2013.01.28

気仙沼市に住む人々は「復興」になにを思うのか

日本災害復興学会・気仙沼市車座トーク

社会 #キャッシュフォーワーク#震災復興#気仙沼復興協会#災害復興学会#緊急雇用

宮城県気仙沼市。水産業で有名なこのまちも、地震や津波によって甚大な被害を受けた。東日本大震災直後、このまちではいったいなにが起きていたのか。そしておよそ1年半の間に、どんな動きが生まれ、このまちに住む人々はいま「復興」になにを思うのか。望ましい支援のかたち、復興のあり方とはなにか。気仙沼復興協会にて、気仙沼市に生きる人々と日本災害復興学会が語り合った。(構成/金子昂 )

永松 こんばんは。皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。日本災害復興学会は5年ほど前に、復興についての経験や知識を学問として確立させ、よりよい復興を実現することを目標に設立されました。わたしたちはこれまで被災地に出向き、地元の方と車座トークを開催するなどの社会貢献活動を行ってきました。今日は気仙沼市で活動をされていらっしゃる皆さんに、震災や復興についてお話を伺いたく思い、お集まりいただいた次第でございます。

わたし自身、研究者として、復興の知識や災害の記録を伝えていく使命を持っていると同時に、いち人間として、復興のためになにができるか、日々自問自答をしてまいりました。被災地が抱えている問題が、われわれの知識によって簡単に解決できるとは思っていませんが、皆さんと議論をしていくなかで、少しでも復興のヒントを得ることができるのであれば、研究者として、教育者としてわたしたちができる最大の社会貢献だと思っています。今日は、皆さんのさまざまな意見を伺い、実りある車座トークになればと思っております。どうぞよろしくお願いします。

自己紹介

福留 本日司会を担当させていただきます、東北工業大学の福留です。まずは皆さまに、簡単な自己紹介をしていただきたく思います。

永松 改めましてこんばんは。関西大学の永松です。

中林 明治大学の中林一樹と申します。日本災害復興学会の副会長を仰せつかっています。わたしはもともと建築出身で、都市計画やまちづくりを研究していました。学問は一般的に、個性(個別解)を追求するよりも一般解を追求すると言われていますが、復興には一般解があるのだろうかとつねづね悩んでおります。今日は車座トークを通して、皆様からいろいろなことを教えていただきたいと思っております。よろしくお願いいたします。

 こんばんは。台湾の実践大学から参りました、陳と申します。台湾は日本と同じように、自然災害の多いところです。将来の台湾の防災、復興の参考にさせていただければと思っております。

千葉 気仙沼復興協会の千葉です。気仙沼復興協会は、震災後に緊急雇用創出事業として活動させていただいている団体です。わたしたちはみんな被災失業者です。もともと気仙沼に住んでいましたが、今回の災害でより愛着が増してきました。10年後、長男が20歳になるとき、気仙沼がどんなまちになっているのか、非常に楽しみに思っています。今日はよろしくお願いします。

小松 気仙沼復興協会の小松です。復興協会では、労務の仕事を担当しております。また、「港町の縫いっ娘ぶらぐ」という、仮設住宅にいるお母さん方とランチョンマットやエコバックをつくって販売する仕事もしております。

吉野 気仙沼復興協会OBの吉野です。三ヶ月前に、もともとの仕事であるサメ肉の加工を再開し、気仙沼復興協会をやめました。いままさに復興事業から産業への道筋を一生懸命たどっている最中です。

鈴木 気仙沼復興協会写真掲載部の鈴木です。おもに津波で流された住宅の写真や床板などを、元の持ち主に配送する業務を担当しています。

三浦 気仙沼復興協会でボランティア受け入れ部のリーダーをしている三浦です。被災者が立ち上がっていくために、災害ボランティアの皆さんをコーディネートする仕事をしています。

奥山 皆様お疲れ様です。気仙沼復興協会の奥山です。わたしは人材サービスの会社に在籍しているのですが、宮崎県企業人材支援協同組合を通して復興協会と連携し、労務関係の仕事をお手伝いしています。

