2014.03.22

現代科学における宇宙観測の進歩や、宇宙探査の困難により、「宇宙SF」の主題はどう変化してきたのだろうか。

「宇宙SF」の主題とは

SFにとって伝統的なペット・テーマである宇宙――宇宙開発、星間文明、異星人との接触といった主題系は、近年やや存在感を弱めているように思われる。マリナ・ベンジャミンのルポルタージュ『ロケット・ドリーム』(青土社)は、従来考えられていたより宇宙航行は生身の人間にとってはるかに過酷であること(放射線被曝、無重力等の人体への悪影響等々)、地球外知的生命探査(SETI)が今のところほとんど成果をあげられていないことなど、現実科学における宇宙探査の困難が、創作としてのSFにも反映していることを指摘する。

たとえば、テレビドラマではあるが、代表的な宇宙SFシリーズであったはずの『スター・トレック』においてさえ、新シリーズにおいては宇宙船内の娯楽用バーチャルリアリティツールである「ホロデッキ」を中心に据えたエピソードが激増している。すなわち、物理的な宇宙空間は、ポップカルチャーにおける想像上のフロンティアの地位を、バーチャル・リアリティたる電脳空間に譲渡しつつある、というのである。

宇宙を舞台とするSFがすっかり消え失せてしまっているわけではないが、明らかな様変わりは見られる。たとえば日本で独自に編まれたアンソロジー『ワイオミング生まれの宇宙飛行士 宇宙開発SF傑作選』(ハヤカワ文庫SF)に収録された作品の多くは「もしアポロ計画が21世紀まで継続していたら」といった「歴史改変SF」である。そこでは宇宙開発は露骨に「過ぎ去りし未来」(ドイツの思想史家ラインハルト・コゼレックの表現)として扱われているのである。無論、キム・スタンリー・ロビンスン『レッド・マーズ』(創元SF文庫)、小川一水『第六大陸』(ハヤカワ文庫JA)といった、最新の科学的知見を踏まえたド直球の宇宙開発SFも相変わらず書かれているとはいえ、こうした捻くれた潮流の台頭はなかなかに興味深い。

本格的に同時代の宇宙物理学・天文学の成果を踏まえて、人類の宇宙進出や星間文明を描こうとする作品もあるが、今日では、そうした作品は同時にポストヒューマンSFとなってしまっていることが多い。たとえばスティーヴン・バクスター『タイム・シップ』(ハヤカワ文庫SF)はH・G・ウェルズの古典『タイム・マシン』の続編という体裁をとっているが、そこに描かれる超未来では、人類の子孫が自己複製能力を持つ自律型ロボット宇宙船を飛ばして、数百万年をかけて銀河全体を植民地化している。しかしながらそこには現存人類と同じ身体を備えた「人間」はもう存在していない。銀河のあらかたの星はダイソンスフィア(物理学者フリーマン・ダイソンが考案したシステム。恒星を球殻で包み込み、そのエネルギーのほとんどを回収して利用する。『宇宙をかき乱すべきか ダイソン自伝』(ちくま学芸文庫)、他)で囲まれ、星空は暗い。

もう少し我々に近しいポストヒューマンたちの宇宙進出を描く作品としては、たとえばグレッグ・イーガン『ディアスポラ』(ハヤカワ文庫)があるが、ここでのビジョンも相当に異様である。そこで描かれる未来の地球と太陽系では、遺伝子操作によって身体を改変しているが、なおDNAベースの普通の「生物」として地球上で生活する「肉体人」、機械の身体を持ちコンピュータの上で「心」を動かしている自律型ロボットとして、主に地球外で生活する「グレイズナー」、そして機械の身体さえ持たない純然たるソフトウェア(我々のインターネット用語でいえば「ボットbot」)として、地球上にメインマシンを置きつつ太陽系中にバックアップ機構を備えた電脳空間「ポリス」で暮らす「市民」の、大まかにいって三種類の「人間」が存在する。

この地球がある日、予想外のガンマ線バーストの直撃を受けるが、直接的に壊滅的な被害を受けるのは「肉体人」たちだけである。にもかかわらず、既知の物理学による予想を覆して起きたこの現象の真相を解明するために、「市民」たちもまた単なる観測にとどまらない、より能動的な外宇宙探査計画を実行する。

