2014.01.24

ヘイトスピーチやレイシズムは、多くの欧米諸国において何らかの形で規制されている。日本には、そうした規制はない。

このように書くと、いかにも海外での動向を論拠に日本でもそうした規制を! という議論が始まるように思われるかもしれない。実際、この論考にそうした意図がまったくないわけではない。

しかしここでまず伝えたいことは、欧米諸国におけるそうした規制の位置づけが、いかに「論争的」なものであるかということについてである。実際そうした規制は、成立にあたって激しい論争を経験しているものが多い。論争の中で成立に至らず消えていった法案も少なくないし、また規制が成立してからも、その適用や改正をめぐって常に議論が繰り返されている。ヘイトスピーチやレイシズムにかかわる規制が何の議論も呼ぶことなく成立したなどという事例は、ほぼありえないと言っていい。

この論考ではこうしたことをふまえて、欧米諸国においてヘイトスピーチやレイシズムの規制をめぐってどのような議論がなされてきたのかについて、そうした規制の「効果」と「範囲」という2つの側面から整理してみたい。それを通して、日本における今後の議論がより現実的なものになるための、基盤となる材料が提供できればと思う。

なお、本論に入る前に2点ほど補足を。1点目、ここでの議論は、おもにアメリカの政治学者Erik BleichのThe Freedom to be Racist?: How the United States and Europe Struggle to Preserve Freedom and Combat Racismという本を下敷きにしている(以下、とくに断りがない限りカッコ内の数字はこの本のページ数を表す)。これは2014年2月に明石書店より翻訳出版(明戸隆浩・池田和弘・河村賢・小宮友根・鶴見太郎・山本武秀の共訳)される予定なので、より詳細な議論を確認したい方は、そちらを手にとっていただければと思う(*1)。

(*1)http://freedom-to-be-racist.blogspot.jp/

2点目、この論考では、ヘイトスピーチやレイシズムに関わる議論を、各国の事例に共通する一定のパターンをふまえて横断的に取り上げている。しかし実際には、こうした規制は各国の社会的な文脈に依存する部分が大きく、共通性だけですべてを論じることはもちろんできない。本稿で十分論じることができていないこうした各国の文脈の違いについては、朝日新聞『ジャーナリズム』2013年11月号(特集・ヘイトスピーチを考える)掲載の記事「欧米のヘイトスピーチ規制から日本の行く先を考える」で検討しているので、そちらを合わせて参照していただければ幸いである。

1 ヘイトスピーチ規制論争の基本的な構図

ヘイトスピーチやレイシズムの規制をめぐる論争は、基本的には、何らかの規制が必要であるという立場(規制必要論)と、そうした規制に反対する立場(規制反対論)のあいだで行われる。ただし多くの議論は、規制反対論の側が提示した批判に規制必要論の側が反論する、という形で行われるので、以下ではその順序で整理を行うことにしたい。

■自由の制約

おそらく多くの人が最初に頭に思い浮かべる規制反対論は、「規制は自由を制約する」というものだろう。こうした議論は、いわゆる「表現の自由」にかかわる規制についてはもちろん、より一般的な差別禁止法の制定においても繰り返し提示されてきた。実際、よく知られたアメリカの1964年公民権法の制定の際にも、またそれから半世紀近くを経た2006年にドイツで一般平等待遇法(人種のほかジェンダーや障害も含む包括的な差別禁止法)が制定された際も、「自由の制約」は反対論の側の最大の根拠の一つだった(125)。

これに対する規制必要論の側からの主要な反論は、規制反対論が言う「自由」には「差別を受ける側」の自由が含まれていない、というものだ。またその上で、差別を受ける側の自由が一般的な意味での自由よりも重要である場合には規制は正当化されるはずであり、実際多くの分野ですでにそうした制約は行われている、と主張されることも多い(125)。

ただし、こうした論点は全体からみれば議論の「前提」にあたるものであり、これだけで議論してもたいてい水掛け論に終わるだけである。むしろここでは、ヘイトスピーチやレイシズムの規制に関わる議論が「自由」と「規制」のバランスを前提にして成り立つものだということを、確認しておくことが重要だろう。

