2011.04.05

東日本大震災と日本の転機  

高原基彰 社会学

情報 #御用学者#流言蜚語

まず、今回の震災で被災された方々に、お見舞いを申し上げたい。被災地の方々にあっては、以下の議論など気楽なものに思われるかもしれないが、どうかご容赦を頂きたい。

真相と流言のあいだのジレンマ

現在、マスメディアによる報道、およびインターネットで交換される情報のかなりの割合は、福島第一原発の事故に端を発する放射性物質の影響をめぐるものに占められている。この点に関して、今もっとも読まれるべき書物のひとつが、1937年に出版された清水幾太郎の『流言蜚語』だろう。

この本のなかで清水は、情報の不足に加え、一定程度の「材料」が提供されているときに流言蜚語が生ずると述べる。報道によってa・cのみが与えられ、bが抜けているとき、想像で補われるb’、b’’……が生まれるという訳だ。

では「真実のb」が報道されさえすれば良いのだろうか。清水は、それほど単純ではないという。結局のところ、何が「事実」なのかを、万人の同意するかたちで定義できる情報というのは、じつは非常に限られたものだからである。

社会や政治に関わる事象、また人々が関心をもつ事象の多くでは、ごく一部の内通者や専門家以外には、何が「事実」なのかを判断することができない。しかもその「事実」も、多くの人々にとっては、直接ではなく報道を通して触れられることになり、その発表自体の真偽が疑われる余地をもつことになる。

すると、事実の真相の発表は、しばしばそれ自体が新たな流言蜚語の発生源になってしまう。結局の所「本当の報道と流言蜚語とを区別することは出来ない」のである。流言蜚語を情報統制によって禁止しても、それが新たな「情報の不足」をもたらし、流言の源となってしまう。かといって「真相」を次々と明らかにしたところで、新たな流言を生んでしまうことになりかねない……というジレンマがあるのだ。

ひとたび「信頼性」が失われると

多くの人々にとって「事実」が何か分からなくても、通常それほどの混乱が生じないのは、報道がもつ「信頼性」によるものである。プロの記者、その所属先であるマスメディア、それを監督する政府……などといったかたちをとる、一連の「体制」のようなものへの「信頼性」である。

この「信頼性」は必ずしも確たる根拠をもたないし、もちようがない。しかしそれがなくなったときにこそ、流言の発生が不可避となる。そしていったん生じたら、流言なのか事実なのかの区別が重要でなくなり、長い時間が経つまで打ち消すことができなくなる。

清水によるこうしたジレンマの指摘は、「情報公開が十分ではない」という内外からの批判(それ自体は妥当な批判であるが)に対し、日本政府や関係者がかなりの程度情報をオープンするようになった後も、一向にここでいう「流言」が止まないこと、混乱が収まるどころか拡大するばかりにすらみえる事態を、見事に予言しているようにわたしにはみえる。

清水は、その「信頼性」をどうしたら担保できるか、具体的な見通しを語っている訳ではない。それもそのはずで、そんなことに簡単な答えを出せる人間などいるはずがないのだが、筆者が個人的に考えるのは、以下のようなことである。

あらゆる主体は「偏向」している

おそらく「情報」とは、社会的・政治的文脈を抜きにして、単一の対象として抽出できるものではないのだろう。「情報統制と抵抗」、「マスメディアとインターネット」、「風評と事実」などといった、近年よくみられる認識の対立軸の設定は、それこそ「情報」だけを単体でみてはじめて可能になるものである。

それぞれの組み合わせの後者はしばしば、諜報的な情報活動や、「実証的」な数字や、専門的な知識などによって、他人の知ることのできない「真実」を自称することになる。そうした努力はもちろん必要であろう。

しかし、その「真実」の主張は、どこまで行っても、大多数の人々が納得するかたちで伝達されることはない。つねになんらかの(政治的)「偏向」が疑われる余地を持つからである。たとえば放射線の専門家が、いくら客観的な指標を自称しながら情報を発信しても、「御用学者」といったレッテルを貼られることがあるのは、そのためである。

ではどう考えればいいのか。むしろ、発信する側も、受け取る側も、情報とはそうした(政治的)文脈抜きにはやり取りのしえないものである、ということを念頭におく必要があるだろう。

あらゆる主体は、最初から「偏向」している可能性が高い。「客観的」な指標とは、それぞれが自分の立場を論証するためにこそ、可能なかぎり努力して集め、提示するものである。この当たり前の認識が、前提として共有されておくべきだろう。

