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『もうダマされないための「科学」講義』

光文社 2011年

ようこそシノドスへ! マネージング・ディレクターの飯田泰之です。

シノドスは〈アカデミック・ジャーナリズム〉を旗印に、専門性・職業の垣根を越えた有志が集まる「場所」です。

研究者は、それが先端的な研究者であればあるほどに、狭い業界内の興味・関心のみにとどまりがちです。そして、メディアも難解な学者先生のお話を敬遠しがちであるため、アカデミックな知識の普及は遅々として進みません。シノドスは研究者、評論家・ジャーナリスト、出版関係者が相互に顔の見える形で質問をぶつけ合い、時に議論をすることで、アカデミズムとメディア・ジャーナリズムのよりよい関係構築と情報交換を目指しています。

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これまでもシノドスでは、先端的な研究業績をわかりやすく伝えるセミナー・出版を手がけてきました。そのなかの一つの試み――シノドス・リーディングス第4弾のテーマは「科学」です。

現代の思考や社会生活を、自然科学の知見抜きに語ることは不可能です。そのことをあらためて知らしめるきっかけとなったのが、東日本大震災、そしてその後の原発事故関連問題にほかなりません。メディアでは耳慣れない科学用語を含むニュースが連日報じられ、初めて耳にする単位の増減に全国民の注目がそそがれています。そのなかで、これまでともすると無批判に受容されてきた、「政府見解」「専門家の結論」への信頼が大きく揺らいだこともまた、今後の科学の社会的・政治的な役割を考える上で大きな事件と言えるでしょう。

科学に関する情報が必要とされる局面で、私たち門外漢はそのよりどころであった「政府見解」「専門家の結論」を失いつつあります。このような状況で頻発するのが、自称専門家や自称事情通による不確実な情報の氾濫です。震災直後には、パニックに陥ったさまざまな論者によって、基本的な科学上の誤りを含む情報が披露されたことは記憶に新しいところでしょう。なかには「非常時なのだから不確実な情報でも意味がある」と言って開き直る人さえ見かけることもありました。そして現在では、ごく意図的な形で、「放射線汚染に効く○○」といった科学的根拠の希薄な対策商品が流通し始めています。

現在もなお続く原発関連問題、そしてその他の科学的な妥当性判断を要する情報のすべてに対し、個々の専門分野に関する知識を持って臨むというのは、誰であっても時間的にも能力的にも不可能です。すると、私たちに必要な能力は、発信される情報の「科学性」「科学度」を認知するという点に集約されるのではないでしょうか。

科学と非科学(またはニセ科学・似非科学・疑似科学など)を区別するための基準は「線引き問題(Demarcation Problem)」と呼ばれ、科学哲学のフィールドで長く議論され続けてきましたが、まだ決着はついていません。そこで、本書各章では、そこで提起される課題の緩和に資するような線引き問題への暫定的な解答が語られるとともに、「線引き」という問題設定そのものが内包する問題点への言及が行われます。

1章「科学と科学ではないもの」(菊池誠)は表題の通り、線引き問題を強く意識した内容になっています。とはいえ、科学哲学史上の大論争への最終回答が提示されるわけではありません。本章では「多くの科学者が科学だと思っているのがたぶん科学だ」という出発点から、豊富なケーススタディとともに、ニセ科学――意図的に科学を装う非科学の識別が論じられます。

菊池氏は統計物理学を専攻する科学者であり、提示される基準は明快かつ現実的、そして身も蓋もないものです。しかし、線引き問題の未決着が、ニセ科学に「科学と非科学に明確な区別がないのだから否定はできない」という、極端な相対主義に基づく弁解の余地を残している現状では、このような割り切った定義づけが重要な役割を果たすことになるでしょう。あえて「多くの科学者」という、ある意味曖昧な境界設定から出発することで、「線」ではなく「(科学度の)グラデーション」としての科学とニセ科学の区別を考えることが可能となるのです。

科学と非科学に関してグラデーションを持った識別が可能であるとしても、そこには大きな問題がつきまといます。それが非科学と未科学・準科学の違いです。現時点ではその原理が解明されていないため、ハードな科学的知見とは見なされていないものの、将来の研究動向次第で科学的知見となる可能性の高いもの、または知識の体系化は行われていないが経験的にその有効性が高いと知られている知見を、一概に非科学として切り捨てることはできません。

2章「科学の拡大と科学哲学の使い道」(伊勢田哲治)は、科学が実際の問題解決のツールとして用いられる場合、それは時として狭義の科学の領域から逸脱せざるを得ないことがあると指摘します。伝統的な科学哲学は、天文学や理論物理学といった純粋科学(モード1科学)を中心的なフィールドとしてきました。しかしながら、私たちが日々直面し、その解決に科学的知見の利用が欠かせない問題の多くは、科学のみで解決がつくとは限りません。学際的な分析が必要となったとき、モード1科学の基準を墨守することは、かえって効率的ではないこともあるのです。

このような実利的な局面では、蓄積された経験や現場勘から導かれる「ローカルな知」の包摂(モード2科学)の重要性が増大します。拡大された科学、モード2科学において科学と非科学はどのように区別できるのでしょう。長年にわたり線引き問題研究を続けてきた科学哲学者である伊勢田氏の提案する科学の定義は、情報識別において大きな有用性を持つと思われます。

