2014.03.14

福島の「帰還か移住か」を考える――経済学の視点から

中西準子×飯田泰之

社会 #震災復興#除染#原発事故と放射線のリスク学

科学物質のリスク評価を長年研究してきた中西準子氏による『原発事故と放射線のリスク学』(日本評論社)が刊行された。専門家同士の垣根を越えた対談と、除染に関する目標値の提案を柱にした本書は、「タブー」とされてきた数々のものに、リスク評価の観点から切り込んでいく。今回は、第3章「福島の「帰還か移住か」を考える――経済学の視点から」より飯田泰之氏との対談の一部を抄録した。(構成/柳瀬徹)

原発事故と研究者の責務

中西 福島第一原発事故により、第一原発周辺地域では今でも多くの方々が避難や移住を強いられています。除染も思うように進まず、補償の方向性も定まっていません。

とくに除染に関しては莫大な費用がかかる上に、おそらく政府が目標として設定している線量まで低減できない区域も出てきてしまうでしょう。はたして除染と帰還だけを前提にした政策が正しいのか、経済学的な視点で分析していただくとどうなるのだろうというのが、飯田先生にお話をうかがおうと思った動機でした。

飯田 僕は東日本大震災以降、とくに岩手県の被災地に行くことが多いのですが、徐々にではありますが明るい話ができるようになってきました。「湾で採れたわかめで新しい加工品を作ったんだ」「東京で一括仕入れをしてくれるところが見つかった」といった、苦しいなかでも前向きになれるものが芽生えつつあります。一方で、被災の爪痕が色濃く残るところ、なかでも原発周辺地域は今後の問題が宙吊りになったままで、新しいことを始める踏ん切りがつかないという人も多い。それが過酷な現実なのだと思います。

復興から今後へというフェーズが見え始めている地域では工場再建や橋の新設といった一つひとつの変化に希望を感じることができる。でも第一原発周辺地域ではどちちに進むのかもわからない。方向性だけでも早く決めることも政府の仕事なのですが、なかなか示されないまま時間ばかりが過ぎてきたのです。

このような状況の中で災害や原子力以外の研究者も専門家としてできることが少なからずあると思うんですが、論争的になることをものすごく避ける人と、やらなくていい論争ばかりする人に分かれてしまっている印象があります。

中西 社会科学系には多いですね(笑)。よくわからない罵倒をしてくる人も多いですし。

飯田 ある地域を除染すべきかすべきでないのかといった具体的な論争ならば生産的なのですが、いわゆる評論家は細部を知らないからやたら大きな話にばかり終始したり、アカデミックな研究者だと研究方針や姿勢をずっとチクチクやりあっている。これは不毛だと思います。この問題だけではなく、たとえば経済学者ならば経済政策について論争すればいいのに、ものすごく小さな経済モデルの枝葉末節について何年も論争していたりする。逆にまったく論争をしない経済学者もたくさんいて、どちらも面白くないし、役に立たないなと思ってしまいます。両者の架け橋を作らなければならない。

今は目の前に、あらゆる分野の人が脳みそを絞っても足りないくらいの巨大な問題がある。問題を分割し、分析し、そして判断しなければならない。このような実際的なプロセスに興味を持っている人が少ないことに驚きます。

中西 それでも自然科学の分野では多くの人が福島の問題には取り組んではいるけど、個々別々の小さなことにみんなが専念してしまって、そこに研究費がいっぱい落ちてくる。除染も帰還も大きな問題ですが、その全体を見ようとする人がいない。私は個人的な事情もあって、ものすごく遅れてこの問題に入ってきたので、自分が全体について貢献できることがあるなんて思っていなかったんです。

飯田 もう細かい専門分野の中だけで論争だけをしている段階は終わっているんじゃないか、そろそろ細かい話を統合して判断すべき時期なのではないかということですね。

中西 そうです。いつまでにどのくらいの線量まで下げて、そのためにどのくらいの費用がかかるという試算なんて、すでに誰かがやっているだろうと思っていました。

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「べき論」ばかりが繰り返される

中西 しかも私たちは自らデータを取ることができません。環境省や文科省の人たちは線量率の詳しいデータを取ることができますが、私たちは2011年11月に発表された粗いデータからの推定でやるしかなかった。今はもっと精度の高いデータがありますけど、当時はそういう状態でした。だから「もっと良いデータを持っている方々もいらっしゃいますが」とイヤミを言いながらやっていました(笑)。

