『この世で一番おもしろいミクロ経済学』もうひとつの「訳者解説」

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本書はマンガで経済学を説明しようという試みだ。本書の解説にも書いた通り、マンガ経済学みたいな本は、それなりにあるし、マンガまでいかなくても、図解ものは結構ある。じつは図解というのは、すでにわかっている人にはわかりやすいけれど、わかっていない人にはわかりやすそうで、じつはあまりよくわからないという欠点があるのだけれど、それは余談。

 

そしてまた、そうした入門書はなるべく人びとになじみのある話題で親しみやすさを増そうとして、時事トピック偏重になりがちだ。そのために、すぐ古びたりもする。でも本書は、むしろミクロ経済学の教科書的な理論をきちんと教えようとしている。

 

しかもそれを教えるのが、世界唯一のコメディアン経済学者(と自称する人物)だ。正直いって、かれの経済学コメディというのは、経済学者の内輪でしかうけないような気もする。世間一般では、むしろメディアに登場する「エコノミスト」たちの恥知らずな妄言ぶりや優柔不断さのほうが、よっぽど笑えると思われているのかもしれない(そんな連中が結構えらかったりするので、実際には笑えないけど)。

 

が、コメディアンだけあって、ポイントへの切り込み方は的確で鋭い。本書刊行にあわせて、かれの定番ネタである「マンキューの経済学の10大原理を一般人用語に翻訳する」というのが日本語化されているけれど(出版社のページを参照)、本書を読めばこのネタのおもしろさがある程度はわかるようになるし、それを見てニヤニヤできるかどうかで、経済学の習熟度も判定できるという、とても便利なしかけになっていることも指摘しておこう。

 

さて本書の中身については……マンガだし、こんな解説読むより実際に手にとって見てや。買わなくても地元図書館に入れてもらってほしい。すぐ読める。で、ここでは本書の翻訳について少し経済学的に考えてみる。

 

 

翻訳について経済学的に考えてみる

 

本書はこの訳者にとっては、とても嬉しい翻訳ではあった。ぼくは毛沢東の伝記とかポルポトの伝記とか統計まみれの環境本とか、いやになるほど分厚いむずかしい本もいっぱいやっている。通常の訳者なら数年、このぼくですら半年はかかる代物で、じつにしんどい。それに比べて、なんといってもマンガは、字が少ない。翻訳にかかる時間は一日以下。それでも印税率は、半年かけて千ページの本をひいひい言いながら訳した場合とほとんど変わらない。生産性は数百倍だ。おまけに、千ページの本を買う人よりは、マンガを買う人のほうが当然多い。つまりそれだけぼくの懐に入る印税=利潤も増えるわけだ。

 

著者が本書で語るように、ぼくもまた何かを最適化しようとしている。ただこのぼくが翻訳者(あるいはそれ以外も含めた人間総体)として、最適化したいのが何であるかは、必ずしもはっきりしない。たぶん売れない分厚い変な本を喜んで訳している実績を見てもらえば、それが必ずしも利潤を最大化することでないことはわかってもらえるとは思う。が、一方で利潤が大きいのはじつに結構なことだし、他の条件が同じならば利潤最大化にやぶさかではない。ぼくが最適化しようとしているものの一部には、利潤も含まれている。

 

じつは本書で少しわかりにくいのは、まさにその冒頭の「最適化する個人」という概念だ。人は何か選択を前にしたとき、通常は自分が一番よい ――つまり自分にとって最適―― と思うものを選ぶ。一番よい、ということはその選択肢の何かが、他のものとの比較で最大だ、ということだ。でも、その「何か」って何だろう?

 

本書であげられている例では、利潤を最大化したい人とか、昼寝時間を最大にしたい人とか、何か具体的なモノを最大化したがる人が出てくる。でも実際の人は、最大化したい特定の指標を持つわけじゃない。健康ほどほど、教育ほどほど、利潤そこそこ、睡眠時間ある程度、自尊心と見得がぼちぼち、うまい飯と酒がある程度、人類の平和と地球の安定がごくわずか、という具合にいろんなものの配慮が混じっている。これについて、「効用」というものが人間の頭の中にあって、いろんな要素がそれを少しずつ高めたり低めたりして、その効用を最大化するのが人間なのだ、というのが経済学の基本的な考え方だ。

 