その一方で、科学者や科学哲学者が、いかに科学的な知見の重要性を唱え、科学と非科学の区別方法を提示しても、それが社会に流通するとは限りません。メディアでは根拠が明確でない、時に明確に誤った情報が流通され続けています。その理由の一つが「人は〝自分が信じたいと思うこと〟を信じる」という心理的特性にあると考えられます。そしてメディアは視聴者・読者なしには成り立ちません。需要が供給を誘発するという構造のなかで、メディアに求められる科学報道の姿勢とは何なのでしょう。

3章「報道はどのように科学をゆがめるのか」(松永和紀)は、全国紙の記者としての経験から語られるメディアの科学論です。第一に指摘されるのが、科学的な専門知が必要とされているにもかかわらず、それがおろそかになりがちな食品・健康に関する報道の問題点です。食の安全をめぐる問題は、まさに2章で議論されたモード2科学の領域と言えるでしょう。そして、関連領域が多岐にわたればわたるほど、記者・読者の無理解は非科学的な情報流通を誘発することになります。

松永氏が指摘する自然信仰やゼロリスク幻想は自然科学に限らず、政策決定や日々のビジネスシーンにおいても大きな足かせになっています。自然(または自然っぽいこと)がなんら安全を証するものでないことは言を俟ちません。また、リスクの存在を明示することは誠実な姿勢ですが、そのリスク明示によって、(不誠実にも)リスクを隠して提案される案件のほうが好まれるならば本末転倒でしょう。

科学にも例外や誤りがないとは言えません。その一方で、少しでもリスクがあるならばまったく考慮に値しないという姿勢では、科学的知見の利用・活用はいっこうに進みません。この両者の板挟みのなかで、科学者・ジャーナリストは今まで以上に高度なコミュニケーションを求められるようになっています。

4章「3・11以降の科学技術コミュニケーションの課題」(平川秀幸)は、原発事故が引き起こした科学者集団への、ひいては科学的知見への信頼の危機をテーマに、科学からの情報発信のあり方について論じています。

なかでも注目すべきは、これまで科学からの情報発信が想定してきた「欠如モデル」の問題点でしょう。「科学技術への不安や抵抗感を感じるのは科学知識が足りないから」という考え方は、現実からは少なからず逸れているといってよい。「理由はともあれ遺伝子組換え作物(または原発・科学物質等)はいやなんだ」という感情は重視されるべきであるし、それに対する科学からの働きかけは、啓蒙ではなく対話であるはずです。

問題が現実的で、ビジネスや人々の生活に密着しているものであればあるほど、科学、または論理だけでは解決がつかないことが多い。科学的に問うことはできるけれど、科学では答えを出せないトランスサイエンス的問題にどのように立ち向かっていくのか。そして、トランスサイエンス的問題における科学的な姿勢とは何か。これらを考えることが、今後の科学コミュニケーションの鍵を握っているのかもしれません。

「線引き問題」から始まり、その伝達方法に至る各章の論考に対し、東日本大震災と東京電力福島第一原発の事故は不幸な、しかし最適な事例を提供してくれています。

付録「放射性物質をめぐるあやしい情報と不安に付け込む人たち」(片瀬久美子)では、今次災害におけるデマ、虚偽情報、ニセ科学商品の実例を整理することを通じ、本書の議論の有効性・有用性を確認することができるでしょう。まずは付録を読むことで問題の重要性を知り、本編でその対応策を考え、そして再び付録を読むことで、本書をより有効に活用できるのではないかと思います。

これまでシノドスが編集・出版してきた書籍のテーマは、スタッフの専門性から、人文科学・社会科学にとどまりがちでした。従来のテーマ設定の殻を破る試みとして、『もうダマされないための「科学」講義』をここにお届けします。


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『日本思想という病』

光文社 2010年

ようこそシノドスへ!主宰の芹沢一也です。
シノドス・リーディングス三冊目となる本書のテーマは、「思想」と「歴史」です。
思想と歴史。いずれも昨今では、あまり重要性を与えられていないテーマかもしれません。時代のトレンドは経済学を筆頭とした、より合理的な、あるいは科学的な言論を重視する方向に向かっているからです。そして、それ自体は間違いなく望ましいことだといえるでしょう。