とにかく推計に推計を重ねて試算を発表したんですが、その反響がものすごくて、逆に驚いたんです。えっ? ほかはやっていないの? と。霞が関ではすでに内部では試算していて非公表にしているだけだろうと思っていたら、二日後くらいに「省内で勉強したいのでデータをご提供いただけませんか」との話があり、驚きました(笑)。

飯田 うわあ(笑)。ベンチマーク推計すらないと……。

中西 誰もやっていないことにびっくりしました。全体をまとめて考えようという研究者がいないのか、怖くてやらないのか、どっちなのかはわかりません。

さらによくあるのは、結論が「さらに研究を深めるべきだ」で終わってしまう研究です。

飯田 「一層の研究が待たれる」ですね。

中西 そうなんです。これも検討すべき、あれも視野に入れるべき、この繰り返しでまったく議論が深まっていかないし、現実に何も寄与しない。低線量被ばくの問題でも、震災直後に日本学術会議の放射線の有害性などを研究していたグループが緊急提言(「福島第一原子力発電所事故後の放射線量調査の必要性について」平成23年4月4日、日本学術会議東日本大震災対策委員会)を出していましたが、結論は「多数の測定者による大規模調査が必要であり、大学等の協力を得て早急に実施することが望まれる」なんです。

今年(2013年)の六月末にも学術会議の社会学委員会が「原発災害からの回復と復興のために必要な課題と取り組み態勢についての提言」を発表していましたが、やはり漠然としている。「原発事故に起因する諸被害には前例がないもの、すなわち、これまでの法制度枠組みが想定していないような被害・損失が多発している。それゆえ、効果的な対処のためには、従来の法制度枠組みにとらわれない思い切った対処策の形成と実施が必要とされる」。こんなことを今さら言われても、と正直思ってしまうわけです。

飯田 それは誰でも知っています、としか言えません(笑)。

中西 「低線量被ばくの影響については、国際的にも、日本国内でも、様々な意見・学説が存在する」とか。

飯田 それもまた日本人全員が知っていることですね。

中西 結論がないんです。「~すべきだ」と言っているその人たち自身は何をしたいのか。

飯田 研究者が全くリスクを取らないというのは大きな問題だと思います。その結果メディアでなんの科学的根拠も無い断言ばかりが注目される。行政の一部にも、科学的リテラシーの不足からそういった疑似科学を公的に支援していたりする。「科学的な正しさ」にはグラデーションがあります。完全に間違いとか完全に正しいと断言できるものは非常に少ない。その一方で、まぁ九分九厘正しい(誤りである)といえるものは結構あるわけですよ。喫緊の問題がある中ではこのようなほぼ正しい、ほぼ間違いという認識をもって「我々は~を行う」「~を行った」という結びにならなくてはいけない。

中西 そうなんです。少し粗いかもしれないし、間違いもあるかもしれないけど、ともかく具体的な考えを出していかないと何も進められません。

ただ、私もそうですが、自然科学や医学の研究者も、原発事故について予測を誤った部分がある。私ももう少し安全かなと思っていました。山下俊一先生が事故直後に飯舘村の集会で「健康には全く影響はありません」とおっしゃって、その後に飯舘村が避難することになりものすごく批判されました。その後、原発事故関連責任訴訟の被告人にまでなっています。学者がコミットすべきでないことにまでコミットしすぎたという意見もありますが、誰かが「落ちつけ」と言わなければならないという状況だったんだと思います。チェルノブイリのことをよく知っておられて、慌てて避難した後の悲惨さを知っておられたから言われたと思います。

何も言わないことも、一線を超えることもどちらも危険なんですが、それでも学者は不確実性にも踏み込まなければならない場合があるとも思うんです。最後のところは政治家や行政官が決めることで、学者はそこまでしかコミットすべきではないという考え方もあるでしょうけど、本当にそこまででいいのか。例えば、チェルノブイリの経験など、あの時点で知っている人は学者しかいないわけです。

(中略)

