2014.03.21

東日本大震災―――改めて見つめたい「これまで」と「これから」

標葉隆馬 科学技術社会論

社会 #東日本大震災#震災復興#科学技術社会論

2011年3月11日に発生した東日本大震災と続く福島第一原子力発電所事故から、3年が経ちました。しかし、今現在においてもなお、その被害は現在進行であり、さらには時間の経過と共に予想されていた/予想されていなかった様々な問題が顕在化しつつあります[*1]。そして同時に、少しずつですが歩みを進めている状況もまたあります[*2]。

このような中で、「これまで」と「これから」に今一度向き合うために、震災を巡る状況の何か一側面でも描くことが出来ないか。ここで書かせていただく事柄は、この問題意識からスタートしています。何をまた今更とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。それでも、3年目という、どうしても象徴的な意味を持ってしまうこのタイミングで、「これまで」と「これから」を改めて考える上での一助となればと思います。しばし、お付き合いをいただければ幸いです[*3]。

今回は、二人の方に伺わせていただいたお話を軸に、震災をめぐる状況に触れていきたいと思います。お話を伺わせていただいた方は、お一人は、宮城県仙台南高校校長である須藤亨先生[*4]です。須藤先生は、当時、震災によってもっとも大きな人的被害が出てしまった宮城県石巻市[*5]にある石巻高校の校長をされており、当時避難所となった学校を先導する立場にいらっしゃいました。当時の状況、そして3年が経過して改めて思うことについてお話を伺いました。

お話を伺わせて頂いたもう一人の方は、福島県立医科大学の長谷川有史先生です。長谷川先生は、救急科・救命救急センター/放射線災害医療センターで最前線に立たれている医師の方です。福島県立医科大学では、震災後の2012年度より緊急被ばく医療に関わる実習を5年次の必修授業として新たに設置しており、その実習の担当もされている方です。長谷川先生には、その新たな取組が目指す場所、そして今考えることについて伺わせていただきました[*6]。

[*1] 日本大震災をめぐる状況と性質については、前回書かせて頂いた記事において素描を心みています。 https://synodos.jp/fukkou/4816(最終アクセス 2014年3月10日)

 

[*2] 実際に復旧・復興に取り組まれている方々には、ただただ頭が下がるばかりであります。全面的な敬意をもって。

 

[*3] 筆者は、これまでに共同研究者らと東日本大震災を巡るメディアの課題をはじめとした分析を行ってきました。しかしながら、筆者自身は、メディア言論の分析には震災以前より関わってきたものの、災害研究や原子力発電所事故の専門家ではありません。そのため、今回のテーマを扱う上で必要とされる専門性を十分に備えているとは言えません。それでも、今回伺ったお話や描写が何かのお役に立てればと思います。

 

[*4] 須藤先生は、私が高校一年生の時にクラス担任をして頂いた恩師であり。化学と生物の講義を教えて頂いていました。

 

[*5] 直接死・関連死合わせて3518人が亡くなられ、今現在でも439人の行方が分からないという被害がでています。2014年2月10日付宮城県公表データ。http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/243886.pdf (最終アクセス 2014年3月10日)

[*6] また、本稿で書かせていただいた内容について、頂いたインタビューの引用や、本文中でのまとめ等、本稿の内容についての全ての責任の一切は著者によるものであることを強調させて頂きます。

もう3年、まだ3年、たった3年

須藤先生にまず伺ったことは、「(3年が経過して)今、思うこと」そして「震災について話す、そのこと自体が持つ意味について」でした。その問いかけへの返答は、実感を込めて端的に語られたこの言葉から始まりました。

『もう3年、まだ3年、たった3年』

当時の状況、現在進行の被害、進みゆく状況/変わっていく地域の事情、時間の経過によって見えてくる/見えにくくなる課題、そして薄れていく関心。そういった様々な状況と取り巻く思いが、この一言に表れていました。そして、丁寧に紡がれていく言葉の裏には、苦悩・懊悩・煩悶・希望、様々なものが織り交ざっています。見せて頂いた備忘録には、理不尽な状況への憤りと、言葉の持つ重さとその持つ明暗両面について省察する姿がありました。

『人の死が数字に代わっていく。この違和感は何だ!』

『「亡くなられた方々に哀悼の誠を捧げます」というしかなかった自分自身に対する自己嫌悪』

『「絆」と「復興」。これほど手軽に使える言葉もそうはない。(いや、本来はすべての言葉がそうなのだ。)この一年半くらい、一つの言葉の持つ重さを実感したことはなかった。その言葉の持つ明暗の両面がその時々に応じて人にのしかかる。そして、その問いは私自身により鋭くなって戻ってくる。前を向くしかないが、そうしようとすればするほど、それだけでは済まない何かが心に澱のように残る……』