堺 こんばんは。気仙沼プラザホテル支配人の堺です。よろしくお願いいたします。いま震災の特需で、観光客や視察団体がたくさんいらっしゃっています。この特需期が終わったとき、気仙沼市の観光業はどうなってしまうのか、日々考えさせられております。今日は、新しい糸口が見つかるきっかけになればと思い、参加をさせていただきました。

塚本 気仙沼復興協会福祉部の塚本です。気仙沼のすべての仮設住宅を月に1回は周って、住民の皆様の悩みごとを聞き、解決のお手伝いをしています。ちなみに前職は気仙沼のリアス・アーク美術館で勤務していました。現在、美術館も再開しています。気仙沼の歴史や文化が俯瞰できるような展示がありますので、ぜひ足を運んでみてください。

守屋 気仙沼市議会議員で、気仙沼復興協会のサポーターをしています。守屋です。よろしくお願いします。

福留 改めましてこんばんは。東北工業大学の福留です。春まで新潟大学で、中越地震の復興に携わっていました。この機会に意見交換をさせていただければと思っております。

空間(市街地)ではなく中身(まち)で

福留 では、意見交換会に先立ちまして、復興学会から中林先生と永松先生に、本日の車座トークの話題提供をしていただきたいと思います。

中林 最初に日本災害復興学会が設立された経緯をお話させていただきます。

これまで災害研究では、予防と災害直後の対応が中心となっていました。しかし、これからは復興についても十分に研究をし体系化していく必要があります。そもそも日本の法律体系は、復興について大きな不備があります。現在、各市町で復興計画が作成されていますが、災害対策基本法にも救助法にも「復興計画を作成しなさい」とは明記されていません。そのため、どのくらいの被害を受けたときに復興が問題となり、復興計画を作成する必要があるのか、これまでただ経験の積み重ねによってのみ判断されてきました。このような背景から、学問的に、また法制度的に整備を進めていく必要があるということで、日本災害復興学会が設立されました。

復興というと、思い浮かぶのは、89年前に起きた関東大震災後に展開された帝都復興事業です。この時代における復興の最大の課題は、「空間」でした。この時代は、女性が生涯に産む子ども数は6人ほど。当時の日本は、人口が増加し、国全体も近代化を目指している、いわば発展途上の国でした。ですから、最新の技術で最新の都市計画を実現すれば、地方から都市へと人口が集まってくるだろうという、いわば予定調和的な復興論が成立していたのです。

しかし現代の日本は、少子高齢化によって人口が減少していく時代です。そのとき課題となるのは、空間(市街地)をつくるのではなく、むしろ中身(まち)をどのように復興していくかでしょう。しかし現在、国は、空間をどのようにして戻していくかを重点に事業やお金を投じています。どんなまち、どんな暮らし、どんな生活を実現するかが抜けてしまっているんですね。気仙沼復興協会の皆さんの活動を伺っていると、皆さんの取り組みこそが、この地域の新しい公共の担い手としての役割を担っていらっしゃるのだと思います。このような素晴らしい取り組みを他の地域にも広げて行き、持続可能な社会を再生していくことが求められているのではないでしょうか。

ここで99年に台湾を襲った921大地震の復興の例をご紹介します。台湾では、高齢化の進む農山村地域の復興を、都市との交流を軸に展開しました。これは、いまでいう「農の六次産業化」で、エコツーリズム、グリーンツーリズムなど観光を主軸に、農山村地域を活性化しようという取り組みです。新しい地域での連携、共同の体制をつくり、協働の取り組みで地域を復興させていく。台湾ではこれが実践されているんです。

気仙沼復興協会は一般社団法人と伺いましたが、南三陸町でも3月末に、一般社団法人として「福興町づくり機構」を立ち上げました。わたしはこの団体に副理事長として関わっているのですが、やはり一番大事なのは、産業の復興や職の復興をどのように展開していくかです。いまこのような活動は、それぞれの被災地で芽吹きつつある状況だと思います。広域な被害をもたらした東日本大震災ですが、各被災地が上手に連携することで、1+1が2ではなく、2.5くらいになるのではないかと思っています。

学会としては生まれて10年も経たないため、十分な実績はありませんが、こうした車座トークを通して、いろいろな意見を伺いながら、半歩でも復興に役立てればと思っています。

