2015.02.26

シャルリ・エブドという最悪の事態を生まないために必要なこと

ロラン・ブヴェ 政治学

国際 #シャルリ・エブド#イスラムフォビア

ここ数日で私たちは、かろうじて残っていた純朴さとまではいわないまでも、かすかな希望を失ってしまった。イスラム過激派の活動が遠い海外の出来事ではないことは、前から知らされていた。それが単なる脅威ではなく現実のものであったこと、すぐ近くまで押し寄せていたことも知っていた。武装イスラム集団(GIA)のテロから15年以上が経ってから、2012年3月にモントーバン市とトゥールーズ市で起きたモハメド・メラによる警察官と学童の射殺事件は、フランス本土における新たなタイプのジハーディス・テロの最初の警告となった。

フランス人がこの事件に震撼したのは確かだ。しかし反応はそれ以上のものではなかった。というのも、このテロの標的となったのはイスラム教徒とユダヤ人で(この事件の恐ろしい本質を物語っている)、多くのフランス人は事件を外部の紛争の延長と見なしたからだ。この事件に対する相対的に抑制された反応も、モハメド・メラという「ローン・ウルフ」を迅速に排除できたこともあって、早々に忘れ去られるに至った。それは不公平な態度であり、同胞の犠牲者(トゥールーズの事件では子供が犠牲者だった)にみせる態度としても不適切極まりないものだった。

しかし、今回のテロは事情がまったく異なった。シャルリ・エブドの編集者、職務中の警官、ポルト・ドゥ・ヴァンセンヌの食品店人質事件でのユダヤ人の死は、全国的な、大規模な、多くの注目が集まるような国民的な覚醒をもたらした。わずか数日で、フランスは時代の悲劇の渦に巻き込まれたのである。無自覚や無頓着は、もはや通用しない時代を迎えた。

テロの起きた週末に行進した群衆が一致団結したことは、被った衝撃の深刻さのみならず、国民のうちにテロが意識化されたことを物語るものだった。自らの考えに従ってデモに参加した者もいれば、各国首脳のように、それぞれの思惑を優先した者も確かにいた。しかし私たちは、テロリストなど怖くないと宣言し、同時に犠牲者を追悼するために行進したことは疑いない。

テロの悲劇と続くデモ行進は、私たちがいかに多くを背負うことになったのかを明らかにした。わたしたちは、正しい選択をしなければならない、危機的な時代を生きている。最悪の事態を再び起こさないため、人々は「その後」を作るため協働し、それぞれが貢献することだろう。だから、これから指摘する問題は、わたしたちが体験した惨事と比較すれば副次的なものかもしれない。しかしそれがかなり前から、とくに左派がなおざりにしてきた問題だとすれば、取り上げるのに相応しい問題であるはずなのだ。

「状況を誤解すると、世の災いは増える」(アルベール・カミュ)

「状況を誤解すると、世の災いは増える」とアルベール・カミュは記した。3日間に渡って振るわれた暴力の責は、何よりもテロリストたちが負うべきことである。この評価に異議を唱える者はいないだろう。そして、そのテロリストたちはイスラム教を標榜していた。彼らは、シャルリ・エブドで風刺された預言者ムハンマドの仇をとること、さらにイスラム国への軍事介入の罪をフランスに、パレスチナ攻撃の罪をイスラエルに償わせるためにテロ行為に及んだと公言していた。したがって、これらテロリストたちがジハーディストであること、すなわち暴力を用いて行動する過激化したイスラム教徒であることは間違いない。

こうした事実は、フランスのライシテ(政教分離)の原則に照らし合わせた場合、どのように国民的な議論をすべきで、それをどう考えたらよいのかということについて、多くの示唆を与えるものだろう。

