そろそろ自転車についてもう少しまじめに考えよう

探しても原文が見当たらないので記憶違いかもしれないが、いまは亡き伊丹十三が何かの本で、自転車を「もっとも高貴な乗り物」と評していたのではなかったかと思う。別に高級な、あるいは高価なものという意味ではなく、田舎道を行くふつうの自転車についての話だったような記憶なので、おそらくは自転車なる乗り物自体がもつ簡素な機能美とか、周囲と調和する感じとか、そういったものを指しての評価だったのではないかと想像する。

 

「高貴」かどうかはともかく、自転車には数々の利点がある。人や荷物をきちんと運べる運搬手段でありながら比較的軽くコンパクトで、その気になれば電車や飛行機にももち込める。かなり狭い道にも入り込むことができるし、渋滞でもスイスイ行ける。タイプによっては自動車にも匹敵するような速度が出せるし、これまたタイプによるが安価で誰にでも買える。ちょっとがんばれば個人でもメインテナンスができて、維持費も比較的安い。化石燃料を使わず(最近は電動アシスト機能付きのものもあるが)、環境への負荷が小さい。等々。エコロジーだの脱原発だのといった時代の潮流にも、などというごたくを並べるまでもなく、「スマート」な乗り物だと思う。

 

個人的にも、自転車という乗り物にはそれなりのシンパシーを感じているつもりだが、いまのところ、それを日常の足としては使っていない。理由はいくつかあるが、もっとも大きいのは、現在の日本の状況で、いわゆる「サイクリスト」のグループに入ること自体がいまひとつ気乗りしないからだ。

 

自転車をめぐる問題は以前からあって、改善しつつある部分もあるが、残念ながら次第に悪化している部分もある。改善された部分は多くの人が努力した結果だし、悪化した部分も、自転車がそれだけ多くの人に便利に使われていることの裏返しではあるわけだが、社会全体として、自転車を軽くみるというか、中途半端な存在として扱う傾向があったことは否定できない。ここらでもう少しまじめにいろいろ考えた方がいいのではないかというわけで、自分の思うところを少し書いてみることにする。

 

 

餅は餅屋?

 

わたしたちの社会のなかで自転車がうまく位置づけられていないのではないかという議論は、もちろん以前からあった。路上に「居場所」のない「交通弱者」としての自転車も、駅前の道路をふさぐ「邪魔者」としての自転車も、自転車自体やユーザーの意識・マナーだけの問題ではなく、わたしたちの社会が自転車と共存するための準備をまだ整えられずにいることの結果でもある。自転車ユーザーのなかでも意識の高い人たちは、自転車をめぐるこうした問題点を指摘し、自転車と社会とのよりよい関係について、いろいろな提言をしてきた。「本日の一冊」で紹介している「自転車ツーキニストの作法」の著者である疋田智さんなどもそのひとりということになるのだろう。

 

疋田さんによれば、「贋者自転車人」、つまり「自転車に乗らないのに、自転車について語る人」という人種がいるらしい。自転車ブームにすりより、いかにも理解者面をしながら、そのじつ何も理解していないから、「自転車の未来をぶち壊す」ようなことを平気でいうのだそうだ。こういう輩を自転車政策に触れさせてはならない、と疋田さんは力説しておられる。

 

そういうお立場からすれば、ふだん自転車に乗らないわたしなどは、この「贋者自転車人」の一味にグルーピングされるのかもしれないが、わたしとしては、別に自転車乗りの理解者面をするつもりはない。むしろここでは歩行者、自分の足と公共交通機関を主な移動手段とする人びとの視点から自転車を論じたい。自転車のことは自転車乗りに任せろというが、たとえば自動車が自転車の邪魔をしないように発言するのが自転車乗りの領分だとするなら、自転車が歩行者に迷惑をかけないように発言するのは歩行者の領分だ。もし適切と思えるなら、「自転車の未来をぶち壊す」ような発言だって躊躇はしない。