経済復興の可能性

福留 ありがとうございました。引き続きまして永松先生お願いします。

永松 わたしの専門は経済、とくに災害からの復興や復興経済を専門に研究しています。わたしが復興を専門とした理由は、進学先の大阪大学大学院の指導教官がたまたま兵庫県の復興アドバイザー的な立場として経済復興を仕事にしていたことです。

大学院生生活を送っていた当時の神戸は、大変厳しい経済状況にありました。それは震災のダメージだけでなく、山一證券や北海道拓殖銀行が破たんした平成金融危機が重なったためです。その結果、たとえば仮設住宅で254名の孤独死を引き起こしてしまいました。亡くなられた方のほとんどは失業者です。やはり多くの方が、仕事がないために生活の再建が立ち行かず、仮設住宅からなかなか出ることができなかった。仮設住宅から出たものの、二重ローンに苦しんでいた。このような経済的に苦しい状況をみて、なぜ災害は人々の経済復興を困難にするのだろうと疑問を抱いたのが、わたしの研究の原点にあります。

研究を進めていくうちにわかったことは、どうやらこれまで世界的には災害が起こると経済が良くなることが一般的であったということです。さらに日本でも、高度経済成長期に起きた1959年9月の伊勢湾台風の復興過程において、経済復興が大変だという資料はひとつも見つけられませんでした。同年11月には中京工業地帯のほとんどの地域が被害を受ける前の生産量を凌駕しています。

どうやら経済成長期には、災害は経済にとってプラスの影響があるらしいことが次第にわかってきました。阪神淡路大震災発生時、日本はすでにある程度経済成長を達成して、むしろ停滞し始めていました。そのため災害は経済にマイナスの影響を与えてしまった。これは現在の日本も同様でしょう。

では、災害は経済が停滞している地域にマイナスの影響しか与えないのか。ここで皆さんに紹介したい事例は、2005年にアメリカニューオリンズ州を襲ったカトリーナというハリケーンです。カトリーナによって、ニューオリンズでは3000人ほどの方が亡くなられました。多くの地域が2,3ヵ月ものあいだ、水に浸かり、多くの方が被災地の外に長期間の避難を余儀なくされました。当然、経済も壊滅的な被害を受けています。

ニューオリンズはもともと貧困率の高い州です。そこにある低家賃の古い住宅は浸水によって使えなくなってしまった。大量の住宅を立て直す必要があるため建設が追いつかない。さらに、建てられた家は新築ですから家賃が高騰する。その結果、ニューオリンズに戻りたくても戻ることができない人が大量にでてしまった。いまでもニューオリンズの人口は当時に比べて30%も減っています。

人口が戻らなくては、その地域の商業やサービス業は活性化しません。やはり人口が減ることは経済復興にマイナスの影響を与えているのだろうと思っていました。しかし統計を見てみると、ニューオリンズの産業構造は少しずつ変化しています。カトリーナ以前にはみられなかった知識産業と呼ばれる分野、大学の数が増え、法律相談サービスの仕事が増え、保険金融関係の仕事が増えています。

さらに新規起業数も増えています。10万人の人口のうち起業する人は、震災前の3年間の平均は218人。これでも大変多いのですが、いまは420人くらい。だいたい2倍くらいに起業率が増えています。それだけなくNPOの数も、ニューオリンズだけで10年前の倍くらいに増えている。災害によって引き起こされた社会的な問題や苦境を乗り越えるために、いろいろな人たちがいろいろな知恵を持ち出した結果、人口が減って全体の経済規模は小さくなっているけれど、一人あたりの付加価値収入は伸びて行っている。これがニューオリンズの復興の姿です。

ここに東日本大震災の復興のヒントがあるのではないでしょうか。さまざまな被災地をまわっていくなかで、新しい動きをたくさん感じます。たとえば、気仙沼復興協会が取り組んでいる緊急雇用。被災者が仕事として復興に関わるこの仕組みは、阪神・淡路大震災のときにはありませんでした。この仕組みに批判があることも事実です。雇用のための雇用は、一時的なつなぎであって、本格的な復興にはならないという議論もあります。たしかにそうかもしれませんが、しかし、そこから新しいビジネスやチャンスもたくさん感じるのも事実です。