まず、ジハードとイスラムが無関係であるということ、暴力的な過激化が信仰でもたらされる真理や宗教的実践と無関係だとすることは、間違っているばかりか、政治的に非生産的である。テロ実行犯とムスリムを同一視することの間違いと危険は、まさにこの事実を否認することから生まれる。宗教的な事象は、時代を問わずいつも過激派を生み、その暴力が同じ宗派の者、違う宗教を信じる者、不信心者に対して向けられてきたのだ。

それゆえ、そのような事実を指摘することでテロリストとムスリムが同一視され、ムスリムや礼拝所への攻撃につながる危険があるかもしれないということにこそ、一層の注意が払われるべきなのだ。公権力は、宗教を問わず、信教の自由を守ることを使命とする。国民的な議論をするのであれば、テロリストが仮にイスラム教を標榜するとしても、彼らと敬虔なイスラム教徒には関係がないということを前提にして進めるべきだ。

次に、それゆえムスリムやムスリム団体に対して、彼らの宗教の名を騙ったテロ行為を公然と非難するよう求めることは論外である。このような期待をすることがまさにテロリストとイスラム教徒を同一視するような間違いを犯すことになるからだ。それと同じように、テロ行為があったからといって「ムスリム・コミュニティ」を支持するデモをすることも場当たり的かつ無責任な行動である。

保守か左派を問わず、テロリストとイスラム教徒を混同しようとするこうした政治的な見解は、パターナリズム(あるいは植民地主義)の一種だと断定してもよいだろう。それは、まずムスリムを共通の信仰で結びついた単一の集団としてみなし、また彼らが何をすべきか、どうすべきかを理解していない無責任な人々だとみなすからだ。

最後に、イスラム教内部での論争と、その微妙な宗教解釈に首を突っ込むことには慎重であった方が良い。市民から成り立つ場、国民的な議論の場においては、何が良きイスラム教徒であり、何が良き実践なのかについて、外部の者が軽々に口出しすべきことではない。テロリストたちがアウトローとなるのは、自らをどう正当化したのかによってではなく、彼らが行った行為ゆえであるということを忘れてはならない。

もちろん、宗教と政治との間の関係が民主的な空間で生まれているとみなすのであれば、政治的、文化的、イデオロギー的なかたちでその関係を断ち切ろうとする意思も否定されるべきではない。ただ、今課題となっているのは、イスラム教やコーランが矛盾しているかどうかの断定などではなく、信仰心あるなしに関わらず、いかに公共の秩序と個人の自由を両立させ、名高い「共生社会」を作り上げていくか、なのだ。

世界のあらゆる場所で行われているイスラム過激派に対する戦いと、さまざまな宗教的混乱の影響に対する、公共空間における教育と説得を通じての戦いが関連していること、このことは今日では明らかになっている。しかし、法に基づく世俗的な民主主義にあっては、もろもろの秩序を区別し、原因や責任を正確に特定することが本質的なことである。

表現の自由と「イスラムフォビア」

近年ではシャルリ・エブドのような新聞が、とくにイスラム教に対して過大に表現の自由を行使してきたのではないかと、広くメディアを通じて騒々しく告発されてきた。

保守や左派、マスコミの中でも善意に満ちた人々は、宗教過激派との和平を達成するには、風刺画家や批評家は「行き過ぎ」で「つまらなく」、「多くの信徒を傷つけている」と非難しなければならないと考えていたようだ。世俗的な法において不敬も規範のひとつだとするのではなく、不敬な表現が公共空間で普通に受け入れられている類型となっているかのように。こうして、良心的だと自認する人々は、イスラムフォビアの原因は、表現の自由、風刺する権利、すべてを嘲笑する権利、つまりライシテそれ自体にあると間違った判断をするのである。

こうして、信仰についてあれこれと勝手な判断をする者たちの支配下におかれた表現の自由は、最終的には致命的となった政治的な罠にかかり、彼らの意向に沿わないすべての言葉が静かに被い尽くされた。過去数年の間、とりわけムハンマドの風刺画を掲載した時に、シャルリ・エブドに対する批判はこのように強まったのである。