そもそも議論・対話とはそうしたもののはずで、あらゆる「特定の立場」と無関係で、普遍的に無謬な「実証」「真実」などというのは、ごくかぎられた科学的実験の場などに限定されるべきものである。

にも関わらずその実在がナイーブに信じられるというのは、一種の「信仰」の問題でしかない。それぞれの専門は異なる「信仰」をもつだろうが、それが前提におかれるかぎり、結局のところ、異なる手法で「真実」を語るもの同士が、いつまで経っても合意できない神学論争を繰り広げることとなる。

「検査機の数値によればまだ大丈夫なのが真実である」と語るものと、「関係官僚がわたしに耳打ちしたところでは大丈夫ではないのが真実である」と語るものがいくら議論したところで、何らかの合意に至ることも、生産的な結論を導き出すことも永遠にない。知識人がこうした神学論争を行っている間に、その背後にいるフォロワーたちのあいだには、それこそ部分的な情報を元にした流言蜚語が蔓延することになる。

「公共へ開かれた対話」へ

では、異なる立場と、異なる論証手段をもつ者が、いかに妥結し合意に至ることができるのか。何が「合意」で、何が「正義」なのか(多数の人々が同意することなのか、倫理的に正しいことなのか、経済合理的なことなのか、環境負荷の低い方なのか等々)。

こうしたことを考えると、「公共とは何か」という抽象的な問題に接近せざるをえない。つまり、何らかの物差しである種の優先順位をつけること、およびその決定について構成員の合意形成を図ることである。この部分を抜きにしたまま、各種の専門家が「真実」をいくら標榜しつつ論争しようとも、流言がおさまることも、政治的な不安定さが改善されることもないだろう。

かといって、思弁的に「公共」を考えることのみで、人々の「信頼性」をえることができないのももちろんである。結局の所、さまざまな専門をもつ者が知恵を結集する必要がある、としかいいようがない。

しかし現実には、低次元のレッテル貼りと罵り合いが、「知識人」のあいだですら、盛んになるばかりである。今回の震災に、知識人の多くは、無力感にさいなまれているのではないだろうか。それは、自身の「信仰」が世に広く受け入れられない、あるいは受け入れられるはずがないことを自覚させられた、といった挫折感であるだろう。

しかしそうした挫折感は不必要であり、「信仰」を脱し、自らの拠って立つ「偏り」に自覚的でありつつ「公共へ開かれた対話」へ向かうことを考えるべきなのである。

残念ながら、現在の学会および大学院教育などは、新規参入者に「信仰」と、それを共有しない者への敵意を、せっせと植えつけるだけの場所になって久しい。知識人が対外的に行う言動も、このスタイルのものがあまりにも多い。

たとえば社会学とは、「公共性」「討議の条件」といったことを主要なテーマとする分野のひとつであったはずなのにも関わらず、今回もっとも専門的な発言が少ない分野でもある。巨視的に物事を考える能力をみずから率先して放棄し、際限なく細分化した小分野に閉じこもってきた結果である。

それと関連して、政治のレベルでいえば、筆者が以前から指摘してきた「日本型システム」とは、こうした「公共のありか」を画一的に規定し、参加者がそれについて自覚的に考えなくて済ませるシステムであったと言い換えることもできる。先述の学問の動向は、そのなかでこそ許されてきたものかもしれない。しかし今回の震災は、その画一性の脆弱さを、劇的なかたちで示すものでもあっただろう。

今回の震災とそれにつづく一連の出来事は、筆者にとっても「学問」とは何なのかを深く考えさせられる機会となった。学問や政治といったものが、この震災によっていかなる転機を迎えるか、それは地下深くのプレートではなく、われわれ自身の意志にかかっている。

推薦図書

現在までつづく「うわさ研究」における、日本語で書かれたものとしてはもっとも有名な古典。著者は戦後、全共闘運動へのコミットから大きく「転向」した思想家としても知られるが、これはその戦前の著作である。歴史社会学者の佐藤健二には、この本のタイトルをそのまま借りた、しかしまったく異なる視点から流言を分析した著作(有信堂高文社,1995)があり、こちらも非常に有用である。

プロフィール

高原基彰社会学

1976年生。東京工科大学非常勤講師、国際大学GLOCOM客員研究員。東京大学院博士課程単位取得退学。日韓中の開発体制の変容とグローバリゼーションにともなう社会変動を研究。著書に『現代日本の転機』(NHKブックス)、『不安型ナショナリズムの時代』(洋泉社新書y)、共著書に『自由への問い6 労働』(岩波書店)など。

この執筆者の記事