仮設住宅の見守り支援は、阪神淡路大震災ではボランティアが一生懸命やってきました。しかし今回の震災ではそれを仕事して取り組まれている方が多数おられる。よく考えてみると、いま高齢者の一人暮らしは被災地だけなく、日本全国で問題になっています。そしてそれを支える若い人の数も減っている。つまりこうした事業は被災地だけでなく、全国的にも大きなニーズがあるわけです。緊急雇用が終わってしまったあとも、もしかしたら見守り支援を事業化して、新しい仕事として生み出すこともできるかもしれません。少子高齢化によって人口が減り、斜陽していた地域だということを悲観的に捉えるのではなく、それでもできる復興がいくらでもあると知っていただければと思います。以上です。

緊急雇用をいかにシフトしていくか

福留 ありがとうございました。

ここからは意見交換会となります。これまでの取り組みのなかで思ったこと、悩み、外からきた人に知って欲しいことなど、ざっくばらんになんでもお話ください。

千葉 先ほど緊急雇用のお話がありましたが、われわれも緊急雇用で雇用をされて1年6ヶ月が経ちました。事業費は単年度予算のため、来年度はどうなるのだろうとつねに不安を抱えながら活動をしています。これから出口戦略を考えていかなくてはいけません。吉田さんのようにふたたび自営業を始められる方法と、気仙沼復興協会のかたちを変えて活動を続けていく2つの柱があると思いますが、どちらに舵を切るべきか、すごく悩んでいます。

吉田 気仙沼復興協会のOBなのではっきりと言わせてもらいます。

一度、気仙沼の水揚げを見に来てください。サンマ、カツオ、サメが何百トンと水揚げされています。皆さん度肝を抜かれると思います。みんな元に戻そうと必死で働いています。気仙沼復興協会は税金で働いていますから、利益を生みだす必要がありませんが、わたしは毎日、1人の従業員にどうやって給料を渡すか必死に考えています。やはり復興協会とは雰囲気が違う。

千葉 吉田さんがおっしゃる通り、われわれは費用対効果をあまり求められていない分、甘えがでているのもたしかです。居心地がよくなってしまうのはよくないと思っています。民業が復興していくなかで、雇用されるべきところに人が行かなくてはいけないと思う。

吉田 事業仲間は口をそろえて、人を募集しても応募が来ないといいます。うちも1ヵ月くらい募集を出したけれど、結局1人しか来なかった。

永松 なぜ応募が少ないのでしょうか。

奥山 わたしどもの団体でも求人はかけていますが、やはり人は集まりません。ひとつは賃金の問題があります。被災前の体力に戻っていないので、まともに雇用ができるまでのレベルに達していない。それから自分がやりたいことがないという理由もあるかもしれません。

中林 壊滅的な被害を受けた南三陸町は、若い人が被災地にいません。どんなに職場で募集をかけても、住宅も十分にありませんし、通勤もできないために、なかなか応募がこないように思います。気仙沼ではいかがでしょうか。

奥山 商業、産業は八割がた被災し、被災失業者も多くいます。でもいまは徐々に求人が増えてきているように思います。

永松 労働市場が逼迫していることは間違いないでしょう。ただ求人の多くが期間限定で、長期の就職がしたいと思っている人は手を出しにくい。短期の仕事に就いてしまうと、長期の仕事に就けないのではないかと心配しているからです。

守屋 いま緊急雇用で弾力的に活動している団体は気仙沼市内に3つあります。そのなかで給与が最も高いのは商工会議所。この団体は25万くらい出しています。正直な話、この団体にはいった人は普通に仕事しません。一方、吉田くんが言ったように、事業主は血眼になって働いています。