この状況を、私たちはどこまで想像することができるでしょうか。そして、『……の前の生徒達を見ていこう。寄り添い、注意深く。私ができるのはそれしかない』と前を向くことに内包される言葉にならないものを、私たちはどれだけ想像できるでしょうか。そして、このような思いは、先生一人だけが抱えていたものではなかったはずです。そして、3年経った今、これは過去のものになったのでしょうか。もちろん、違います。今も続く被害、広まりつつある格差、そして風化していく現状がそれを妨げています。

だからこそ慎重に選び、紡がれた言葉から発露する「思い出してほしい」・「わかってほしい」・「忘れないでほしい」というメッセージに、私たちは向き合わなければなりません。

『一言で言えば、「忘れないで」と』

『まず現地に行ってみてください』

『できれば、その当時のことを知る人の生の声を聴いてください』[*7]

それは、私たちがすでに「忘れ果てている」ということを言おうとするものでも、もちろん「忘れたい」という思いを蔑ろにするものではありません。それは、「これまで」の膨大な経験に加えて、「いま」も見つめてきた眼差しからも出てきたものです。

『震災は過去のことではなく、復旧が進まない現状を見るとそれが現在進行形のものであることをいつも心がけねばならないと思います。(ちょうど報道でもあった事柄ですが)仙台でさえ、地滑り等で被害をうけた宅地の復旧率は3%に過ぎません[*8]。復旧・復興の程度の差が拡大している。光と影を併せ持つ現状なのに、報道では8割「復興の光が見えます」か、2割「復興の道はまだまだで、困難は続いています」のどちらかに結論をもっていこうとプランをねった上で取材していく。その両方を見て、現状を把握していただくしかないと思います。多様な情報の中から、その被災地と個人ごとの置かれている状況を想像し、機会があればその地を訪れてほしい。』

例えば仙台市について考える場合でも、すでに綺麗に整備された仙台駅前だけを見るだけでは、何も知らない状態で震災の痕跡を見つけることは不可能に近いと思います。しかし、それは同時に、仙台駅前の状況が仙台における被害や復旧・復興のすべてを象徴するわけでも勿論ありません。これは当たり前のことと思われるかもしれませんが、しかし、ともすれば私たちがつい忘れてしまう、意識の外に行ってしまう事柄ではないでしょうか。

またこのことは、須藤先生が語られた震災後の様子にも関わってきます。最初の1週間の茫然自失の状態から、その後のひと月で「とにかく生きなきゃ」というフェーズに移行していきました。その後、「元の生活を取り戻す」ということで動いていた状況が、半年ほど経過したところでだんだんと変わっていきました。自分たちが思っているようなペースでは復旧も復興も進まないことが見えてきたためです。また同じタイミングで、被災された方の中でも、震災以前から持っていた状況や経済力による個人レベルでの復旧・復興の差が表れ始めました。1年~1年半がたって仕事を再開したけれど、周囲や従業員の方の減少、失ってしまった取引先が戻ってこないといったことから、継続を断念する例も出てきたといいます。ここで語られる状況は、東日本大震災をめぐる震災倒産が阪神・淡路大震災のときの3.8倍にもなるという先日の報道とも重なって見える内容です[*9]。

一つの地域の中でも、その被害の規模や性格、そして復興の状況は多様であり、一言では語りつくせないものがあります。現地にいると当たり前のように感じる、モザイク状の被害と復興・復旧をめぐる格差。しかし、それは外から見聞きするだけでは想像しきれないものですし、現地に入ったからといって、それですべてが分かる訳ではありません。しかし、それでも何かが違ってくる。『色々な情報と照らし合わせながら、色々な想像をしてほしい。出来れば、その中にいる方々の声に触れてほしい』。それはそのまま、被災地と相対的に遠いところにいる私たちに投げかけられた問いになります[*10]。

[*7] これらの発言は、同時に専門家や研究者の方へのメッセージとしても発せられた言葉でもありました。私を含め、何かしらの立場で関わる研究者・専門家・有識者が持つべき認識であることは間違いないと思います。

 

[*8] 3月3日付のNHKニュース http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140303/k10015661091000.html (最終アクセス 2014年3月3日- 2014年3月10日現在リンク切れ)

 

[*9] 例えば時事通信2014年3月3日付の記事 http://www.jiji.com/jc/eqa?g=eqa&k=2014030300504&utm_source=twitter&utm_medium=eqa&utm_campaign=twitter (最終アクセス 2014年3月10日)

 

[*10] そして、更に書かせていただくならば。先生を含め、現地にいる方々は、目の前の「すべきこと」をしながらも「風化」に抗うという難題に取り組んでいます。長期戦であるが、同時に益々膨らむ目の前の「すべきこと」。このジレンマにどのように向き合うのか、「何ができるのか」、このことに大きな悩みを抱えている方がたくさんいることを、私たちはまず認識すべきなのではないでしょうか。