 

疋田さんの主張を忖度するに、たんに「歩くよりまし」といった理由で手軽な乗り物としての自転車を選択するのではなく、もっと積極的な理由で自転車を選択している人たち、自転車を生活の一部として取り入れること自体に価値を見出すような人たちの方が、自転車のことをより真剣に考えているということになるのだろう。そういう人たちを仮に「シリアスサイクリスト」と呼ぶことにする。対して、お気軽なユーザーは「カジュアルサイクリスト」とでも呼べばよいだろうか。

 

たしかに、シリアスサイクリストたちの提言には、傾聴すべきものが数多く含まれている。自転車道の問題にしても、駐輪場の問題にしても、やはり自転車乗りの事情は、そうした熱心な「自転車乗り」が一番よく知っているというわけだ。自転車が路上で安全にそして快適に走るためには現在の交通システムのどこをどう変えたらいいのか、あるいはどこを変えるべきではないのか。おおいに主張してもらって、どんどん参考にしたらいい。

 

しかし、かぎられた情報から形成された一方的な見解でしかないが、シリアスサイクリストの関心は、どうも基本的に彼ら自身の利害に深く関係した領域に限定される傾向があるように思われる。端的にいって、彼らの語る「自転車の未来」には、気軽な日常の足として自転車を利用するカジュアルサイクリストの姿がみえてこない。そういう人たちの方が圧倒的多数であるにもかかわらず、だ。

 

社団法人自転車協会調べによれば、2010年における自転車の国内出荷台数は約419万台だそうだが、このうち軽快車(いわゆるシティサイクル)およびミニサイクルの合計は全体の69.0%を占める。これに子供車や幼児車、電動アシスト車を加えれば9割超だ(図1)。

 

 

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これらの自転車のユーザーがすべてカジュアルサイクリストだと断定するわけではないが、おそらく大半がそうだとみていいだろう。これに対して、自転車により強い思い入れをもち、もっと自転車に金をかけることが予想されるシリアスサイクリストが乗りそうな自転車の出荷台数はというと、MTBで全体の4.1%、スポーツ車はわずか2.2%しかない。売れ行きの伸び率自体はスポーツ車などの方が高いそうだが、わたしが路上で実際にみかける自転車の構成比もおおよそこんなものではないかと思う。その実感が正しい保証はもとよりないが、全体として、シリアスサイクリストは自転車乗り全体からみれば少数派、ということぐらいはいえそうに思われる。

 

にもかかわらず、シリアスサイクリストの方々はえてして、カジュアルサイクリストの存在を無視し、軽視し、あるいは敵視する。たとえば、下にあげた「自転車ツーキニストの作法」では、ヨーロッパ諸国におけるやり方を念頭に、自転車は車道通行を徹底し、ママチャリは無償で途上国へ送ってしまえ、と主張している。要するに、これまで「ママチャリ」に乗っていたカジュアルサイクリストたちを「贋者自転車人」の一味と喝破し、彼らにママチャリを捨てて本格的なロードレーサーのような自転車に乗り車道を颯爽と疾走せよ、といっているわけだ。しかし、カジュアルサイクリストのなかには相当の割合で、自動車免許を返上した高齢者や、まだ自転車を上手に乗りこなせない子どもも含まれている。彼らにシリアスサイクリストと同じ行動を求めるのはおよそ現実的ではない。

 

この例にかぎらず、シリアスサイクリストの方々の言説には「オレたちホンモノはあいつらとはちがう」みたいなニュアンスがしばしば感じられるのだが、歩行者の目からみれば同じ自転車乗りだ。少し辛辣な表現をすれば、これまでサイクリストの意見が世論をなかなか動かせなかったのは、少なくとも外部からは「仲間」としかみえない人びとが社会にかけている迷惑を「自分とには関係ない」とスルーし、自らの「正当」な主張のみを聴いてもらおうとする態度をとっているからなのではないかと思う。

 

 

 

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