やはり大事なことは緊急雇用の目的を明確にすることでしょう。雇用を支えるにしても、次にどのようにシフトするかを見据えないといけない。そしてそれを考えるのは復興協会のあなたたちです。なにかいい話が転がってこないか待っていてはいけない。NPOを立ち上げてもいいでしょう。であれば、社会に認知されるように活動をして寄付金や協賛金を募って維持できる見通しを立てないと厳しい。就業環境は厳しいかもしれないけれど、事業化するなら覚悟を決めてやらなくてはいけない。もともと震災前からそうやって頑張ってきたはずです。市議会議員として復興協会を立ち上げました。民間からの風当たりも強いでしょうが、なんとか頑張ってもらいたい。

制度に焦らされる復興

塚本 どちらかというと一般市民的な目線からの発言をさせてもらいますが、なにを以って「復興した」と言えるのか、さまざまな議論があると思います。企業の復興がまちの復興という意見もあれば、災害に強い新しいまちに生まれ変わることも復興という意見もあるでしょう。素早く復興することは大切です。でも国の制度や予算によって、どうにも焦らされている気がしてなりません。

企業の復興にせよ、まちの復興にせよ、住民の皆さんが、自分たちが住むまちの将来を考えられるようにならなくてはいけない。防潮堤ができないとまちづくりができないからといって、最初に防潮堤の建設を計画すると、結局その後ろに企業ができて、震災前と同じようなまちができてしまう恐れがある。それははたして復興と言えるのでしょうか。どんなまちにすべきか、肝心なビジョンが抜けたまま復興が進んでいるように思います。

守屋 防潮堤に関しては、防潮堤を建設するかしないかを決めないと、被災者が防災集団移転促進事業を使えるのか、それとも住んでいた土地に帰る必要があるのか方向性が示せなくなってしまいます。今回の防潮堤の高さには津波シミュレーションなどの根拠があります。まずはそれを住民の皆さんに理解してもらうことが大切です。

「海を見て暮らしたいから防潮堤を建てないでほしい」という意見の方もいらっしゃいます。それは海を見て50年60年も暮らしてこられた方なんですね。でもいま家族を家において漁に出ている人は、自分が漁に出ているあいだも心配ないようにして欲しいと思っている。ただそういう意見は、高齢化のなかでなかなか出てこない。だからこそいま漁協を通して、朝から働いて疲れているのはわかるけど、皆さんの将来がかかっているのだから、ちゃんと説明会に出て意見を出してほしいと言っているところです。

中林 阪神淡路大震災のときも、中越地震のときも、各地に専門家が派遣されて、被災地の意見を集約してとりまとめ(合意の形成)を支援してきたのだけど、やはりまったく意見の集約が足りていないんですよね。

守屋 まったく足りませんね。

中林 ちょっと悪口になってしまいますが、国交省が出した直轄事業の委託先はすべて大手の土木コンサルがやっています。そのため集落単位、コミュニティ単位でのきめ細かい手当てをやったこともなければ、そういう人的、時間的余裕もない。

先ほどの守屋さんのお話は、たとえば防潮堤の高さのようなシミュレーションや調査が進んでも、実際にどうしていくかで止まってしまっているということだと思います。なかなか難しいことではありますが、いまのような“ひも付き”的な交付金ではなくて、もっと“自由裁量”的な交付金で手当てするようになって欲しい。いまの政権(注;前民主党政権)40事業を交付金で手当てしていますが、これは地元にとってはほとんど補助金ですよ。まったく自由裁量の余地がないんですね。各まちにはそれぞれの特性があわせたまちづくりができるようにしなくてはいけません。

震災後にホテルで起きたこと

 当ホテルは、ライフラインが復旧した5月1日から宿泊受け入れを開始しましたが、最初の半年間は復旧支援・警察関係の方が中心の宿泊でした。半年過ぎた頃に、各企業単位でのボランティア団体や視察の方が入ってくるようになった。1年を過ぎてようやく観光といえるようなお客様が、少しずつ来ている状態です。半年ごとの節目でお問い合わせをいただく客層が変わってきたと感じています。

いまは震災特需で、毎月客室の稼働率が90%を超えています。これがいつまで続くのだろうと震災が風化していってしまうことへの不安があります。もともと気仙沼は食のまちとして売ってきました。それに戻すべく少しずつ市場が復旧して、元気が戻ってきているところですが、いま観光は、ある意味、震災を売り物にしている状況です。最近、それは本当に良いことなのかと悩んでいるのですが、観光業はお客様を呼ばないと成り立っていかないので、どうしても震災が売り物や見せ物になってしまう。