「市民」らの宇宙船は基本的には先述のロボット宇宙船と変わらない。ただしそこに乗せるデータは自分たちの「ポリス」そのものである。一千個の「ポリス」のクローン・コピーを載せた宇宙船がめいめい勝手に宇宙を探査するが、航行自体は心を持たない自動メカニズムに任され、興味深い対象にあたった時のみ「市民」たちが覚醒する、という仕組みである。「ポリス」の「市民」たちの多くはかつて「肉体人」であり、死に際してソフトウェアに移行した存在であるため、「肉体人」由来の伝統的な心理やアイデンティティをなお引きずっているが、それでもその死生観は、このようにコピー増殖や中断、再生を許容する以上、有限な一本道の生を送る我々のそれとは、相当に異なったものにならざるを得ない。

既知の物理法則によって禁じられている超光速での宇宙航行の可能性はもちろんのこと、物理法則が許容する亜光速航行でさえ、充分に実現可能な技術構想としては、現在のところその目途は立っていない。ひところは亜光速飛行による「ウラシマ効果」で、少なくとも宇宙飛行士当人にとっては、生身の人間の寿命が十分許すスケジュールでの恒星間航行が可能となる(百光年単位の旅でも、宇宙船内部の経過時間は数年単位以下にできる)、と想定され、この設定に基づく宇宙探検SFも数多く書かれた(その極北に立つのが、事故で停止することができなくなり、光速に向けてひたすら加速し続けて宇宙の終末と再生に出会う宇宙船を主人公とするポール・アンダースン『タウ・ゼロ』(創元SF文庫)である)が、現実的に考えると燃料・推進剤が膨大となるという問題、宇宙船の速度を上げると微細な星間物質との衝突さえ致命的となるという問題、またそれらを同時に解決すると思われた、星間物質を燃料とする「バサード・ラムジェット」方式(『タウ・ゼロ』もこのアイディアをもとにしている)にも具体的には様々な難点が指摘されたことなどから、いつしかこの「ウラシマ効果」ものも流行らなくなってしまった。

また、宇宙観測の進歩によって、既に太陽系外に多数の惑星の存在が確認されているものの、いまだに文明、知的生命の徴候さえ発見できない。そのような状況下で、宇宙は徹底的に人間向きの環境ではないという認識が、フィクションの世界にさえ浸透しつつある。その中で外宇宙を舞台にした物語を紡ごうとするならば、その主人公たちは、今ある人間とは大いにその性質が異なった存在として想定せざるを得ない――現代SF作家の少なからずは、その認識に到達しつつあるようだ。すなわち、今後宇宙SFは、ポストヒューマンSFになっていかざるを得ないのではないか、と。

たとえばバクスターやイーガンの宇宙植民システムをかえりみてみればよい。そこにおける宇宙船は、「有人」船でさえ、実際には生身の肉体を備えた人間を乗せていない。それゆえに、人間の「生存」を維持するに足るサポートシステムを搭載する必要もない。平たくいえば、人間(ならびにその周辺)の「情報」を維持するに足るコンピュータ・システムしか搭載する必要がないのだ。

だからそこで想定されている宇宙船は、信じられないほど小さく、軽い――それこそ生身の人間程度の質量しか想定されていない。それを推進するのに必要な燃料・推進剤も、勢いごくわずかとなる。さらに乗員が物理的に帰還する必要がない――どうしても地球に「帰還」したければ、行先での学習成果を取得した人格データを、通信機で返信すればよい――ことを考えれば、本来往復の航程それぞれにおける加速・減速に必要な燃料・推進剤を、単純計算で往路分だけの半分に節約することができる。極端な話、行きは発射基地のカタパルトで打ち上げ、目的地での減速にも光子帆(太陽帆。宇宙空間で展開した帆にあたる恒星からの光子の反作用によって推進する航法)などを使えば、ほとんど積載しなくてもよい。このようなシステムをとるのであれば、亜光速航行もそれほど困難ではないことになる。

「超人類」とオカルト

しかしこのような宇宙旅行の主体とは、いったいどのような存在なのか? 生物学的身体はおろか、そもそも物理的身体さえ有さない、単なるデータとして普段は存在するだけの「人間」とは?