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何といっても現在は、激動と混迷の時代です。政治、経済、社会、いずれにおいても、新しい制度設計が必要となっています。たとえば政治家と官僚の関係しかり、社会保障制度しかり。そうしたなか、制度設計のためのヴィジョンを手にしようというなら、統計やエビデンスに裏打ちされた言論こそが、主導的な役割を果たすべきなのです。
とはいえ、です。
当たり前のことですが、社会は真空状態のうちに存在しているわけではありません。古今東西、変わらぬニュートラルな社会なるものがあって、合理的かつ科学的にそれを操作・操縦しさえすれば、理想の社会が実現するなどありえません。
また、理想をめざした操作・操縦自体が、しばしば多大な困難に直面します。このことは、まさにいま皆さんが実感しているところではないでしょうか。
民主党が訴えてきた政権交代は、国民にまったく新しい日の到来を夢見させました。ところが、ふたを開けてみたらどうでしょう。旧来的な政治の光景が繰り返される場面を目にする機会が、多々あるのではないでしょうか。改革のための力が不足しているのでしょうか。そうした側面があることは否めません。しかしながら、それこそが社会の現実なのです。
いかなる社会も歴史のうちにとらえられています。したがって、過去から解放された新しい社会を、わたしたちが手にすることはできません。
たとえば民主党は、自民党がつくりあげた政治システムがもつ、錯綜した利害関係の磁場のうちで改革を進めていく必要がある。自民党政治という過去のまったき否定は不可能だからです。
もちろん、過去による拘束は政治にとどまりはしません。自民党政治の背景には高度経済成長の達成がありますし、高度成長の背後には戦後という時代が横たわっている。そして戦後はもちろん、骨の髄まで戦争経験の影響下にあります。さらに戦争にいたるまでの歴史を導いたのは、西洋近代との遭遇とその受容でした。
現在という瞬間はこのように、「歴史」のうちに幾重にもとらえられています。そして、歴史はそのときどきの人びとによる価値の選択、つまりは「思想」と分かちがたく絡み合っています。それゆえ、現在のような変革の時代にあってこそ、歴史と思想をきちんと見据える眼差しが必要となるのです。
いうまでもなく、それは昨今幅を利かせている懐古趣味などとは無縁です。よりよき未来を希求するがゆえに、過去に自らの来歴を問おうとすること。未来への希望を紡ぎだすために、歴史的な規定性のうちで現在をみつめること。こうした眼差しにこそ、アクチュアリティが宿るのです。
このような現在性の歴史学たることをめざして、5人の思想史家たちによるセミナーを編んだのが、本書『日本思想という病』です。いずれ劣らぬ透徹した眼差しの持ち主たちによって、日本社会の現在性を歴史的に規定している思想、あるいは思想的な病弊が、浮き彫りにされるのを玩味いただければと思います。
以下、各セミナーのエッセンスを簡単に紹介しましょう。
第一章、中島岳志「保守・右翼・ナショナリズム」。
冷戦の終焉とともに、イデオロギーの時代は終わったと語られています。左翼にしても、右翼にしても、レッテルとしてのイデオロギーが無効となったのはたしかでしょう。しかしながら、それはそうした言葉に込められていた思想が無用になったということまでは意味しません。
現在の社会に変革の必要性を認識し、そのためのモデルを未来に求めるのが左翼、過去に求めるのが右翼だとするならば、そのような構え自体が古びることなどありえません。大切なのは、左翼であれ、右翼であれ、そして保守であれ、それがどのような思想的構えを意味するのかを理解することです。
中島のセミナーは保守思想がもつ真意を、左翼的な設計主義との差異において、あるいは混同されがちな右翼や反動と区別しながら、明治以来の日本思想の具体的な展開のうちで説いていきます。
自民党による保守再生というかけ声が虚しく響くほど、空洞化してしまっている保守思想。その再生を阻んでいる原因はどこにあるのでしょうか?
第二章、片山杜秀「中今・無・無責任」。
たとえば、90年代の政治改革以来、政治主導が追求すべき理想とされてきました。そこに流れ込んでいたのは、戦後、日本の言論人たちがもちつづけてきた、責任をもって決断する主体への憧れといってよいでしょう。
ところが、そうした理想を実現すべく生じた意志は、決して貫徹されることなく挫かれます。これは政治改革にかぎらない、いつも繰り返されてきた風景にみえます。あたかもこの日本社会には、意志をもった主体を無力化し、現状に絡め取るような作用が働いているかのように映るのです。
日本特殊性論の温床となってきたのが、このような認識にほかなりません。しかしながら、それははたして日本社会の本質なのか。
このような問いをもって、戦前期の右翼思想の曲折を追ったのが片山のセミナーです。そこで明らかにされるのは、決断主体の生成を不可能としたのは、明治日本の政治システムの設計だったということ。ではなぜそれが、あたかも動かしがたい本質であるかのように、いまだわたしたちの認識や行動をしばりつづけているのでしょうか?
第三章、高田里惠子「文系知識人の悲哀」。
かつて知識人といえば、政治・経済から社会・文化にいたる、さまざまな事象に一家言をもつ(とされる)存在でした。また究極的には、国家の進むべき方向や、社会が採るべき価値を、国民に指し示す役割を期待されてもいました。ところが、社会が複雑化し、諸領域における専門性が高まると、そのような振る舞いはもはや不可能となります。
ウェブ言論の広がりもまた、この傾向に拍車をかけました。人文知識人の発言に、何らエビデンスの裏付けがないことが暴露され、揶揄、バッシングされる光景は、いまや日常茶飯事となっています。かくして、ここ10年で、もっともその価値が下落したのは人文系の言論であるのは間違いありません。
ところが、知識人のステータスをめぐるこの問題は、歴史的にじつはずっと深いところ、戦前の軍隊と学校制度の在り方に根ざしている。このことを明らかにするのが高田のセミナーです。
なぜ日本では、学歴エリートたる文系知識人が、エリートとして大衆から屹立し、堂々と天下国家を論ずることができないのでしょうか?
第四章、植村和秀「思想史からみる昭和史」。
たとえば天皇や靖国、日米安保。扱いを誤れば、内閣の土台が揺らぐどころか、国際的な軋轢にまで発展するデリケートな問題です。あるいは戦後という言葉。世界史的には冷戦後を指すべきこの言葉が、日本ではいまだ先の戦争の後を強く喚起します。
こうした事柄が意味するのは、いまなお昭和という時代の呪縛のもとに、わたしたちがあるということにほかなりません。では、昭和とはいかなる時代だったのか。これが植村のセミナーのテーマです。
そこで植村はきわめて独創的な、ふたつの軸による分類を考案します。国民主権と天皇主権を両極とする理の軸、創造性と否定性を両極とする気の軸です。この四つの分類を駆使して、昭和史をかたちづくった諸事件が解釈されたとき、もっとも重要な思想的な問いが浮上します。
すでに昭和が過ぎ去ってだいぶ経ち、その意義は日々、確実に失われています。にもかかわらず、昭和の諸問題が形骸化しつつも決して風化せず、いまだわたしたちを呪縛しつづけているのは一体なぜなのか?
第五章、田中秀臣「ニッポンの意識」。
「構造改革なくして景気回復なし」。このスローガンによって、小泉内閣は2000年代前半を改革への熱狂に染め上げました。しかしながら、構造改革への熱狂が覚めたとき、わたしたちの前にあったのは、相も変らぬ経済の長期停滞です。格差の広がりとともに社会の底が抜け、長らく忘却されていた貧困が回帰します。同時に、戦後の言論人たちが尊重してきた自由の価値が、かつてなく下落することとなりました。
貧困、社会、そして自由。じつは経済学の草創期であった100年前、日本の経済学者たちが発見し、格闘したのが、この三つのテーマでした。そこで20世紀初頭の経済学思考の軌跡をトレースすることで、その現代的意義を汲み取ろうというのが、田中のセミナーのもくろみとなります。
浮かび上がるのは、わたしたちの00年代における経済論戦が、100年前のそれを反復してしまっているという事実です。そして、真に実効的な思考が、清算主義という一種の革命思考に呑み込まれ、力を奪われていく、そのような思想的な磁場が存在していることです。ここに至って、抜本的な改革を決断する主体への意志と、その挫折というきわめて日本的な物語が、それ自体、ひとつの病だと判明するでしょう。
日本思想という病、それを克服する道筋は、はたしてどこにあるのか?