学校が果たす機能

須藤先生に次にお伺いした事柄は、当時の生徒の皆さんについてでした。お話を伺うに当たり、石巻高校の校長をされていた時に書かれた学校のニューズレター原稿や日本学校教育相談学会第22回「全国中央研修会」シンポジウムでお話をされた際の発表資料なども併せて見せていただきました[*11]。ここからは、それらの内容も踏まえて書かせて頂ければと思います。

石巻高校は、開学90年になる地域に根ざした高校です。そして石巻の鰐山地区の高台の上に位置していることもあり、震災当時は地域の方々が集まり、避難する拠り所となった場所でした。ただし、石巻高校は県立高校であったことから石巻市の「指定避難場所」[*12]の指定は受けていましたが「指定避難所」ではなかった点には注意が必要です。そのため、石巻高校の学校防災計画は、防災・地震に対する一時避難を想定したものになっていました。一時的な避難の後に、生徒を保護者の方に学校で確実に引き渡すところまでが役割として認識されていました。しかし、今回の災害では、「避難所」として、また臨時的な「医療施設」として、期せずして、それ以上の役割を担うことになりました[*13]。これらの状況を踏まえ、須藤先生は、次のように表現されています。

『石高は津波の被害を被らず、近くに校医の方がおられ、教職員の皆さんや生徒諸君や避難されてきた方々に助けられた幸運により、震災からの3日間を乗り越えることができた。』

ここで、まず思い至る事柄は、地域の防災・避難に関わる機能を果たすことが出来る学校を、すべての地域で育むことができているだろうかという疑問です。避難所としての機能を可能にするマンパワーと周囲の協力、そのための普段からの地域とのつながりといった条件は決して無視できないものです。これは、おそらくは大なり小なり全国どこの地域もが抱える問題なのではないでしょうか。それこそ、例えば首都圏のような大きな人口と大都市特有の社会構造を抱える場所において、今現在災害が発生してしまったとして、同じような形での協同がいったいどこまで実行可能なのでしょうか。地域の防災や避難の中核ともなる「地域」の学校との関係について、時に考えを広げて想像してみることも、今後における必要不可欠なプロセスではないでしょうか。このことは、遠くにいる私たちも「自分事」として考える/考えられることのはずです。

[*11] なお当日のシンポジウムの様子は、月間学校教育相談第26巻10号(2012年8月号)に詳細が記録されています。

 

[*12] もう一つ、印象に残った事柄があります。宮城県は、1978年に宮城県沖地震を体験しています。また同じような災害が近い将来に必ず生じると繰り返し言われており、その経験と警戒からくる防災意識や対応などもありました。しかしながら前回の宮城県沖地震では今回のような大津波は襲来していませんでした。今回のお話の中でも、その点に関わる形で、津波について、どこかに、「まさか」と思う所があったかもしれないと、悔恨を滲ませながら登場していました。

 

[*13] なお、これに続く今の話として、現在校長をされている仙台南高校においても、地域の方々との避難や防災に関する協議を続けているとのことでした。地域の学校がより積極的かつ効果的な機能を果たすためにはどのように役割を担うのか、取り組みが続いています。

震災後の3つのフェーズ/生徒の皆さんの働き

須藤先生は、震災後における石巻高校での経緯を3つのフェーズに分けて語られました。第一のフェーズは、発災直後~3月17日までの最初の一週間。次の第二のフェーズは、新年度の始業日となった4月21日までの間。そして第三のフェーズは、2011年10月11日に高校の避難所を解散するところまでです。また、石巻高校における震災後最初の三日間の状況について、先生が残されていた当日の記録、メモ、また日本学校教育相談学会シンポジウムで発表された資料から再編集する形で表1に示しました[*14]。

(表1:石巻高校における震災後3日間の動き(須藤亨先生の記録より))
(表1:石巻高校における震災後3日間の動き(須藤亨先生の記録より))※クリックで拡大


この過程における第一のフェーズにおける最初の3日間の状況と、その時から避難所の運営を支えた生徒さんの皆さんについてのお話が印象に残っています。震災後3日目には石巻高校に避難された方はのべ1500名を超え、また低体温症をはじめとして体調を崩される方も多く出てきたと言います。

『避難所として10月10日まで避難の方がいらした環境で、当時の在校生(この3月1日の卒業生)は、本当に人間的に成長したと思う。震災時の一・二年生は、高校避難している3日間で、同級生と一緒にいることで次第に現実を受け入れる準備をしていき、避難されている方達をボランティアとしてお手伝いするなどして、気丈にふるまうことで自分を奮い立たせていたのかもしれない。混乱の中、中学校の卒業式もきっちりと行えない状況で高校の合格が決まり、4月21日に入学してきた新一年生も、その環境の中でしっかりと歩みだしていってくれた。』

(写真 1:震災後の石巻市内(上-3月14日撮影、下‐3月17日撮影) 提供:須藤亨先生)
(写真 1:震災後の石巻市内(上-3月14日撮影、下‐3月17日撮影) 提供:須藤亨先生)