むろん、これは話が抽象的になってわかりにくい。多くの人は、効用というのを、気持ちよさや快楽のことだと思っているので、「いや人は効用が低くても我慢してニンジンを食べるじゃないか」なんてことを言う。でも、そういうものじゃないのはわかるだろう。ニンジンは目先ではいやでも、長期的には食べた方が健康に役立つので、長い目で見れば効用はある。また経済学の流派によっては、「そんな得たいの知れない『効用』なんていやだ」といって、この発想をつかわずに理論構築をしようとする一派もある。でも、人がなるべくよい選択をしようとするのを説明するとき、これは結構便利な概念だ。

 

本書の冒頭では「最適化する個人」についてのお決まりのイメージとして「身勝手で自己中心的なクズ野郎」というものがあげられている。これはピンとこないかもしれない。あくまで憶測だけれど、ぼくは著者が最初に本書を書きはじめたときには、「効用最大化」という説明が念頭にあったんだと思う。前にも言ったとおり、効用=快楽みたいな解釈はかなり普通だし、それを最大化するというのが自己中心的で身勝手な行動だという解釈はもう少しスムーズに入ってくる。なぜ著者がそれをやめて、「効用」というような概念を使わないようにしたのかはわからない。でも基本的に本書でいう「最適化する個人」が最大化しようとしているのは、この「効用」みたいなものだ。

 

たぶんぼくの翻訳に関する「効用」の内訳を見ると、著作としての目先の変わり具合(ぼくは目先の変わった本が好きなので)が2割、お笑い含みのおもしろさ(ぼくは笑える本が好きなので)が2割、内容の正しさと有益さが2割(売れそうでも変な扇情本は嫌いなのよ)、お翻訳の難しさと利潤の費用対効果が2割、他の人は手を出さない/出せない変わった翻訳をする楽しみが2割といったところだろう。

 

これで考えると、本書はたぶんほとんどの点でかなり高い効用を持っていることがわかる。そんなに難しい本ではないので、能力的には他のだれでもできたと思うから、最後の部分の効用は低めだが、それは翻訳の費用対効果の効用とトレードオフになっている部分もあるので、なかなかすべて満点とはいきませんわな。というわけで、本書はかなり最適に近い、高い効用を持っていたといえるだろう。

 

さて、本は読む前には、それがどんな効用をもたらすのかはわからない。むろんいまは「絶対泣けます」とか、あらかじめ効用のわかった本のほうが人気が高いようだし、また本書も経済学を軽く勉強したい、おさらいしたいという期待で皆さん手に取るんだとは思うが。むろん、そういう効用は確実にあるけれど、ぼくは本書がそれ以外にも、読者にいろいろ予想外の効用を与えてくれると思っている。

 

この本をお読みになる(と願いたい)読者諸賢は、それが自分の最大化しようとするどんな効用ミックスの、どの部分に作用しているのかを少し考えてみるのもおもしろいかもしれない。一方で、この駄文を読んで、「こんな本読まなくていいや」と残念ながら思ってしまった方(これまた効用を最大化する試みの一環だ)も、同じことを考えるのも一興。経済学なんかそもそも信用できないとか、山形の訳すものなんか見るのもいやとか(そういう人は確実にいる。もっともその人たちがこの文をここまで読んでくれるとは思わないけれど)、そういう人はこの本を読まないことで何か効用を得ているはずだ。さて、それはなんだろうか?

 

その中で、自分が何を最大化・最適化しようとしているのかを、ちょっと考えてみてはいかがだろうか。そしてそこで、自分がたしかに何かを最大化しようとしている ――つまりは、自分にとって一番よいと思われる選択をしようとしている―― ことにふと気がついたら、こんなマンガでも気が向いたときに手にとってもらうと、その発想から意外におもしろい理屈の世界が広がることもわかるのかもしれない。そしていずれにしても、それが読者・非読者の効用を最大化、あるいは何かを最適化してくれることを訳者としては祈りたい ――が、ぼくが祈るまでもなく、人はほとんどの場合に自然にそれを行う、というのも経済学の知見のひとつではある。

 

ちなみについ先日、本書の続編のマクロ経済学編も出た。マクロ経済学は、いまの日本経済の惨状とも関わる非常に重要な(だがそれだけにいろいろ角の立ちやすい)部分だ、それを著者がどう楽しく料理してくれるか、こうご期待!

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.264 

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