従来のSFにおいても、生物進化のイメージを人間の未来に投影した「超人類もの」とでもいうべきジャンルは存在した。しかし20世紀半ばまでのそれは(しばしば核戦争などの放射能汚染の結果増大した)遺伝的突然変異によって、超能力――テレパシー、念力等――を備えるようになった新たな人類の変種を主人公とするものが典型であって、非常に限定され、偏向したものであった。その流行は文化史的に見れば、ダーウィニズムの通俗的理解という土壌の上に、19世紀末のオカルト・心霊ブームが折り重なってできあがった、多分に偶然的な現象であったといえる。

たとえばSFのみならずミステリーの先駆者・プロトタイプ確立者であるアーサー・コナン・ドイルの晩年における心霊主義への傾倒は有名である。(かの『ロスト・ワールド』に連なるチャレンジャー教授シリーズの掉尾を飾る『霧の国』(創元SF文庫)のテーマは、死後の霊魂の実在である。)また「科学的にリアルなSF」を志向したアメリカSF中興の祖というべき編集者J・W・キャンベルJr.が、科学趣味と同時に心霊趣味に浸かっており、超能力を「非科学的」と排除しなかったことも興味深い。もちろん第二次大戦以降は、原子爆弾以降の核戦争への不安も貢献しているし、さらにはホロコースト、公民権運動を通過することによって人種問題のメタファーとしてもはたらいている。

こうした「超人類」というテーマと、宇宙の歴史についてのスペキュレーションを交錯させる作品もまた、枚挙にいとまがない。スペース・オペラ(「宇宙を舞台とした西部劇horse opera」、つまり宇宙冒険SF。映画『スター・ウォーズ』はこの伝統の上に立つものである)の古典とされるE・E・スミスの「レンズマン」シリーズ(創元SF文庫)は、進化の果てに超能力によって宇宙の覇権を握った二大種族による代理戦争として銀河系の歴史を描くが、そこで活躍する戦士たち――覇権種族によって進化の過程に介入され、選抜育成された有望種出身のエリート――もまた当然知的に超テクノロジーのみならず超能力を駆使する。(「レンズマン」の「レンズ」とはIDカード兼テレパシー通信機であるが、トップクラスのレンズマンや一部の種族はレンズなしでも超能力を発揮する。)

下っては戦後SF黄金期の立役者の一人とされるアーサー・C・クラークが、こうした志向の代表者とみることができる。代表作たる『幼年期の終わり』(光文社古典新訳文庫他)はもちろん、スタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』の小説版(ハヤカワ文庫SF)に始まる連作には、進化の果てに生命が知性を、さらには霊性をも獲得するというティヤール・ド・シャルダン風のビジョンが色濃く出ている。

日本においても小松左京の最盛期の作品には、そうした発想が濃厚にみられる。代表的長編の一つ『果しなき流れの果に』(ハルキ文庫他)の他、「神への長い道」(『小松左京セレクション2 未来』河出文庫他)などが宇宙における知性の進化と霊性との関係についての思弁を展開した代表作である。まんがにおいても石森(石ノ森)章太郎『リュウの道』『サイボーグ009 神々との闘い』(秋田文庫他)を挙げることができよう。

「ポストヒューマン」

しかしながら今日「ポストヒューマン」と呼ばれている問題群は、そうした従来のオカルト的「超人類」とは一線を画す――とはいわないまでも、やや異なった方向を向いている。物理法則を逸脱した心理現象としての「超能力」はもはやほとんど主題とはならない。そこでは自然な生物進化とともに、というよりそれ以上に人為的な技術による人間ならびに人間以外の生物、生態系の改造の可能性が語られる一方で、生命現象を本質的に情報-計算過程と見なすリチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店)以降の生命観の転回を承けて、従来「ロボット」として「超人類」とは別カテゴリーに入れられていた問題群が、あわせて語られるようになった。