■対抗言論

さて、規制反対派は問題の解決策として新たな規制の導入を否定するわけだが、その場合当然その「代替案」が求められることになる。そこで規制反対派がしばしば提示するのが、「対抗言論」(市民が言論によってヘイトスピーチに対抗すべきという議論)という議論だ。こうした発想は、古くはジョン・スチュアート・ミルにまで遡るが、ヘイトスピーチ規制に慎重なアメリカや日本では、規制の代替案として現在も頻繁に参照される。

これに対して規制必要論が指摘するのは、こうした対抗言論の非現実性だ。そもそも不利な立場に置かれている人々に対して、言われたら言い返せばよいだけだというのは、当事者に対してあまりにも過酷ではないのか(4)。実際、規制必要論の多くはこうした対抗言論が難しいという状況認識をふまえて議論を始めており、規制必要論の側が対抗言論という代替案に納得して議論が終わるという展開は基本的に想定しにくい。

■既存の法律による対処

「対抗言論」以外の代替案としては、「既存の法律で十分対処できる」という議論もある。こうした議論は、たとえばイギリスで2006年に宗教的憎悪法が制定された際に、非常にわかりやすい形で現れた。

イギリスでは1965年の人種関係法の制定以降、人種および民族についてのヘイトスピーチについては規制を行ってきたが、宗教に基づくヘイトスピーチは対象外だった。しかし2001年の同時多発テロ事件以降「イスラム憎悪」が高まる中で、宗教に基づくヘイトスピーチについても規制の必要性が主張されるようになる。このとき出てきた主要な批判の一つが、「すでにある人種や民族についての規制を援用することで十分対処可能だ」という議論だった(26)。

宗教的憎悪法はこうした批判を押し切って成立に漕ぎつけたのだが、その際規制必要論の側から出された反論の一つに、次のようなものがある。それは、イギリス国民党(イギリスの代表的な反移民政党)のような団体は、むしろ既存の法律で対応できない「隙間」を集中的に狙って活動する、という議論だ。こうした立場からすると、国民党のような相手には既存の法律では対応できず、より直接的な規制が必要だということになる(27)。

2 規制の「効果」をめぐって(1)――意図せざる自由の制約?

とはいえ、以上見てきた議論はあくまでも基本的な構図でしかない。実際の議論はより具体的な形で行われるが、その一つが規制の「負の効果」をめぐる議論である。その中で、ここではまず「意図せざる自由の制約」を取り上げよう。これは先に示した原理的な意味で「自由の制約」を批判する議論とは異なり、規制に際して自由が制約されることそれ自体は認めた上で、規制を行うことで想定以上の自由の制約が行われてしまうことを問題にする議論である。

■「すべり坂」論法

こうした議論の代表は、いわゆる「すべり坂」と呼ばれる論法だ(4)。これは、たとえごく一部でも自由の制約を認めると、そうした制約は次第に拡大されていき、将来的には自由に対してきわめて大きな制約が課されることになる、という議論である。

これに対する規制必要論の側からの反論は、現実の規制の歴史を見る限りそうした傾向は認められない、というものだ。実際、ヘイトスピーチやレイシズムに対する規制がヨーロッパで普及し始めた時期(1960年代)から半世紀近くがたつが、その間に「すべり坂」的な傾向を確認することは、実証的には難しいとされている(6)。

■萎縮効果とシグナル効果

次に、「委縮効果」(およびその反面としての「シグナル効果」)に関する議論がある。「委縮効果」というのは、規制が行われると人々は起訴を恐れて法的に許容可能なことさえ言わなくなってしまう、というものだ。これは、先に触れたイギリス宗教憎悪法の制定の際にも頻繁に参照された議論で、その過程では、たとえば「ミスター・ビーン」で知られる俳優ローワン・アトキンソンが、規制によって宗教をネタにしたジョークが言いにくくなるのではという懸念を示したエピソードもある(24)。

