2013.10.03

「自由」と「不自由」の狭間で──現代ロシア文学を読むための一つの視点

松下隆志 ロシア文学

情報 #プーチン#ロシア文学#ソローキン#青い脂#親衛隊士の日

ソ連解体からすでに20年以上が経過し、現代ロシア文学はかつては想像もできなかったほど多種多様な広がりを見せている。大型書店の文学コーナーを訪れれば、日本でいうところの純文学に近い棚を始めとして、女性散文、詩、SF、探偵小説、戦争小説、歴史小説など、様々なジャンルの棚が立ち並んでいる。旅行者や留学生が前知識もなしにふらりと立ち寄っても、膨大な数の本を前に何から読めばいいのか迷ってしまうだろう。

本稿では、そんな読者に現代ロシア文学を読むための一つの視点を提供するために、現代ロシア社会における「自由」の問題を糸口にして、そこから見えてくる2000年代ロシア文学の主要な二つのトピックス──若い世代の作家たちを中心とする「新しいリアリズム」の潮流と新世紀の「ディストピア小説」──について、具体的な文学作品を挙げながら紹介していきたい。

「自由」への懐疑

ロシアの人気雑誌「アフィーシャ」で書評を受け持つ文芸批評家レフ・ダニールキン(1974-)は2000年代のロシア文学を総括した長いエッセイ(*1)で、現代ロシア文学における「自由」の意味の変質を指摘している。

(*1)Данилкин Л.Н. Клудж: как литература «нулевых» стала тем, чем не должна была стать ни при каких обстоятельствах // Новый мир. 2010. №1. С. 135-154.

ダニールキンによれば、1990年代のロシア文学に強い影響を与えていたのは「自由」の空気だった。80年代後半に始まったペレストロイカによってイデオロギーの箍(たが)は大きく緩んだが、続いて起こったソ連自体の解体は作家たちを国家のイデオロギーから真に解放した。その結果、これまで禁じられていた国内外の文学作品が出版されるようになり、探偵小説を始めとする大衆文学が活気を呈するようになった。とりわけ、90年代ロシアでトレンドとなった、後期ソ連の非公式文学に起源を持つロシア版のポストモダニズムは、自国の古典の過激なパロディや改変を通して、「作家は人生の教師であらねばならぬ」というロシアの伝統的な文学観を解体した。

こうしてロシア文学全体にリベラルな「自由」の空気が漂っていた90年代末には、これからのロシア文学では作家はもはや、かつてトルストイやソルジェニーツィンといった文豪が書いたような、「人生について」語る浩瀚(こうかん)な長編小説など書かなくなり、読者は読者で、もはや文学が現実と何らかの関係を持っているなどという幻想に身を委ねるようなこともなくなるだろうと思われたのである。

ところが、2000年代になり、豊富な天然資源を背景に強権的な政治を行うプーチンのもとでロシア社会が安定しはじめると、「自由」の意味合いはがらりと変わってしまった。「自由」はもはや国家イデオロギーからの解放ではなく、それどころか逆に、資本主義が人々に押しつける新たな「イデオロギー」として感じられるようになった。ダニールキンによれば、2000年代のロシア文学では「俗物に成り下がり、プチブル的な価値を賛美する以外のいかなる自由も存在しない」といった話題が頻繁に繰り返され、他方で「自由を拒絶する体験や、自由の危険性、『不自由』の優越」が主張されるという、90年代とは対照的な状況が出現した。

このような「自由」に対する懐疑が明確な形をとって現れた先駆的な作品として、文芸誌「ノーヴィー・ミール」の副編集長でもある作家ミハイル・ブートフ(1964-)のその名もずばり『自由』(1999)と題された長編を挙げることができる。2000年にロシアでもっとも権威ある文学賞の一つである「ロシア・ブッカー賞」を受賞した本作は、職を失い、借家に巣くう蜘蛛やゴキブリを相手に孤独な生活を送る男が主人公で、そこには共通の理想が失われ、人々が進むべき方向を見失った世界に対する実存的な不安がまざまざと描かれている。

また、同じ系統の作家として、モスクワ物理工科大学出身の作家アレクサンドル・イリチェフスキー(1970-)がいる。「ロシア・ブッカー賞」受賞作の長編『マチス』(2006)は、世界に対する漠たる不安感から路上生活に身をやつすことになる数学者を描いているが、そこでは1970年前後に生まれ、成人の頃にソ連解体を経験した世代の不安感が鮮やかに語られている。