すなわち、生物は「自然発生した自律型ロボット」として、逆に(自律型)ロボットは「人為的につくられた擬似生物」として、存在論的に連続したものとして描かれるようになった。のみならず、「心」もまた、生物―ロボットを動かすソフトウェアの一種として理解され、そのソフトを物理的な実体としての生物―ロボットに実装する前に、あるいはそもそも実装せずにシミュレーションとしてのみ動かす、というアイディアとして、古くからある「人工知能」の概念も更新され、その副産物として「人工生命」なる概念が生じる。さらにまた、この生命シミュレーションが機能するためには、当然それを取り巻く「環境」「世界」のシミュレーションもまた必要となる。この「世界」シミュレーション=サイバースペース(電脳空間)を、生身の人間がデバイスを介して体験する、というのがいわゆる「バーチャル・リアリティ」である。

これら「ポストヒューマン」の問題群は、創作の世界では80年代のいわゆる「サイバーパンク・ムーヴメント」においてほぼその原型ができあがっている。ブルース・スターリング『スキズマトリックス』(ハヤカワ文庫SF)では、宇宙に進出した人類が生物工学的に自らを変容させていく様を描き出し、ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』(ハヤカワ文庫SF)では、バーチャル・リアリティ世界での生活が現実の物理生活と同等かそれ以上の意義を持つようになってしまった人々が描かれた。

さらにグレッグ・ベア『ブラッド・ミュージック』(ハヤカワ文庫SF)では、遺伝子操作の結果誕生した知性を持つ細菌が、地球上すべての生物を取り込んで一個の巨大なコンピュータと化し、内部で延々と――ひとりひとりの人間の意識をも含めた――世界シミュレーションを反復するようになる。これらの作品群の背後には、ドーキンスによる生命=情報観やそれを受けたダニエル・デネットの「神経系上のバーチャル・マシーンとしての意識」論(デネット『解明される意識』(青土社)他)、そしてそれを取り巻くいわゆる「認知革命」が着想源として存在する。先述のイーガンの作品もまさしくこうした流れの上に位置づけることができる。

こうした「サイバーパンク・ムーヴメント」に少しく先行した流れとしては、ジョン・ヴァーリイの「八世界」連作(『残像』『へびつかい座ホットライン』(ハヤカワ文庫SF)他)もまた忘れ難い印象を残す。正体不明の侵略者によって地球を追われた人類は、太陽系近傍を通過する謎のレーザー通信「へびつかい座ホットライン」を解読して得られたテクノロジーをもとに、月や火星、金星、さらには木星の衛星や小惑星帯のドーム都市やコロニーを拠点として、サイボーグ手術や遺伝子改良などの処置を自らに施すことによって環境に適応し、生きのびていく――というその設定は、70年代においては非常に先駆的なものであった。

しかしながらヴァーリイの「八世界」においては、性転換やクローン、人工臓器がどれほど多用され、人体が改造されようと、ヒトの遺伝子それ自体に対する直接的な操作に対しては強烈な禁忌が課せられていた。改造によって如何に怪物的な身体に変容しようと、それは機械の人体への接続や、せいぜい臓器、細胞レベルの改造にとどまり、ヒトのDNAそのものの改変は堅く禁じられる世界が描かれていた。しかしながら「サイバーパンク」以降、こうした禁忌はやすやすと踏み越えられた。そして、自然な人間と遺伝子レベルでの改造人間との差異どころか、人間とロボット、さらにはソフトウェアの間の差異でさえトリヴィアルなことに過ぎない世界へと、現代SFは到達してしまったのである。

「異様なるもの」の可能性

そのような展開の中で、宇宙を舞台にしたSFにおけるかつての最重要テーマであった異星人、地球外知的生命との接触、交渉という主題系も、昔に比べるとやや存在感を減じているように思われる。

かつてのスペース・オペラにおいては、知的生命でいっぱいの宇宙は、そのままたくさんの民族、たくさんの国家が相争う地球の人類社会のメタファーであり、異星人との接触という主題は、超人類やロボット同様、人種・民族問題の寓話であった。この伝統はそれなりに豊かな成果を生んでおり、たとえばミリタリーSFの古典ジョー・ホールドマン『終りなき戦い』(ハヤカワ文庫SF)や、オースン・スコット・カードの『エンダーのゲーム』(ハヤカワ文庫SF)に始まる連作、さらに近年ではジョン・スコルジーの『老人と宇宙(そら)』シリーズ(ハヤカワ文庫SF)が興味深い。