理想を実現しようと望むなら、失敗を含めた過去の経験に、つねに開かれていなくてはならない。本書に集った5人の思想史家たちのセミナーに、歴史との対話から希望を紡ぐ瞬間を読み取っていただければ、それに勝る喜びはありません。そう願って、『日本思想という病』をお届けします。 


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『経済成長って何で必要なんだろう?』

光文社 2009年

ようこそ、シノドスへ!主宰の芹沢一也です。
本書は『日本を変える「知」』に続く、シノドス・リーディングス第二弾となります。タイトルが示すように、テーマは「経済成長」。このテーマをとりあげたのは、現在もっとも必要なはずの経済成長をめぐる議論が、不思議なことになぜかもっとも等閑視されているからです。
ことさら指摘するまでもなく、昨今、雇用喪失や貧困が、大きな社会問題となっています。世論の関心もきわめて高く、書籍のタイトルのみならず、新聞や雑誌、あるいはテレビなどに、貧困や格差社会、ワーキングプア、ネットカフェ難民、雇用崩壊といった言葉が躍り、どこかで目にしない日はないというほどでしょう。

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対策が喫緊である点では、衆目の一致しているところのはず。にもかかわらず、現実はといえば、建設的な議論を積み上げて、具体的な政策へと練り上げていくという、ごく真っ当な道筋があまりにか細く見えます。メディアに映し出される党派的対立そのままに、日本全体が明確な指針なく迷走しているようなのです。
本書の共編者である荻上チキは、こうした状況を前にして、つぎのように述べます。

「現代社会は数々の問題点を抱えているが、その「問題点」を観察する側は、それ以上の難題を抱えているようだ。メディア上で語られる言説の多くは、様々な「専門知」を軽視してしまっていることもしばしばであり、そこでは建設的な論争よりも、党派的な「論点パッケージ」を構築することに懸命でいるように映る。たとえば貧困問題一つをとっても、「自己責任(右)/社会責任(左)」といった「共感をめぐる対立」が大きく取り上げられる一方で、冷静に「可能なる提案」を研磨しあえるプレイヤーは、ごくごくわずかだ。」(『日本を変える「知」』18頁)

