もう一度「一般理論」に挑戦する

IS-LMの功罪

 

飯田 そういった状況のなかで、IS-LMがもたらした罪もあると思うんです。それはIS-LMそのものでもあるし、新古典派総合ケインジアンと呼ばれるタイプの人々は、価格硬直性だけで乗っかろうとしたんですよね。ただ、『一般理論』を読んでみると、価格硬直性の話はそんなに重要視されてないんですよ。

 

山形 最初の古典派をやっつけるあたりでは出てきますけどね。

 

飯田 そう、最初はすごく出てくるけど、真ん中ぐらいになると、そんなに重要じゃなくなってくる。だから、ケインズ自身がどの程度、価格硬直性に重きを置いていたのかは、もう死んじゃったからわからないし、ケインズの言うとおりである必要もないけれども、ちょっと疑問だなと思うところがあるんですよ。

 

山形 なるほど。最近の潮流だと、飯田さんは一応ニュー・ケインジアンということなんですよね。

 

飯田 そうですね。学術論文はそういうのが中心ですね。

 

山形 とくにぼくは経済学者ではなく「実務エコノミスト」なので、DSGE(Dynamic Stochastic General Equilibrium/動学的確率的一般均衡)とか、何の略だったか言える人すらいないような難しいモデルは使ってないんです。でも、リーマンショックでニュー・ケインジアンもDSGEも役に立たないことが証明されて、「やっぱりそういうときに使えるのはIS-LMだけだったろう。ほら、ケインズをやれ」というような話をよく聞きます。ぼくがよく見ている人がそういうことを言っているだけかもしれないですが、これはニュー・ケインジアン的にはどういうふうに期待します?

 

飯田 そもそも経済理論には、全部を説明する理論はないし、もし全部を説明する理論があったら、それはウソだと思うんですね。「道で仏陀に会ったならば仏陀を殺せ」という話と同じで。「全部説明できますよ」というのはだいたいウソです。じゃあ、DSGEは何を説明するモデルなのかといったら、普段のよくあるショックに対してファインチューニングをするための理論なんです。たとえると、普通車を普通の道路で普通に運転するための理論です。だからサーキットで運転する場合や、巨大地震が起きたときにどう運転すれば安全かといった話は、DSGEからすると、「そんなところまでは考えておりません」としか言いようがない。

 

その一方で、じつはIS-LMも、たとえばサプライショックが中心のときは、「サプライショックだとこうなる」と言えるけれども、それについてどうコントロールするかは言えません。経済理論はあくまで現実のごくごく一部を切り取ることなので、症状によってモデルを切り替えなきゃならないんです。

 

でも理論経済学者は、大げさにいうと「大統一理論」のように、すべてを説明し尽くせるモデルを夢見てしまうものです。自分で論文を書いていても、夜中の3時くらいのテンションになると、「これはすべてを説明できるのではないか」と思っちゃうんですよね。

 

DSGEはかなりそのテンションが高くて、2003~2004年にNew neoclassical synthesis=新新古典派総合という言葉が流行って、「経済学の歴史はここに終わるのだ」と言っちゃった経済学者も結構いたんです。つまり、DSGE以降は、DSGEに問題に応じたアタッチメントを付けるだけで、すべての経済問題を説明し尽くすことができると考えてしまった。そういう熱病的なテンションがあったのが2000年代前半です。結構、最近のことだから怖いです。経済学者は30年か40年に一度そうなっちゃうんですよね。

 

山形 60~70年代の新古典派総合がそれだった。

 

飯田 IS-LMとフィリップス曲線と、せいぜいインフレーションアジャストメントカーブや失業関数を入れたら、あとはコンピューターさえ進化すれば、完全なIS曲線とLM曲線が出てくるので、コンピューターの進化を待ってやっているんだ、というノリにはなっていたんです。

 

山形 なるほど。社会主義計算論争で「そういうのは無理だ」と言われていたのは、60~70年代よりも前の時期ですよね。社会主義の側は、社会主義・中央統制経済ですべてが回らないとは理論的には言えないんじゃないか、と言っていたけど。

 

飯田 そうですね。社会主義計算論争も「コンピューターが進化すれば」というんですけど。

 

山形 たしかに、あらゆることを知っていてすべてをちゃんと計算し尽くせたら、最適な配分を決めることができるかもしれない。理論的には。だから社会主義は正しいというのが当時の社会主義側の言い分だった。一方、自由主義の側は、「そんな計算しきれないよ。計算しきれないから社会主義は駄目だ」と言った。その後、実際社会主義は駄目になったので、「ほら見ろ」という話ではあったんですよね。どこかで計算できなくて、だからこそ何となく市場というものに突っ込む。そうすると市場さまが自動的に答を出してくれる。それに対して「自由主義に逃げた」ということはできる。

 

飯田 ちょっと引っかかるのは、社会主義計算論争や一時期のケインジアンも、コンピューターに信用を置きすぎているんじゃないかということです。ぼくも文系なので、いつの日かコンピューターがすべてのことをやってくれるようになるんじゃないかという気持ちに、たまになっちゃうんですよね。手塚治虫の漫画にも、そういう場面がよく出てきたし、その幻想が面白いんですが。

 

山形 昔のSFは、巨大マザーコンピューターが出てきて地球を支配するものがたくさんありましたよ。前に別の対談でも話したんですけど、今そういうSFを読むと、「このコンピューターに支配していただいたほうが人間は絶対に幸せだ」という話ばかりなんだけど(笑)、人間は馬鹿だから、そこで「自由が欲しい」とか言って反抗するんですよね。

 

飯田 それはいいな(笑)。でも、その意味で経済モデルはやっぱり「応病与薬」。病気に応じて使うモデルは違う。大統一理論なんか程遠いのに、しばらく同じ方法でうまくいくと、キャップロックが掛かっちゃうみたいに、「これしか正しくない」という雰囲気になりがちではありますよね。

 

山形 同じ理論が10年つづいて、ほかの理論があまり成果を上げられないと、成果のない理論がだんだん隅に追いやられるのは仕方ないところもありますけどね。

 

 

 

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