2011.12.15

「一般意志2.0」を現在にインストールすることは可能か?

東浩紀(哲学者)×荻上チキ

情報 #ニコ生#つっこみ力#一般意志#ヘイトスピーチ#動員#一般意志2-0#動物#熟議の限界#ネット言論

「筆者はこれから夢を語ろうと思う」。『一般意志2.0』(講談社)の冒頭に置かれたその言葉の通り、あまりにも大きく、そして未完成の「夢」が収められたこの本は、まるで将来の読者にこそ一縷の期待を託し、いまは息をひそめてその到来を待望しているかのようにも映る。

しかしながら、著者の思惑を超えて、すでにこの本は発売当初から大きな反響を呼び、著者を含んだインタラクティブな環境での「夢」の成形が始まりつつある。同時に、著者が杞憂するように、そこで語られる構想のみならず、哲学者自身の「伝統的な思想人への回帰」を示す書物ではないかとの誤解を招きかねないほど、可能性と裏表をなす危険を秘めた本であるともいえる。シノドス編集長・荻上チキが、『一般意志2.0』の射程と可能性について、著者との対話から真意を探る。(構成/柳瀬徹)

物語回帰する空気のなかで

荻上 急な依頼でしたが、どうぞよろしくお願いします。

 よろしくお願いいたします。

荻上 最後にお会いしたのは1年前でしたね。それにしても、東日本大震災と原発事故の経験に――表現への反映の有無はともかくとして――多くの人が影響されたかと思うのですが、東さんにとっての3.11以降とはどんな日々でしたか?

 そうですね。ご存じのように、ぼくは放射線の低線量被曝については、専門家ではないから「わからない」という立場をとり続けています。そのうえでリスクを考えて行動する。この立場が理解されなかったのは辛かったですかね。

荻上 たとえば柄谷行人さんをはじめ、多くの書き手たちも運動化していきましたね。

 そうですね。

荻上 社会が、可能なる脱原発へと舵をとることは大賛成です。一方で、震災後、「物語」を叫ぶ声があちこちでひびきわたり、すぐに立場を決めなければいけないという空気が濃かった気がしますね。

そんな状況にあって東さんは、震災以前の雑誌連載を、あえて大きな加筆をせずに刊行するという決断をされたわけですが、とはいえ3.11を経て『一般意志2.0』の読まれ方のモードも変わっただろうと思います。そこで、読者からの反響を少しだけ先回りするかたちで、東さんの議論の誤解されそうなところ、誤配されそうなところの真意をお話ししていただければと思うんですが。

 チキさんぽいですね(笑)。ぼくにはあまり「誤解を先に潰す」なんて発想はないかな。だって何をやっても誤解するんだもの、人は。

荻上 まあ、そうなんですけど。

 もうあきらめていますよ(笑)。

人間の限界

荻上 では、誤解を恐れずにお話を伺います。『存在論的、郵便的』から『郵便的不安たち#』、『動物化するポストモダン』から『一般意志2.0』にいたるまで、東さんの議論の対象や、取り上げられているコンテンツ、語りの届け先などは、その都度で微妙に変わってきました。でも、議論の根底にあるものは一貫していますね。

たとえば東さんの処女作『存在論的、郵便的』からすでに、言語行為論的な思考をベースにしつつ、人間のコミュニケーションに必ず生じてしまう「誤配」というものをいかに縮減するのか、あるいは誤配を縮減できないのならば、誤配が生じるような空間であってもテキストの交換が容易になるような回路をどうやってつくるのか、そうした問題意識が刻み込まれていました。

なかには「オタク論から哲学に戻った」という判断をする人もいるかもしれないけれど、コアな部分は10年以上変わらずにあって、それが文化論やコミュニケーション論としては『動物化するポストモダン』などにつながったり、メディア論として『情報環境論』につながったりしていたものが、この度、問題意識を「政治」に結びつけたものとして『一般意志2.0』がひとつのかたちとして結実した、そうぼくは読みました。

人はコミュニケーションをする以上、「行為が伝える意味」だけでなく、「行為そのものが意味するもの」に左右されてしまう。いまこの社会でも、メッセージがパフォーマンスに絡め取られ、具体的な夢が政治として結実しにくい環境が広がっている。「いや、それでも冷静に、対話を続けていくべきだ」という倫理観を主張するリベラルな議論の重みというのは確かにある。でもそれは、人間性の限界というものを捉えきれていないのではないか、と東さんは異議申し立てをしてきたわけですよね。

 ぼくが何を考え続けてきたかということですけど、それはいまチキさんが言ったとおりに「合理的な人間」の限界ということだと思います。

90年代、ぼくが思想家として活動を始めたときに、時代はすでにポストモダンから、いわゆるカルチュラル・スタディーズやポストコロニアルなど、左翼的な、きわめて政治性の高いものに移っていた。そこでぼくが見たものは、ぼくの直接の指導教官が高橋哲哉氏だったということも大きいのですが、「倫理」の圧倒的なインフレだったんですよね。

たとえば高橋氏は「無限の他者に対して無限に謝るべきだ」ということをおっしゃっていたわけですが、では「無限に謝る」とはいったい何か。ぼくは当時すでにデリダを研究していましたが、デリダはたとえば「エクリチュール」を問題にするときに、同時に「ペンが尽きる」「紙が尽きる」などと唯物論的な条件も重視していた。もしかして高橋さんはこの部分を軽視していないか? と思ったんですよね。

たしかに論理で詰めていけば「無限に謝る」ということになるのかも知れないけど、結局はそれを支えている物質的条件があり、無限には謝れないわけですよね。

われわれは有限な存在であって、その限界を抱えながら社会をつくっていかなくてはならないし、倫理をつくっていかなくてはいけないという、まあ、当たり前の話です。

その当たり前の話が、なぜかポストモダン系、フランス現代思想系の議論のなかで見えなくなっていた。そのことをずっと考えていたんですよね。そのなかにあって、デリダは有限性についてすごく考えている人だと思って、デリダをやっていたわけです。

「動物」再考

 『存在論的、郵便的』という「思想書っぽい本」を一冊書いて、さて、と世の中を見渡した。限界がある人間、動物的な人間について考えることは、いまの社会について考える上で普遍的で重要なことなんじゃないか。でもなぜか、まっすぐに社会評論に向かわないで、ぼくはオタク評論に行ってしまった(笑)。

オタクという人たちは、いまでもそうだと思いますが、すごく「動物的」な人たちなんだと思います。動物的な快不快の感覚に忠実というかな。だからこそ、彼らのなかに人間の本性が現れていると思った。

〈人間の動物としての限界〉というのはぼくのなかでずっと生き続けている問題系で、そういう人間をまとめてどうやって民主主義をつくるかという課題への、ぼくなりのいまの時点での回答が『一般意志2.0』なんです。

荻上 従来の思想的な議論は、「人間」というものに過剰な責任とか、過剰な倫理観というものを期待しすぎていた面がある、ということですよね。

 そうです。

荻上 その期待というのは、「インテリの後ろめたさ」がひとつの源泉になっていたと思います。「私たちはまだまだ倫理的な行いが足りないはずだ」「もっと、未解決の課題と向きあわなくてはならない」そうした反省の意識のもと、無限の社会問題と正面から向き合っていくのが、成熟した「市民」であり「人間」だという倫理観が根底にあるように思う。

でも、そのような思考の限界性を踏まえた、「本当に人間らしい」思想、人間の限界に向き合った政治がいかに可能なのかという問いを東さんは続けてきて、いま「政治」にたどり着いた、ということですよね。