これに対して規制必要論の側は、むしろ規制の導入による「シグナル効果」を強調する。「シグナル効果」というのは、規制を導入することでそのヘイトスピーチやレイシズムに対する社会の姿勢が明確になり、その結果その社会の人々全体がヘイトスピーチに対する批判意識を高めるというものだ。また、法律を制定することでヘイトスピーチを(なくすことはできなくても)「穏健な」ものにすることができるということも主張される(29)。つまりそこでは、規制反対派において「委縮効果」として否定的にとらえられる規制の副次的な効果が、条件次第ではプラス面にもなりうることが強調されるのである。

■マイノリティへの影響

最後に、上で述べたような委縮効果が、とくにマイノリティに対して強く表れるという議論を見ておこう。一般的に言えば、マイノリティはヘイトスピーチ規制において保護されるべき対象として位置づけられる。しかし実際には、法規制にあたってマイノリティ保護ということが明示化されることはほとんどない。そこに明記されるのはあくまでも属性に基づいた侮辱や扇動の禁止であり、そのため法的には、(一般的な想定とは逆に)「マイノリティがマジョリティに対して」侮辱や扇動を行った場合も処罰がなされうる(41)。

こうしたことをふまえて一部の当事者や支援者が強調するのが、「マイノリティに対する委縮効果」である。たとえば1960年代のアメリカでは、まさにこうした観点から、公民権運動の活動家たちによって積極的に規制不要論が唱えられた(75)。黒人活動家による白人批判や政府批判が名誉毀損などで立件されることが多かった当時のアメリカでは、むしろ規制はマイノリティに対して不利益をもたらすものだと認識されていたのである。

これに対する反論としては、リチャード・デルガドらの批判的人種理論のように、歴史的経緯や社会構造の不平等性を織り込んで法制化を行うべきだとする議論が挙げられる。実際こうした議論をふまえた立法ならば、マイノリティを委縮させない形で規制を行える可能性が高い。ただしすでに述べたように、こうした理念を明示的に条文化した規制はこれまで基本的につくられていないということもまた、ここで確認しておくべきだろう。

3 規制の「効果」をめぐって(2)――レイシズムの助長?

規制の「負の効果」に関する議論としては、「規制するとかえってレイシズムが助長される」という主張もよく知られている。ヘイトスピーチやレイシズムの規制がヘイトスピーチやレイシズムを助長する、という議論は一見すると不可解に見えるかもしれないが、いわゆる規制の「逆効果」論として、やはり頻繁に言及されるものだ。

■拡声器効果・正当化効果・殉教者効果

こうした議論は複数の主張からなるが、その1つめは「拡声器効果」と呼ばれるものである。これは裁判になることでレイシストの主張がマスメディアで大きく取り上げられ、結果として彼らの主張を普及させる結果につながる、という議論だ(ちなみにこうした議論は、仮に規制がなく裁判などが行われない場合でも、マスメディアがこうした問題を積極的に取り上げない理由としてしばしば参照される)。

2つめは「正当化効果」と呼ばれるものだが、これは裁判でレイシストに対する訴えが退けられた場合に、レイシストがそれを自分たちの発言の正当化に利用するというものだ。また3つめは「殉教者効果」と呼ばれるもので、逆に裁判でレイシストに対する訴えが認められた場合に、有罪となったレイシストが自身を殉教者になぞらえ、そのことがかえってレイシズムの支持者を増やすというものである。

■「逆効果」論の限界

これら3つの「効果」は、いずれも規制が結果としてレイシストの活動を助長することが強調される。これに対して規制必要論の側は、こうした効果はそれほど長続きしないと主張する。メディアでの報道が集中するのは(よくも悪くも)目新しさがあるうちに限られるため、拡声器効果はもちろん、正当性効果や殉教者効果についても、実際にはそれほど大きなものにはならないというのだ(29)。

