「宇宙SF」の現在――あるいはそのようなジャンルが今日果たして成立しうるのかどうか、について

現代科学における宇宙観測の進歩や、宇宙探査の困難により、「宇宙SF」の主題はどう変化してきたのだろうか。

 

 

「宇宙SF」の主題とは

 

SFにとって伝統的なペット・テーマである宇宙――宇宙開発、星間文明、異星人との接触といった主題系は、近年やや存在感を弱めているように思われる。マリナ・ベンジャミンのルポルタージュ『ロケット・ドリーム』(青土社)は、従来考えられていたより宇宙航行は生身の人間にとってはるかに過酷であること(放射線被曝、無重力等の人体への悪影響等々)、地球外知的生命探査(SETI)が今のところほとんど成果をあげられていないことなど、現実科学における宇宙探査の困難が、創作としてのSFにも反映していることを指摘する。

 

たとえば、テレビドラマではあるが、代表的な宇宙SFシリーズであったはずの『スター・トレック』においてさえ、新シリーズにおいては宇宙船内の娯楽用バーチャルリアリティツールである「ホロデッキ」を中心に据えたエピソードが激増している。すなわち、物理的な宇宙空間は、ポップカルチャーにおける想像上のフロンティアの地位を、バーチャル・リアリティたる電脳空間に譲渡しつつある、というのである。

 

宇宙を舞台とするSFがすっかり消え失せてしまっているわけではないが、明らかな様変わりは見られる。たとえば日本で独自に編まれたアンソロジー『ワイオミング生まれの宇宙飛行士 宇宙開発SF傑作選』(ハヤカワ文庫SF)に収録された作品の多くは「もしアポロ計画が21世紀まで継続していたら」といった「歴史改変SF」である。そこでは宇宙開発は露骨に「過ぎ去りし未来」(ドイツの思想史家ラインハルト・コゼレックの表現)として扱われているのである。無論、キム・スタンリー・ロビンスン『レッド・マーズ』(創元SF文庫)、小川一水『第六大陸』(ハヤカワ文庫JA)といった、最新の科学的知見を踏まえたド直球の宇宙開発SFも相変わらず書かれているとはいえ、こうした捻くれた潮流の台頭はなかなかに興味深い。

 

本格的に同時代の宇宙物理学・天文学の成果を踏まえて、人類の宇宙進出や星間文明を描こうとする作品もあるが、今日では、そうした作品は同時にポストヒューマンSFとなってしまっていることが多い。たとえばスティーヴン・バクスター『タイム・シップ』(ハヤカワ文庫SF)はH・G・ウェルズの古典『タイム・マシン』の続編という体裁をとっているが、そこに描かれる超未来では、人類の子孫が自己複製能力を持つ自律型ロボット宇宙船を飛ばして、数百万年をかけて銀河全体を植民地化している。しかしながらそこには現存人類と同じ身体を備えた「人間」はもう存在していない。銀河のあらかたの星はダイソンスフィア(物理学者フリーマン・ダイソンが考案したシステム。恒星を球殻で包み込み、そのエネルギーのほとんどを回収して利用する。『宇宙をかき乱すべきか ダイソン自伝』(ちくま学芸文庫)、他)で囲まれ、星空は暗い。

 

もう少し我々に近しいポストヒューマンたちの宇宙進出を描く作品としては、たとえばグレッグ・イーガン『ディアスポラ』(ハヤカワ文庫)があるが、ここでのビジョンも相当に異様である。そこで描かれる未来の地球と太陽系では、遺伝子操作によって身体を改変しているが、なおDNAベースの普通の「生物」として地球上で生活する「肉体人」、機械の身体を持ちコンピュータの上で「心」を動かしている自律型ロボットとして、主に地球外で生活する「グレイズナー」、そして機械の身体さえ持たない純然たるソフトウェア(我々のインターネット用語でいえば「ボットbot」)として、地球上にメインマシンを置きつつ太陽系中にバックアップ機構を備えた電脳空間「ポリス」で暮らす「市民」の、大まかにいって三種類の「人間」が存在する。

