固定的人間関係原理から見た解釈の矛盾──新自由主義と「第三の道」の場合

前回は、1970年代までの国家主導的なシステム、とくに、アメリカ・リベラル派や旧来の社会民主主義の担った福祉国家システムが、固定的人間関係原理と流動的人間関係原理との「幸せな総合」によって根拠づけられていたということを見ました。この「総合」を可能にしたのが、社会契約説の理屈で、前回はとくにアメリカ・リベラル派の代表的政治哲学者、ジョン・ロールズの「無知のベール=天使の社会契約」の論理について検討しました。

 

こうした社会契約説の理屈付けはたしかにフィクションですが、私は、1970年代までの先進国の状況の中では、人々に自然に受け入れられる現実的根拠を持っていたのだと述べました。しかし、そのあと1980年代以降、固定的人間関係のシステムが崩れて流動的関係が世界をおおうにつれて、本来矛盾する両人間関係原理を「総合」させてきた「天使の社会契約」の理屈の無理矢理さ、中途半端さが露呈していくことになります。ロールズも各方面からの批判を受けて、次々と致命的な後退を余儀なくされて行きます。

 

さて今回は、1980年代以降の社会システム転換で、福祉国家体制に替わって採用された新自由主義と、その後の「第三の道」が、どのような思想的立場でこの転換を理解したのかを検討したいと思います。結論から言うと、本来は流動的人間関係がメジャーになるシステム転換だったのに、まったく逆の固定的人間関係原理にフィットした思想の視点から、この転換を解釈したということです。そこに根本的なボタンの掛け違えがあったということを確認しようと思います。

 

 

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

 

 

国家間バトルロワイヤルというグローバル市場観

 

まず、新自由主義のボタンの掛け違えから見ていきますが、これについては、読者のみなさんの多くも私と同じく新自由主義に批判的な立場でいらっしゃるだろうという前提に甘えて、時間と紙幅の節約のために、いささか印象論的な議論ですませることをご容赦下さい。今回の議論は、このあとで見る「第三の道」のボタンの掛け違えの検討の方に重点をおきたいと思います。

 

さて、私見では、新自由主義はナショナリズム思想を採用したと言えるでしょう。ナショナリズムは、国家という身内集団への忠誠に一番の価値を置くという点で、典型的な固定的人間関係原理の思想です。

 

ところが、現実のグローバル化・市場化は、これとはまったく逆に、流動的人間関係原理がメジャーになる転換です。ではこの事態は、ナショナリズムに立つ新自由主義の立場からは、どのようにとらえられたのでしょうか。

 

一言で言えば「国家間バトルロワイヤル」のイメージだっただろうと思います。つまり、「日本系企業」「アメリカ系企業」「韓国系企業」等々と、企業どうしが国ごとでまとまって、国際市場を舞台に仁義なき戦いを繰り広げるというイメージです。そしてこの国際競争に勝ち抜くためにと称して、規制緩和で生産性を上げるとか、賃金を抑制するとか、法人税を下げるとかが叫ばれたわけです。福祉をはじめとする財政の削減も、同様に、国際競争力をつけるための効率化と言って正当化されました。

 

ところが、新自由主義を後押しした新古典派経済学が嫌う財政支出は、別に福祉などにかぎった話ではなかったのに、新自由主義の政治家は、こと「成長分野」の産業育成だの技術開発だの電源開発だの鉱物資源確保だのに限っては、おおかたの新古典派経済学者のタブーを無視して、国家予算を大々的につぎ込むことに躊躇しません。これは、経済学者の目から見たらまったく矛盾した態度に見えますが、政治家たちが、「企業を武将として使う経済戦争」というイメージで物事を考えているのだと解釈すれば、すっきり説明がいきます。

 

 

国際競争に勝とうとすると国の独自性がなくなる

 

