2018.02.23

ゴミ山のスラムを観光地に――フィリピンの貧困支援NGO「スモーキー・ツアーズ」

堤祐子 都市交通計画、都市貧困

国際 #フィリピン#スラム

はじめに

粗末なバラック小屋、汚水の溜まった通り、立ち込める臭気。フィリピンの首都マニラにはそんなスラム街がそこかしこに存在している。道路脇や川岸を始めとして、ゴミ山や高級ショッピングモールの裏、はては公共墓地の中など、あらゆる土地にスラム街は形成される。その街並みは、さながら貧しい者と富める者が織りなすパイ生地の様相を呈している。

マニラ首都圏は人口1千万人を超える、近年成長著しい大都市圏の一つだ。街には次々と高層ビルが立ち並び、休日には高級レストランに長蛇の列が出来上がる。たった3年ほどで街の風景がガラリと変わってしまうほど、都市の成長スピードは凄まじい。

しかしその一方で、マニラ首都圏は人口の37%、じつに400万人以上がスラム居住者であるとも言われている。地方からの都市への人口流入が加速しているにも関わらず、受け皿が絶望的に不足しているためだ。人々は地方での貧しい生活から逃れようと夢を抱いて都市へと移住する。しかし当然、その全員に仕事と住居を用意することは不可能だ。フォーマルな生活からあぶれた彼らは親戚や同郷の仲間のツテを頼り、不安定な仕事とスラムでの住まいにようやくありつくのである。

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バセコ・スラム内の路地

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スラム街の端に広がるゴミ山。不衛生であるため、病気が蔓延しやすい。

本来なら住宅地としてふさわしくない土地に作られたスラムは、台風や洪水の危険に常に晒されている。中には台風が襲うたびに住居が半壊し、洪水に家をすっかり流されてしまうスラムもあるほどだ。また、政府による強制退去に日々怯えながら生活を送る住民も少なくない。それに加えて、衛生問題も深刻だ。不衛生な環境から食中毒やデング熱といった感染性の病気が蔓延しやすく、加えて社会保障制度も脆弱なため、多くの子供たちが病院に行けず、治るはずの病気で次々と命を落としているのだ。慢性的な栄養失調に大人も子供も日々悩まされている実態もある。

NGO「スモーキー・ツアーズ」

貧しい人々そっちのけで経済成長を推し進める社会に風穴をあけるべく、2014年にジュリエット・クイーは「スモーキー・ツアーズ」(http://www.smokeytours.com)というNGO団体を立ち上げた。彼女は10年前にオランダからフィリピンに渡って以来、様々な貧困対策NGOを運営してきた女性だ。心理学者でもあるジュリエットは、これまでストリート・チルドレンのシェルター運営やフィリピン人アーティストの展示ギャラリー運営など、幅広い分野で社会貢献を目指す活動を行なってきた。

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ジュリエット・クイー(左端)。スラムの子供たちと。

ジュリエットが代表として運営する「スモーキー・ツアーズ」は、 主に外国人旅行者向けにスラム街ツアーを開催するNGOである。スラムツアーを通して参加者に「ほんのわずかでも社会を良い方向に変える」という意識を持ってもらい、同時に「金銭やモノの量に左右されない幸せや喜びが存在すること」を理解してもらうためだ。

スモーキー・ツアーズは4つのミッションを掲げている。まず一つ目は、貧困やスラムといった社会問題を広く世間に知らしめること。二つ目は、旅行者が社会に変化を与えたいと考えるきっかけになり得る刺激を提供すること。三つ目は、収益をスラム住民に還元することで恵まれない人々の生活向上に貢献すること。そして4つ目は、異なるバックグラウンドを持つ人々の間に立って橋渡しをすること、である。

ツアーガイドは全員スラム住民であり、実際の生活に基づいた細やかな情報を旅行者に提供できることが強みだ。ツアー参加者はそのほとんどがオランダ、タイ、中国、日本など、多種多様な国々から訪れる外国人である。参加者は2、3人という少人数の時もあれば、20人以上の学生の団体が訪れる日もある。得られた収益は、簡易医療サービスや災害対策費用として全額をスラム住民に還元している。

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スラムツアーの収益で運営される簡易医療センター

スモーキー・ツアーズは4種類のツアー企画を用意している。スラムツアー、マーケット・ツアー、墓地ツアー、そして自転車ツアーだ。それぞれ価格は一人二千円前後と手頃だが、参加者はプラスアルファで募金をしていくことも珍しくない。マーケット・ツアーではローカルな市場を歩いて下町の生活を垣間見ることができ、墓地ツアーでは公共墓地の中に形成されたスラムを見学することができる。自転車ツアーでは、スペイン時代の城塞遺跡やマニラの名物でもある交通渋滞などを自転車で走ることで、フィリピン人の日常をじかに体験することができる。

