2013.05.09

3つの矢の現状

黒い日銀、すなわち、黒田東彦総裁下の日銀の「異次元緩和」によって、アベノミクスの第1の矢、大胆な金融緩和は実現された。一部のエコノミストが使った異次元緩和という言葉が黒い日銀の緩和政策の名称となったが、日本では異次元でも、世界的に見れば異次元でもなんでもない。アメリカの中央銀行であるFRBの行った金融緩和政策を、これから日本でも採用しようというものにすぎない。この緩和政策は2015年までの金融政策を決定したものなので、これでアベノミクスの第1の矢、大胆な金融緩和は実現され、今後はその効果を見ていくことになる。リフレ派の主張が正しいかどうかは、これから分かる。

第2の矢の財政政策については、政府が無理やりお金を使えば、そのときは需要が増えるだろうが、次の年には需要は消え失せ、持続的な効果はなく、借金だけが残るというのがほとんどエコノミストのコンセンサスだろう。これでは賛否両論の議論にならないので、第3の矢の成長戦略が注目されることになる。

金融政策と財政政策については、その効果に賛否があるとしても、何をするのかは明確である。ところが、成長戦略の特徴は、何をするのかも、誰がするのかも明確でないことにある。

成長戦略は何を出発点として議論したら良いのか

第1の矢は日銀が、第2の矢は国土交通省(公共事業予算を持っている役所は他にもあるが、大部分は国土交通省のものである)が財務省の予算配分の下で放つわけだが、第3の矢は誰が放つのかもはっきりしない。

成長戦略と関係のある会議は、経済財政諮問会議、産業競争力会議、規制改革会議と3つあるが、産業競争力会議では、規制緩和を大胆に進めたいという竹中平蔵慶応大学教授を中心とする民間議員と、緩和に反対する規制官庁とが綱引きをしているという。規制緩和は3つの会議とも議論しているが、当然に対象も方法も異なっている。さらに、諮問会議では、行き過ぎた規制緩和を批判しているベンチャー企業育成家の原丈二氏の提言を受けて、「日本型資本主義」を考える専門調査会を立ち上げている。これは行き過ぎた規制緩和は止めようというメッセージだ(朝日新聞、2013年4月24日朝刊)。これでは、もちろん、何を放つのかも明らかではない。

このなかで、安倍晋三総理は、4月19日に「成長戦略スピーチ」を行い、成長戦略のキーワードとして、挑戦(チャレンジ)、海外展開(オープン)、創造(イノベーション)の3つの言葉をあげた。

その中身として、挑戦は、人材、資金、土地を、生産性の高い分野にシフトすることだと説明している。具体的には、成長産業への再就職を支援する助成金の拡充、女性労働を活用するための待機児童ゼロへの環境整備である。海外展開は、TPPと医療機器の海外への売り込みである。創造は、再生医療の実用化のための規制緩和促進、医療研究開発の司令塔(日本版NIH国立衛生研究所)の創設などである(2013年4月20日朝刊各紙、安倍総理の「成長戦略スピーチ」http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2013/0419speech.html)。

総理が自ら述べたことは実現するのであろう。支持率の高い総理が公言したことを役所もまた他の自民党の政治家も覆すことはできない。もちろん、実現可能性を考えた上での発言だ。成長戦略は、これを出発点として議論すべきだろう。

チャレンジは効果的

成長産業への再就職を支援する助成金の拡充は、クビにしなければ助成するという雇用調整助成金を削って生み出すものである。雇用調整助成金は、衰退産業に労働者を留めることになりかねないので、同じ補助金を出すなら、新しい産業に移る労働者を助成した方が良い。保育所の待機児童ゼロを5年間で実現するという政策は(もちろん、すぐヤレという人も多いだろうが)、女性の労働参加率を高め、労働力を増やす政策である。

構造改革が好きな人が多いが、大きな効果のある構造改革を見出すことは難しい。だからこそ、先述のように、3つの会議が侃々諤々の議論をして大したことは決まらないという状況になっているわけだ。大騒ぎをしてなんとか参加にこぎつけたTPPですら、GDPを3.2兆円、比率で0.6%を拡大するだけである(内閣官房「関税撤廃した場合の経済効果についての政府統一試算」2013年3月15日)。10兆円という試算もあるが、政府の試算としなかったのは、追求されたときにうまく説明できない部分があるからだろう。さらに、アメリカの自動車関税の早期引き下げが難しいようであることから、3.2兆円の利益を得ることも難しいかもしれない。