実際、東さんはツイッターでも、いろいろなレスポンスに苛立たれているじゃないですか。膨大なリプライとのディスコミュニケーションに、書き手として向き合うのは無理だ、という体感をお持ちなのかなと思って見ているのですが。書き手に無限の応答を求めるのは不可能だよ、というような。

 「熟議の限界」ということですよね。それはネットを見ていれば誰でもわかることだし、3.11以降の混乱でも示されていたと思いますね。

さきほどもあげた例ですが、低線量被曝の健康被害がどれほどのものであるか、人々はいま膨大に「熟議」を重ねているわけですが、ほとんど何ひとつ結論は出ていない。

熟議すればいいってもんじゃない、ということは、いろいろなところで明らかになっていると思います。人間の調べられる量は限られているわけだし、とくにインターネットは「同じ情報」を大量に集めることに適したメディアなので、あっという間にその人の時間を同じものだけで飽和させてしまう。

荻上 エコーチェンバーに閉じこもる、ということですね。

 そう。同質のもので埋め尽くすのにすごく向いているメディアなんです。表面的にはインターネットによって人々の情報処理能力が高まったように見えますが、かえってその手前の認知能力の限界があぶり出された。それがここ10年だったと思います。

「熟議」を可能とする環境

荻上 実際は、低線量被曝に関しては、暗黙には合意は形成されつつあると思うんです。科学的には未決着であっても、しかしとりあえず、政治的にはしきい値は「ない」と判断して対処するのが望ましい。それくらいの合意は、多くの人が持てていると思う。社会の多くの問題も、ゆるやかな合意はその都度、形成されている。

しかしネットには「外れ値」がいつまでも消えずに残り続けるという問題があって、議論のかたちをつくれば政治的合意が得られるような問題であっても、「外れ値」にいる人たちが集合をつくり、合意側の人たちを「敵」とみなして攻撃し続けることも可能になる。さまざまな陰謀論というのは、その典型的な例ですね。

ネットでは「熟議」ができないのかどうかはわからないし、部分的にはたぶん、できる。でもそれは、ひとつの会議室に入る人数が限られている場合には「できる」のだけど、会議室の周りを数万もの人が取り巻いて、延々とヤジを飛ばし続けているようないまのネット状況では、なかなか難しいだろうと思う。

その意味では、東さんがこの本であげている「政治空間をニコ生化する」という案は、まさしく会議室にヤジを飛ばしているような環境にも映るので、それはむしろ「熟議」を妨害し、合意形成にとっては邪魔なメカニズムなのではないか? と違和感を覚える人も多いと思うんです。コメント「民度」の問題も含めて、議論の正当性が阻害されかねないという懸念があるのではないか。

 「民度」ね(笑)。

荻上 直感ではやはりそう思うんですよね。『一般意志2.0』の骨子としてある、ニコ生的なもので議論をモニターするというアイデアは「熟議でもなく直接民主主義でもない」とおっしゃる、そのポイントをもう一度語りなおしていただければと思うのですが。

 まず第一に、ぼくは人間社会について、あるいは人間という存在について、人間である部分と動物である部分、別の言葉で言えば「固有名で発言する部分」と「匿名でしか発言しない部分」を分けるべきだと考えています。そして、分けつつも、そのふたつは共存しているべきだと考えている。したがって、ぼくは、匿名万歳や集合知万歳ではないけれど、逆に、「人間はつねに名を明かし、しっかりと行動すべき」というのもありえないと思っている。まずこの原則がぼくのなかにある。

政治的な討議は一般に、自分の身元を明らかにし、知識を持ち、熟慮の上で議論に参加するべきものだと思われていますね。しかし、ぼくがこの本で述べているのは、そうではない参加のしかたもあっていいのではないか、という提案です。ただし、それは同時にすごく制限されたものにもなる。その制限された参加のしかたが、たとえばヤジとか拍手のようなものでもいいのではないか、ということです。したがってコメントには民度は必要ないんですよ。

古代のアゴラで、政治家たちが演説をしていたとする。そのときその周りにはもちろん政治家でもなんでもない人たち、市民が取り巻いているわけですね。その市民たちがヤジを飛ばしたり拍手をしたりしていた。彼らの意見のひとつひとつは演説している政治家にはわからない。でも「この主張が受けている」とか「これは方向が違う」とか、一種のフィードバックは起きているわけですよね。そのフィードバックを回復すべきであるというのが『一般意志2.0』の骨子です。

「大衆の無意識に従え」というわけではなく、かといって大衆の意志を排除して熟議だけで物事を決めろというのでもない。熟議と大衆の無意識のあいだのフィードバックをどうやってつくるか、それが重要だと考えています。

この本には書いていないけど、古来、多くの「みんなで決める」というのは、おそらくそういうフィードバックのプロセスだったと思うんですね。たとえば100人で何かを決めるとして、そのなかの専門家10人に決定を委ね、彼らが密室で決めたことに90人が従う、というのはやはりかなり人工的な制度です。いまはそうなってしまっていますがね。自然なかたちは、おそらく、10人が決めるその周りを90人が取り巻いて、その「空気」を見ながら10人も議論していたというものだと思いますよ。

荻上 その10人が、それぞれの利害代表者で構成される、という感じでしょうか。

 いや、「代表者」というのもちょっと違いますね。社会が明確に分節化されている状態でないと「代表」というのは成立しない。ぼくたちの社会は複雑になりすぎて分節化は不可能になっていて、このセクターはこの人が代表する、というようにはできなくなっていると思います。

荻上 そうですね、ますます。

 自分自身の生活のなかでも、この部分の利害はあいつが代表、こっちの部分はこいつに代表してもらおう、となっている。

とにかく、ぼくの理想はある種の「擬似」直接民主制にあるわけです。あくまでも擬似でしかないのですが、それをもう一度高度な情報技術のもとで追求してみる。大衆のヤジとかリアクションを熟議のなかに取りこむシステムをつくることによって、民主主義が本来もっていたダイナミズム、バイタリティを回復するというのが『一般意志2.0』のプランです。

「デモ権」と「スルー権」のある熟議

荻上 いまは、多くの人びとが、「集団」としてではなく「集合」として生きていると思うのです。「市民の政治」というモデルで想定するのは、何かしらの「集団」に所属している、参加意識のある者たちが、その「集団」をいかに代表したうえで、「集団」同士に折り合いをつけるのか、というものだったと思います。

でもいま、さまざまな「集合」のひとりとして参加させられ、なかば強いられた参加のなかで、いつの間にかその集合の行動原理に一票投じている、という場面が多くなっていますね。かつてのように「圧力団体」をつくって政治家に異議申し立てをする、というような「集団」をつくるのは不可能なほど、政治のレベルが細微に分化している。「集団」とか「圧力団体」という発想が機能しにくいタイプの政治が、これからどんどん出てくるでしょう。

これまでは、政治家がなんらかの代表であることを担保する装置として、新聞とテレビがありました。「国民の代表」として読者・視聴者から意見を吸い上げて、アリーナで議論をするという構図だったわけです。しかし、それでは限界もあり、これまでのテレビ的討論という議論のあり方とは別の方法をメディアが立ち上げないと、掬われずにこぼれてしまう声が放置されるでしょう。

これまでの議論では汲み上げられなかった論点として、東さんが真っ先に思い浮かべるものは何でしょうか?