もちろん、問題を解決するための処方箋を提示し、ひいてはそれを政策として実現させるためには、人びとを共感させて自陣に動員することは不可避です。むしろ、それこそが政治的な地平でのゲームの規則だといってよい。さまざまな利害が対立し、そして調整される場である政治とは、正しく「動員ゲーム」にほかならないのですから。
問題は荻上が指摘するように、それがあまりに不毛な論点パッケージを舞台に演じられている点にあります。そのため、めざすべき社会制度へ向けての焦点が定まらない。党派的な対立をこえて、政界、経済界、労働界などの、錯綜する利害を調整する合理的なフォーマットが、まったく見えてこない。
こうした状況を招いた責任の一端は、間違いなく言論にあります。議論を現実にしっかりとつなぎとめる投錨点を、説得力のあるかたちで示せていないわけですから。では、その原因はどこにあるのかといえば、もちろん数え上げるべきは数多あるかと思います。ただ、そうしたなかでも指摘されなくてはならないのは、「経済学思考」の決定的な不足です。
例えば、雇用の安定を求める派遣社員と、企業の存続を最優先する経営陣との対立。水と油のように対立する両者の利害のあいだで、社会全体に資する最適解を探ろうとするならば、経済的な合理性を勘案せずには不可能でしょう。もちろん政治的な動員ゲームのアリーナにあっては、複数の社会構想が競合するのが望ましい。けれども、そこには経済学的思考に裏打ちされた構想があるべきなのです。ところが、それが見当たらない。
そこで本書は、若年雇用や貧困などをめぐる社会問題を、経済的地平に正しく開いていこうと編まれました。そのためにご登場願ったのが、経済学者の飯田泰之です。ふたたび荻上の文章を借りましょう。

「飯田氏によれば、現代社会が抱えている多くの問題点は、実は経済学の手法によって解決できる部分が多いという。そして「経済学」はそうした問題を解決するために「一番楽」な手段だから、使わない手はない、そう飯田氏は語る。しかし様々な障壁により、そうした発想そのものへの支持が高くない現状がある。マルクス経済学の影響による近代経済学の不足。「詩的想像力」が重視されがちな「論壇」の経済学アレルギーと、文化や世代的内面の問題に回収してしまう「お作法」、さらには「経済合理性」という言葉そのものへの誤解などなど。」(前掲著、19頁)

この文章には、日本の言論にあって経済学が軽視されている理由が、凝縮されて示されています。掘り下げた説明については、本文をお読みいただければと思いますが、ここで指摘しておきたいのは、経済学、そして経済成長に対して、何か不信のようなものが広く根づいていることです。
本書はそのような不信の来歴を解きほぐしながら、経済学の「ツール」としての価値を認識していただくことをめざしています。そこで本書は、異見を直接ぶつけ合うことのできる、対談というかたちをとることにしました。飯田泰之の対談相手としてご登場いただくのは、エコノミストの岡田靖、ライターの赤木智弘、そして社会運動家の湯浅誠です。
簡単に各章の内容をご紹介します。
1章は「高度成長とはなんだったのか」。日本経済の源流である高度経済成長。1955年に生まれた岡田靖は、その間の日本社会の移り変わりを、実体験として知る世代のエコノミストです。GDPの比較や東京の風景の変容といった、具体的な数字やエピソードを交えて語られる高度成長期の諸相。経済成長は私たちの生活に、いったいどのような意味と力をもつものなのか?
2章は「戦争よりバブル、希望はインフレ」。「希望は戦争」というフレーズで、一躍、論壇の脚光を浴びたのが、当時フリーターだった赤木智弘。いわゆるロスジェネ世代を代表する論客の一人です。バブル崩壊後の就職氷河期にあって、多くが非正規雇用に甘んじねばならなかった世代が社会に向ける怨嗟。何がこの怨嗟に応えうるのか。希望の灯は戦争か、それともインフレか?
3章は「何が貧困を救うのか」。反貧困運動の最前線に立つ運動家として、問題のプラグマティック(実利的な)解決を迫られる湯浅誠。そこでは動員のための戦略的思考が、何よりも重要なものとなります。だが、はたして現場での解決の積み重ねは、望ましい社会への道に通じているのか。現場での運動のロジックと、経済学的な合理性。それぞれが描き出す、貧困をなくす最良のシナリオとははたして何か?

格差解消や貧困の撲滅を訴える言論人や運動家は、しばしば資本主義や市場経済そのものに批判的です。しかしながら、経済学者が主張するように、経済学が社会にもっともやさしい問題解決のツールを提供できるとするならば、私たちはもっと真摯に耳を傾けるべきなのです。
有効なツールとなるべき思考法の数々が、隣接領域に無関心のまま、相互への不信感ばかりを高めている状況を是正すること。閉鎖性を特権視し、専門領域に閉じこもった言説郡を、開かれた場所に解放し、つなげ合わせていくこと。それがシノドスの目的であり、本書の役割です。
経済学者との実りある対話に開かれるための一助となることを願って、『経済成長って何で必要なんだろう』をお届けします。


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『日本を変える「知」 』

光文社 2009年

ようこそ、シノドスへ! 主宰の芹沢一也です。
シノドスとは、わたしたちが生きる日本社会を、さまざまな視角から検討しようと立ち上げた「知」の交流スペース。現在のところ、セミナーとメールマガジンが、活動の中心となっています。
セミナーでは、アカデミックの最前線に立つ論者たちを講師にお招きし、8人程度の参加者の前でお話しいただきます。講師とテーブルをともにする参加者たちは、素朴な疑問を質してみたり、自分なりの意見をぶつけてみたり。このような少人数制をとることには、ひとつ大きな理由があります。