中には、自宅を流出し、またご家族を亡くされた生徒の方も含まれていました。最初の2日間、先生方で分担して収集した情報から色々な状況を想像し、受け止める/受け入れる準備をしていたといいます[*15]。そして3日目以降にグループでの帰宅が可能になり、自宅に戻っていった、そのような状況でした。その間、そして3日目以降にも、石巻高校に開設された避難所や診療所(石高診療所)でボランティアをするなど、様々な活躍をした生徒の方もいました。彼ら/彼女らの、当時の気丈な振る舞いと献身的な働きは、彼らが持つ強さ(と時として危うさやダメージ)、物事の裏表なんだと語るその真意と、発言の背景にある当時から見てきた事柄は、同じ文脈を共有することのできない私たちには想像することはできても実感することは難しいものでもあるかもしれません。

『結果として、普段は生徒しかいないのが普通の姿。10月10日までは避難者の方がいた。生徒との間で、普通に挨拶があったり、遊んだり、交流があった、普段は学べない「学び」をいっぱいできた子たちなんだと思う。だから強い。』[*16]

これも当たり前の事柄のように思われるかもしれませんが、それでも改めて気づかされることは、今年、卒業した生徒の皆さんはちょうど震災のタイミングで入学した方々なのだということです[*17]。『この1カ月で、普通に生きていれば一生分くらいのことを体験し、考えたように思う』[*18]という語りを発せさせるほどの経験が、今後どのような営みへとつながっていくのか。この点について、私たちはもっと想像力を働かせてみても良いのかもしれません。

[*14] なお、震災後4日目以降になると、水や燃料、また食糧確保のルートなどが次第に整っていきました。

 

[*15] 当時、その場では、筆舌に尽くしがたい悲しい状況がありました。その一端は、先の須藤先生の備忘録にあった言葉からも滲むものです。そして、勿論きれいなことばかりではありません。それは私たちの想像力を簡単に超えてしまう状況です。それでもなお、私たちがせめてまずできる最初の事柄とは、少しでも当地の状況に目と耳を傾け、持てる限りの想像力と思考力をもって考えることなのではないでしょうか。

 

[*16] 無論のこと、被災された生徒の方々が抱える様々な課題や心のケアといった問題をないがしろにしているのでは全くないことを改めて強調しておきます。

 

[*17] 無論、生徒さんだけに限らないことですが、そこに改めて目を向けさせられます。

 

[*18] 平成23年度始業式や同窓会総会挨拶などで紹介された石巻高校の生徒の方の発言より。

そして震災をめぐる今後の教育について

そして、関連して伺ったもう一つの内容は、東日本大震災をめぐる今後の「教育」についてでした。少し想像力を広げてみるならば、震災以降に生まれたお子さんが中学・高校へと入学する日も実はそう遠い未来ではありません(そして、彼らは震災当時という経験・文脈を共有しないことになります)。そのような状況において、学校という場所で行う教育は、今回の震災とどのように向き合い、また伝えていくのでしょうか。ここでもまず現れてきたメッセージは明確なものでした[*19]。

『風化するのを1年でも、10年でも先延ばしにする』このことにも関わる一つの興味深い動きは、震災以降に宮城県の公立学校では、防災主任の担う方の配置がされるようになったという事実です。防災主任は、学校ごとに防災マニュアルを作成する、防災訓練を行う、地域との連携を担当するなどの役割を担います。そのような動きは、歓迎すべきことに違いありません。しかし、一つの発言は、このような動きも踏まえつつ、今までの状況への真摯な反省のように響くもの、そして先の端的なメッセージにもつながる事柄でした。

『避難訓練が形だけになっていたと思う。でもその裏には、きちんとした理由や「思い」があった。これを伝えないと、ただの年中行事になってしまう。また今回体験した子たちが親になった時、伝えていってほしい。』

[*19] このことは、既に阪神・淡路大震災において経験がなされた事柄でもあります。風化させない、そして次世代に災害の教訓を伝えていく試みとしては、毎年1月17日に行われる「1・17のつどい」などの取り組みは一つの在り方なのだと思います。「1・17のつどい」には、学校帰りの中高生も来ていたことが印象的でした。また、「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」のような機関・場所が、研究・教育の拠点として機能していることも無視できない要素でしょう。もちろん、今回の東日本大震災では超広域災害であることが一つの特徴となっており、阪神・淡路大震災の時のケースと違う側面にも目を向けつつ形作っていくしかないのだとも感じています。

東日本大震災発生時、福島県立医科大学における緊急被ばく医療の現場

続いて、福島県立医科大学の長谷川有史先生にお話を伺いました。長谷川先生は、救急科・救命救急センター/放射線災害医療センターにおいて、最前線で現場の医療に携わる方です。ここでは、実際にインタビューで伺った事柄、シンポジウム発表資料[*20]、そして著作に書かれた記述[*21]などを合わせて見ていきたいと思います。