ふたつの「しきい値」

飯田 僕は素人なので放射線影響にしきい値があるのかどうかはわかりませんが、しきい値が厳然として「ある」という考え方も、直観的にはおかしい気がするんです。

中西 その通りですね。

飯田 放射線がゼロでなければ、影響が完全に消えることはない。しきい値は理学的に「ある」ものではなくて、社会的に「ここから先は気にしても意味がない」、あるいは統計的に「識別できない」という線だと思うんです。

中西 社会的には気にしなくていい線であって、そのレベルは社会状況によっても変わってくるわけですよね。

科学者や放射線の専門家が「100ミリシーベルト以下では影響が見られない」と言うと、しきい値ありモデルを語っているように聞こえるのだけど、それはおそらく「疫学的には影響が見られない」と言っているんだ、という立場なんでしょう。でもそう考えるのなら、「このサンプル数では疫学的に影響は見られない」と言ってほしいんです。

飯田 科学的にはしきい値なしの直線近似が正しいとしても、社会的には影響のないレベルがある。いわば「社会的しきい値」があるということなんでしょうね。

中西 そうなんです。そこがとても重要です。

飯田 理学的なしきい値と、社会的なしきい値の区別を簡潔に示せるだけの説明力がないので、我々には「しきい値あり」に聞こえるような説明になってしまうのでしょうね。

中西 まさしくそうだと思います。でもその区別ははっきりとすべきです。ある社会のなかで、漠然と認識されてきたしきい値があって、一般の人がいう「安全」とはそのしきい値以下のことなんだ、と。

飯田 社会的なしきい値があるということまで否定してしまうと、自然放射線がある限りは絶対に「安全」にはならない。

中西 いつの間にかそこが混同されてしまっています。

飯田 明確なしきい値ありのモデルは、経済学でもかなり厳しく突っ込まれるんですよ。それくらいのレアケースなんです。よほどの正当化がないとなかなか受け入れられない。

でも今は、しきい値ありが標準ケースであるかのように議論されている。低線量影響についてではなく、あくまでも一般論としていえば、しきい値「なし」は(一階の導関数について)連続モデルであり、しきい値「あり」は不連続モデルです。普通は不連続関数を提示した人に立証責任があるはずです。自然界の関数が特定のポイントで不連続に変化するのは驚くべきことですから。

低線量についてもある一線で影響が完全に消えるわけではなく、ほぼ無視できる、あるいは日常生活で無数にあるほかのリスクを下回るということで、それは社会的に許容できるリスクなんだということを強調していく必要があるでしょう。

中西 私たちが動物実験などで「しきい値あり」とするのは、5~10%くらいのラインで「ゼロ」とみなしているケースがほとんどです。それはいわば約束事としてやっている。そのラインで安全率をとって決めるという、社会的な約束でやっている。でも放射線影響では直線近似がとられているのは、低線量でもDNAの損傷が起こるという合意があるからです。そんなことは、研究者だったらわかっているだろうと思っていたのですが、そうではなかった。

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「除染」しか選択肢はないのか

中西 ここから本題に入ります。2013年8月に、東京電力福島第一原発周辺の11市町村の避難区域が再編されました。帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域のいずれかに全域が該当するのが6町村、何割かが該当するのが5市町村となっています。

居住制限区域と避難指示解除準備区域については除染が進められていますが、中間貯蔵施設の建設予定地も決まらず、当初の予定通りには進んでいません。

果たしてこの地域の除染は本当に可能なのかという大問題はありますが、それ以前に仮に除染が可能だとして、それでこの地域で人が元通りに生活することができるのかという疑問があります。除染費用に見合う便益があるのか、つまり復興ができるのかということも問題ですが、ほとんど議論されていない状況です。

飯田 僕が感じているのは、「完全に除染が可能ならば、そこに住んでいた人たちは帰還する前提」というスキームの差別性です。

この地域では高齢者の比率が非常に高いのですが、現役世代の人たちにはすでに近県や首都圏などで仕事を見つけている人もいます。除染に重点を置いて財産損失への補償を小さくすると、この人たちには生活していけない土地や家が戻らざるをえないということになる。これはとても厳しいスキームですし、若い世代ほど切り捨てられているといえます。そして人が住まないものにお金をかけるという意味で財政上の効率も悪い。