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カルチャーセンターなどでは、どうしても講義が一方通行になりがち。それに対してシノドスでは、話が分かりにくければ、その場で参加者から質問が飛んできます。独りよがりな話し方では通用しませんし、高尚な話でけむに巻くこともできません。このような環境こそが、言論人、そして「知」にとっての「試練」の場となるのです。
こうして実現されるのは、端的にいえば、話がわかりやすくなるということです。もちろん、知的水準は一切、犠牲にされてはいません。身近な他者とのコミュニケーションをへた言論は、比ゆ的にいえば、余計な力みが取り除かれているのです。それは虚栄や衒いからは無縁の言葉、目の前で耳を傾けてくれている他者に、自分が本当に言いたいことを、ただ伝えたいという情熱にのみ裏打ちされた言葉です。
シノドスのセミナーは、アカデミックでの先端的な議論を、ふつうの人びとにとって可能なかぎり身近なものにするための、いうなれば濾過装置のような役割をはたしています。そして、臨場感あふれるセミナーの記録を、メールマガジン「αシノドス」で配信しているのです。
以上が、シノドスの活動の簡単な紹介ですが、そこでのコンセプトは、現代社会を読み解くためのアカデミックな「知」を、ふつうの人びとの生活に身近なかたちで展開するというものです。というのも、両者のあいだの乖離こそが、もっとも問題だと考えているからです。
わたしたち人間は社会的な動物です。社会を成り立たせているさまざまな制度によって、わたしたちの生活は大きく左右されます。ところが、ご存じのとおり、これまで日本社会を支えてきた諸制度が、現在、根底から揺らいでいます。政治から経済にいたるまで、あるいは教育や文化、思想において、あらゆる場面でさまざまに行き詰まりをみせています。
混迷する現在のような時代にあるからこそ、しっかりとした「知」を手にしたいという要望は、かつてにもまして強いはずです。ところが、つねに情報が過多であり、しかも適正な競争のもとで淘汰されて、正しい情報が残るのではまったくなく、メディアで露出度が高い人間が、ただ声高く主張する空疎な意見が正当性を帯びてしまう。そうした危機的ともいえる状況にあって、わたしたちが生きる社会の現状、あるいはその来歴をきちんと理解し、未来への展望を正しく切り開くための「知」を提供することに、シノドスの使命はあるのです。
本書『日本を変える「知」』も、そのような使命感のもとに編まれました。αシノドスに掲載されたもののうちから、現在もっとも必要な五つのジャンルのセミナーをセレクトし、さらに大幅な加筆を行っています。経済、政治、教育、社会、そして思想です。
セミナー?は、経済学者、飯田泰之による「現代社会に不可欠な「経済学っぽい考え方」」。100年に一度といわれる経済危機の最中にある現在、何よりわたしたちが関心を向けているのは経済です。にもかかわらず、でてくる政策はどうも的外れなものばかり。なぜ経済学という「道具」をうまく使いこなせないのか? それは経済学的な思考がきちんと定着していないから。それでは経済学はどのように問題をとらえ、解決しようとするものなのか? 飯田泰之がコンパクトに説明してくれます。
セミナー?は、政治学者、吉田徹による「ニッポンの民主主義」。バブル崩壊以降、経済の失墜と歩調を合わせるかのように、日本の政治もまた混迷状態にあります。80年代末にはじまった政治改革の目標である、アメリカやイギリスのような二大政党制が、なかなか実現しません。ところが、そのような「理念」に日本の現実をしたがわせようとしたところに、じつは問題の根源があるのだとしたら! 吉田徹はわたしたちの無自覚な思い込みを、比較政治学の観点から鮮やかにひっくり返します。
セミナー?は、教育学者、本田由紀による「教育・労働・家族をめぐる問題」。かつて「一億総中流」という言葉がありました。偏差値の高い学校に入り、大企業の正社員となり、そして幸せな家庭を築くことが、よき人生だとされていました。ところが、90年代以降、長引く不況のなかで、そうした幸福のモデルは実現が困難に。仕事の世界でいま、どのような変容が起きているのか? そしてそれは、家族や教育にいかなる歪みをもたらしているのか? 本田由紀が統計データの精緻な分析によって暴きだします。
セミナー?は、社会学者、鈴木謙介による「日本ならではの「再帰的不安」を乗り越えて」。現代は自明性が失われた時代だといわれます。何が当たり前の生き方なのか、すべては個人の選択に委ねられているのだと。ここから先進国の社会に共通する、特有の「不安」が生じてきます。ところが日本のケースは事情がさらに複雑。鈴木謙介は社会学理論と歴史分析を駆使しつつ、現代日本社会をおおう不安の根源を、産業構造と情報コミュニケーションとの特異なねじれのうちに突き止めます。
セミナー?は、社会哲学者、橋本努による「誰もネオリベラリズムを全面否定できない」。新聞で、テレビや雑誌で、誰もが叫んでいます。すべての元凶はネオリベ(新自由主義)だと。ところが不思議なことに、それが何を意味するのかを、誰もはっきりと説明できません。せいぜい市場原理主義という、粗雑な答えが返ってくるだけ。橋本努は典型的なネオリベ批判を検討しながら、ほとんどが批判となっていないことを喝破します。ネオリベラリズムとは何か? その本当の姿が浮かび上がります。
以上、五つのセミナーに加えて、荻上チキの提案により、各講師が質問をぶつけあうクロス・インタビューが掲載されています。「知」の交流スペース、シノドスならではの、専門を超えたスリリングな対話をあわせてお楽しみください。
本書に集った論者たちは、ぼくを含めていずれも「若手」とされています。年長者からは「最近の若者」への評判はよろしくありません。たしかに、資本主義を乗り越えるとか、国家を打倒するなどと、威勢のよいことはいえません。しかしながら、本書を読んでいただければご理解いただけると思いますが、この社会を少しでもよくしたいという情熱にかけては、人後に落ちないつもりです。
いま、わたしたちの社会は、価値観の核のようなものを見失っています。そのためどこでも右往左往、目にするのは朝令暮改ばかり。こうした状況を変えるためには、凡庸ですが、冷静に現状を分析したうえで、適切な問題設定を行なわなければなりません。そうしてようやく、建設的な議論をはじめることができるのです。
その役に立てることを確信しながら、『日本を変える「知」』と銘打った本書をお届けします。