 あまり良い例ではないけど、いちばんわかりやすいのは尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件のときの、右翼によるデモですよね。

テレビや新聞は、右翼デモを明らかに、システマティックにネグレクトしていた。ああいうやり方での政治的アリーナからの排除は、これからは無理になるでしょう。

ぼくが考えているシステムは、別の言葉で言い換えれば、委員会が熟議をしている建物の外でつねにデモが起こっている状態なんですよ。つまりバーチャルデモですね。

ニコ生のコメントはデモみたいなものなので、「反対」「反対」「賛成」「賛成」というのがずっと流れているわけですよね。デモを見ながら行われる熟議、これしかないんじゃないかと思うんですよね。

荻上 なるほど。

 大事なことは、デモは無視してもいい。これはとても重要なことだと思う。つまりその権利が与えられているわけですよね。しかし、デモは存在する。

ここはいままでの「ネット民主主義」の議論がつねに間違えてきたところで、デモがあれば耳を傾けなければいけない、と思っている。コメントが流れてきたら読まなければいけないと思っている。でもそんなことはない。コメントは出させとけばいい、彼らは匿名で喋っているのだから。その距離感ですね。

荻上 ぼくらの世代、東さんの世代でもそうだと思いますが「なんでデモしないの?」というようなことをよく言われるじゃないですか。政治へのフラストレーションが溜まりに溜まった状態で、その無意識に穴を穿つことによって爆発させたらいいじゃない、と。ただ、どこかの街でデモをしても、沿道の人にしかアピールできないし、テレビで数秒のニュースが流れても、その影響力というのはよくわからない。

ただ、ネットによって、デモはひとつの完成形を迎えるとぼくは思っています。いままでは行進していても、その町にいない人にはテレビを経由しなければ見えなかった。それも取り上げられるかはわからない。それがリツイート一発で「見える」ようになったことで、デモの政治性は大きく変わったし、動員力も変わっただろうと思います。関心がある潜在的なクラスターにしっかりリーチし、無関心層にまで刹那的な動員を巻き起こすようなネットの役割は、デモの潜在能力を最大化してくれるだろうと。

そうなったときに、「一般意志2.0」への運動論側からの批判として、不満を爆発させる前に小さなガス抜きをすることによって、かえって政治参加の芽を摘むのではないか、「意見を吸い上げている」という既成事実をつくることによって、デモの意義を空中分解させるんじゃないか、というものもあるんじゃないでしょうか。

 そりゃあるでしょうね。しかしぼくはデモをもともとそのレベルのものとしてしか理解していないので、見解の相違というやつですね。そういうリベラルな方々は、デモ参加者一人ひとりを「人間」だと考えているのでしょう。しかしぼくはデモはあくまでも「群れ」でしかないと思っている。

実際、いまでもデモは、統治権力の側も報道する側も「群れ」としか認知していないんじゃないですかね。あれは、「群れがあった」という事実をつくるために群れているわけで、そこから吸いあげるべき固有の意見があるわけではない。だからニコ生のコメントでいいんですよ。

荻上 彼らは「個人」ではなく「党派」であり、いまは「集合」であると。

 というか、群れとしての「圧力」を吸い上げるのも、それはそれで政治のひとつのかたちだと思うんですけどね。そもそも、パブリックコメントを書くとか、公聴会に行って質問するといった行為に比べて、デモに参加してダラダラ街を練り歩くというのは楽な行為ですよ。ただ歩いているだけなんだから。

ニコ生のコメントもそうですよね。楽な行為なんです。だからみな参加する。それでいいけれど、それならそれで当然軽視もされるわけでね。コストと責任の分担の問題だと思うんですよね。匿名で「www」とか打っている状態で、同時にその意見をひとつひとつ重みをもって聞いてほしいと言われても、それはないでしょう、と。

繰り返し言うけど、ぼくは単純に人間の政治的意見表明の回路をふたつに分けて考えるべきだと主張しているんです。自分の固有の意見として聞かれたいのなら、しかるべき手続きを踏む。それは当然だし、50年後、100年後の世界においても、おそらくいまとそれほど変わらないシステムが残っているんだと思いますよ。

ただそれとは別に、動物的な政治参加があってもいいわけです。そのために一般意志を可視化するシステムが必要だと。ネットでは「デモ」はつねに開かれていて、それはある種の「圧力」として機能する。しかもいまのデモよりもはるかに包括的に。いまはそれこそ永田町でデモをしなければデモとして認知されないわけですが、ぼくのプランにおいてはすべての審議会が、すべての省庁の内部会議に至るまでが中継され、そのまわりをバーチャルデモが取り囲むことになる。

荻上 いま、オープンガバメントの実現を叫ぶ声は大きい。たとえば省庁の会議には、議事録さえ公開されてないものも多いので、その公開を求めるというのは、みんなが支持すると思います。でも時間軸で考えれば、議事録というのは出てくるのが遅くなる。タイムラグがある。

 そうです。

荻上 その速度を動画によって、まずはリアルタイムにしよう、と。

 そう、リアルタイムです。

荻上 これもやはり、多くの人が賛成するでしょう。で、アウトプットしたなら、今度はフィードバックが必要です。長期軸のフィードバックは、たとえばまとめサイトのようなかたちで出てくるだろうけど、即時のフィードバックが会議に反映する仕組みも豊かにしていいじゃないか。アウトプット、フィードバック、双方の時間の単位を長短でより重層化することによって、一般意志の反映精度を高めていく、という面もあるわけですね。

 おっしゃるとおりです。

リテラシーは高まらない?

荻上 ただそこで恐らく、どの議論にフィードバック装置を導入するのか、選択の問題が起こってきますよね。

 そこは難しいよね。

荻上 たとえば尖閣問題が例としてあげられましたが、外交に関する議論は秘匿情報もあって、難しい。

 そうそう、当然そうなるよね。

荻上 それこそコメントをする人たちの「民度」にもよります。2ちゃんまとめサイトなんかの現状を見てもそうだけど、いまのネットは、「たまたま焦点を当てられた人」に私刑を行うとか、特定の発言を抜粋して「マスゴミ」も真っ青のミスリーディングを行うとか、「集合」をまとめた「暴力装置」として活用されてもいる。

となれば、ガバメントのあり方の構想も重要だけど、ガバナンスをどうやって「2.0」に近づけるのか。政府の透明性をいかに確保するのかなどとはまた別の問題として、コメント力をいかに高めていくのか、という課題がどうしても残ると思うんです。いまのままだと、ヘイトスピーチが溢れかえって散々になるのではないか。

 いや、それは違いますね。ぼくは単純に人のコメント力は高まらないと考えている。そもそもデモって欲求不満解消のためのようなものでね。そんなところで「リテラシーを高める」とか言っても、高まるわけがない(笑)。

コメントに関してもそう思っていて、それはシステムで対処するしかない。たとえばヘイトスピーチが一定の頻度で出てくるようになったら自動的にアカウントをブロックするとか、そうやってノイジーで粘着的な人たちを自動的に検出し、ある程度までに抑えるようなコントロールは検討してもいいかもしれない。

荻上 なるほど。

 ただ、それよりも大事なのは、ヘイトスピーチがあっても「見なければいい」ということです。結局のところ決めるのは熟議の参加者たちだから、その人たちが「うーん、この議題ってヘイトスピーチばっかりだよねー」「ま、無視していきますか」と一貫して無視していけば、それはそれでいいわけです。「あいつら無視しやがって」というコメントはずっと流れているでしょうけど、それもまた無視できる。権限としてはそれでいい。

荻上 「外れ値」を残すかどうかは参加者、プレイヤーたちの判断で決めるということですね。『一般意志2.0』ではアーレントなどにも言及されていて、そこで提示される熟議モデルの限界性も指摘されています。ただ一方でアーレントなどは、強大な差別、ときとしてジェノサイドなどを生み出してしまう人間へのブレーキとして、反実仮想としての熟議を提示していた面もありますよね。