こうした主張を支える事例としては、フランスの元女優ブリジット・バルドーの一連の裁判を挙げることができる。バルドーは70年代以降おもに動物愛護の運動家として活動しており、その一環としてムスリムが犠牲祭で子羊を殺して捧げることに強い反発を示していた。こうした中でバルドーは、1996年、「ル・フィガロ」紙にムスリムを中傷する記事を掲載する。これがヘイトスピーチに当たるとして起訴されたバルドーは、一審では無罪となったものの、翌年の犠牲祭について再び同様の発言を行ったことも影響して、二審では有罪となった。しかしその後もバルドーは同様の発言を続け、2006年までに実に5回の有罪判決を受けている(30-31)(なお、フランスは1972年の人種差別禁止法以降ヘイトスピーチを規制しており、その執行においても比較的厳しい国として知られている)。

拡声器効果をはじめとする「逆効果」論は、こうしたバルドーの一連の裁判をめぐる議論においても盛んに参照された。しかし、実際にバルドーの発言がメディアなどで話題になったのは初期の裁判が中心であり、彼女の発言は回数を重ねるにつれて世間の関心を集めなくなっていった。

その一方で、量刑は裁判を重ねるごとに重くなっており、最初の発言の際に1万フラン(約2000ドル)だった罰金は5回目には15000ユーロ(約22000ドル)に達している(起訴された段階では執行猶予付きの禁錮刑の可能性さえあった)。端的に言えば、「費用対効果」を考えた場合、バルドーのような「常習犯」のヘイトスピーチは、基本的に「割に合わない」のである。

4 規制の「範囲」(1)――「侮辱」をめぐって

さて、ヘイトスピーチ規制をめぐる論争を扱うにあたって、ここまで見てきたような規制それ自体についての賛否を無視することはもちろんできない。しかしより厳密な議論においては、論争はむしろ「どこまで規制すべきか」という規制の「範囲」について行われることが多い。具体的には、多くのヘイトスピーチ規制で言及される「侮辱」「扇動」「脅迫」といった要素のうち、どこまでを規制の範囲に含めるか、という議論である。

■ミシェル・ウエルベックの「侮辱」発言

ここではこのうちまず「侮辱」について検討するが、ここで重要なことは、先に示した「侮辱」「扇動」「脅迫」といった要素のうち、基本的には後ろのものほど悪質性が強まるとされていることである。言い換えれば、「侮辱」は「扇動」や「脅迫」に比べて重大ではないものとされ、起訴されても処罰に至らないことが多い。

こうした事例の典型としては、たとえば2001年にフランスで作家ミシェル・ウエルベックがイスラム教について侮蔑的な発言を行った事件が挙げられる。ウエルベックはそこでイスラム教について「くだらない」「危ない」などと発言したとされるが、裁判ではそうした発言は人々がムスリムに対する差別を行うよう仕向けたわけではない(「扇動」ではない)とされ、結果として彼は無罪となった(34)。3節でも述べたようにフランスは比較的規制の適用が厳しい国として知られているが、そうした国でさえ、「侮辱」にとどまり「扇動」に至らないとされた場合には、処罰されないことも多い。

■ムハンマド風刺画事件

また、日本でもかなり報道された2005年のムハンマド風刺画事件でも、同様の判断が下されている。この事件は、デンマークの新聞ユランズ・ポステンが、預言者ムハンマドのイラストを12点掲載したというものだ。これは預言者の顔を描いてはならないとするイスラム的価値観に抵触するものであった上に、そのうちのいくつかはムスリムの暴力的イメージを強く喚起するものでもあった(37)。

これに対してムスリムの団体などがユランズ・ポステンを相手取って裁判を起こしたのだが、デンマークの裁判所は2006年にこれを退けている。そうした結果をもたらした理由の1つは、ヘイトスピーチにかかわるデンマークの法律の対象に含まれていたのが「脅迫」および「侮辱・中傷」のみであり、「扇動」は含まれていない点にあった(38)。このため、デンマークでの裁判は基本的にイラストが「侮辱」であるかどうかをめぐって争われることになり、ウエルベックの場合と同様、結果として有罪には結びつかなかったのである。

■ホロコースト否定

ただし言うまでもなく、こうしたことは「侮辱」を常に規制の対象から除外することを意味するものではない。よく知られている例で言うと、いわゆる「ホロコースト否定」(第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺を否定する言説)などにおいては、それが「侮辱」にとどまるものであってもしばしば有罪判決が出されている。