それに対して、女性の労働参加の促進は、労働力が増えるのだから、必ずGDPを増大させる効果がある。わたしの試算によれば、日本の女性の労働参加率が英米独仏の平均になれば、日本の労働者数は9.1%増加する。間違いなくGDPを大きく増やす方策である。女性の能力を高めて、女性と男性の賃金格差が英米独仏の平均になれば、労働力が増大することと合わせて、GDPは12.8%、金額でいえば60兆円以上増大する。労働力を活用することの効果はきわめて大きいのである。

ついでながら、これはアベノミクスの第1の矢、大胆な金融緩和の効果が大きい理由でもある。バブル以前、日本の失業率は2.5%であった(バブル期の終わりには2%にまで低下した)。これが日本の正常な失業率である。ところが、バブル崩壊後、5.5%にまで上昇した。現在は4%余りであるが、雇用調整助成金で無理やり下げている分があるので、実質的には5%であろう。大胆な金融緩和とは、デフレによって5%になってしまった失業率を元の2.5%にまで下げるという政策である。失業率が2.5%ポイントも下がれば、それだけでGDPは大きく増えるだろう。これは雇用拡大をともなう政策が大きな効果を持つということである。

ただし、現在のままの制度で保育所の定員を増やすには巨額の補助金が必要になる。規制緩和で保育所のコストを下げるとともに、保育所の料金を上げて需要を減らすべきである。民主党政権時代の児童手当の増額に応じて保育所の料金を引き上げれば良かったが、今からでは難しいだろう。

オープンとイノベーションには疑問もある

オープンとは、TPPと医療機器の海外への売り込みである。TPPは良いが、海外への売り込みには疑問がある。無理やり売り込めば、不利な条件を付けられる。総理や閣僚はいずれにしろ外国に行くのだから、外国首脳に会うときに同時に売り込むのならほとんど税金はかからない。これくらいなら良いが、海外への売り込みが日本の税金を使ったものなら援助と同じである。援助は、相手国のためになっても(ためにならないこともあるようだが)、日本のためには繁栄を通じた平和の醸成という間接的なものでしかない。

イノベーションは、再生医療の実用化のための規制緩和促進、医療研究開発の司令塔(日本版NIH国立衛生研究所)の創設などである。患者の細胞を培養して移植する場合、医師自身が培養・加工しなければならず、外部に委託することができないという。これでは再生医療は進まない。規制緩和が重要な理由である。しかし、医療研究開発の司令塔がうまくいくかどうかは分からない。もちろん、今まででもうまくいっていないのだから、新しい試みを腐すことはないとわたしは思っている。だが、日本の研究開発がうまくいっていないということは認識しておくべきことだ。つまり、失敗に学んで新しいことをすべきだ。

資源がなく、経済停滞に悩む日本にとって、科学技術こそが日本の未来、すなわち経済成長をもたらすものだという言い方が当たり前のものになっている。しかし、科学技術への支出が、本当に経済成長率を高めるかどうかには疑問がある。

科学の成果は、本来、公表され、誰でも使えるものになる。だからこそ、政府が科学に予算を投じれば、その成果が民間に還元され、技術開発が進み、成長率を高めるとされてきた。しかし、グローバル時代にはそうではない。日本の税金で開発された科学の成果は、日本だけでなく、どの国でも使えるものだ。すると、日本が科学に資金を投じても、日本だけの成果とすることはできない。すなわち、政府が科学に資金を投じても、その成果として日本の成長率が高まるとは言えなくなる。

この問題を提起することになったのは、むしろ80年代日本経済の成功である。日本の技術開発が欧米先進国の科学技術にただ乗りしており、それゆえに安いコストで技術開発を行い、そうしてつくった製品で欧米市場を席捲するのはけしからんという日本バッシングがなされた。この議論が正しければ、科学に資金を投じても、資金を投じた国の成長率が高くなるとは言えず、むしろ、そこにただ乗りした国の成長率が高くなるだけである。

この場合は、全世界の成長率が高くなるわけだが、それも、政府が正しく科学に資金を投じた場合である。日本政府の、科学への資金配分が非効率であれば、日本の成長率も、世界の成長率も高くならないということも生じうる。