中西 その通りだと私も思います。移住への補償という選択肢もあるべきだと私も強く主張しているのですが、政府や自治体は「ふるさと帰還事業」などと打ち出していますから、私の意見はほとんど敵視されています。大問題になってしまった。

(注)2013年11月20日原子力規制委員会は、「帰還に向けた安全・安心対策に関する基本的考え方(案)(線量水準に応じた防護措置の具体化のために)を出し、「国は、帰還の選択をするか否かに関わらず、個人の選択を尊重しなければならない。避難している住民の種々の不安に応えるに際し、国は、必要な措置について総合的に検討し、実行することが必要である」と述べた。これは、国の政策に関わる機関が、はじめて、帰還以外の選択肢も認めるとしたものである。本対談は、それに至る過程についてのものであることをご理解いただきたい。

現実的には、それほど多くの方が帰還するわけではないでしょう。おそらく半分以下になってしまう。そのように地域としての結び目がほどけかかっているところに莫大な予算を投じて除染をして、インフラ再整備もやろうとしているわけですね。

もし人口が半減するのなら、半減を前提にした都市計画を作って機能を集中させるなどといった議論が出てこないといけないのに、まるでありません。反面、その費用が電気料金に跳ね返って五%の値上げともなれば大騒ぎでしょう。いつもこの繰り返しだと思うのですが、なんとか歯止めを出したい。金額で明示できなくても、考え方だけでも提示したいと考えて、飯田先生に対談をお願いしました。

私自身は、移住する人々には土地家屋など物損面の補償だけではなく、移転費用も出すべきだと考えています。飯田先生はどのようにお考えでしょうか?

飯田 先ほども言ったように現在の除染スキームは、当該地域に残る人と残らない人のあいだに圧倒的な差を作ってしまっています。残らない人にとっては、その土地が除染されてもまったく得るものはありません。住み続ける人だけに特化してしまって、移住を希望している人に対して手薄くなってしまうのは公平性を欠いています。

中西 同感です。

飯田 移住することよりも、同じ所に住み続けることのほうが尊いのか。僕は移ることも立派な選択だと思うんです。

帰還率のお話がありましたが、帰還については年齢の区分も重要で、おそらく若い人ほど戻らないのではないでしょうか。

中西 その通りです。

飯田 残酷な言い方をすれば、次に住む世代がいなくなってしまうかもしれない地域に数兆円をかけようとしているわけですね。土地を相続する人たちには、資産としてはほぼ無価値のものが手渡されることになります。少なくとも、除染だけでスキームを作ることには問題がありますし、補償と除染のどちらにより重心をかけるべきか、再考の余地はあると思います。私としては断然補償中心にすべきだと思いますね。

(中略)

「人のため」の不在

中西 とにかく「ふるさとに戻れるようにしよう」という声が大きい。私にはふるさととよべる場所がないのでなかなかピンとこないんですが、それが旗印になっています。

飯田 福島周辺に限らず酒が入るとぼそっと「オレ、本当は移りたいんだよね」と語りだす、そんな人は何人かいらっしゃいました。また津波があるかもしれないと思うとできれば海から離れたところに住みたいと。でも、ふだんはそんなことを言い出せる雰囲気じゃない。帰還困難地域の方でも戻りたい人、本当はよそに移りたい人、どちらもいると思うんですがなかなかこういう話そのものがしにくい。

中西 みんなが「福島のために」と言っている、その空気に反しているように感じられてしまうからですよね。でも大事なのは、長い視点で「福島のため」になることです。

飯田 さらにいえば「福島のため」なのか「3.11時点で福島に住んでいた人のため」なのかもすごく気になります。

中西 そうなんですよ。人ありきであるべきなんです。

あるエッセイにも書いたことなんですが、古い共同体が残っている地域ほど、女性にとっては「ふるさと」はそれほど強い意味をもたないと思うんです。

飯田 なるほど。「嫁に行く」が残っているから、ということですね。

中西 はい。いわばふるさとを捨てるように教育されてきましたから。あれだけ「ふるさと」が連発されるのは、男の人の感覚なのではないかと思うことがあります。女の人のほうが「放射線が心配だから出て行きたい」とストレートに言える印象があります。

もちろんお墓を守っていくとか、そういう事情は理解できるのですけど、しばしば見受けられる「全員が戻らなければいけない」という考え方は、感覚的にもちょっと理解できないんですよね。