 

この地球がある日、予想外のガンマ線バーストの直撃を受けるが、直接的に壊滅的な被害を受けるのは「肉体人」たちだけである。にもかかわらず、既知の物理学による予想を覆して起きたこの現象の真相を解明するために、「市民」たちもまた単なる観測にとどまらない、より能動的な外宇宙探査計画を実行する。

 

「市民」らの宇宙船は基本的には先述のロボット宇宙船と変わらない。ただしそこに乗せるデータは自分たちの「ポリス」そのものである。一千個の「ポリス」のクローン・コピーを載せた宇宙船がめいめい勝手に宇宙を探査するが、航行自体は心を持たない自動メカニズムに任され、興味深い対象にあたった時のみ「市民」たちが覚醒する、という仕組みである。「ポリス」の「市民」たちの多くはかつて「肉体人」であり、死に際してソフトウェアに移行した存在であるため、「肉体人」由来の伝統的な心理やアイデンティティをなお引きずっているが、それでもその死生観は、このようにコピー増殖や中断、再生を許容する以上、有限な一本道の生を送る我々のそれとは、相当に異なったものにならざるを得ない。

 

既知の物理法則によって禁じられている超光速での宇宙航行の可能性はもちろんのこと、物理法則が許容する亜光速航行でさえ、充分に実現可能な技術構想としては、現在のところその目途は立っていない。ひところは亜光速飛行による「ウラシマ効果」で、少なくとも宇宙飛行士当人にとっては、生身の人間の寿命が十分許すスケジュールでの恒星間航行が可能となる(百光年単位の旅でも、宇宙船内部の経過時間は数年単位以下にできる)、と想定され、この設定に基づく宇宙探検SFも数多く書かれた(その極北に立つのが、事故で停止することができなくなり、光速に向けてひたすら加速し続けて宇宙の終末と再生に出会う宇宙船を主人公とするポール・アンダースン『タウ・ゼロ』(創元SF文庫)である)が、現実的に考えると燃料・推進剤が膨大となるという問題、宇宙船の速度を上げると微細な星間物質との衝突さえ致命的となるという問題、またそれらを同時に解決すると思われた、星間物質を燃料とする「バサード・ラムジェット」方式(『タウ・ゼロ』もこのアイディアをもとにしている)にも具体的には様々な難点が指摘されたことなどから、いつしかこの「ウラシマ効果」ものも流行らなくなってしまった。

 

また、宇宙観測の進歩によって、既に太陽系外に多数の惑星の存在が確認されているものの、いまだに文明、知的生命の徴候さえ発見できない。そのような状況下で、宇宙は徹底的に人間向きの環境ではないという認識が、フィクションの世界にさえ浸透しつつある。その中で外宇宙を舞台にした物語を紡ごうとするならば、その主人公たちは、今ある人間とは大いにその性質が異なった存在として想定せざるを得ない――現代SF作家の少なからずは、その認識に到達しつつあるようだ。すなわち、今後宇宙SFは、ポストヒューマンSFになっていかざるを得ないのではないか、と。

 

たとえばバクスターやイーガンの宇宙植民システムをかえりみてみればよい。そこにおける宇宙船は、「有人」船でさえ、実際には生身の肉体を備えた人間を乗せていない。それゆえに、人間の「生存」を維持するに足るサポートシステムを搭載する必要もない。平たくいえば、人間(ならびにその周辺)の「情報」を維持するに足るコンピュータ・システムしか搭載する必要がないのだ。

 