たとえばドイツの憲法裁判所は1994年、ホロコーストを否定する発言を繰り返していたイギリスの作家デヴィッド・アーヴィングに対する政府の事前規制について、それを合憲とする判決を下した。そこでは、まずそうした発言が「不正確な主張」であるがゆえに憲法上の保護には値しないとされた上で、それが侮辱や中傷に至るものである場合は処罰される可能性があるとされたのである(53)。またフランスでは、1987年にル・ペンが「ガス室は「歴史の末梢」にすぎない」と発言したが、これはホロコースト否定を包括的に禁じるゲソ法(1990年)成立の1つの契機となったとされる(49)。

このように、「扇動」に至らない「侮辱」を処罰するかどうかについては、ヘイトスピーチ規制が整備されているヨーロッパにおいても意見が分かれる。こうしたことをふまえて、規制必要論の中でも比較的慎重な立場をとる人の中には、「侮辱」と「扇動」を明確に分けた上で、後者を中心に規制するべきだという立場をとる者も多い。

5 規制の「範囲」(2)――「扇動」をめぐって

■ブジット・バルドーの「扇動」発言

では、侮辱に比べてより悪質とされる「扇動」については、どのように議論されてきたのだろうか。たとえば3節でも触れた1996年のブリジット・バルドーの発言は「扇動」だとされたが、そのときのバルドーの発言は、ムスリムの増加を「侵略」と表現し、将来的にムスリムによってフランス人がフランスから追い出される可能性に注意を喚起するものだった。また、国民戦線の前党首として知られるジャン=マリー・ル・ペンも、バルドー同様フランスが将来ムスリムによって支配されるだろうという趣旨の発言を行い、罰金刑を受けている(34)。

こうした発言は、いずれも単なる「侮辱」ではなく、ムスリムへの憎悪を煽るもの、つまり「扇動」として位置づけられる。そこでは、たんにムスリムの人々が不快になるだけでなく、こうした発言を通して他の多くのフランス人マジョリティがムスリムに対して恐怖感をもち、彼らに対する排外感情を増大させる。「扇動」が「侮辱」よりも有罪判決につながりやすいのは、扇動がこうした性質をもつためである。

■イギリス宗教憎悪法

しかし実際には、一口に「扇動」と言ってもさまざまなものがあり、「扇動」の中でもより重大なものとそうでないものが区別される場合がある。その中でももっともよく議論されてきた論点の1つは、本人に憎悪を掻き立てるつもりがあるという「意図」と、その発言が実際に憎悪を掻き立てうるという「効果」についてだろう。一般的には、扇動の「意図」を立証することよりも扇動の「効果」を立証することのほうが難しいため、対象をより限定したい場合は「意図」よりも「効果」による判定を主張し、またその「効果」の判定についても厳密なものを求めることになる。

実際にこうした点が議論になったのは、1節でも触れたイギリスの2006年宗教的憎悪法である。この法律の成立にあたってはおもに貴族院が強い抵抗を示し、その結果既存の人種・民族にかかわる規定よりもかなり厳格な規定が設けられることになったのだが、そこで用いられたのがまさにこの「意図」と「効果」の区別であった(25)。

それ以前のイギリスの人種・民族にかかわるヘイトスピーチ規制では、「意図」と「効果」はそのどちらかが立証できればよいとされていた。これに対して2006年宗教憎悪法では、ヘイトスピーチであることを示す要件が「効果」のみに限定され、「意図」だけではヘイトスピーチであることは立証されないとされた(なお実際にはこれに加えて、人種・民族については明記されていた「侮辱・中傷」が宗教憎悪法では対象外とされた)。結果としてイギリスにおいては、同じヘイトスピーチでも、「人種・民族」と「宗教」で規制の対象にかなりの範囲の違いが生じることになったのである。