発災直後から、福島県立医科大学には、多くの傷病者が搬送されました。甚大な津波被害に見舞われた沿岸地域(浜通り)の病院のキャパシティはすぐに限界を迎え、また福島原発における事態の悪化もまた、その混乱に拍車をかけていきます。元来、福島における緊急被ばく医療では、浜通りにある病院が初期被ばく医療機関として想定され、福島県立医科大学付属病院は、2次被ばく医療機関という位置づけになっていました[*22]。しかし、現実には、その体制・ネットワークはうまく機能しませんでした。さらに言えば、原発を抱える13道県が計74か所の1~3次の緊急被ばく医療機関のうち約4割が原発から20km圏内に位置しており、今回のような事態に陥った場合にはその期待される機能に大きな制限がかかる可能性が高い状況にあるとの指摘は、このシステムがそもそもにして抱える問題点を見るうえでとても重要だと言えます(長谷川 2013, pp22)。

ここで注意すべき最初の点は、今回の複合災害で対応が必要とされた事柄が、「放射線災害」+「自然災害」に対するという複合医療であったという点です。自然災害と言う緊急事態に加えて、普段からは余り想定をしていなかった被ばく医療への対応を求められることになりました[*23]。

『怖かった』

『当時の僕らは、知識と情報がなく、死ぬかもなと思いながら病院に残ったので。こんなことしなくていいよって神様がいってくれたら、どんなにか楽だったべな・・・』

『僕の代わりをしてくれるリーダーが欲しかった』

長谷川先生は、当時の状況を思い出しながら、このように話されます。そのような不安と混乱の中に、当時は現場の医療者の方もいた。このことは見過ごすべきではありません[*24]。このことが東日本大震災の発生後において福島県立医科大学の現場の医療者の方々が直面した状況でした。そして福島県立医科大学付属病院では、3月12日より外来患者へのスクリーニングを開始し、3月14日には原発からの被ばく傷病者1名を受け入れ、翌15日には、3号機建屋の爆発による傷病者3名の受け入れと治療が行われています。このいずれもが当時において初めての経験でした。

この状況と当時直面することとなった困難の背景として、長谷川先生は『コミュニケーション』と『エデュケーション』の欠如を指摘されています。ここでの「コミュニケーション」の欠如は、特に震災前における電力事業所・医療機関・行政の間の連携・情報共有の欠如を指しています。そのため、災害時対応において必要としていた情報が得られませんでした。もう一つの「エデュケーション」の欠如では、医療者の放射線に関する基礎知識、そして被ばく医療に関する意識と経験の欠如を指しています(長谷川 2013, pp57-8)。また緊急被ばくマニュアル自体は2002年には作られていたものの、それについても周知不足であったと言います。これらについての教訓と反省が、現在における教育取り組みの背景となっています。

[*20] http://www.fmu.ac.jp/radiationhealth/conference2/presentation/28.Hasegawa-j.pdf (最終アクセス 2014年3月10日) ここで教育に関わるご発表について知ることができたことが、今回お話を伺うきっかけになりました。

 

[*21] 長谷川有史「あのとき、何が起こったのか」, 福島県立医科大学付属病院被ばく医療班(現 放射線災害医療センター)(編)『放射線災害と向き合って‐福島に生きる医療者からのメッセージ』(ライフサイエンス出版), pp9-61, 2013年4月.

 

[*22] 日本における緊急被ばく医療は、1999年の東海村JCO臨界事故を契機に整備されていった(長谷川 2013, pp20)。

 

[*23] 福島県立医科大学では、2001年に「除染棟」が完成し、翌2002年には院内緊急被ばく医療活動対応マニュアルが作成されています。しかし、実際の運用経験はほぼ無い状態でした。

 

[*24] やはり当たり前のことですが、最前線に立つ医療者の方も一人の人間であることを、改めて強調したいと思います。

福島県立医科大学-緊急被ばく医療実習の新設とその教育が目指すところ

福島県立医科大学では、2012年度より被ばく医療に関する教育カリキュラムの充実を実施しました。それは、震災当時の緊急被ばく医療対応において生じた種々の困難の経験と反省から生起したものでした。その大きな変化[*25]の一つとして、2012年度より、5年生対象とした放射線災害医療についての臨床実習がローテーションに配置されたことは特に目を引きます[*26]。その中で、ここでの教育主眼について長谷川先生は次のように表現されています。

『放射線災害医療ってのが、単なる放射線に対する意識啓発にとどまらず、広く外来脅威全般に対する基本的防護学に応用できる、そういうことも意識した伝え方をしています。もう一つ、身近なリスクに対する真摯な学び、学びっていうのは社会に対して正面から向き合うということに置き換えてもいいのかもしれないです』[*27]