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『日本経済復活』

光文社 2010年


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『現代用語の基礎知識2010』

自由国民社 2009年

たとえば少年法や教育基本法の改正、あるいは裁判員制度の導入や臓器移植法の成立。
のちの歴史家によって2000年代は、国家や社会を支える法や制度が、根底から変革された時代だったと振り返られるだろう。さらに未来の歴史家は、驚きとともにつけ加えるはずである。かくも大きな変革が、正しい情報や専門知の裏づけを、ほとんどないままになされたことを。

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1990年代以来、日本は大変動の最中にある。その駆動源となっているのが、人々の「常識」感覚だ。しかし、「常識」はしばしば古びたり、誤ったりするため、速やかに検証されなくてはならない。そう、2010年代に求められる「新・常識」に不可欠なのは、正確な知識と情報なのだ。
そこで巻頭特集では、<知>の交流スペース・シノドスが、時代の輪郭を浮かび上がらせるべく、信頼に足る各界の論者たちを集結した。各論点は10年代の重要課題となり、各論者はその分野における中心人物となる。
2010年代の新・常識。さらなる激動の時代を生き抜くための礎としてご活用いただきたい。


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『革命待望! 1968年がくれる未来』

ポプラ社 2009年

本書は2008年9月、立教大学で開催されたシンポジウム「1968+40 全共闘もシラケも知らない若者たちへ」から生まれたものである。
わたしたちはひとつの違和感をもって集った。いま若者たちのあいだで、生き方をめぐる想像力が、あまりに貧困であることへの違和感。あるいは危機感といってもいい。
たとえばここに1枚のグラフィックがある。陳腐でありふれた内容だが、ひとつの「典型」といえるものだ。
頂上には「正社員」の若者がふたり、パソコンを前にして机に座っている。若者のひとりは机ごしに足もとをみおろしながら、「いまのところは落ちずにすんでいるけれど…」とつぶやく。下方へとのびる眼差しの先には、安定した生活を奪い去る転落の道筋が、はっきりと浮かび上がっているからだ。