■「明白かつ現在の危険」

なおここで注意が必要なのは、ある発言がヘイトスピーチであるかどうかを立証する際に「効果」を要件とする考え方は、そこでの「効果」に対する判断を行う際の基準を厳格化することで、事実上の規制反対論となる場合もあるということだ。こうしたものとしてもっともよく知られているのが、アメリカでヘイトスピーチ規制が正当化されない理由としてよく参照される「明白かつ現在の危険」である。

これは、もともとは1910年代に定式化されたものだが、直接ヘイトスピーチ規制にかかわるものとしては、1969年のブランデンバーグ判決において示された基準(「ブランデンバーグ基準」)が重要だ。この基準によれば、ヘイトスピーチが規制されるのは、それによる扇動の「効果」が「差し迫った」ものである場合のみである(72)。ここでいう「差し迫った」とは、基本的には「その場」で生じるようなものを意味し、そのレベルで扇動の効果を立証するのは実際には不可能に近いとされる。

このように、扇動を「効果」の観点から評価し、かつその評価基準がきわめて厳格なものである場合、そうした議論は規制反対論に限りなく近づいていく。実際、こうした基準が採用されて以降のアメリカ(およびその影響を受けた日本)では、この基準は実質的にはヘイトスピーチ規制を否定する論拠として用いられている。

6 規制の「範囲」(3)――「脅迫」をめぐって

■RAV判決

このように、アメリカではまさにこうした「効果」の議論を突き詰めることによって、ヨーロッパ諸国と異なり、ヘイトスピーチ規制の不在が正当化されている。これは先に見たブランデンバーグ判決において成立した流れだが、この流れを決定的なものとしたのが、1992年のRAV判決だ。ここで問題になったのは、4節の冒頭で見たヘイトスピーチの3つの要素のうちの最後の部分、すなわち「脅迫」である。

RAV判決は「十字架を燃やすこと」(アメリカでもっとも悪質な人種差別団体の一つであるKKK(クー・クラックス・クラン)が、黒人に対する「脅迫」としてよく行う)をめぐってなされたもので、そこではこうした「表現」を人種差別的なものとして規制するある自治体(セントポール市)の条例が違憲判決を受けた。そこで示された理由は、「十字架を燃やす」ことを人種差別的な表現として規制することは、「内容中立性」にも「見解中立性」にも反するというものだった(76-77)。この判決が与えた影響は、その後アメリカでヘイトスピーチ規制が合憲とされる可能性をほぼ閉ざすほど大きなものだったとされる。

■ブラック判決

これは端的に言えば、アメリカではたとえ「脅迫」になりうるものであっても「表現」とみなされる限り規制は許されないということである。ただしここで厄介なのは、それがあくまでも「「表現」とみなされる限り」であるということだ。実際、その後2003年に出されたブラック判決では別の自治体(ヴァージニア州)の同趣旨の法律がRAV判決とほぼ同様の理由で違憲判決を受けたのだが、しかしそこでは同時に「十字架を燃やすこと」は「現実の脅迫」としてならば規制できるとされている(78)。

同じ「十字架を燃やす」ということについて、それを「表現」と見なせば規制できないが「現実の脅迫(行為)」とみなせば規制できる、というのはかなりの詭弁に聞こえるかもしれない。しかしこれは逆に言えば、「脅迫」は「言論」あるいは「表現」にとどまらない性質をもっており、その点についてはアメリカでさえ許容されないことを示すものでもある。つまり、表現規制について限りなく否定的な立場をとった場合でも、「脅迫」については例外的に処罰の対象になる余地が残されるのだ。

■アメリカにおけるレイシズム規制

そしてさらに重要なことは、こうしたブラック判決は「たまたま」なされたものではないということである。実際、アメリカが規制に慎重なのはあくまでも「表現」としてのヘイトスピーチに対してであって、レイシズム全般に対してではない。アメリカでは、レイシズムに基づく暴力行為や、雇用や公共の場における不平等な取り扱いについては、むしろ積極的に規制がなされてきた(「ヘイトスピーチ」は「表現」のみを指す概念だが、「レイシズム」には暴力行為や不平等な取り扱いなどの「行為」も含まれる)。