 それはもちろんそうですよね。

荻上 差別のブレーキとして、ノイズの歯止めをつくりたいという欲求は必ず出てくるだろうと思うのですが、それはいかがですか。

 いや、だからおそらくは段階論だと思いますよ。やはり人類はそれなりに進歩しているわけで、100年、150年前に比べれば人権意識や平等意識は人類全体にずいぶん浸透したと考えていい、とぼくは思う。

荻上 ぼくも基本的にはそう思います。

 人間が他人を完全にモノとしてみなし、奴隷を酷使して殺してしまったり、子供を鉱山に送り込むといったことは、「減っている」という前提の上で……

荻上 もちろん「それでもまだある」ということもまた前提の上で……

 そう、そのうえで、「それはなくなるべきだ」という理念くらいは全世界に行き渡っているという前提のもとで、はじめて成立する議論だと思いますよ。だから、どの国でも通用する提案だとは思わない。人間が他の人間を動物のように扱っていた時代が終わって、人間はすべて人間なんだ、お互い尊重するべきだという理念が非常に大事だ、というのは当然の話です。

しかし、人間がお互いに人間として最大限に尊重することは社会にとって、あるいは個人にとってもあまりにも大きな負担でもあり、それにより身動きできなくなっているような段階もある。というか、最初の「無限の他者」の話に戻るけれど、ぼくは現代はそういう時代だと思うんですよ。ぼくの『一般意志2.0』は、その前提のうえで今度はそれをどうやって逆側に解除するかという話でもあるので、そこは単純に段階を踏んで受け取ってもらいたいですね。

「小さな公共」のアポリア

荻上 この世にはまだたくさんの不幸があり、それを最小化するための議論と、社会の枠=パイをどうやって広げるのかという議論は、両軸で議論をする必要がありますね。「夢」を語るのと同時に、無意識にある「悪夢」の根源を取り除いていく作業が必要になる。

繰り返しになりますが、政治を透明化するためにすべての審議会を中継しよう、という意見には多くの方が賛同されると思うんですね。そして、議論を見ている市民が「それ、おかしくね?」という違和感を届ける仕組みが必要にもなる。その両方を用意しうるひとつが、ニコ生のようなものなんじゃない? というように整理すれば、すっと理解できますね。もちろん、コメント装置はニコ生のような匿名性の強いものだけではなくて、たとえばツイッターのようなもう少し顕名性の強いものも含まれるでしょう。

 むろんそれはあっていい。

荻上 ぼくはTBSラジオで、「ニュース探究ラジオDIG」というツイッター連動のラジオ番組のパーソナリティをやっていますが、そこでもやはり、かつてのハガキ職人のような名物ツイート投稿者が生まれるんですよね。「この人、いいなぁ」っていう。

 そう、それがすごく大事です。

荻上 一方で、匿名のヘイトスピーチもある。その両端をどう扱い、育てればいいのか。それがいわば「ガバナンス2.0」の問題であって、東さんは「動物として扱う」とおっしゃられたのですが、とはいえそのなかでも、取捨選択というか、ふるい分けが自生的になされるようになるのではないか、という期待もあるのですが、その点はどうでしょうか?

 動物の群れとしてあるコメントのなかで、光っているコメントが現れて、そのコメント主たちがいつのまにか熟議の参加者になっていたというフィードバックのプロセスは好ましいですよね。

つまらない例ですが、昨日、自転車についてちょっとツイートしたら「お前は自転車について詳しいのか」と絡まれてしまったんです。しかしながら自転車の安全性について、きっちり調べ上げた上でないと何も言ってはいけないのか? ぼくも昔は自転車乗っていたのに? とか思うわけです。現代ではこういうこと多いですよね。

たとえば「小さな公共」を推し進めたときに、この種の問題があちこちで出てくると思うんですよ。当事者と専門家、ステークホルダーだけが集まって議論すると、その緊密な空間から一見すると最適解に映るものが出てくる。けれど、その方向性そのものが世の中の空気とはまったくズレている、というようなことが。

むかしはその全体を調整する役割として「大文字の政治」というのがあったはずなんだけど、それはもうぶっ壊れていて、これからいわば「小委員会林立制」みたいになってくると、絶対にそのようなことが起こる。

自転車行政の話にしても、先進的な評論家やサイクリストから話を聞いていれば、いかにも先進的な結論になるのかもしれない。そしてこれからはそのような「小さな公共」しかないわけですが、だからこそ、その「小さな公共」に大衆の空気、素朴な疑問をどうやって挿み込んでいくのかというのが重要になる。ぼくの「一般意志2.0」はそこに呼応しているんですね。

荻上 自転車問題を複雑化させるのは、ぼくらは自転車にも乗れば歩行者でもあり、車も運転する、つまりすべてのプレイヤーになりえて、そのときどきのライフスタイルがたまたまそのいずれかに寄っているか、それで利害が変わってしまうという構図ですよね。そんな恣意的な政治性について無自覚に議論に参加してしまうことが、議論をまとまりのつかないものにさせている。

たとえばこれが車椅子の障害者や、電動シニアカーで移動せざるを得ない高齢者をどうするかということであれば、ブレは少ないと思うんですよ。「そういう人たちのケアをしなければいけない」と合意は得られる。

でも「ルール無視で自転車を乗り回していたおばちゃんを轢いたら俺が悪いのか」といったイレギュラーなヤジの飛びやすいテーマはまとまりにくい。でも、その「ヤジ」こそが、しばらく「夢」をみることを忘れていたこの社会に欠けていた面である、とも言えるかもしれない。

そこでツッコミとして思うのは、東さん自身はどちらかというとそういったヤジに苛立ちつづけてきた側の人なので、そういう装置をむしろ導入しようと呼びかけるのは意外というか……。

 いや、だから粛々とブロックしつづけながら、粛々と記憶し参考にしつづけているわけですよ(笑)。実際問題、それでいいと思うんですよね。真面目に答えていたら気がおかしくなりますよ。ブロックするしかないと思う。

でもまあ、「こういう反応が来るんだ」ということだけ覚えておけばいいわけじゃないですか。それをやるとやらないでは大違いということですよね。

「他者」観の限界

 繰り返しになるけど、その「ほうっておけばいい」という感覚が、いまの日本人のコミュニケーション観にはいささか足りないかなとは思います。喋りはじめたら同意しなければいけない、という強迫観念。そうではなくて、喋ってみて喧嘩別れして、「お前なんかと二度と会うか。知らん」でいいんですよ。それでもそういう人がいた、ということはわかるわけだから。

それはもしかしたら、戦後、日本人の多くがイメージした総中流社会がきて、みんな対等に同じような生活環境を享受しているのだからわかりあえるはずだ、という間違った幻想がばらまかれてしまった結果なのかもしれないと思ったりもします。

戦前みたいに、階級や地方が違ってしまったらまったく別の人生で、存在はしているけどコミュニケーションをしようと思うきっかけすらない、そういうときのほうが人びとは健全な距離感をたがいにもてたのかもしれませんね。でも本当はいまの世の中でもたいして変わらなくて、たいていの人とはコミュニケーションしなくても一生やり過ごせる。でもそれは、相手が存在しないということではない。そういう距離感を取り戻すべきですね。

荻上 どうなんでしょう、東さんも恐らくそうじゃないかと思うんですが、ぼくはニコ生に出ることにはそれほどストレスがない。粘着コメントもそれほど気にならない。でも、ニコ生に出演するゲストのなかには、すごくヘコんで帰っていく人もいる。