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集団移転か、個人補償か

中西 日本社会の特質や農村のことを考えると集団移転、コミュニティごとに移転するのが合っているように思うのですが、それに一本化すると移転先選定などで意思決定が遅くなってしまって、三年、あるいは五年とあっという間に経ってしまうでしょうね。でも、とくに中高生のお子さんのいる世帯にとっては、その時間は耐えがたいほどの長さです。集団移転の決定を待たなくても、個人で動きたい人は動けるようにすべきだと思うんです。

飯田 僕も個人補償とのミックスがベストだと思います。集団移転については、これまでも日本人は集落ごとの移転を何度かやってきました。典型はダムと離島ですね。

中西 ダムはそうですよね。

飯田 ダム建設ではよく集団移転が行われたのですが、離島では農業コミュニティの結びつきはそれほど強くないので、バラバラの移転になることも少なくありません。有名なのは軍艦島で、炭鉱労働者という特殊なケースではありますが、日本各地の鉱山や炭鉱に散らばっていったわけですね。コミュニティは完全に崩壊しますが、移り住んだ先にコミュニティがないわけではない。

生まれたところのコミュニティを完全に保持するのであれば集団移転になりますが、選択肢が用意されれば個人移転を選ぶ人も多くなるでしょう。やはり筋論でいえば個人補償がベースになると思います。

中西 ベラルーシのような、現在でもソフォーズ(大規模国営農場。ソフホーズとも表記される)が残っている国でも、半分は個人移住でした。ソフォーズからこぼれたら仕事がないような国でも、半分は個人で移っていく。ましてや日本の話ですから、いつまでも縛り付けることの残酷さも考えるべきだと思いますね。

飯田 そこで暮らしていた人たちに、いたずらに制約を設けている。個人補償X円というベースがあって、たとえば集団移転を選択した人には移転先の整備補助金を上乗せするといった段階を設ければいいと思います。そして、集団移転してみたものの生活の問題から結局は他地域に移転するという選択をする人も多いであろうという点に注意しておくと良いでしょう。

話は変わりますが、地元コミュニティで生きていくために重要な要素のひとつは、どこの中学校を出たか、という「学縁」です。埼玉県に移住した中学生は、埼玉の中学校が卒業校になる。

中西 「せっかくこっちの学校に慣れたのに戻りたくない」という声も聞きますね。

飯田 中学生になれば人格的には一人の個人として、地域との結びつきを作ります。もうすぐ避難から三年が経ちますから、入学から卒業までを避難先で過ごす子たちも出てきます。その人たちを元の場所に戻すのが、本当に良いことなのかどうか。

年齢や地域、家庭によっても元のコミュニティがいいのか、新しいコミュニティがいいのかはケースバイケースだと思うんですね。それだけに、集団移転先は確保するとしても、そこに入る自由と入らない自由も用意して、集団移転に参加する人には追加の補助金を不公平すぎない範囲でつける。それが「福島のため」ではなく「人のため」になるんだと思います。

中西 不公平にならない選択肢があることが第一ですね。

飯田 現在が震災後三か月くらいで、あと半年で除染が完全に終わるというのであれば話はまったく別なんですが。

中西 当初は除染の効果がもっと高いと思われていましたからね。でも、もう限界が見えてしまっている。たとえば飯舘村に戻ったとしても、畜産業が成り立つまでには時間がかかるのではないでしょうか。農業そのものは可能で、放射線も基準値は軽くクリアできる、しかし、生産物が適正価格で売れるかどうかとなると厳しくなってくる。

飯田 ベラルーシやウクライナと日本との違いは、農作物の価値の中身です。新鮮で美味しいことや、魅力的なイメージに値段がついている。

中西 ウクライナは食べ物そのものがあまりないですよね。

飯田 そうなんです。だから危険がなければ売れてしまう。

日本の場合、乳製品の価格は海外の二倍くらいですが、かりにTPPで関税が撤廃されたとしても、売れていた国内製品は売れ続けると思います。それを支えているのは味やイメージの付加価値ですが、それさえも失われれば、海外産の大量生産されたチーズや野菜と同じ条件で市場に出て行くことになる。