そして、そのための仕掛けとして、実際に当時、現場に立った方々が直面した「困った」状況を疑似体験させることで、学ぶ動機づけに結び付けようという取り組みが行われています。それは例えば、感情と知識の間の折り合いをつけるという困難、そもそもの情報不足から適切な処置が判断できない、また知識や情報だけでは行動に結び付けられないなど、当時において実際の状況として立ち現われてきたものでした。

しかし、必ずしも震災の経験や講義・実習の意味、そしてモチベーションが学生全員に「共有」されているわけではありません。

『……震災を経験した人と、していない人では大きな違いがあると思います。何に対する違いかというと、学びに対する姿勢。学ぶ動機づけだと思います。すべての学びってのは、それが必要だと思わないと……これを知らないと苦労すると感じた人間は学ぼうとして一生懸命勉強しますし・・・必要性を感じられない人にとっては、福島医大で提供している緊急被ばく医療について無味乾燥に感じているかもしれません』

そのような違いが存在する状況では、いかにして災害や被ばく医療といった問題を「自分事」として考えられるようになるかが課題となります。そのため、ここでの教育の取り組みでは、『なぜ学ぶのかという動機づけ』に重点を置きつつ、実際の実習で使用されるいくつかの想定シナリオに通底するコンセプトとして、受講者を『心をかき乱す環境』に敢えて置くことで、何が足りないのか、何を学ぶべきであるかを主体的に考えてもらうことが主眼となっているといいます。現実に起こり得る色々なジレンマや不安、そして不確実な知識や情報の中で、どのようにして『自分が見た一次情報を自分のモノサシで評価できるか』について学んでほしい、そのための工夫が重ねられている現状があります。

(写真 2:福島県立医科大学放射線災害医療センター治療室。ここで実習が行われ、また実際の治療現場にもなる(2013年11月24日撮影))
(写真 2:福島県立医科大学放射線災害医療センター治療室。ここで実習が行われ、また実際の治療現場にもなる(2013年11月24日撮影))

[*25] また、大きな変化として、大学の中、病院の中でも大きく意識が変わった、他人事と考えがちだった震災前と比較して、自分の問題として福島の現状を考え、仕事の内容なども変化した方もいらっしゃると言います。しかし、その一方で、震災以前と変わらず、われ関せずのように振る舞う方もいるとも伺いました。

 

[*26] もう一つの変化として、2013年度より放射線生命医療学の講義が設置された点があげられます。

 

[*27] この点に関連して、今の時代に近い歴史(『歴史と経験が、境界が曖昧なくらい』のタイムスケール)から学ぶ、先人の失敗から学ぶといったことがやはり重要ではないかというお考えを伺うことができました。

医療教育が今回の事態から得る教訓と今後に向けて

もう一点、今回の事態から得る教訓を伺いました。その中で、出てきた第一のメッセージは、次のものでした。

『全てのリスクを想定するのは現実的には無理だと思う。想定外は避けられない。だから事前に想定外が起きたらどうするか?それを考えておく。想定外が起きたときに自分がどう行動するかっていう基本的なスタンス……考えておくことが大事なのかな。それは具体的には何かっていつも考えているのですが、どんな需要が突然出現して、それをどこからどういう風に供給するかそしてそれをどのように分析すればいいのか、まだ方法はわからないけれどいつも考えています……』

このような普段からの備えを促すこと、そのために当時において「困った」ことを共有することを目指した成人向け/学生向けの教育の取り組みが、現在も試行錯誤の中で少しずつ進んでいる状況があります。そして、そこで念頭に置かれている当時の「困った」感じの一部は、『いろんな専門家がいながら、その専門家が連携できなかった』という経験からも出てきたものです。そのような背景を踏まえ、もう一つのキーワードとして『コーディネーション』が強調されます。

『コミュニケーションとエデュケーションだけでは、やっぱり僕らがやりたいことはできないんだと思います。それはいくつかの理由があると思うのですが、一つは、一人の能力っていうのも限られているので、どんなにコミュニケーションをして、一生懸命エデュケーションで自分の知識を向上させても、うまくいかないんだと思います。両者を、関係者の役割をバランス良く分担配置する、それが最後に書いたコーディネーションという部分です[*28]』

コミュニケーションでも共通して言える事柄ですが、全体として組織が機能するための形やバランスを調整するコーディネーションの対象には、小さなグループ内、病院内、地域内などいくつかの異なる次元があります。それらのコーディネーションに共通した課題が、どのようにして構成される人や職種間で「共通の絵」、Common Operational Picture(COP)を見ることができるのかであると言います。そのCOPにおいて、当院の放射線災害医療センターが(明確に)共有しているというミッションは、次のように表現されています。