もちろん、本当はこのイメージは現実と合致していません。大企業が国旗を背負って世界で戦ってくれるなどというのは政治家の勝手な思い込みで、もともと資本の論理は国家に忠誠など持ちません。必要とあらば、いつでも国内の工場をたたんで世界に出ていくし、いつでも外資に身売りします。調達先は世界中の一番有利なところを選び、世界中から優秀な人材を抜擢します。それをやり抜いた企業が勝つということこそ、グローバル時代の国際競争なのです。

 

そうすると、国際競争に勝てば勝つほど、いったい誰の勝利なのかわからなくなってきます。行き着くところは、日系企業と称する企業は世界中で活躍しながら、日本国内には本社とせいぜい開発部門しか残らず、そこでは世界から集めた少数のエリートが英語で仕事をしているだけ。世界中で外貨を稼いでも、日本に送金されて円に換えれば円高になってますます国内産業を空洞化させ、さもなくば海外で再投資されて国内の雇用にはさっぱりつながらない──そんなことになりかねません。

 

労働条件を切り下げて、法人税を下げて、なるべく企業を国内に呼び込もうとしても、結局淘汰の末、外資ばかりが生き残るかもしれません。かつてイギリスのサッチャー政権下で行われた金融自由化の結果、イギリス国内の金融業は活性化したはいいが残っているのは外資ばかりということで、外国人選手ばかりが活躍するテニスの選手権大会になぞらえて「ウィンブルドン効果」と呼ばれました。それはよそ事ではありません。

 

あるいはそうならなくても、生き残ろうと思えば、企業の運営の仕方にしても、経済全体のシステムとしても、世界で一番成功しているやり方をまねしないわけにはいきません。それは多くの場合、アメリカのやり方ということになるでしょう。あるいは、大きな企業の都合にとって、世界で一番緩い基準、世界で一番軽い負担に、どこの国も制度を合わせていくことになります。

 

かくして、「日本が強くなるため」として「国際競争力」なるものの向上に成功すればするほど、日本の労働者の雇用も賃金も抑えられ、日本企業から「日本の」企業という内実はなくなり、日本国家からも固有の日本らしさは失われて、ますます世界のどこにでもある、身も蓋もない権力装置一般になってしまう動きが起こります。

 

こんなことが進行すると、ナショナリズム感情を満足させるためには、経済やテクノロジーの必然にさしあたり抵触しないような、歴史認識だの文化だの宗教だのといったところでのナショナルプライドにこだわるようになるのは自然な流れでしょう。しかし、ますます多くの人が、取引や共同事業、雇用などで、ますますグローバルで緊密な国際的人間関係にさらされるようになる今日、一見経済と無関係のようなそのような分野での自己満足的ナショナリズムが進行することは、やがてボディブローのように確実に経済的メリットを蝕んでいくに違いありません[*1]。

 

[*1] 日本の場合、戦争評価で「アメリカ様」の虎の尾を踏むという点でも、新自由主義の自家撞着に陥る。

 

 

「小泉パッケージ」は成り立たない

 

だからそもそも、ナショナリズムのような固定的人間関係原理にフィットした思想で、市場化、グローバル化という、流動的人間関係がメジャーなシステムへの移行をとらえようとすること自体に無理があったわけです。

 

今日では、市場化、グローバル化を推進しようという立場の人は、国の自立性や独自性はなくなってもOKと言わないわけにいきません。世界に権力機関はアメリカ政府だけあれば十分、各国にあるのはその出先機関でいい。そう言い切ってこそすっきり筋が通ります。逆にナショナリズムにこだわろうと言うならば、市場化・グローバル化に歯止めをかける立場に立たないと筋が通りません。

 

だから、今日に至ってもなお、市場化・グローバル化・「小さな政府」の推進とナショナリズム強調の両方が載る「小泉パッケージ」を掲げる人は、両者の矛盾に気がつかない能天気な人であるか、さもなくば、実は自分の都合で国を選べる絶対強者のエリートの利益に立っていながら、大衆を目くらましするためにナショナリズムを利用している悪意の人であるかのどちらかでしょう。もはや、文楽に公金を出さずにジャズと同列に自由選択される私事にしながら、「君が代」は自由選択の余地なき強制にするという、矛盾した政治は成り立たないのです。