この種の善意が支配する中ではさほど注目されなかったが、当時のシャルリ・エブドへの言葉を用いた暴力がかなりのものだったことを思い出す必要がある。2013年に公開された映画「行進(La Marche)」では、数十名のラッパーが「シャルリ・エブドのイヌたちを火炙りに」と歌っていた。

無意識なのかシニシズムからなのか、暴力と風刺を混同させた彼らは、次のようにその表現を正当化していた。「ラップとは感情であり、ユーモアであり、腹の奥底から湧き出るものだ。シャルリ・エブドは非難されるたび風刺画を振りかざす。だから俺たちが自分たちの歌を振りかざすことも自由なはずだ。俺たちにも誇張とユーモアへの権利があるんだ」。表現の自由についての混同は、いとも簡単かつ単純にひっくり返されてしまったのである。

表現の自由の意味を履き違えて、これよりも巧妙に、しかし同等に危険な批判は、イスラムに対する過激とは言わずとも画一的な見方をする、社会学者・ジャーナリスト・市民活動家グループの宣言にみられる(http://lmsi.net/Pour-la-defense-de-la-liberte-d)。

「表現の自由は脅威にさらされているばかりか、明白な危機にある。国家世俗主義は、風になびく髪を持つムスリム女性こそが良きドレスコードであると法律で定め、彼女たちが好きな服を着る表現の自由を制約している。ムスリム女性がスカーフを巻いているだけで日々向けられる眼差し、悪口、差別はもう沢山だと表現するような自由も制約されている。自らの生活の現状を証言し、公的機関に申し出たいと願う不法滞在者たちの表現の自由も制約されている。公的空間から常に追放される身にあるホームレス、失業者、プレカリアートたちの表現の自由も制約されている。今日、表現の自由は、風刺画家のシャルブ、リュズ、リスと彼らを支持するクロード・ゲアン(元内相)、イヴァン・リウフォル(保守ジャーナリスト)、マリーヌ・ルペン(極右政治家)が守っているだけにすぎない」

ここには全部がある。それぞれにつながりのない様々な訴えの擁護(女性が好きな服を着る自由、ホームレス、失業者とプレカリアート、不法滞在者の自由、ベールを被るムスリム女性の自由)が等置される一方で、シャルリ・エブドの風刺画家、保守系新聞、サルコジ右派、そしてマリーヌ・ル・ペンも等置されている。

ここで注目すべきなのは信用失墜を狙う余り、味噌も糞も一緒くたにしていることだ。その彼らが、ジハーディストとイスラム教徒を同一視してはならないというのである。中でも「国家世俗主義」という呼称が、「国家社会主義」(訳注:ファシズム/ナチス)を連想させようとするものであることを指摘しておこう。意味のすり替え、批判のための混同視、順序の逆転など、シャルリ・エブドとその表現の自由を非難するため、あらゆるものが動員された。

2011年11月初め、シャルリ・エブド編集部が焼き討ちにあった3日後に、この宣言を書いたグループは、次のような別の宣言を出している。

「シャルリ・エブドのジャーナリストたちに同情することはない。物的損害は保険会社が負担するし、最初の風刺画事件の時と同じように、メディアが騒ぎ、雰囲気としてのイスラムフォビアは、瞬間風速的にではあっても、同紙の10倍もの売上げを保証するだろう。要するに、投げ込まれた火炎瓶は、ここ数ヶ月、密かに売上不振や経営難に陥っていたシャルリ・エブド紙の経営状態をふたたび軌道に乗せることになるのだ」

ここ数年、信仰の自由の擁護だけでなくこれを揶揄する自由、つまりはライシテを守ろうとする人々に対して、「イスラムフォビア」という脅しのかたちをとってなされるこうした物言いによって、世間の雰囲気や空気が作り上げられてきた。ここ数日間のうちに、自由の対価として犠牲者の命が奪われたとき、今度はこの自由を守ろうと、人々は1月11日に街頭に繰り出すことになったのである。