だからそこで想定されている宇宙船は、信じられないほど小さく、軽い――それこそ生身の人間程度の質量しか想定されていない。それを推進するのに必要な燃料・推進剤も、勢いごくわずかとなる。さらに乗員が物理的に帰還する必要がない――どうしても地球に「帰還」したければ、行先での学習成果を取得した人格データを、通信機で返信すればよい――ことを考えれば、本来往復の航程それぞれにおける加速・減速に必要な燃料・推進剤を、単純計算で往路分だけの半分に節約することができる。極端な話、行きは発射基地のカタパルトで打ち上げ、目的地での減速にも光子帆(太陽帆。宇宙空間で展開した帆にあたる恒星からの光子の反作用によって推進する航法)などを使えば、ほとんど積載しなくてもよい。このようなシステムをとるのであれば、亜光速航行もそれほど困難ではないことになる。

 

 

「超人類」とオカルト

 

しかしこのような宇宙旅行の主体とは、いったいどのような存在なのか? 生物学的身体はおろか、そもそも物理的身体さえ有さない、単なるデータとして普段は存在するだけの「人間」とは?

 

従来のSFにおいても、生物進化のイメージを人間の未来に投影した「超人類もの」とでもいうべきジャンルは存在した。しかし20世紀半ばまでのそれは(しばしば核戦争などの放射能汚染の結果増大した)遺伝的突然変異によって、超能力――テレパシー、念力等――を備えるようになった新たな人類の変種を主人公とするものが典型であって、非常に限定され、偏向したものであった。その流行は文化史的に見れば、ダーウィニズムの通俗的理解という土壌の上に、19世紀末のオカルト・心霊ブームが折り重なってできあがった、多分に偶然的な現象であったといえる。

 

たとえばSFのみならずミステリーの先駆者・プロトタイプ確立者であるアーサー・コナン・ドイルの晩年における心霊主義への傾倒は有名である。(かの『ロスト・ワールド』に連なるチャレンジャー教授シリーズの掉尾を飾る『霧の国』(創元SF文庫)のテーマは、死後の霊魂の実在である。)また「科学的にリアルなSF」を志向したアメリカSF中興の祖というべき編集者J・W・キャンベルJr.が、科学趣味と同時に心霊趣味に浸かっており、超能力を「非科学的」と排除しなかったことも興味深い。もちろん第二次大戦以降は、原子爆弾以降の核戦争への不安も貢献しているし、さらにはホロコースト、公民権運動を通過することによって人種問題のメタファーとしてもはたらいている。

 

こうした「超人類」というテーマと、宇宙の歴史についてのスペキュレーションを交錯させる作品もまた、枚挙にいとまがない。スペース・オペラ(「宇宙を舞台とした西部劇horse opera」、つまり宇宙冒険SF。映画『スター・ウォーズ』はこの伝統の上に立つものである)の古典とされるE・E・スミスの「レンズマン」シリーズ(創元SF文庫)は、進化の果てに超能力によって宇宙の覇権を握った二大種族による代理戦争として銀河系の歴史を描くが、そこで活躍する戦士たち――覇権種族によって進化の過程に介入され、選抜育成された有望種出身のエリート――もまた当然知的に超テクノロジーのみならず超能力を駆使する。(「レンズマン」の「レンズ」とはIDカード兼テレパシー通信機であるが、トップクラスのレンズマンや一部の種族はレンズなしでも超能力を発揮する。)

 

下っては戦後SF黄金期の立役者の一人とされるアーサー・C・クラークが、こうした志向の代表者とみることができる。代表作たる『幼年期の終わり』(光文社古典新訳文庫他)はもちろん、スタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』の小説版(ハヤカワ文庫SF)に始まる連作には、進化の果てに生命が知性を、さらには霊性をも獲得するというティヤール・ド・シャルダン風のビジョンが色濃く出ている。

 

日本においても小松左京の最盛期の作品には、そうした発想が濃厚にみられる。代表的長編の一つ『果しなき流れの果に』(ハルキ文庫他)の他、「神への長い道」(『小松左京セレクション2 未来』河出文庫他)などが宇宙における知性の進化と霊性との関係についての思弁を展開した代表作である。まんがにおいても石森(石ノ森)章太郎『リュウの道』『サイボーグ009 神々との闘い』(秋田文庫他)を挙げることができよう。

 

 

 

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