「まったき安全性があり、外的な脅威は完全に不在だ。上の世代が力の源とし、今や無に帰してしまった世界の終わりは、最終的にあり得ないものになった――にもかかわらず、いたる場所に恐怖が氾濫していた。日々の透明な恐怖が目に映り、周囲の恐怖は冷えて固まり、濃縮された真空の塊となってぐらぐら震えていた。人々――貧困に、日々の虚しさの闇にすでに感覚が麻痺した人々――は何を恐れているのかもわからずに恐れていたが、しかしその恐怖は強く、おさまることがなかった。恐怖保存の法則が作用していたのだ。はるか遠くの審級や権力界の抽象作用ではなく、具体的な日常を、具体的な交通警官(ガイーシニク)を、具体的な野蛮行為を、具体的な悪口雑言を、干渉を恐れていた。」(イリチェフスキー『マチス』)

かつてのソ連が抑圧的な国家であったことは確かだが、その一方で、社会主義は人々に人生の明確な目標を与え、社会の進むべき方向を指し示した。確固たる道標の喪失に対する人々の不安は90年代のロシアにもあったには違いないが、ようやく社会が安定しだした2000年代になってようやく、「自由」に対する懐疑は本格的に文学の主題として現れてきたのである。

「新しいリアリズム」の潮流

イリチェフスキーと同じようにおおよそ70年代前半生まれで、10代後半か二十歳前後にソ連解体を経験した若手作家たちのなかには、「自由」に対する懐疑を主張するに留まらず、文学を通してより具体的に社会や政治の変革を志向する者もいた。彼らは「新しいリアリズム」の作家と呼ばれ、90年代のポストモダニズムに対するアンチテーゼとして台頭した。ポストモダニズムがソ連という「現実」の消滅を受けて「現実の空虚さ」を思弁的に認識しようとしていたとすれば、新世代の作家たちはポストソ連社会の「空虚な現実」を所与の条件として引き受け、そこに何らかの積極的な意味づけを行おうとしている、と言えるだろう。

「新しいリアリズム」を代表する作家として、2000年代半ばにデビューするやめきめき頭角を現し、一気に現代ロシア文学のスターダムにのし上がったザハール・プリレーピン(1975-)が挙げられる。兵士、用心棒、政治活動家、ジャーナリスト、ミュージシャンといった様々な経歴を有する彼は、その波乱に満ちた人生そのものがすでに小説的であり、事実、彼の小説はしばしば自分の実体験に基づいた半自伝的な内容である。

彼の代表作『サニキャ』(2006)は、作家が所属する極左政党「国家ボリシェヴィキ党」での活動をモデルにして執筆された長編である。反政府の過激政党に所属する若者たちが国家転覆を目指して武装蜂起するというセンセーショナルな内容で、ある批評家はプリレーピンを社会主義リアリズムの泰斗マキシム・ゴーリキーになぞらえた。「サニキャ」というのは主人公アレクサンドルを祖父母が呼ぶときの愛称だが、この表題には、今の資本主義ロシアを作った父母世代ではなく、ソ連で生きた祖父母世代に対する共感がこめられている。

「国家ボリシェヴィキ党」は「民族共産主義」を理念として掲げているが、プリレーピンがソ連について語るとき、そこにはナショナリスティックな色合いが強く感じられる。興味深いことに、これは彼に限ったことではなく、「新しいリアリズム」と関係づけられる作家たちは、程度の差はあれ、自身のナショナルなアイデンティティとしてしばしばソ連を挙げる傾向がある。

チェチェン出身でペテルブルグの大学を出た作家ゲルマン・サドゥラーエフ(1973-)は、リベラルな考えの持ち主だが、やはり共産主義を熱烈に支持している。チェチェン紛争を扱った作品『俺はチェチェン人!』(2006)のなかで、チェチェン人にもロシア人にもなりきれない己のジレンマを描きながら、自分の生まれ故郷はチェチェンではなく、ソ連だったと強調する。

「俺が生まれたとき、チェチェン共和国なんてものはなかった。俺が生まれたのはチェチェン=イングーシ自治ソヴィエト社会主義共和国で、他の全ての地域同様に、ソ連共産党の州委員会によって管理されていた。当時俺たちは、自分たちがソ連国民と称される偉大な単一のネーションに属すると教えられた。そして俺たちはそれを信じ、モスクワやレニングラードの大学に入り、大きな祖国の大きな街で暮らし、その後もそこに残った。ところが今俺たちは、自分たちはチェチェン人なんだと教えられている。そして突然、大きな国は俺たちにとってよその国になってしまった。」(サドゥラーエフ『俺はチェチェン人!』)