科学技術研究費は経済成長をもたらしたか

日本の科学技術支出は90年代以降、増大してきたが、90年代以降は経済停滞の時代である。日本は科学技術支出を伸ばしてきたにもかかわらず、経済成長率はむしろ低下してきたのである。これに対して、アメリカ、イギリス、フランスの成長率は90年代以降も横這いで、研究費は横ばいか低下している。ドイツの成長率は低下しているが、研究費は横這いである。韓国企業の躍進を知る日本人には意外なことだが、韓国の成長率は低下し、研究費は上昇している。これらの結果からは、研究費が伸びれば必ず成長率が伸びるとは言えそうにない。

日本の研究費は、企業の利益や成長に結びついていない、日本の研究費の効率性は低いという議論は、じつは専門家の常識である。研究開発の効率性が低下しているとは、少なからぬ研究者や経済・技術コンサルタントが、すでに指摘していることである。技術力を企業の利益に結び付けるには、どの技術を自社で独占的に使用し、どの技術を他社に使わせて市場を拡大し、どの製品を自社で生産し、収益に結びつけるかが重要だと言われている。すなわち、技術を収益に結びつけるためには、独占と公開の戦略が重要だというのである。ところが、科学は原則的には公開されてしまうものだから、科学が企業の収益に結びつくことはないだろう。

また、研究支出が、経済成長に結びつく経路は、次のように説明されている。研究によって、新しい製品が生まれる。企業は、この新しい製品のために設備投資を行い、新しい製品を市場に送り出す。その結果、企業は利益が得られ、経済全体は成長する。すなわち、投資が技術と成長を結ぶ経路だという。そこで、研究費、設備投資、企業利益、経済成長率の関係を見ると、1980年代では研究費が伸びるとともに設備投資、GDP、利益が伸びているが、1990年代ではそうではない。1990年代の成長率は低迷し、設備投資はマイナスになることが多くなっている。

なお、ここで政府負担の研究費は1990年代には伸びていたが、その後停滞している。民間の研究費はそれ以降も増大している。仮に、政府負担の研究費が伸びているのに、経済が成長していないというのであれば、まだ、問題は簡単である。効率の悪いであろう政府の研究費を削って、民間の研究費の増額を求めれば良いからである(方法としては、すでに行われている研究費減税の強化が考えられる)。しかし、民間の研究費が増大しても成長率は低迷しているのであるから、民間企業の研究効率が低下しているということである。これでは、研究費の効率を高めることはなおさら難しい(以上の議論について詳しくは、原田泰「科学技術への投資は経済成長率を上昇させるのか」『季刊政策分析』2010年春号)。

ターゲッティング政策はうまくいかない

 

安倍総理は、前述の「成長戦略スピーチ」のなかで、

日本の医療産業が、高い競争力を持つためには、次々と「イノベーション」を起こしていく他に道はありません。

「市場と技術の大きな出会い」とも呼ぶべき、革新的な「価値」を創造する「イノベーション」は、官民が一体となって協力しなければ、生まれません。

世の中のニーズに応える「あるべき社会像」を、国が明確に示した上で、その実現のために、政府も民間も投資を集中させることにより、新たな成長産業を生み出すアプローチです。特定の産業を、国がターゲットするのではありません。

と述べ、「特定の産業を、国がターゲットするのではありません。」とターゲティング政策を明確に否定しておられる。しかし、国があるべき社会像を示すことと、国が特定産業を支援するターゲッティング政策との違いは微妙である。ここでは健康長寿は誰でも求める世界共通のテーマだから政府が支援すべきということになっているが、誰でもが求めることなら、民間企業もその需要に応えることができるはずである。

それができないのが、たとえば、患者の細胞を培養して移植する場合、医師自身が培養・加工しなければならないという規制である。やはり、成長戦略は規制緩和、民営化、市場開放、法人税減税に尽きるのではないか。しかし、規制は無限にあり、緩和に反対する人々も無限にいる。そういう状況のなかでは、司令塔の役割分担の整理とその強化、成長戦略の基本は規制緩和だという強い認識が重要になってくるのではないだろうか。

プロフィール

原田泰経済学

早稲田大学教授。1974年東京大学卒業後、同年経済企画庁入庁、経済企画庁国民生活調査課長、同海外調査課長、財務省財務総合政策研究所次長などを経て、2012年4月から現職。「日本はなぜ貧しい人が多いのか」「世界経済 同時危機」(共著)「日本国の原則」(石橋湛山賞受賞)「デフレはなぜ怖いのか」「長期不況の理論と実証』(浜田宏一氏他共著)など、著書多数。政府の研究会にも参加。

この執筆者の記事