 あのコメントを「人間」の意見として受け取っているんでしょうね(笑)。

荻上 コメントを「人間」の意見だと思っている人は、自らも「人間」たらんというプレッシャーを抱えるかたちで、人間観が強固に築かれているといえる。でもだとすれば、ニコ生的民主主義は、そういった人間観を共有している人については、過剰なプレッシャーを負わせるような装置にもなるのではないでしょうか。

 それはやはり、その人間観を解除していただくしかないでしょうね。これからの社会においては、それはそもそも現実にそぐわないので。そもそもリベラルの人たちって「社交的」で「無限の他者に開かれている」とか言っているだけで、彼らほど「他者」に弱い人はいないですよ。

荻上 文字通り体現出来るような人は少ないですね。

 実際には、「無限の他者に開かれている」と言っている人にしか開いてくれないんだもの。それ、全人口の何分の一なんだと(笑)。

荻上 それでも人間観についての論争もまた、これからもヒートアップしていきそうな気はしますね。そここそがコアな気がします。

 でも「人間観」って何でしょうね。たとえばぼくは海外旅行が好きなんですが、「現地の人と触れ合うべきだ」というイデオロギーがありますよね。『思想地図β』vol.1にもちょっと書いたことですが、いま、「現地の人」ってどこにいるんだろう?

たとえばシンガポールの「現地の人」はぼくらと同じような生活をしているわけです。だからショッピングモールに行くほうが「現地の人」と触れ合っている可能性がある。こういう逆転はつねにあるわけで、リベラルの人たちが考えている「他者」っていったいどこにいるんだ? と思うんですよ。

東北地方の復興についても、よく語られる「守るべき共同体」とは誰のことなんだろう? 震災以前と同じ集落を復活させることが、本当に共同体を守ることになるのか、といったことをぼくはどうしても考えてしまう。

荻上 東京にいるぼくらが口出しできる部分は非常に小さいですしね。たとえば、海外に行って、Uターン愛国者になって帰ってくる人っているじゃないですか。よく聞くのが、海外に留学したら周りから日本についての政治的な質問を投げかけられて、「外国の人はこんなに国家のことを考えている」と思うとかっていう。

ただ、これって典型的なディスコミュニケーションだと思うんですよ。そもそも外国の人も日本についてあまり知らない、漠然としたイメージしかないから、会話のネタとして「国」とか「文化」とかって話題を振ってくる。日本人だって外国人に、似たようなことをしているわけですよ。しかも、旅行や留学で「出会える」範囲の相手に触れて、そこでの空気を「海外ではこうなんだ」と思い、「他者と出会って変わった」と思い込んだりする。

それとはコインの裏表のようで、「他者に触れなければいけない」と思っている人たちが、じつは鏡に写った自分自身のような相手としかコミュニケーションできないという構図は、避けようがないのではないかという話ですよね。

それでも、限界を超えて「他者」を掘り下げていく人は、メディアの側や政治家でもぽつぽつと出てくると思うんですよ。たとえばルポライターやノンフィクション作家の人たちは、より「遠く」へ、より社会の「下」へとある種の競争をしている。そこにはマッチョな面もあるのだけれど、それでもそういう人たちはいる。

 根拠なく言いますが、そのプロセスって今世紀の真ん中くらいに終わるんじゃないですかね。そもそもいまは、地球という惑星全体がすごい勢いでスーパーフラット化している。その勢いは、20世紀の最後の2~30年からどんどん加速している。

たとえば、旅行で自由に移動できる範囲がかつてはヨーロッパ、アメリカ、そして日本だけだったのが、アジア、中国、インドといったところにまで広がり、いまや何十億という大衆が、ちょっと貯金すれば国外旅行に出られる時代に突入しはじめている。生まれた場所による格差はありつつもね。

荻上 昔から学生やバックパッカーが全財産を投げ打って旅行して、そのまま現地に住み着いた、なんて話はありますよね。

 バックパッカーはまだ「探検」だったんだけど、いま起きているツーリズムの全面化はもはや探検でもなんでもなくて、本当に世界が「同じ」になりつつあるということだと思う。

世界中どこにいっても、同じようなブランド、商品があり、同じような街が広がっている。もちろんそれぞれの場所にそれぞれの名所、それぞれの観光地はくっついているわけだけど、人間社会はいままでなかったくらいに等質になりはじめている。

これからの社会思想はその等質な世界を前提にしなければならない。つまりぼくたちは、いまや地理的、空間的には他者をイメージできない世界に入りつつあって、さっき言ったみたいにこれからの他者は「すぐ隣りにいる他者」になってくるんですよね。

荻上 50年後は100億人口時代だと言われてますけど、100億総フラット時代になっている、と? ぼくは率直に、もっともっと時間がかかると思うんですが。そもそもトイレがない、下水もない、世界の半分くらいはいま、そんな状況ですから。

 それでも、いままでの常識に照らせばかぎりなくフラットでしょうねえ。そのなかでももちろん貧富の格差はあるでしょうけど。

荻上 そうなると逆に、日本の状況と同じように、「みんなが中流化した」という言説が多くなって格差がケアされない、という状況にはなっていくんだろうなという気はしますよね。

で、より社会が分断されて、自分の国の内部の貧困や差別が露わになり、「かわいそうな人たち」を求めて海外へ行くという競争が成り立たなくなったときに、それらの問題を包括する概念がおそらく必要になってくる。「プロレタリアート」「プレカリアート」では包括しきれない、国や社会を超えて特定の階層の人たちを語り直す言説は、きっと出てくるという気がします。

『一般意志2.0』に読者はいない?

荻上 そうは言っても、日本国内のドメスティックな問題については、東さんの構想のフレームで対応していくことで、メリットが得られる局面は多々あるだろうと思うんですね。

それを、グローバルに視点を移動させていくとどうなるのでしょうか。『一般意志2.0』は海外で読まれることも意識して、固有名詞の取り扱いなども配慮されているような印象を受けたのですが、どう受け止められるのかは楽しみですね。

 まあ、ぼくは基本的に左翼の人に読まれたいとは思っていないので(笑)、同じ理由で英語圏のアカデミズムは無理だと思いますよ。あちらでも、日本と同じでアカデミズムは基本的に左派です。左派が好きな議論はパターンが決まっていて、ぼくの議論はそこには乗っていない。だからぼくの本がどういう読者に読まれるかはわからないし、日本でもよくわからないですよ。

この本ではいちおう「思想っぽい」ことを書いているけど、でもぼくは、もう自分の本はいわゆる「人文思想」の人は読まない、という前提で書いています。読まないことはわかっているんだから、最初からその前提で書く。

荻上 この20年で「人文思想」のマーケットはずいぶん変わりました。東さんご自身が変化した、ということだけではなくて、90年代以降のいわゆる人文マーケットでは、大文字の固有名などは出てこなくなってきていますし、基本的に懐古趣味になっていますよね。

議論のフレームをつくるといった幻想は、もはやなくなっている。挑戦的なものといっても、既存のビジョンを、情報工学などに当てはめたらどう語り直せるか、という議論しかできなくなっているように思いますね。

 でもぼくはそっちにもあまり期待していないんですよね。この本については全然読者に期待していないですよ、じつは。インタビューでこんなことを言うのも良くないけど(笑)、売れると思っていない。

