることが認められていた。さらに旧国籍法では、外国人も同様の手段で日本の戸籍に入れば国籍上「日本人」とされたのは前述の通りである。

 

つまり、「日本人」の系譜は、さまざまな異民族との“血の混交”を伴いつつ現在の戸籍に行き着いているということを看過してはならない。「民族」や「血統」なるものは限りなく擬制に近づくということを、まさに戸籍の歴史が証明しているのである。

 

日常においてまず我々の意識に上ることのない戸籍というものについて、今回の二重国籍騒動は、はからずもその存在理由を見つめ直す契機となった。「真正なる日本人」とは何なのか。戸籍が示すのは「日本人」という”輪郭”だけである。

 

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