一方、やはりロシアではなく、ウクライナを出自とする作家ミハイル・エリザーロフ(1973-)は「ロシア・ブッカー賞」受賞作である長編『図書館員』(2007)で、ソ連へのノスタルジーをバイオレントな幻想文学として見事に昇華させた。

本作はある忘れ去られた社会主義作家が書き遺した「本」をめぐる物語である。全部で七冊ある「本」には魔術的な力が宿っており、たとえば「力の本」を読んだ者は超人的な力を、「歓喜の本」を読んだ者は強烈な多幸感を得ることができる、という仕掛けになっている。「本」の秘密を知る少数の人々は各地で「図書館」あるいは「読書室」と呼ばれる秘密組織を結成し、「本」の所有をめぐって血みどろの争いを繰り広げている。ひょんなことから「記憶の本」を読まされた主人公の青年アレクセイは、ソ連時代の幸福な「記憶」を植えつけられ、「力の本」によって怪物的な力を身につけた老婆たちの「図書館」で伝説の「図書館員」となるための儀式を遂行させられることになる。

エリザーロフもまたインタビューで「ソ連体験はある全一性の体験」であり、「子供の頃、私は自分が最良の国に住んでいると信じていた」とソ連への愛着を語っている。ソ連という国家はなくなったとはいえ、「共産主義の幽霊」はいまだロシア文学を徘徊しているようだ。

ディストピア小説

しかしながら、理想と現実が一致しないのは世の常である。仮にロシアで社会主義革命のようなものが再び起こったとして、想像のユートピアが現実のディストピアへと転化しない保証はどこにもないだろう。かつてエフゲーニー・ザミャーチンやジョージ・オーウェルは単一のイデオロギーが支配するソ連型の社会をディストピアとして描いたものだが、独裁者然としたプーチンが権力の座についている21世紀のロシアでは、またもやディストピア小説の人気が再燃している。

その理由として、文学者のボリス・ラーニンは、権力からの報復を恐れる人々の「内部検閲」により、国内で「喫緊な政治問題に関する開けっぴろげな議論がますます不可能なものになっている」ことを指摘している(*2)。主要なマスメディアが国家の統制下にあるなど、たしかに現在のロシアは十全な言論の自由があるとは言いがたい状況であり、作家たちは小説という媒体の虚構性を利用して「不自由」な社会の危険性を語ろうとしている。

(*2)Boris Lanin, “Imaginary Russia in Modern Russian Anti-Utopias,” in Tetsuo Mochizuki, ed., Beyond the empire : images of Russia in the Eurasian cultural context, 21st Century COE Program Slavic Eurasian Studies, no. 17 (Sapporo: Slavic Research Center, 2008), p. 376.

まず、2000年代ディストピア小説の先駆的な作品として、ソ連末期から短編小説の名手として知られていた女性作家タチヤーナ・トルスタヤ(1951-)の長編『クィシ』(2000、貝澤哉・高柳聡子訳で現在雑誌『早稲田文学』で連載中)を挙げることができる。「大爆発」と呼ばれるカタストロフの結果、文明が原始的な生活まで退化してしまった未来のロシアを舞台とした物語で、そこでは放射能の影響により生まれたミュータントが徘徊し、フョードル・クジミチという独裁者が支配している。主人公のベネジクトは独裁者の言葉を書き写すことを仕事にしているが、やがて自分が書き写している言葉が独裁者のものではなく、実はロシアの古典書物のなかの言葉であったことを知る。欺瞞に気づいたベネジクトは義父と共謀してクジミチを打倒し、義父が権力の座に着くが、石油の利権を巡って再び「大爆発」が起こってしまう。

1986年から2000年という長期にわたって執筆されたという『クィシ』は直接的に2000年代のロシアの現実を映しているわけではないが、放射能汚染の影響を受けたグロテスクな未来像は、むしろ3.11後の日本においてこそリアリティがあるのではないだろうか。

一方、ロシアのポストモダニズムを代表する作家ウラジーミル・ソローキン(1955-)の長編『親衛隊士の日』(2006、拙訳で河出書房新社より刊)は、明確に「プーチンのロシア」を意識した諷刺作品になっている。主な舞台は2028年のモスクワで、そこではかつてのイワン雷帝時代を思わせる専制政治が復活し、人々は貴族や平民に分類されている。国の西と南にはロシアをヨーロッパから隔てる巨大な壁が存在し、冷戦時代を彷彿とさせる孤立的な政策が取られている。