中西 日本はじゅうぶんにモノがある社会ですからね。

飯田 ブランド力だけが優位点なのに、それがマイナスの状態で勝負しなければならない。僕もこの議論をどうすべきかと悩んでいたのですが、「福島のため」ではなく「福島の人のため」なのではないかという視点を定めると答えが出るのではないでしょうか。取り戻すべき町や村が、そこの構成員と関係なく存在するかのような議論は、もうやめたほうがいい。さらにいえば、その考え方はお金がかかりすぎます。

中西 それも大事な点です。現在のコストのかけ方がいつまでも続くはずもありませんから。ただ、私は長年にわたって住民運動にも関わってきたので、農家の人たちの土地への気持ちはある程度理解しているつもりなんです。とくに兼業でやっている人たちは、平日は別の仕事をこなしながら、土日に一生懸命耕す。そうやって定年後に毎日畑に出るのを楽しみにしている。いってみれば、思う存分畑に出られることが人生の年金なんですよね。

ほかに仕事をもっているときはほとんど価値はないけど、それしか仕事ができなくなったときに一定のお金がちょっとずつ入ってくる。そのありがたさはわかるんです。農地の売買に対する自由度があれば、それほどの問題はないのかもしれませんが。

飯田 なるほど。今は日本中で休耕地だらけになっていますので、ばらばらに移転先を探すのはそれほど難しくありません。ただ、たとえば福島県内で、海が近くて……と元の場所に条件を近づけていくと難しくなりますが。

中西 いわき市くらいしかない(笑)。

飯田 そうなんです。とはいえ、いわき市にはすでに人が住んでいますからね。

内陸部、宮城県南部、茨城県北部など少しずつ範囲を広げていけば、集落単位での集団移転も可能になる。こういうやり方でコミュニティを維持するのもひとつの手だと思います。

でも強制的にとはいえ、一度よその場所で住んでみると、それまでの暮らしが相対化される面もある気がします。仮設住宅で暮らしている方々のあいだでも、考え方がばらけつつあるようです。

他県に避難されている方に「これからどうするんですか?」と聞くと、農業・漁業の人は「戻る」と答えることが多い。でもサービス業では「この際だから仙台に行こうかな」「いっそ東京に出てみようかな」と答える人も多かったですね。職種によっても求めている選択肢は違うのだと思います。

(中略)

東電の責任と国民負担

中西 ところで、損害賠償の責任を東電ではなく国が負うのはおかしいという議論がありますね。九電力会社全体で払うべきという人もいます。

飯田 まず東電は私企業なのか公企業なのかをはっきりさせないといけないでしょう。原発事故の話を脇に置いたとしても、これまでの東電はその時々の都合に合わせて公企業のような顔をしたり、私企業のような顔をしたりしていました。

しかしですね、東電を純粋な私企業だと思っていた人は、おそらくこの世にいないでしょう。貸付をする銀行も、国が後ろについていると踏んで貸している。だから東電だけで賠償をすべきだという意見は、あまり正当化できないと思います。

そもそも原発事業は純粋な国営企業がやるべきでしたし、原発以外の発電は純粋な私企業でやるべきだったんですね。

なぜこんな構造になってしまったのか。発電所やダムをつくるための資金が膨大すぎて、私企業では借り入れができなかったんです。そこで半官半民の会社を作って、世界銀行などから融資を受ける形式になりました。今の日本のメガバンクでもさすがに原発や巨大ダムには融資しきれませんが、火力発電所であれば可能です。

水力発電のためのダムには治水の役割もあるので、水力と原子力は国営企業でやればよかった。これを東日本電力、西日本電力くらいに分割して国有化する。それ以外は私企業に任せればよかったのだと思います。

誰も私企業だと思って融資していませんから、「東電は私企業です」と言われたら債権者は「えっ?」となるでしょうね。賠償のファイナンスはまずは九電力で負担し、そこにある程度の国費を足して行かないといけないでしょう。

東電のガバナンスのまずさなど、責任はもちろん重大ですが、従業員の給料をどれほど下げても捻出できる額ではありません。それを電力料金に上乗せするのは、公企業による損害責任を電力を使っている人ほど大きく課すことになるので、正当化は難しい。僕は広く国民で負担すべきだと思います。

中西 なるほど。エネルギー政策の研究をされている経済学者の大島堅一さんなどは、東電に融資していた銀行にも払わせるべきだ、賠償責任は株主にまで拡大すべきだとおっしゃっています。そこはどうお考えですか?