 

 

コミュニタリアン思想に依拠した「第三の道」

 

では、新自由主義のもたらした歪みの是正を掲げて登場した、ブレア=クリントン流「第三の道」路線の場合はどうでしょうか。以下では、筆者が、2013年の共著書『市民参加のまちづくり【グローカル編】──コミュニティへの自由』(創成社)の第1章「コミュニティからの変革の政治哲学的基礎付け──リベラル風コミュニタリアンの蹉跌を超えて」で述べたことを、要約してご紹介したいと思います。詳しくはこの本をご検討下さい。

 

ブレア=クリントン路線の掲げるスローガンが、昔の社会民主主義やアメリカ・リベラル派のものと違う大きな特徴は、市民を一方的な福祉の受給者とみなさないということです。もちろん、自助努力の名のもとに社会的排除を進める新自由主義とも違うとされていますが、しかし、お年寄りや障がい者のような社会的弱者にも、従来は専業主婦であった層にも、働くことを通じて社会参加を求めることが強調されているのです。

 

ここでキーワードになっているのが、「社会的包摂(インクルージョン)」ということです。お年寄りも障がい者も、いろいろな人々をコミュニティの一員として受け入れ、いっしょに日々の暮らしを作っていこうという理念です。

 

こうした路線は、政治哲学では「コミュニタリアン(共同体主義者)」と呼ばれる潮流によって正当化されました。コミュニティでの人のつながりを重視する思想潮流です。90年代のアメリカでは、民主党の政治哲学のブレーンがリベラル派からコミュニタリアンに入れ替わったのです。「大きな政府」による社会保障を充実させようとしたアメリカ・リベラル派に替わって、クリントン政権ではコミュニタリアンのウィリアム・ガルストンさんがホワイトハウス入りしました。そして、「大きな政府」よりはむしろコミュニティと「アソシエーション」(ガルストンさんの場合、民間社会事業を指す言葉)に依拠しようという政策方向を打ち出したのです[*2]。ブッシュ大統領に大統領選挙で惜敗した民主党のゴア候補が、自分のことを「コミュニタリアン」と公言していた[*3]ことは時代を象徴していたと言えるでしょう。

 

[*2] 坂口緑 (2007)「コミュニタリアニズムの政策論──エッチオーニとガルストン」、有賀誠・伊藤恭彦・松井暁編『ポスト・リベラリズムの対抗軸』ナカニシヤ出版、第3章、45-46ページ。

 

[*3] 同上48ページ。

 

さらに、ヨーロッパでは、もともと協同組合や非営利組織が、「第三セクター」とか「社会的セクター」と呼ばれて、分厚い層をなしてきましたから、ブレア労働党の「第三の道」はじめ、多くの社会民主主義勢力が、行き詰まった福祉国家路線に替わるものとしてこうしたコミュニタリアン的路線に向かったことは自然なことだっただろうと思います。

 

しかし、コミュニタリアン思想は、個人に先立ってまず共同体ありきで話を説き、共同体の一員として人が作られるものなのだと強調します。明らかに固定的人間関係原理の側の思想です。それが、多少なりとも「小さな政府」を容認し、市場原理を積極的に活用しようとする「第三の道」の流動的人間関係志向の姿勢と、どうつじつまを合わせたつもりだったのでしょうか。

 

 

コミュニティ路線が極右排外主義を生んだ

 

この矛盾を正面から取り上げた本があります。2012年に出た水島治郎さんの『反転する福祉国家──オランダモデルの光と影』(岩波書店)です。

 