「オプリーチニク」(元来はイワン雷帝の親衛隊士)と呼ばれる、作品の主人公である未来の秘密警察たちは君主に歯向かう貴族を殺害し、国家にたてつく芸術家たちを弾圧するが、その一方で貴族の妻を合法的に強姦したり、禁止されている集団ドラッグでトリップを行ったりする。ロシア正教の復興、ナショナリズムの高揚、孤立主義、外国人嫌悪(クセノフォビア)、反西洋・反米主義といった、「プーチンのロシア」で目立つ傾向が古のロシア像と見事に融合されているが、その一方で、発展する中国の影響からは逃れられず、街には中国人や中国の製品が溢れ、英語ではなく中国語を話せることがロシア人のステータスとなっているなど、随所でソローキンならではの痛烈な皮肉が効いている。

ブラッドベリの古典ディストピア小説『華氏451度』では自由な思考を禁じるために本が燃やされるが、上に紹介した二つのディストピア小説では、その反対に「文学」が国民を統制するための有力な手段として登場している。90年代のロシアでは文学の権威の失墜が喧伝されたものだが、こうした近年の傾向はロシアのいわゆる「文学中心主義」の伝統がいまだ廃れていないことを物語っている。

若手作家フセヴォロド・ベニグセン(1973-)の『ゲナツィード』(2009)は、そんな「文学ディストピア」を描いたユニークな作品である。とある田舎町に「文学遺産保護」のため国民にロシア文学の古典を暗記させよという大統領令が施行され、無教養な住民たちは前衛的な超意味(ザーウミ)詩やら小説の断片やらを闇雲に暗記させられるが、やがて事態は当初の企図から逸れはじめる。住民たちは「韻文派」と「散文派」に別れ、文学の内容とは無関係な暴力的対立が起き、チェーホフを読んだせいで生きる意味がわからなくなり自殺する者まで現れる。果ては不安から暴徒と化した住民たちが数少ないインテリである図書館員を殴り殺し、図書館を焼き払うに至る。

また、紙の上だけでなく、今ここにある現実の「ディストピア」と格闘している社会派の作家もいる。反ユダヤ主義的なテーマを扱ったディストピア長編『ЖД(ジェーデー)』(2006)が話題となったドミトリー・ブィコフ(1967-)は文学活動に留まらず、体制を諷刺する詩を人気俳優が朗読するテレビ番組を制作したり、三島由紀夫研究者としても知られる人気の探偵小説作家ボリス・アクーニン(1952-)らとともに反政府集会に積極的に参加するなどして、反プーチン派のリベラルな知識人の代表として活躍している。

おわりに

本稿では現代ロシア文学における「自由」の問題を糸口にして、「新しいリアリズム」の潮流と「ディストピア小説」という、2000年代のロシア文学で注目された二つのトピックスを紹介したが、言うまでもなく、あくまでこれは広大な現代ロシア文学のほんの一端でしかない。本稿を入り口として、現代ロシア文学の広大な世界に足を踏み入れていただければ幸いである。

最後に、現代ロシア文学に関する日本の主な概説書を紹介しておく。

主に2000年代以降の現代ロシア文学全般に関する概説書としては岩本和久『トラウマの果ての声:新世紀のロシア文学』(群像社、2007年)、ボリス・ラーニン、貝澤哉『二一世紀ロシア小説はどこへ行く:最新ロシア文学案内』(ユーラシアブックレット№182、東洋書店、2013年)がある他、女性文学については沼野恭子『アヴァンギャルドな女たち:ロシアの女性文化』(五柳書院、2003年)、SFについては宮風耕治『ロシア・ファンタスチカ(SF)の旅』(ユーラシアブックレット№90、東洋書店、2006年)、現代詩については鈴木正美『どこにもない言葉を求めて:現代ロシア詩の窓』(高志書院、2007年)、文学を含めた現代ロシア文化全般についてのガイドブックとして『ロシア文化の方舟:ソ連崩壊から二〇年』(東洋書店、2011年)などがある。


また、北海道大学スラブ研究センターのHP内にある現代ロシア文学に関するウェブページ(http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/literature/literature-list.html)では、日本の研究者による現代ロシア作家およびその作品についての詳細なレビューや現代ロシア文学に関する論考が数多く公開されており、非常に参考になる。

サムネイル「Памятник Достоевскому (Monument to Dostoevsky)」Adam Baker

http://www.flickr.com/photos/atbaker/100023835/

プロフィール

松下隆志ロシア文学

1984年生まれ。北海道大学大学院文学研究科博士課程。訳書に、ウラジーミル・ソローキン『青い脂』(共訳、河出書房新社、2012年)、『親衛隊士の日』(河出書房新社、2013年)、おもな論文に、「「物語」の解体と再生──ポストモダニズムを超えて」(『ロシア文化の方舟──ソ連崩壊から二〇年』東洋書店、2011年)がある。

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