飯田 いや、金利を見てください、と答えますね。電力債の利回りは国債とほぼ同じくらいでした。どこの企業に貸しつけても国債よりは高い利子が付くのにもかかわらず、電力債が買われている。つまり電力債については、マーケットは「国」に貸していると思っているんです。

中西 ああ、そうか。それは納得できますね。

飯田 東京電力の信用力調査なんてどの金融機関もしていないと思います(笑)。「だって実質的には公社でしょう?」とみな思っているわけです。

賠償の支払い主体が東京電力だという議論も、成り立つことは成り立ちます。ところが、株主という存在は完全有限責任で、出資額以上の損失を負わせることはできないんですね。ですから、一・七兆円を東京電力が払えるか、という問題だけなんです。払おうとすれば払えるわけですが、それをやると東京電力は倒産します。とはいえ電力をなくすわけにはいかないので、倒産したら国は買い戻さなければならない。東京電力は財産がなくなって倒産し、その設備を国が買い取ることになるわけです。

かりに東電の純資産が三兆円だとします。賠償のために三兆円払えば、東電は潰れる。国は倒産した東電の設備を買い取る。その原資は税金です。だから東電負担により国民負担がなくなるわけではない。そう考えると、最初から国が払うのと変わらないかな、と思うわけですね。

ちなみに僕自身は「東電を潰して国が買い取るべきだ」派なんですよ。そのほうがスッキリする。でも「最初から国が払っても同じじゃないですか?」と反論されると、少なくとも会計上は妥当な意見で反論できないんですよね。

東電に賠償させて潰すという考えは、責任を明確にするという一点において僕は正しいと思っています。ただ多くの東電賠償論は、あたかもそれで国民負担が減るかのような論立てになっていますよね。

中西 賠償責任を株主にまで拡大しているからなんですね。でもそこを、あまり明確には言っていない。

飯田 なんとなく東電に、という雰囲気ですよね。株主は株価下落で責任を負っていることになるので、それ以上の責任は株主にはないんです。

中西 ないんですか?

飯田 それが有限責任性ですから。だから誰もが安心して株式を買うことができる。これがもし、株式を保有している会社の不祥事で株主が訴追される可能性があるとなれば、怖くて株など買えなくなりますよね。

中西 そうか。そうですね。でも東電が払っても国が払うことになるから同じだよ、というロジックが説明されていないから、なんだか曖昧で……

飯田 そう、すごく気持ち悪いんです。

中西 気持ち悪いですよね。それに、かりに国が払うとしても「ここまでしか払えない」という限度は設定できないものでしょうか? これは税を負担する側からみての議論ですが。

飯田 僕は決めるべきだと思っています。決めると「多い」「少ない」両方の批判が必ず上がるでしょうけど。

中西 そうですよね。必ず上がりますね。

(中略)

(その他、帰宅困難区域の帰還希望者、移住希望者への「補償」について、除染費用資産と固定資産評価をベースに踏み込んだ議論を収録。全文は『原発事故と放射線のリスク学』にて)

プロフィール

中西準子環境工学、環境リスク評価

独立行政法人産業技術総合研究所安全科学研究部門長。1938年、中国大連市生まれ。1961年、横浜国立大学工学部化学工業科卒業。1967年、東京大学大学院工学系博士課程修了。東京大学工学部助手、東京大学環境安全研究センター教授、横浜国立大学環境学研究センター教授、独立行政法人産業技術総合研究所化学物質リスク管理研究センター長を経て、現職に至る。専攻は環境工学、環境リスク評価。工学博士。2003年春に紫綬褒章受章。

この執筆者の記事

飯田泰之マクロ経済学、経済政策

1975年東京生まれ。エコノミスト、明治大学准教授。東京大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。著書は『経済は損得で理解しろ!』(エンターブレイン)、『ゼミナール 経済政策入門』(共著、日本経済新聞社)、『歴史が教えるマネーの理論』(ダイヤモンド社)、『ダメな議論』(ちくま新書)、『ゼロから学ぶ経済政策』(角川Oneテーマ21)、『脱貧困の経済学』(共著、ちくま文庫)など多数。

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