しかしながら、そのような単なるメタファー・寓話を超え、我々人間の知る地球とは異質な世界における異質な生命、知性についての生真面目な思考実験に挑み、そこから逆に「そもそも知性とは、人間とは何か?」という哲学的主題へと挑戦するシリアスな作品群もあった。なかでもスタニスワフ・レムやストルガツキー兄弟は、アンドレイ・タルコフスキーによる映画化(レムの『ソラリス』(ハヤカワ文庫SF、国書刊行会)、ストルガツキーの『ストーカー』(ハヤカワ文庫SF))のおかげもあって広く注目され、尊崇を集めた。だが、現代ではこうした異星人というモチーフは、娯楽作品としてのスペース・オペラにおける「お約束」として登場する場合を除けば、SFにおける存在感を以前に比べれば減じている。(その中ではたとえば我が国の野尻抱介『太陽の簒奪者』(ハヤカワ文庫JA)は貴重な例外である。)なぜだろうか?

先述した現実のSETIが既に長い歴史を有しながらも、いうに足る成果を依然としてあげていないこと、それを踏まえつつ今日の宇宙論が、宇宙における知的生命の希少性の方にむしろコミットしつつあること(この辺についてはスティーヴン・ウェッブ『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由』(青土社)が啓発的である)は、確実にこの傾向に対して影響している。

しかしそれだけではない。シリアスなSFにおける、人間とは異質な「他者」としての役割を、異星人に担ってもらう必要がなくなってきた、ということでもある。すなわち、我々人類の文明が、その存続の間に宇宙の他の天体出身の生命、知性、文明と出会う可能性は、従来考えられていたよりも低いことがわかってきた一方で、我々人類の文明が今後とも続き、生きのびて宇宙空間に進出していくのであれば、その中で我々現在の人類の広い意味での子孫、後継者たち(その中にはロボット、ボットも含まれる)は、文化的にのみならず、心理的、生物学的、あるいはそれこそ哲学的にも、現在の我々とはきわめて異質な(すなわち、ポストヒューマンな)存在へと変容していくだろうこともまた、わかってきたからである。人類が宇宙に進出したとき、そこで異星人(エイリアン)に出会うことができるかどうかはさだかではない。しかしながら、成功裏に宇宙に進出しえた時、その人類(の末裔)は、我々現存の人類にとっては、まさしく異質な存在(エイリアン)になっているはずなのだ。

考えてみれば、従来の宇宙SFにおいて「超光速」という設定がしばしば採用されてきた理由は、宇宙空間を現在の、生身の人間にとって横断可能とし、生身の人間を主体とする恒星間文明社会を可能とさせるための便法であったことがわかる。(林譲治「超光速は本当に必要か?」http://www.asahi-net.or.jp/~zq9j-hys/idea12.htm 他を参照のこと。)「異星人で一杯の宇宙」という設定もまた、宇宙空間が単なる観測や、せいぜい心なきロボットによる探査にとどまらず、実際に生身の人間がそこに足を運ぶに足る――自分と同じく「心ある者」に出会いうる空間であるためのものだったのだ。20世紀後半以降の現実の科学の発展は、そうした想像力の余地をどんどん掘り崩していった。しかしながらその代り、別種の「異様なるもの」の可能性が我々の眼前には立ち現れつつある――宇宙SFの発展と変容の歴史は、そうした示唆を与えてくれるように思われる。

付録:宇宙を扱ったおすすめのSF私選(本文中で触れられなかったものを中心に)

■エドモンド・ハミルトン『フェッセンデンの宇宙』(河出文庫)

スペース・オペラ全盛期の中心的な作家(日本でアニメ化もされた「キャプテン・フューチャー」シリーズ(創元SF文庫他)が著名)であり、アメリカン・コミックスのシナリオライターとしても膨大な仕事を残した作家の代表的な短編、表題作「フェッセンデンの宇宙」と「向こうはどんなところだい?」(別題「何が火星に?」)を収録したアンソロジー。