90年代以降オランダで取られた、その名も「オランダモデル」こそ、「第三の道」の典型モデルだったと言えます。その具体的な政策としては、有名なものでは、ワークシェアリング(労働時間短縮による雇用創出)、ワークフェア(就労を通じた福祉)、フレキシキュリティ(解雇規制の緩和など労働市場の柔軟化と非正規労働者の地位向上=事実上の正規化の組み合わせ)などがあげられます。これらのそれぞれについては、「第三の道」的立場に立つ人たちの間でも、賛否両論さまざまあるでしょう。しかし重要なのは、これらの政策がひとつの共通の理念で貫かれているということです。

 

それが「参加」ということです。コミュニティへの参加を通じた社会的包摂の実現を目指す政策[*4]という点で、本稿に言う、コミュニタリアン思想に立ったブレア=クリントン路線の典型だったと言えるわけです。主として90年代の社会民主主義政党とリベラル派の連立政権下で、それをどの国よりもめざましく実現してきたことが、水島さんのこの本の副題に言う、「オランダモデルの光」にあたります。

 

[*4] 水島同上書、42-43ページ。

 

他方で、水島さんの本の副題の「影」にあたるのは、従来「寛容」で知られ、「アンネの日記」の昔から異質な移民をオープンに受け入れてきたオランダで、今世紀に入ってから移民排斥を唱える新しい右翼運動が隆盛していることです。その広がりの前で、既成政党もこの主張を無視できなくなり、オランダ国家の移民・難民政策は、門戸制限の方向に大きく舵をきることになりました。

 

水島さんのこの本が衝撃的なのは、これが本の副題にあるように、「オランダモデルの影」なのだということです。「光」と「影」が別物なのではなくて、「光」の側面が「影」を生み出している構造を喝破したことが重大なのです。

 

すなわち、「参加」の重視ということが、参加できる者とできない者との間に線を引くことをもたらすのです。コミュニティの一員として「社会的包摂」を目指すということは、コミュニティのために貢献しない者、「包摂しがたい存在」を、コミュニティの一員でない者として排除することに通じます。「包摂」と「排除」は表裏一体ということなのです[*5]。

 

[*5] 同上書、191-199ページ。

 

水島さんによれば、オランダにおいて、従来の政策を転換して移民制限を進めた右派系のバルケネンデ首相は、自らの立場を「コミュニタリアン的」と称しているそうです。そしてエツィオーニさんやマッキンタイヤーさんのようなコミュニタリアンの有名論客を引用していると言います[*6]。思い返せばかつてフランス極右「国民戦線」を創設したルペンさんは、フランス人にはフランス人の、イスラム教徒にはイスラム教徒の伝統があるのだから、それぞれ互いに尊重しあって干渉しないために、互いの場所に入り込んではいけないというレトリックで移民排斥を語ったものでした。

 

[*6] 同上書、150ページ。148-149ページも注目のこと。

 

イスラムはじめ、欧米先進国以外をも巻き込んで展開するグローバル化に直面する中にあっては、コミュニティをベースにした社会的包摂型の福祉社会という路線は、その背景にあったコミュニタリアン思想自体から、理の当然として排除の論理を生み出すわけです。

 

第8章で取り上げましたように、日本において、20世紀型福祉国家である「所得分配中心・ニーズ決定型の福祉国家」から、新しい「社会的包摂中心・ニーズ表出型の福祉ガバナンス」への転換を唱えてきた[*7]代表的論客は、宮本太郎さんです。ほかならぬこの宮本さんが、今日、ワークフェア型福祉と、北欧極右などの福祉排外主義との関連を指摘している[*8]ことからも、この問題の重大性を見て取ることができます。【次ページにつづく】

 

[*7] 例えば宮本太郎(2006)「新しい福祉国家のガバナンス──新しい政治対抗」、『思想』2006年3月号。

 

[*8] 宮本太郎(2004)「新しい右翼と福祉ショービニズム──反社会的連帯の理由」、斉藤純一編『福祉国家/社会的連帯の理由』ミネルヴァ書房、第2章、61-62ページ。

 

 

 

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