『僕らのミッションは三つ。一つは、原子力災害の作業現場で働いている作業員の方の健康安全を守ることがミッションの一。福島県の住民の皆さん。住民の皆さんに情報を提供するとともに、悩んでいる住民の方に真摯に向き合って一緒に対策を考えること。これがミッションのニ。三番目は、原発作業員じゃないけども、公務で危機に介入している消防や警察、自衛隊の方に特別なケアが必要だと思うので・・・僕らのCommon Operational Picture(COP)は非常に明確。』

このCOPを多職種間で共有する仕掛けとして、既に三年以上、週に二回行ってきた多職種ミーティングが機能しているかもしれないと言います[*29]。このような努力が続けられてきたこと自体はもっと広く認識されても良いのではないでしょうか。しかし同時に、このような経験と意識を、どのようにより広く共有していくのかもまた、既に課題として立ち現われてきています。

この放射線災害医療に関わるCOPと経験をより広い範囲で共有していくために、長谷川先生をはじめとするメンバーにより、2014年3月時点で福島県における緊急被ばく医療マニュアルの作成作業が進められています[*30]。しかし、もちろん、マニュアルと同時に、その背景に込められた今回の事例・教訓・意識・反省を伝えることの重要性と難しさもまた先生は強調されます。中々どうしても共有しがたいこれらの事例・教訓・意識・反省をどのように伝えていくのか、ここには先の須藤先生のお話にもあった避難訓練やマニュアルに込められた背景・問題意識をどのように伝えていくのかとも共通した、教育と現場の苦悩が垣間見えます。

[*28] 長谷川 2013, pp57-60も参照のこと。

 

[*29] これは無論、「仕事」と言われるものに普遍的に共通する事柄、当たり前の事柄かもしれません。しかし、この営為が放射線災害医療の現場でも続けられてきたことは強調されても良いことではないでしょうか。

 

[*30] お話を伺いに行った日は、ちょうど県のマニュアル作成作業のまさに追い込みをしているタイミングでありました。ご多忙の中、お時間を割いていただいたことに改めてお礼申し上げます。

進みつつある状況、そして変わらない状況に目を向けること

ここまでに震災をめぐる「これまで」と「これから」について、お二人のキーパーソンから伺ったお話を軸に、その一端を見てきました。そこには、現地における被害の多様性もあり、少しずつ進む変化もありました。特に「教育」の現場に萌芽しつつある将来に向けたポジティブな可能性もまた見逃すことはできません。しかし、その状況を十全に認識しつつ、震災の「これから」を考えるためには、なおいまだに続く災害被害の「いま」の一端、そしてそこに厳として存在する「変わらなさ」にもまた改めて目を向けていく必要があるように思えてなりません。この後で多少なりとも確認していく事柄は、今まで見てきたものとは性格を少し異にするものかもしれません。それでも、やはり見ないということはできません。

前回書かせていただいた記事でも取り上げました福島県浪江町を例に、今の状況を少しですが確認してみたいと思います[*31]。2013年4月1日以降、福島第一原子力発電所事故の影響により設定されていた「警戒区域」・「計画的避難区域」が、「避難指示解除準備地域」・「居住制限地域」・「帰還困難区域」に再編にされました。それに伴い、浪江町内の一部地域については、日中の一時立ち入りが可能になりました。このことは、復旧・復興における必須のプロセスであり、何かしらの進展あるいは変化を意味することは間違いありません。しかし、同時に、そこには、やはり厳しい状況が厳としてあることもまた事実です(写真3)。

しかしながら、町内を回ると、少しずつですが変わりつつある光景にも気付くことができます。例えば、崩れてしまった家屋や商店の一部については被災財の撤去が進んでいます(写真4)。また、住民の方がいらっしゃった際の整理によって出たものが、新しい袋に入れられて道端に集められている状況もあります。これは、今、少しずつ起きている変化を示すものだと言えます。しかし、周囲の状況は、残された道のりは未だ遠く険しいものであることも同時に示しています。間違いなく一つ言えることは、災害は今も続いているということです。

(写真3:浪江町の商店街の様子(2014年3月2日撮影)。この光景が、2013年4月11日に撮影したもの[*32]とほぼ変わっていないということもまた事実です。)
(写真3:浪江町の商店街の様子(2014年3月2日撮影)。この光景が、2013年4月11日に撮影したもの[*32]とほぼ変わっていないということもまた事実です。)
(写真4:浪江町内の同じ場所(上‐2013年5月4日撮影/下‐2014年3月2日撮影))
(写真4:浪江町内の同じ場所(上‐2013年5月4日撮影/下‐2014年3月2日撮影))

(写真5:祖父の家の外観(2014年3月2日撮影))
(写真5:祖父の家の外観(2014年3月2日撮影))
(写真6:祖父の家の玄関、上‐2013年8月19日撮影/下‐2014年3月2日撮影)
(写真6:祖父の家の玄関、上‐2013年8月19日撮影/下‐2014年3月2日撮影)