荻上 えっ。

 話題になるとすら思っていない。だってこの本は、ぼくがはじめて将来の読者に向けて書いた本なんですよ。だからツイッターでもこの本の宣伝とかやる気がないわけ。どうせわかってもらえない、と思っている。それは傲慢さとかそういうことではなくて、率直に言えば、いままでもずっと、ぼくの本当にやりたいことを受け入れてくれた読者なんていないわけですよ。だから毎回「違うフリ」をしながら本をつくっている。アニメとか現代思想とか。でも『一般意志2.0』では、違うフリをしないでぼくのやりたいことをやっているから、あまりいまの読者には期待していない。

この本は抽象的だし、実現可能性はないし、思想といったって厳密なルソーの読みをしているわけでもない。批判はいくらでも言えるじゃない(笑)。だからぼくとしてはセールスとか反響には期待していなくて、「賭け」として将来、読まれ方が変わって高く評価されるようなことがあればいいなあと。そんな夢ばかり見ている人生なんですよ(笑)。

荻上 そうかなあ。なんと言えばいいのかわからないですけど……最近、同世代、若手の書き手がいろいろと出てきていて、本もいろいろ刊行されていますよね。「ああ、いいなあ」と思うような本もぽつぽつとあり、そうでない本もぽつぽつとある。で、数の比率では、幻滅しているウェイトの方が高かったりする。

 そりゃそうでしょうね。

荻上 「若手」ってどの口が言っているんだという話もあるわけですが、まあ30歳になったので許していただくとして、いまある状況への「ダメ出し」でとどまる人が多い。「これで行こう!」というフレームを提出するような、提案型の議論を、人文系では最近とんと見かけなかった。

 そう思いますよ。

荻上 「ぼくはこうやって生きていますけど?」という、ある種の拗ねた言説が増えている。あるいは「やつらはダメだが、やつらよりマシなおれはやってやる、なにかを」というようなもの。そのなかで、『一般意志2.0』はサンドバッグになる意思、中心となって議論をつくろうとする意思が見える一冊で、久々にこういうタイプの著作に触れた気がしました。

 まあねえ。ぼくもそう思うんだけど、でも現実には、そうやって「拗ねている人」の方が評判いいわけですよ。そういうつまらない「若手論壇」に、ぼくとしてはもうあまり関わりたくないんだけど。

荻上 そんな「拗ね系」の本が売れるよりは、夢の語り合い、建設的な提案合戦のほうが話題になってほしいと一読者としても思うんですけど。

 いやあ、無理でしょう。

荻上 無理ですか。

 無理無理。それはもう、そうなっちゃたんですよ。

荻上 はあ……。

 いまぼくにあるのは、「変えよう」という夢じゃなくて、「将来評価されたらいいなー」という夢ですね。

荻上 (苦笑)

 もはや夢のレベルが一段階上がってしまって、本当の夢に近づいてきている(笑)。「どうせあいつらバカだから」とかそういう話ではなくて、本当に無理だと思うんですよ。

いまの読者と、いまの書店の「人文」の棚、あと、この点に関してはぼく自身も罪が深いわけだけど、すっかりサブカルチャー批評で覆われてしまった「思想」だか「社会学」だかよくわからない棚、あそこに『一般意志2.0』が入る余地はないでしょう。

荻上 うーん……。

 それはもうどうしようもない。ゼロ年代批評系の人はこの本はスルーじゃないかな。そうかと言って、ぼくは他方、エスタブリッシュメントな人文系とか純文学の人たちとはケンカしているから、彼らもサポートしてくれないし。書評が出るのかどうかさえ怪しいですよ(笑)。

荻上 しかしまぁ、ぼくたちも、こうしてインタビューに来ているわけで。

 それは確かにびっくりしました。ツイートしちゃったもん、「驚愕の依頼がきた」って(笑)。

ナローバンド言説を拡張することはできるのか

荻上 これまでの日本は「政局談義」か、抽象的な思想談義、「べき論」が支配していた。だからシノドスでは、そのあいだを埋める政策論議ができるメディアをつくりたいんですね。一方で東さんは『一般意志2.0』で、そうではないやり方も必要だと指摘している。要は、政治の議論の参加の仕組みそのものを見直すことも必要だろうと。

最近の思想のムーブメントが、社会へのコミットメントをせず、「俺には世界はこう見えている」という見え方のプレゼンテーションに引きこもっている状況もある。要は人生観をダベってるわけです。それを、「動物」を論じる東さんが懐疑を唱えたように、政治論そのものを拡張するような動きは有意義だと思うんですが。

 そう思っていますよ。強くそう思っています。

荻上 だからこそ、哲学やオタク論に関心を持たない、たとえば幾人かの政治家の人たちも「面白い」と、この本を手に取りつつあるのではないでしょうか。

 いやあ、嬉しいけど……(笑)。

荻上 なんでぼくが東さんの著書を持ち上げて、東さんが下げてるのか(笑)。この謎の図式はいったい(笑)。

 いや、やっぱりね、現実的には無理だと思うんですよ。徹底した見えない壁があって、なんていうかな……いまのマスコミとか、メジャーなメディアが必要としている「思想」の言葉というのは、この本にある言葉ではないんですよ。

荻上 欲しがっている言葉は、違うでしょうね。

 そこのところは折り合わないし、だからといってネットの人たちがこれを「バンザーイ!」と言って読むかというと、そういう内容でもないでしょう。ニコ生絶賛とかいう単純な内容じゃないですからね。だから、結局いないんだよね、ということに尽きていて……

荻上 でも東さんは、『思想地図』という場所のつくり手でもあるじゃないですか。語り部であると同時に、ご自身でメディアをつくってもいる。そのメディアを、この本の設計図に沿ってチューンナップして近づけていくという作業を、これからはしていくわけですよね?

 どうでしょう。ぼく自身はだんだんカルト化していくんじゃないの? マイナーな一部読者を引き連れてさ――ってこの本に書いたことと随分違うような気がするんですけど、話しているとどうもそういう結論になる(爆笑)。

荻上 このインタビュー、どうしよう……。

ビジョンなんて誰も必要としていない?

荻上 ちょっと話を戻します(笑)。『一般意志2.0』での議論が、すぐに具体的な結実性を帯びるとか、実現可能性が芽生える類のものでないことは、多くの人もそう感じているでしょう。

 はい。

荻上 それでも、思想的フレームを長期的に語ること、先にあるメルクマールとして語ることによって、いまある社会問題や、いまのメディアの限界が浮かび上がるという順序で議論することもできるでしょう。しかし、こうした議論の骨法が、言説全体に欠けてしまったのはなぜだと思いますか。

 その理由は、やはりマルクス主義が崩壊したからですよね。

荻上 冷戦体制の崩壊。

 そうですね。マルクス主義はたんなる社会思想以上の体系性をもっていましたからね。いろいろなものをまとめることができた。それが、冷戦体制が崩壊して、マルクス主義が事実上、消滅してしまうと、本当になにもない。残るのは個別案件だけ。その状況で左翼のリベラルが何を言っているかというと、結局「民度を高めましょう」しか言っていないわけですよ。

その前は「革命しよう!」だったんだけど、革命は無理だということになった。資本主義は避けられない。であれば、せめてそのなかで民度を高めて、エコ意識を持って人間らしく生きていきましょう、と。ただそれだけのことを小難しく言うだけの存在に、リベラルはなり果ててしまった。そこには社会改革のビジョンも何もない。彼らが思想書を何のために読んでいるのか、率直に言ってぼくにはわからない。そこから導き出せるのは非常に貧弱な、つまらない自己陶冶の倫理でしかない。「つねに弱者のことを気にかけて生きていきましょう」という程度の話でしかない。そんなの思想書なんて読まなくてもわかる話ですよね。