たとえばこのうちレイシズムに基づく暴力行為については、アメリカは「ヘイトクライム法」という形で規制を行っている。ヘイトクライム法とは、既存の刑法で犯罪とされる暴行や殺人のうち、ヘイトスピーチの場合と同じく「個人では変更困難な属性に基づく」動機を伴ったものについて、罪をより重くする(「加重」する)法律を指す。こうした法律は、80年代から州レベルで導入が始まり、連邦レベルでも90年にヘイトクライム統計法、94年にヘイトクライム判決強化法、09年にヘイトクライム予防法と、順次整備が進められてきた(116)。

また、雇用や公共の場における不平等な取り扱いの禁止については、1節でも触れた1964年公民権法があまりにも有名だ(なおこうした法律は一般的には「人種差別禁止法」と呼ばれるが、ヨーロッパでは近年ジェンダーや障害など他の属性を統合して一般的な差別禁止法を制定する動きが進んでおり、2006年にドイツで一般平等待遇法が、2008年にはフランスで差別禁止法が、2010年にイギリスで平等法が、それぞれ成立している)。

ブラック判決で示された結論、すなわち「十字架を燃やす」ことは「表現」として規制できないが「現実の脅迫(行為)」としては規制できる、という考え方は、こうした背景のもとに成立している。つまり背後にヘイトクライム法や公民権法があることにより、たとえ「表現」に関わるものでも、例外的な処理を行うことがある程度可能になるのである。

7 おわりに

さて、冒頭に述べたことを繰り返せば、日本にはヘイトスピーチやレイシズムに対する規制はない。これは、(侮辱や扇動を念頭に置いた)ヘイトスピーチ規制が「ない」だけでなく、ヘイトクライム法や人種差別禁止法を含めて「ない」という意味である。このことは、「ヘイトスピーチ」という言葉こそこの1年で急速に普及したものの、それが「レイシズム」あるいは「差別」というより広い概念の一部だということがまだ十分に認識されていない日本では、とりわけ強調しておくべきことだろう。

しかし、変化の兆しは十分にある。その1つはやはり、2013年10月の京都地裁における京都朝鮮第一初級学校襲撃事件の判決だろう。これは2009年12月から翌年3月にかけて、在特会のメンバーらが京都朝鮮第一初級学校の周辺で差別的な街宣活動を行った事件に対する、民事訴訟の判決である。判決では、在特会のメンバーらの街宣が明確に「人種差別」と認定され、在特会側に約1200万円の支払いと新校舎(同校は2013年4月に新校舎に移転)付近での街宣禁止が言い渡された。この判決は、日本で行われたヘイトスピーチが明確に「人種差別」と認定された点で、きわめて画期的なものだと言える。

ただし併せて注意が必要なのは、こうした判決が現行法上で可能であったのは、対象が朝鮮学校という「法人」だったからだということである。言い換えれば、民族や人種一般を対象にするようなヘイトスピーチは、依然として日本では法律の枠外にある。そうした点では、京都地裁の判決は、むしろ日本における法規制をめぐる議論をより活発化させるための契機、としてとらえるほうが現実的だろう。ヘイトスピーチに対抗できる社会をつくる上では、まだ日本はスタートラインに立ったにすぎない。

そうした意味で今後重要になると思われるのは、「規制に賛成? 反対?」式の「わかりやすい」議論を超えて、より実務的な検討を行うことだろう。仮に規制を行うとして、前半で見たような規制の「負の効果」に対してどのような対処を行うのか、あるいは後半で見たような規制の「範囲」のうちどこまでを実際に規制するのか。ここで見てきたようなこれまでの各国の「論争」の積み重ねは、そうした形でより具体的に「この先」を考える際にこそ、大きな意味をもつはずだ。

プロフィール

明戸隆浩多文化社会論

1976年愛知県生まれ。関東学院大学・東京工業大学ほか非常勤講師。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。専攻は社会学・社会思想、専門は多文化社会論。著書に『ナショナリズムとトランスナショナリズム』(法政大学出版局、2009年、共著)など。

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