福留 次に繋げていくための活動は難しいものですか。

 現状は毎日のお客様を受け入れるのが精いっぱいです。日々、情報発信をして、皆さんの関心が薄れないように活動はしていますが、市内の状況を考えると次への取り組みはなかなか難しいと感じています。

中林 これから本格的に土木工事が始まって、たくさんの土木作業員でホテルが一杯になるでしょう。でもその作業員は事業が終わると同時に引き上げていく。奥尻島は、作業員の受け入れで一般の観光客を締め出してしまって、観光地としての認知がなくなってしまった。これから3年間、復興がピークを迎えて、嵐が去るように復興が終わったとき、どのような姿に戻していくかが大切です。「復興災害」を起こしてはならない。

 震災直後からの工事関係の方や警察関係の方は、半年経った9月11日あたりで、いったん引き上げてしまいました。ですから9月後半は空室もでるようになってしまい、観光ホテルとしてそういった方々のみをお客様として受け入れているのは、長い先を見れば観光産業にも問題が出てしまうと思い、10月頃からは観光や視察団体のお客様を中心に受け入れるよう自主的に切り替えていきました。最初は集客に苦労しましたが、旅行会社やネットを使ってアピールをして、いまは震災前に近い客層状態になってきました。

震災を伝える・地域の宝物を探す

三浦 いま震災を売り物にしているというお話がありましたが、震災を伝えることは非常に重要だと思っています。学校や企業でも、長期的な支援を考えられているところは多くあるのですが、瓦礫が少なってきているいま、支援よりは観光や体験の要素が色濃くなっている。となると、生徒さんが団体で来たときに、いままでと同じことをやっていただいて、体験だけを語っても、伝わりきらないのではないか。もっと伝えるべきことがあるんじゃないかと考えています。怖いのは、関心が薄れきってしまって、気仙沼に人が来なくなってしまう状況です。

 市内では、語り部の組織づくりが始まっております。でもやはり被災した現場をみていただけないと伝わらないと思う。でも、宿泊施設の減少などが理由で受け入れられる態勢が整っていない問題もあります。

福留 気仙沼地域の方が感じているように、風化させないことの大切さと、次の雇用や経済に結びつけていくことが大切です。日本ではその議論がまだ模索中で十分ではない。13年前に大きな地震を経験されて台湾では、災害を伝えていくなかで、新たな雇用を生み出したと伺いました。

陳 わたしは遠野市でNPO団体のヒアリング調査をしていたのですが、ある団体の代表者が、「被災地」というブランドは長く続けられないとおっしゃっていた。わたしもそう思います。ボランティアツアーがいつまでも続けられるとは思えません。台湾のNPO団体は政府から援助を受けていますが、政府の下請けになる可能性があるため、社会的起業を目指しています。台湾の桃米コミュニティー(台湾南投縣埔里鎮桃米社区)では、まちづくりのさいに、その地域のよさを宝探しのように調査して、カエルや蝶、トンボを売り物にしたエコパーク・エコタウンを始めました。気仙沼市も、気仙沼市の宝物をみつけてまちづくりをすればよいと思います。

千葉 気仙沼市はもともとスローフード宣言をしていたまちです。水産が有名ですが、米どころでもありますし、山だってある。食がすごく豊富なんです。風評被害の影響もあるかもしれませんが、食の文化を継承していけたらとは思っています。

福留 復興の際に長老のような方が仕切られる傾向がうかがわれます。中越地震の被災地も、その傾向はありました。ただ食の話になると、普段は表に出てこないお母さんやおばあちゃんが前面にでて自分の立ち位置を見出すことがありました。いま気仙沼ではお母さん方の力が十分に活用されていないように思います。そのあたり小松さんにお話をお伺いしてみたいのですが。

小松 うーん、やっぱり求人票を見に行くと、溶接や建設のような男性がかかりやすい仕事が多いと感じます。瓦礫の分別をおばちゃんたちがやっていますが、長くは続かないし、なによりもきつい。すごいきつい。たとえば自分のラインが抜けてしまうので、トイレにいけない。何度もトイレにいくと指導が入る。水を飲んだらトイレに行きたくなるから暑くてもあまり飲まないようにしているらしいです。やっぱり女性でも安心して働ける仕事が欲しい。