私たちが経験した恐ろしいテロ事件でもって、こうした言説に終止符が打たれること、少なくともこの種の言説はメディアで流れることはもうないだろうと期待されたが、実際はそうではなかった。宗教過激派を軽い気持ちで捉える連中は、自分たちの小さな利益やアイデンティティに固執してか、まったく同じかたちでもって表現の自由の意味を捉え損ね、それを再生産している。

かたちではテロリストを非難し、被害者の家族へのありきたりの哀悼の意を済ましてから、シャルリ・エブド襲撃事件は「イスラムフォビア」が生んだ結果であり、「イスラムを悪魔化することで追い込んだ」ことの結果であり、そうでなくとも「国家」や「フランス」の責任だと、様々なものをごっちゃにして論じる声が出てきているのが現状なのである。

きちんと議論をすることの大切さ

良いムスリムであるかどうか、良い信仰形態であるかどうかを淀みなく断言するようなイスラム教の優れた専門家の意見は必要である。だがジハーディズムそのものについての彼らの分析を目にすることはほとんどない。しかし、今日私たちが直面している課題がどのようなものなのか、とくにフランスのテロリストと、彼らが関係しているという中東やアフリカのテロ組織がどのように関連しているのかについて、もっと突っ込んだ意見が求められているのは間違いない。

分断を誘おうとする語り手の意見を聴く限り、シャルリ・エブドのジャーナリストや護っていた警官、ポルト・ドゥ・ヴァンセンヌのユダヤ食品店の客が殺されたのは、彼らがムハンマドの風刺画を書いたからでも、彼らが一般市民を警護していたからでも、彼らがユダヤ人だったからでもない。彼が殺されたのは、社会的な包摂の政策が不十分で、イスラムフォビアの空気が全面化しているフランスにおける不幸な若者たちが、過激化したことの結果だとするのである。彼らには一程度まで言い分があるし、その行動は理解できるものだ、というのだ。

こうした主張は、フランスとフランス人だけでなく、多くの国でジハードの恐怖にさらされて苦しむ数百万のムスリムに対して品位に欠いた、唾棄すべき無責任な意見である。そうだとしたら、こうした主張を行う者に対してどのような態度で接するべきだろうか。この問いは、テロ事件を経験した後で、多くの人に関わる、大事な教訓を導くものとなるはずだ。

テロ事件の後では、こうした御託に、政治家や左派活動家や支持者は耳を傾けるべきではない。とくに、文化的な差異を誇張したり、アイデンティティに基づいて個人や集団を区別することは説得力に欠くものであり、それ以上に、そうしたからといって差別やジハーディストのテロが失くなるものではないということを、肝に銘じるべきである。

依然として注意は必要だ。過去数日のうちに、自分たちのちっぽけな目標のために彼らは死者を利用し、フランス人を相互に対立させ、言葉を弄することに何のためらいを覚えないことが明らかになった。そうさせないことが、党派を問わず、共和主義者、ライシテと市民の平等を擁護する者、表現の自由と多元主義を信じる者、アイデンティティ偏重主義に反対する者すべての役割であるはずだ。それが、自らを襲った悲劇からいち早く立ち直った人々の役割であり、そして二度と悲劇を経験しないために求められていることなのだ。

 

本記事は「Charlie Hebdo: pour que ce qui a conduit au pire ne se reproduise pas」(『Slate FR』)からの転載です。

プロフィール

ロラン・ブヴェ政治学

ヴェルサイユ・サン=カンタン=アン=イヴリーヌ大学教授(政治学)。ジャン・ジョレス財団政治研究部門ディレクター。フランス語版「ハフィントン・ポスト」、「Slate」等の定期コラムニストも務める。近著に『民衆の感覚――左派、民主主義、ポピュリズム』(2012年、未邦訳)。

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