荻上 うん、だからぼくは読まなくなったのかもしれない。

 ぼくも読まなくなった。だからこそ、こういう状況下でビジョンや夢を出していくことはとても重要だと思っています。だからこそこの本も書いた。しかし同時にわかっているのは、「ビジョンなんて誰も必要としていないんだろう?」ということですよね。

荻上 なるほど。

 それがなんだかグズグズとした序文にも表われているわけで、嫌らしい言い方をすれば、ぼくはこの本はいまの日本には贅沢品だと思っているんですよ。こんな贅沢品は誰も必要としていない。でもまあ、ぼくがやりたいので(笑)。

荻上 やった。

 うん。

荻上 えーと、一応これはプロモーションも兼ねたインタビューのつもりなのですが、どんどん思っていたのと違う方向に。

 いいんじゃない? プロモーションなんて(爆笑)。

荻上 なんてこった。

「つっこみ力」に支配された言説空間

 でもね、たとえば10月にある建築関連のシンポジウムに出たんですね。それは3.11以降の社会とか、東北復興などをテーマにしていたんです。

まあそのシンポジウム自体はおもしろかったんだけど、ひとつ気にかかったのがこういうことで。ぼくはその場で、「日本はかつて、国土計画などの大きなビジョンを持って高度成長を果たした。だからいまの日本にも大きなビジョンを語る場が必要だ」と話したんですね。そうしたら、すぐに出てくる反応が「ビジョンを語ること自体が危険ではないか」というもの。これはもう条件反射的に出てくる。それは一緒に登壇していたある年配の方からの意見だったんだけど、質疑応答でも「ビジョンは一人ひとりが持っている。だからビジョンとは複数のものであり、一つのビジョンを提示するというのは……」という質問がすぐに出てきた。

なんかね、もういいよ、という気持ちになるんですよね。大事なのはビジョンの中身について語ることなのに、これじゃいつまでもそこまでいかない。「ビジョンをつくることは本当に倫理的なのでしょうか?」で、ぐるぐるぐるぐる回転している。これじゃあ、この国は麻痺しつづけると思いますよ。だって「こういう国にしたい」というところまでいかないんだもん。「こういう国がいいのではないかと議論する、そのことの是非についてまず議論しましょう」となる。

荻上 うーん、そうなのでしょうか。ぼくも色々な分野の専門家の方と話す機会はあるのですが、それぞれの専門家は「個別領域のハッカー」であるともいえる。特定の領域に長けた技術者ですね。しかしその設計にこだわるがゆえに、暴走の危険性について配慮できなくなるタイミングは必ず出てきてしまうこともある。

そうしたときに役に立つのが、たんなる教養などではなく「これをやったらアウトだろう」という倫理観で、それを構築する思想の言葉もあるわけです。「これをやったら誰かが傷つくかもしれない」と思うことができれば、「こういうふうに設計すれば効率的なんだけど、傷つく人がいるかもしれない。だからやめよう」という判断ができる。そのような線引きがないと、活動家はひたすら文句を言い、それに対して「専門知識のないバカが騒いでいる」と投げ返して、不毛な溝が深まるという帰結になると思うんですよね。

そういう意味では「イズム」によらないビジョンや、「これはアウトだろう」「こっちのほうが豊かだろう」といった共通の社会認識を構築するための「場」がないと、小さなイズムの濫立、つっこみあいのループに陥ってしまう。「どうせあいつらには通じないけど、こっちはこっちで頑張ろう」というスタンスに落ち着いてしまい、それはそれでリアル・ポリティクスであると言えるかもしれないけれど、隣の人と具体的な話をしようとする人の態度ではないな、と思いますよね。

 そうなんですよね。なんというか……ここ10年くらいでみんな「つっこみ力」ばかりが上がっちゃったんですよね。学者も、マルクス主義消滅後のリベラルは、みな「つっこみ知識人」と化したわけですよ。ネットはその作法を体現してしまっている「リベラルな空間」であるともいえて、つっこみ力だけが上がっている。

荻上 そうですね。でもそこで、つっこみに耐えられる知識や言説をつくることが、ひとつの課題としてはもちろん出てくるし、そうじゃない人は拗ねて撤退することになるでしょうけど。

 でも「つっこみに耐えられるもの」というのは、結局は歴史が決めるもののはずでしょう。同時代でいかに「検証」に耐えたからといって、それが将来に影響力を及ぼすかどうかは全然別問題ですよね。

荻上 別ですね。

 とくに「思想」などと呼ばれているものは、同時代に「それが正しい」と論証できるようなものではなかったりするから、「つっこみ」はあまり役に立たないと思うんですよ。

たとえば日本のTPP参加の是非といった論点でも、最終的には思想的な判断が必要だとぼくは思うのね。日本という国がこれからどの方向に向かうのかという意思にもとづいた判断、それでしかないと思う。参加の損得に関してはさまざまな指標のとり方があるし、未来の予測は結局はできないなかで、国の将来について決断するわけじゃないですか。

あまりいい喩えではないけど、たとえばここに二人の異性がいるとして、この人と結婚すればこういう人生になる、こっちの人とはこういう人生になるだろう、で、どっちが好き? というのが決断なんですよね。それは本人の選択でしかない。つまりその選択をさせるものが思想なんですよね。そして結果は歴史が決める。どっちを選んだとしてもつっこむポイントは無限にあるに決まっているんです。国レベルであってもそうなんですよ。

ところがいまの日本の場合、「自分たちが何を望んでいるのか」という議論をまったくしないまま、損得の議論を非常に細かく積み上げている状態で、これでは国全体が麻痺するでしょう。

荻上 2000年代のつっこみ力増大に関しては少し違う見方もしていて、つまり「欲望」を隠しているんですよね。たとえば代表的なヘイトスピーチである「嫌韓」言説は、色々な理由をとってつけているわけですよ。でもどう見ても、もう最初に「攻撃したい!」という欲望がガッチリと固定されて、その欲望を正当化できそうなエビデンスや言い回しを後づけしているわけでしょう。その際、つっこみ力は、欲望を覆い隠すための装置として機能している。

 その通りです。それは非常に重要ですよ。結局、ぼくが言っているのは「人間は欲望を直視しなければいけない」という話です。

たとえば『一般意志2.0』は嫌韓問題とも関係している。「差別意識をなくそう」とか「韓国と仲良くしよう」とか言っても、そもそも嫌韓の連中には無理だと思うんだよ。彼らは韓国が嫌いなんだから。それは彼らの欲望だから動かせない。

見たくないものを見る経験

 それでね、ふだんはお互いに楽しく暮らしていたとして、ふとしたときに気づくとするじゃないですか。「あれ、こいつもしかしてネトウヨ?」みたいな。そのときにどうするか。絶交するのか? いや、そんなことは無理ですよね。そのときまで一緒に仕事をしていたんだし、友情だってある。そこでマジギレして、いきなり相手を説得にかかるのは本当に社会的なのか。それは本当に「他者を受け入れる」ことなのか。人はときに、自分と意見の違う人間を、たとえそれがどれほど自分にとって許し難いものだったとしても、そのまま放置して受け入れなければいけないことがある。これは、放射能問題とかでも同じですけどね。

でも、リベラルなインテリの持つ「議論のできる人間リスト」には、無限の他者とか言いながら「××については意見が一致する人のみを他者と見なす」という付帯条項があってさ、その付帯条項がずらずらつづいているじゃないですか。いまの例だったら、韓国へのヘイトスピーチなど許し難いわけで、そんな人間を放置することそのものがリベラルへの裏切りとなる。