いまわたしは永松先生の指導のもとで「港町の縫いっ娘ぶらぐ」という活動をやっています。これは仮設住宅で暮らす方々にランチョンマットやペンケースを縫ってもらって、それを販売する活動なのですが、たくさんの人が働けているわけではありません。先ほど企業の話がありましたが、起業するとなったとしてもわたしひとりで企業するなんて夢のような話で、バックアップがなきゃできません。そもそも気仙沼復興協会も、いまは86名が働いていて、その人たちの顔から扶養人数まですべて覚えていくだけでも大変で、縫いっ娘どころじゃないんだけどなあって思ったり。でも縫いっ娘のお母さんたちが、「小松さんだから頑張っていられる」って言ってくれるから、どうしようって。

気仙沼の復興を見届ける

福留 だいぶ時間が過ぎてしまいました。復興学会もまだ模索段階で、皆さんのご期待に応えられなかったかもしれませんが、なにか一つでも皆さんのご参考になればと思います。最後に気仙沼復興協会の方と永松先生に一言いただきたいと思います。

千葉 今回の震災で人生が180度変わった人も多くいます。失ったものも多いけれど、いろいろな人にお会いする機会をつくっていただき、たくさんのものも得ることができました。われわれ気仙沼に住んでいる人間が、気仙沼の復興を見届けて、次の世代に繋げていくことになるかと思います。しかしわれわれだけでは専門的な知識が足りない面も多々あると思います。それらを皆さんに寄り添っていただいて、活動していきたいと思っています。これからも応援をよろしくお願いいたします。

永松 長い間ありがとうございました。わたしたちは、復興の答えを用意できるわけではありませんが、少しでも参考になれば幸いです。初めに千葉さんから、二本柱のどちらでいくか、復興協会をどうすればよいのかとお話されていましたが、今日、皆さんのお話を聞いていて、大変な悩みだと思いながらも、あえて言わせていただくと、もしかしたらそれは大した問題ではないと思いました。やはりこれからつくっていくべき気仙沼の未来があって、それをつくっていくなかで、必要がなければ復興協会をやめればよいし、必要があるならば続けていけばよい。本質的な問題は、将来自分たちがどうしていきたいかなのではないかと思いました。ただ、個人的な思いとしては、今後復興を進めていく推進役として、気仙沼復興協会の意義はあろうかと思います。

今日の車座トークを締めさせていただきたいと思います。今日は皆さん、本当にありがとうございました。

(2012年9月7日 気仙沼復興協会にて)

総評 気仙沼復興協会について 永松伸吾

車座トークの舞台となった気仙沼復興協会は、気仙沼市階上中学校に避難していた被災者らに当面の仕事と収入を確保することを目的として、2011年5月に立ち上げられた団体である。当初は任意団体として発足し、気仙沼市などから受託したがれき片付けなどを実施していた。6月には一般社団法人となり、気仙沼市から緊急雇用創出基金事業(いわゆる緊急雇用)を受託し、清掃作業、仮設住宅支援、写真洗浄などの業務を実施。平成23年度で145人を雇用した。これは気仙沼市全体の緊急雇用のおよそ1/6に相当する規模である。

筆者は被災地のあちこちで緊急雇用がどのように使われているかを調査しているが、そのなかでも気仙沼復興協会はきわめて特殊な団体である。それは、緊急雇用を受託して被災者を雇用することを目的として成立した組織であるという点である。通常、緊急雇用を受託する事業者は、その組織固有のミッションや財源を有しているが、気仙沼復興協会にはそれがない。緊急雇用が消滅すれば、その時点で気仙沼復興協会も消滅する。

緊急雇用の継続は気仙沼市にかぎらず多くの被災自治体が要望している。このためおそらく平成25年度もなんらかのかたちで継続されるであろう。だが、仮に継続になったとしても、これまで実施してきた単純な清掃作業のニーズはほとんど消滅しており、どのような仕事に取り組んでいくかについても知恵が求められている。