「フェッセンデン」は「実験室における人工宇宙の創造」という古典的な、しかしいまやアカデミックな宇宙論研究でも論じられるテーマを提示したあまりにも有名な作品。「向こうは」は当時のSFにおいて宇宙探検物語が「天才科学者の発明」から出発することが多かったのに対して、初めて政府・軍隊が主導する巨大プロジェクトとしての火星探検・開発を、夢も希望もない悲惨なリアリズムで描いた先駆作。火星に斃れた同僚の実家を訪問する主人公が古いSF雑誌のコレクションに遭遇するあたり、SF的夢想と現実との断絶について描いた、メタSFとしての側面をも持つ。

■フレドリック・ブラウン『天の光はすべて星』(ハヤカワ文庫SF)

これも「SF的夢想と現実との断絶」を非常に早期(1950年代)に主題化した作品。奇想を武器にSFとミステリー双方にまたがって活躍した作家の珍しくシリアスな長編で、「未来の普通小説」といった線をねらって書かれたもの。宇宙開発が火星基地の建設という踊り場まで来たところで停滞してしまった未来(といっても20世紀末)のアメリカで、木星ロケット計画の実現のために奔走する元宇宙飛行士の姿を描く苦いメロドラマ。

今では歴史的価値しか持たない作品だが、そう割り切って読んでみるとなかなか面白い。宇宙開発への壮大な夢が「過ぎ去りし未来」となったわれわれの現状を、結果的には見事に予言してしまっている。自分の書くSFもまたそうした「夢」の一部に他ならないことをブラウンが十分に自覚していることは、少年時代の主人公をとりこにしたSF小説を、いまやナンセンス奇想SFの古典として名高い自著『発狂した宇宙』(ハヤカワ文庫SF)にしているあたりに十分にうかがわれる。この意味でハミルトン「向こうは」と対をなす作品である。

ちなみに、なぜか今でも日本では新刊が手に入り、結構読まれている。

■オラフ・ステープルドン『最後にして最初の人類』『スターメイカー』(国書刊行会)

「ポストH・G・ウェルズ」ともいうべきイギリスの古典SF。前者は十億年以上にわたる地球人類の未来史を、そして後者はその地球人類史をも泡沫に帰せしめてしまう、広大な宇宙における多様な宇宙生命の興亡の歴史を語る。ダイソンが「ダイソンスフィア」の着想を得たのは後者からである。どちらも小説として面白いものではない。小説として読めるものを求める方には「超人類もの」の古典にして最高作であるステープルドン『オッド・ジョン』(ハヤカワ文庫SF)を勧める。

■ロバート・フォワード『竜の卵』『スタークエイク』(ハヤカワ文庫SF)

物理学・天文学の知識を動員して、架空の天体と、そこにおける生物、そして文明を――つまりはリアルな「異星人」を描こうというSFは一定数存在する。その中でも古典というべきものが、重力が赤道直下で3G、極地では600G以上に達する惑星に生きるムカデ型知的生命を主人公にしたハル・クレメント『重力の使命』(ハヤカワ文庫SF)であるが、小説としても今日の科学知識の水準からしても、今読むにはちょっとつらい。それに対してこの連作は(それでももう30年前のものだが)現代版『重力の使命』を意識してプロの科学者が書いたもので、中性子星の上に生きる知的生命と人間との接触を描いており、もう少し新鮮な気持ちで読めるはず。

しかしこの路線の上でもっと今日的な、読むに堪えるSFが読みたい場合には野尻抱介『太陽の簒奪者』、グレッグ・イーガン『ディアスポラ』、そしてなにより、銀河中心の超巨大ブラックホールを周回する小惑星に暮らす生命体を主人公としたグレッグ・イーガン『白熱光』(早川書房)を読むべきであろう。ただし相当に難物。著者のサイトにおける科学解説(英語)なしではつらい。

■ジョー・ホールドマン『終りなき戦い』(ハヤカワ文庫SF)