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ついで正社員の下の段、きわめて不安定な場所に、5人の「非正社員」の若者たちが立っている。「低賃金」や「細切れ雇用」といった言葉が書きこまれた床はひび割れだらけだ壁にしがみつく若者もいて、いつそこから落下するかわからない。
そして、3人の若者たちが落下する。
ひとりは雇用保険や医療保険といった、社会保険のマットの上に落ち救われるが、残りのふたりにはバツ印がおされ、一方は「雇用保険に入れなかったんだ」と、そして他方は「保険料を払えず保険証をとりあげられた」といいながら、さらなる落とし穴のなかに落ちていく。
では、ふたりの運命は?
ひとりは生活保護という最後のセーフティネットに救われる。だが、もうひとりの若者は底なしの落とし穴にはまっていく。「病気じゃないなら働けといわれた」「家族に養ってもらうように、だって」「住所がない人はダメだと追いかえされた」と、「多重債務」や「ホームレス」という言葉の重しとともに、あたかも海底に沈み込んでゆくかのような顛末が暗示される。
リスクと背中あわせの生ともいうべきこの人生行路は、ある新聞記事に載ったグラフィックによって視覚化されたものである。メッセージは明確だろう。
たとえ現在、正社員で生活が安定していたとしても、この社会にはさまざまな落とし穴があるのであって、いつ何時、安定した生活が失われるかわからない。「あなたがたの現在、あなたがたの未来、つまりはあなたがたの生は、つねにリスクを孕んだものなのだ」というわけだ。
昨今、恫喝にも似たこのたぐいのメッセージが、さまざまなメディアによってまきちらされている。そして日々の生活が営まれる社会が、あちこちに陥穽が露呈した世界であるような感覚が広まっている。そうしたなか、若者たちのあいだで生き方をめぐる想像力が、かつてなくといっていいほど委縮している。
これはきわめて巧妙な、統治のひとつの技法だ。「こちら側」に残りたければ、そして平穏な日常を送りたいと願うならば、もてる力のすべてを差しださねばならないといっているのだから。
リスクへの怯えに蝕まれた若者たちは、かくして生活の保障を求めて国や企業にすがりつこうとする。
現代日本社会にあって、いまや見慣れた光景だろう。
対して1968年。若者たちは全共闘運動を闘っていた。
大学をバリケードで封鎖し、学生たちの解放区を出現させ、そこで夜を徹して語り合い、あるいはゲバ棒や投石、火炎瓶を手に街頭闘争をくりひろげていた。
生活の安定を望むどころではない。
若者たちは生に規格を押しつけてくる権威や権力に反抗し、「民主主義」や「平和」、「市民社会」といった言葉こそを、凡庸で平穏な日常を生み出すものだとして徹底して嫌悪した。
生が飼いならされる管理社会に抗して、人間としての真実を取り戻そうとした若者たちの運動。全共闘運動とはそうしたものだった。
いつわりの日常を否定するために、熱狂を憧憬したともいえるこの運動の背後には、とはいえきわめて詩情に乏しい事情があった。大学の大衆化である。
戦後、大学進学率が急激に上昇していったが、ベビーブーム世代が大量に進学した結果、大学教育が「マスプロ教育」に堕した。大教室に100名を超す学生を収容し、教授がマイクを片手に講義を行う。当然、講義は一方通行で、しかも教授たちは、それまで行なってきたゼミ形式での高踏的な講義を、そのまま大教室で行っていた。
すべてがそういった調子で、大学は急激なマス化に対応できずにいた。しかもかつてとちがって、大学生であることは、もはや若者を特別なエリートにしてくれなくなっていた。大学にあっても、社会に出ても、マスのひとりでしかない。学生たちは不満を抱えた。
あるいは、日常なるものに飽いた。
そうしたなかにあって、講義を討論会にかえて教授をやり込めたり、大学を占拠して学生だけの解放区をつくりだすことは、学生たちに非日常的な快楽をもたらしたのだ。要するに全共闘運動は、娯楽としての性格を濃厚にもっていた。
ついには日本帝国主義体制の革命を掲げたこの運動の、参加者それぞれの主観をたずねてみれば、もちろん真摯な問題を抱えた学生もいただろうが、不純な動機に突き動かされていた学生も多かったはずだ。たんなる娯楽から、仲間や居場所探し、あるいは女性にもてるため、といったものまでだ。
そもそも運動という集合的な現象だったことからもあきらかなように、それは自立した人間たちの問いかけが生みだしたというよりも、ひとつの流行現象だったといったほうがあたっているだろう。つまり、深い考えなどなにももたないノンポリであっても、運動への参加をうながされるような環境があったということだ。
さらに当時は、高度経済成長のまっただなかだ。人間としての真実などといった事柄が問題となりえたこと自体が、当時の学生たちが「豊かな社会」の特権を享受していたことを示している。彼らは貧困や生活の糧についてなやむ必要はなかった。
最近の若者は暴れないと、かつて全共闘運動を闘った世代から、非難めいた言葉がしばしばもらされる。だが、経済が右肩上がりだった時代にあっては、たとえ逮捕歴があったとしても、就職にこまることはなかった。ゲバ棒をふりまわしていたくらいのほうが使えると、企業の人事の人間がいっていたような時代なのだ。
要するに、かつてといまとでは、若者をとりまく環境がまったくちがう。それゆえ、生活保守主義的な志向をもつ現代の若者に対して、かつて権力に反抗した若者を対置してみても、なんの意味ももたないだろう。68年を神話化しようとするならば、それは滑稽なふるまいでしかない。
それゆえ本書は、「68年とはなんだったのか?」と問いはしない。訓詁注釈的な作業や思い出ばなしは、ほかの本にまかせよう。
ではなぜいま、68年なのか?
それは68年と、ひとつの〈問い〉を共有するからである。
国や企業に生活を保障されるような生き方は、はたして人生で追及するべき至上の価値なのか?
本書が68年を召喚するのは、この問いをもって現在に介入するためだ。そしてここには、未来の歴史の創造にこそ、68年を投入したいという欲望がある。いうまでもなく、この欲望の持ち主とは、本書に集ったわたしたちにほかならない。
68年という出来事とともに、わたしたちには語りたいことがある。
それは、「いまとは異なった〈現在〉がありうる」ということだ。
68年が追い求めたのは、創造的な生であり、そして自由であった。いずれもここ日本社会では、すっかり輝きを失ってしまった理念である。
たしかにわたしたちの生をめぐる現在は、数多の困難にとりかこまれている。だが、それでも現在は宿命的に決定されたものではないし、そこに創造性を発揮する余地がまったくないなどありえない。
現在がいかに必然的なものにみえるとしても、それでも必ずや別様なものでありうる。いまあるように存在し、行い、そして考えるのではないような、別様の存在のしかたや行いかた、考えかたは必ずある。そのような〈別様にありうる〉という可能性への信頼を、若者たちの生をめぐる想像力のうちにとりもどすこと。
これが本書のただひとつの目的である。


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