ここに集まった協会のスタッフは皆それぞれに、こうした状況のなかでジレンマを感じながら日々の仕事に取り組んでいる。いつまで自分たちはこうしていられるのか、という不安を感じて働いている者もいれば、吉田氏のように早々に自分の水産加工の業務を再開して、協会を卒業した者もいる。いつまでも緊急雇用に頼っていてはだめだという吉田氏の叱責は、現在の協会の置かれた状況を考えると、もっともなものである。

しかし、協会のスタッフのなかには将来を見通した取り組みを進めている人々もいる。たとえば三浦氏の発言には、震災の教訓を伝えるために、ボランティアの受入業務を新たに開拓しよういう意欲が見られる。ボランティアが多数来てくれて、気仙沼を好きになってくれれば、ふたたび観光で気仙沼に来てくれるはず、そのことが気仙沼復興の原動力になる。彼はそのような思いを直接語ってくれたことがある。

また小松氏の発言にあった「港町の編みっ子ぶらぐ」は、仮設住宅に暮らす女性たちの手作業による小物をブランド化して販売しようという取り組みである。これも、被災地に産業を興そう、緊急雇用に頼らない自分たちの収入源を確保しようという努力なのである。

今年度、緊急雇用のうち震災対応分野については、岩手・宮城・福島の三県でおよそ14,500人の雇用が計画されている。そこで雇用された多くの人々はやがて職を失う時機が確実にやってくる。どうやってこれを通常の雇用に移行していくのかは、当初から予想されていたとはいえ、やはり難題である。最終的には別の仕事を探すか、それとも自分たちで自立して収入を確保していくかのどちらかしかないであろう。

後者を政策的に後押しする方法として一つ提言したい。それは緊急雇用創出事業について、一定期間は収益を生む活動についても適用可能にすることである。一般的に緊急雇用創出事業を受託した事業者は、その事業で収益を得ることは認められていない。このため、緊急雇用で雇用された人々が実施するのは、収益性がない事業に限定されてしまう。結果、緊急雇用で雇用された人々やその活動が経済的に自立していくことを阻害している。緊急雇用創出事業を、ビジネスを起こし雇用を創出するための補助金のような性格としても用いられるようにすれば、起業へとつながる事業が出てくることも期待できる。

他方で、まだまだ気仙沼復興協会のように緊急雇用で復興に従事する団体は必要ではないかという気持ちもある。たとえば、今回のトークのなかでもあるように、高台移転を含めた今後の復興のあり方に関して、集落や地域コミュニティでの対話が十分に行われておらず、その専門家が圧倒的に不足しているという問題がある。

だが、本当に専門家でなければコミュニティの活性化を促進できないのだろうか。専門家はたしかに必要だとしても、少なくとも、コミュニティのなかでさまざまな立場の意見、声にならない声を丁寧に拾い取っていく作業は誰かが担わなければならないだろう。そういった活動には、ある程度地元のことを理解しながら直接の利害関係を持たない人物が望ましい。このような活動は、新潟県中越地震の被災地で「復興支援員」として始められた。こうした支援のニーズがあることは疑いなく、それは被災者の雇用の維持とは関係なく必要な活動である。

このように考えてみれば、被災地に必要な仕事はまだまだ多い。それをどれだけ地元の人々が自覚し、掘り起こすことができるか。そうした一つ一つの積み重ねが、これからの復興に求められることではないだろうか。

プロフィール

永松伸吾災害経済学 / 防災・減災・危機管理政策

関西大学社会安全学部教授。1972年福岡県北九州市生まれ。大阪大学大学院国際公共政策研究科博士後期課程退学、同研究科助手。2002年より神戸・人と防災未来センター専任研究員。2007年より独立行政法人防災科学技術研究所特別研究員を経て2010年より現職。日本災害復興学会理事。2015年より南カリフォルニア大学プライス公共政策大学院客員研究員。 日本計画行政学会奨励賞(2007年)、主著『減災政策論入門』(弘文堂)にて日本公共政策学会著作賞(2009年)、村尾育英会学術奨励賞(2010年)など。

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