また今回も浪江町内にある祖父の家の状況を確認しました。先日の大雪のためでしょうか、前回昨年の12月末に訪れた際と比較しても、少しずつですが崩壊が進みつつあることが実感できてしまいます。例えば屋根の抜け、家全体の傾きが進行しているように感じられるのです(写真5-6)[*33]。震災後3年が経過しましたが、少しずつ前に進む変化と同時に、このような形で訪れつつある変化もまた、実は珍しくありません。

また、海の近くに行けば、波で壊されてしまった建物や橋、基礎部分だけ残された家、打ち上げられた船、流されてきた岩やテトラポットが今でもそのままになっています。このような状況もまた、圧倒的な現実として続いています(写真7-9)。

(写真7:請戸湾付近の光景(2014年3月2日撮影))
(写真7:請戸湾付近の光景(2014年3月2日撮影))
(写真8:請戸湾付近河川敷、左‐2013年8月19日撮影/右‐2014年3月2日撮影)
(写真8:請戸湾付近河川敷、上‐2013年8月19日撮影/下‐2014年3月2日撮影)
(写真9:請戸湾、波で破壊された堤防(2014年3月2日撮影))
(写真9:請戸湾、波で破壊された堤防(2014年3月2日撮影))

[*31] https://synodos.jp/fukkou/4816/2 (最終アクセス 2014年3月10日)

[*32] https://synodos.jp/wp2/wp-content/uploads/2013/07/7d6fc96bccca94e5025310f044ae390a.jpg (最終アクセス 2014年3月10日)

[*33] そして、それは確信に近いものです。

最後に、まとめに代えて

ここまでを通じて、見えてきた事柄はいくつかあります。その一つは、『もう3年、まだ3年、たった3年』の言葉に端的に表れされるような、当時の状況と、今も現地にモザイク状に広がる被害と復興の差異を巡る思いと想像力への希求です。そして、同時に見てきたもう一つの事柄は、その現実の中で今後に向けて進んでいこうとする「教育」を巡る試みでした。今回の災害から得た経験・教訓・反省をどのようにして伝え、共有していくのか、風化させないために何ができるのか。これまでに現地の「教育」現場で試行錯誤されてきたこと、また垣間見られてきたことの中には、困難と同時に可能性もあります。この萌芽しつつある可能性を、将来に向けてどのように育んでいくのか、また「自分事」として考えていけるのかが私たちへの問いとして向けられています。

同時にその一方で、ここでは浪江町を例にみたように、続く被害の状況もまた厳として存在し続けています。(無論その中で少しずつ進みつつある状況もありますが)その「変わらなさ」もまた無視できない事柄であり、東日本大震災がなお確実に持つ現実でもあります。そして、それは地域の事情に応じて、色や形を変え、またある側面では正の方向へ、一方で別の側面では負の方向へ、場合によってはより見えにくい形で広がっています。先の『もう3年、まだ3年、たった3年』、この言葉は同時に、3年という今の時期だから可能な言葉なのかもしれません。これが5年たったときに、果たして「もう・まだ・たった」と言えるでしょうか。移り行く変化の中で、3年という今が一つの分岐点となり、この後、どのように社会の関心や選択が振れていってしまうのでしょうか。それは必ずしも良い方向に振れるとは限りません。この分岐点において、私たちは次第に薄れていく関心にどのように向き合い、また時として抗い、そして考えていくのか。私たちに今問われていることは、まさしくそういう事柄なのではないでしょうか。

繰り返しになってしまいますが、最後にもう一度だけ。今ある可能性と現実、両方に目を向けながら、改めて「これまで」と「これから」を考え続けること。そして、現地における生の情報と経験に基づいた想像力を持って震災の今に向き合い、出来ることを行うこと(それは、必ずしも直接的な被災地支援ではなく、自分たちの町へ視点を向け、考え、ときに実践することでも良いはずです)。このことが改めて私たちに問われているのではないでしょうか。ここで書かせていただいた内容が、その取り組みに何か貢献ができるものであれば幸いです。

(本記事はα-synodos vol.144「3.11を振り返る(後編)」からの転載記事です。ご購読はこちら → https://synodos.jp/a-synodos

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3.11を振り返る(後編)

標葉隆馬「東日本大震災―――改めて見つめたい「これまで」と「これから」」

秦康範「防災教育の最前線――「自ら考える」防災訓練の試み」

山崎栄一「東日本大震災と法」

荒井裕樹×佐藤慧×安田菜津紀「3.11後の「表現すること」の戸惑い」

岸政彦「もうひとつの沖縄戦後史(3)──子どもたちの受難」

プロフィール

標葉隆馬科学技術社会論

一九八二年生まれ、宮城県仙台市育ち。現在、総合研究大学院大学先導科学研究科・助教。専門分野・科学技術社会論。(共著)『災害弱者と情報弱者―3.11後何が見過ごされたのか』(筑摩選書)、(分担)『ポスト3.11の科学と政治』(ナカニシヤ出版)など。twitter: @r_shineha

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