『機動戦士ガンダム』の原型となったことでも著名なロバート・A・ハインライン『宇宙の戦士』(ハヤカワ文庫SF)以来、スペース・オペラの変種としてのミリタリーSFはアメリカを中心に一定の隆盛を誇っているが、ヴェトナム帰還兵によってものされた本書はその中でも古典的な位置を占めている。正体不明(行動原理が今一つ理解不能)な異星人との、広大な宇宙を舞台として千年にも及ぶ戦争が、末端の一兵士の眼から淡々と描かれる。超空間航行と亜光速航行を併用する遠征で、「ウラシマ効果」により故郷と同胞から百年単位の時間の壁によって隔てられる兵士たちの悲哀は、そのままにヴェトナム帰還兵の運命のメタファーとなっている。

なお現行の日本語訳は1974年刊の初版に準拠しているが、本書の真骨頂は90年以降流通している「決定版」(未訳)の方にある。そこでは編集部の意向によってマイルドに書き直された初版の第二部の代わりに、本来の第二部が収録されており、いったん退役した主人公が地球に戻って何を見るか、についての物語が初版とは全く別物となっている。こちらを読んで初めて、主人公が(そして著者が)戦地から帰還して、どれほど打ちのめされたのか、が少しだけ理解できる。

現代的なミリタリーSFで、なおかつアクションにとどまらず、知性とは文明とはといったシリアスSFっぽい思弁をも提供してくれるものとしては、ジョン・スコルジー『老人と宇宙(そら)』連作がおすすめである。

■ロバート・J・ソウヤー『スタープレックス』(ハヤカワ文庫SF)

「現代宇宙論の成果を踏まえて「スター・トレック」を無理やりバージョンアップしました」的な作品。超光速(というよりワープ航法)という大嘘は大目に見てあげてほしい。ダークマターの正体とか膨張を続ける宇宙の未来とかいった20世紀末の時点での現代宇宙論のテーマを、無理やりスター・トレック風の宇宙冒険譚、スペース・オペラの箱に収めている。それでも今日、21世紀の研究水準からすれば古びてしまっているのだが……。なお『タウ・ゼロ』も70年代初頭という時点での宇宙論SFとしての側面を持つ。

■小松左京『虚無回廊』(徳間書店他)

小松左京の未完となった最後の長編SF。小説家としての早すぎる晩年において書かれた、未完であるにもかかわらずきわめて完成度の高い、読ませる小説である。「人工実存(つまりは人格を備えたロボット。自己を複数のサブ人格に分割することもできる)」による宇宙探査、異文明との接触を描いている。主人公の地球出身のロボットのみならず、直接接触する相手もまた「人間」ではなく異文明の送り出した探査ロボットであるあたり、先駆的なポストヒューマンSFともなっている。

■星野之宣『2001夜物語』(双葉社)

日本SFまんがの第一人者の代表作。非常に乱暴にいえば「80年代までの宇宙SFを一つの作品として総括する」力技である。

■長谷川裕一『マップス』(メディアファクトリー)『マップスネクストシート』(フレックスコミックス)

シリアス寄りの宇宙SFまんがを星野に代表させるとしたら、荒唐無稽なスペース・オペラとしてはこちらにとどめを刺す。発想としてはソウヤー『スタープレックス』、あるいはベア『ブラッド・ミュージック』と似ているが、娯楽作品としての楽しさではこちらに軍配を上げざるを得ない。

■あさりよしとお『アステロイド・マイナーズ』(徳間書店)

現時点においておそらくはもっともリアルでハードな宇宙開発まんが。オムニバス形式で、近未来の宇宙開発――主として地球周回軌道と、小惑星帯が舞台となる――を軽妙なタッチで描いている。作品世界の背景となる基本的な認識は、著者がイラストで協力した野田篤司『宇宙暮らしのススメ』(学研)に依拠している。著者は日本随一の科学学習まんが『まんがサイエンス』(学研)の作者として、またアマチュアのロケット製作者として著名。

(本稿はα-synodos vol.141からの転載です → https://synodos.jp/a-synodos )

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プロフィール

稲葉振一郎社会哲学

1963年生まれ。明治学院大学社会学部社会学科教授。専門は社会哲学。著作『社会学入門』(NHK出版)、『オタクの遺伝子』(太田出版)など多数。

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