荻上 どんどんブラックリストが増えていきますね。

 そうやって小さなユートピアをつくっているんです。ぼくは、日本の「良心的」知識人たちは、大学の外に出て、自分たちを取り巻く大衆の醜い欲望をもっとはっきりと直視すべきだと思う。

それこそ、南京大虐殺とかアジアに関するアカデミックなシンポジウムなんて数えられないくらい開かれているんだろうけど、そういうのをすべてニコ生とかで中継して、ネトウヨ板やVIP板に貼られて、どんどんコメント受け付けたらいいと思うんですよ。そうすれば、自分たちがどういう国で、どういう環境で喋っているのかがわかる。そのうえで「共存」とか「リベラル」とか言ってほしい。『一般意志2.0』はそういうことを提案した本でもあります。

荻上 「思想をインストールすることで人間性と向き合うべし」というのが思想側からの回答だったのだけれど、現実的にそれは困難だ、と。それよりも社会の底にある「澱」のようなものをかき混ぜていく装置を用意すべきで、メディアとしては、言説そのものの入れ替え性を高める装置として、ニコ生やツイッターのようなものを参考に、アーキテクチャの見直しを提案する。そのような分析を、後世に向けて投げられたのがこの本だということですよね。

 そうですね。でも基本的には、大衆は愚かで醜い存在であり、われわれはそれを徹底的に可視化すべきだ、というのがメッセージですかね。それに耐える、それと対決することこそ、これからのインテリの役割になるのでしょう。大衆を見ないで理想だけ語っても意味ないですよ。

差別と背中合わせの多様性

 それは言い換えれば、互いの弱さを認め合う、ということでもあるんですけどね。人間はそれぞれ弱点を抱えているので、その弱点に関しては適当に許しあう。これは『一般意志2.0』の話というより、いまの日本社会についての分析ですが、社会全体として多様性の感覚がなくなったのがよくないと思う。しかもここで「多様性」とか言うとまたきれい事に聞こえるんだけど、その裏面も含めてね。多様性を許すことと差別はじつはすごく近いんですよ。ここは大事だと思うわけ。

荻上 たとえばキャラ付けも差別につながるんだけど、個人が他者を把握するために、認知の複雑性を縮減するためにやっている面もある。キャラにもレパートリが蓄積されて、パーソナリティーが広がっていったりする面もあり、二面性がありますよね。

 たとえば、初対面の日本人と韓国人が竹島問題でやりあったりしてはいけないわけです。そこは互いに「あいつ日本人だから」「あいつ韓国人だから」と差別一歩手前の感情でスルーして、違う話をするべきなのよ。そういうタイプの技術がネット上からなくなってきているような気がする。

荻上 とくにいまのネット掲示板、スレッド型でもツリー型でもそうですけど、「承前」という感じでその前の議論を追っていないと参加してはいけないようなメカニズムになっていますよね。そうしたアーキテクチャの問題だと?

 ぼくが言いたいのは、キャラ付けは大事だということなんですね。「この人は××地方出身で、××大学を出て、家族構成は××だからこういう人だろう」というパターンはやはり重要で、そういうパターン認識をまったく前提とせずにいちいち相手の言動を真に受けていると衝突が起こりやすい。究極的には「お前なんでそこに住んでいるの?」ということから、擦り合わせする必要が出てくるでしょう。

人間をパターンで捉えるのはまずい、一人ひとりの単独性を見なければならないという倫理は、哲学のなかではとても重要なものとしてありますね。しかし、現実問題、ある程度まではそれを許容しないと、100%まっさらな人間同士がお互いの趣味から政治信条の違いについてまで一から議論しようぜ、となると、有意義なコミュニケーションはまったく起こらずただトラブルが起きるだけなんですよ。ネットはお互いのプロフィールが見えないから、そういうことがとくに起こりがちですよね。

ネットは永遠に「バカのもの」なのか?

 だから「実名」についても、ぼくは名前が実名であるかどうかには関心はないんですけど、やっぱりある程度のプロフィールがわかって、顔写真があるというのは、相手の発言を理解する上で非常に大きなバックボーンを提供してくれるのでいいだろうとは思う。それがないところでやっている日本のネットは、単純にコミュニケーションの効率が悪いと思いますよ。

日本のネットについて思うのは、利用者は広がったのかもしれないけど、発言者がすごく偏ってしまっている。たとえば人気画像の上位が猫ばっかりだったりするのを差し引かなきゃいけないというような話と同じで、日本だとアニメオタクとかがすごく多いじゃない? でもそれって世界全体で大きなボリュームなのか、日本全体でもそれほど大きいのか、ということですよね。

ネットだとネトウヨがいろいろやっているんだけど、日本全体で見れば小さなボリュームに過ぎないので、そこをまともなバランスで認識できないと日本のネットはなかなか使えないな、と思います。

でもこれはネットだけの問題ではないですよね。たとえば艾未未(アイ・ウェイウェイ)を支援するためにヌード画像を投稿する、あれはネットの祭りと同じだといえば同じなわけです。しかし、日本では祭りの方向性が微妙に違うわけですよ。日本で祭りが起こるといったら、高校生が飲酒運転しているからプロフ晒して退学させようぜ、とかそんなのばっかりですよ。でも中国では艾未未を擁護するために祭りが起きている。全然目的が違うわけだ(笑)。

荻上 政治監視よりは私刑、になってしまっていますね。ウィキリークス的な権力抑止論があんまり日本のネットで盛り上がらない一方で、「ガキどもの巣窟であるアメーバピグを哂おうぜ!」とか、そういう祭りの方が盛り上がりますね。

 しかもそれは何の権力とも結びついてない。このあたりについては、濱野智史くんと先日話したときにも言ったけど、たしかに日本のネットの匿名性は非常に面白いものを持っているし、形式的にウィキリークスやアノニマスと似ているとも言えるんだろうけど、実質が決定的に違う。ここはやっぱり見逃してはいけないと思うんだよね。

荻上 もちろん、海外のネットでも、大文字の正義とはまったく違う、個人の女子高生を叩くといった私刑も日常茶飯事でありますよね。だけどウィキリークスやアノニマス「も」ある、というのは重要かなと思いますが。

 それが決定的な違いだよね。そうじゃないものが「ない」というのが問題なんだよね。

荻上 そうしたもの「も」つくろうよ、というのが『一般意志2.0』の話でもあったわけですよね。シノドスではいつもガバナンスの話を展開しがちですが、ガバメントのかたちそのものを、人間観の見直しから設計し直すというアイデアとは、相互に呼応させながら吟味していくべきものだと思いました。議論のプラットフォームをどうつくるのか、これまでのプラットフォームのどこに病巣があったのかを分析する。同時に、どういったガバナンスで、どういった目的でプラットフォームをつくっていくのか。そのふたつの方向でのテコ入れが必要だというのが現在の状況だと思うんですよね。

 いつの間にかうまいことまとめられてしまった……(笑)。

荻上 というわけで、両輪を豊かにしていくためにも、また議論させてください。

 こちらこそ。また話しましょう。

(2011年11月22日 五反田 コンテクチュアズ オフィスにて収録)

プロフィール

東浩紀哲学者 / 作家

1971 年東京生まれ。哲学者・作家。現代思想、表象文化論、情報社会論など幅広いジャンルでの思索を続け、近年は小説も執筆。東京工業大学世界文化センター特任教授。早稲田大学文化構想学部教授。合同会社コンテクチュアズ代表、同社発行『思想地図β』編集長。『存在論的、郵便的』『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社)、『郵便的不安たち』(朝日新聞社)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)など著書多数。

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荻上チキ評論家

「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。

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