余談だが、マニラ首都圏にある公共墓地のほとんどが、死者だけでなく生者にとっても心地よい住まいとなっている。静かで邪魔が入りにくいため、道路脇に住むよりもかえって居心地が良いのだ。中には数十年にわたって墓地に暮らす人もいる。

本記事では4種のツアーのうち、マニラ市バセコに位置する広大なスラム地域(以降、バセコ・スラムと表記する)で開催されているスラムツアーに焦点を絞って紹介する。

スラムツアーのガイドとして働くこと

マージョリー・マンガロンゾ(48)は、スペイン時代の城塞遺跡近くのマクドナルドで頻繁に朝食をとっている。その日初めて会うツアーの参加者たちと待ち合わせをするためだ。大学生の息子の学費を稼ぐためにツアーガイドとして働き始めてから、1年と2ヶ月が経った。

それまで彼女は息子たちの学費を稼ぐために、工場でのケーキ作りや小規模な商店での売り子など、ありとあらゆる仕事を経験してきた 。その中でもツアーガイドの仕事は今まででもっとも稼ぎが良いという。「高い英語スキルが必須で採用試験は難しく、応募者のほとんどは落ちてしまった。私はとてもラッキーだった。私は今やプロのガイドだけれど、スラムの生活についてもプロなのよ」と、彼女は語る。

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ツアーガイドの一人、マージョリー・マンガロンゾ

これまで、様々なツアー客を案内した。目に入るものすべてに強い興味を示して質問攻めにする者もあれば、おしゃべりに夢中ではぐれてしまう団体客、ガイドの説明を聞かずにスマートホンでチャットを始めてしまう学生もいたという。しかし、彼女は創設者ジュリエットの持つビジョンを共有している。どう工夫すれば自分たちのことをもっと理解してもらえるのか。自分たちの生活は確かにひどく貧しいが、いつだって人生を楽しんできたのだということを伝えようと、マージョリーは今日も口と足を動かす。

ジャネット・バルゴ(30)もまた、ツアーガイドの一人である。弾けるような笑顔が特徴の彼女は、二人の小学生になる子供を育てるシングル・マザーだ。ジャネットは参加者が少ない時にはできるだけ自分の家の中までガイドして、その生活空間を見せるようにしている。6畳間ほどの空間を台所、寝室、トイレの三つに区切った住居は多くの旅行者に衝撃的な印象を残すという。水道が通っていないために、水屋で高い水をいちいち買わねばならないこと、電気のメーターが購入できず、割り増しされた電気代を払わねばならないこと。貧しいが故にかえって出費がかさんでしまう実態を、彼女は細かく説明していく。

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ツアーガイドの一人、ジャネット・バルゴ

ジャネットは子供の頃からスラムに生まれ育ったわけではない。もともとは中流家庭の出身で、大学在学中にバセコ・スラムに住む男性との結婚をきっかけに移住してきた。二人の子供も授かったが、離婚を機に夫はスラムを去り、残されたジャネットは小さなコンクリート家屋でシングル・マザーとして子育てに奮闘しているというわけだ。彼女は部屋を案内しながら明るく語る。「私の人生には大変なことが次々と起こりました。でも、この狭い部屋で子供たちと三人ですべてを笑い飛ばしながら生きています。そうすれば、どんなことでもやり過ごせるのです」。

スラム街での生活空間を垣間見る

ジャネットは「住民の中には、私がガイドとして働いていることを羨む人が多くいます」と言う 。「この仕事はとてもお給料が良いからです。ほとんどの人はガーリック・ピーラー(ニンニクの皮を剥く仕事)や漁師として生計を立てていますが、収入は非常に少ないのです。 大袋に詰まったニンニクを剥くのに8時間はかかりますが、それで七百円ちょっとしか稼げないのです。漁師も同じです。一日働いても千円稼げる人はほとんどいません」。

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ニンニクを剥く人々

このようなガーリック・ピーラーは街のそこここに見られる。家の前の通りや裏庭、井戸の近くに大きなたらいを置き、女性たちがおしゃべりに興じながら一日中ニンニクを剥き続けるのだ。ムッとするようなニンニクの香りが街全体を覆うほど、地域のメジャーな産業となっている。好きな時間に仕事ができるため、子供を育てる家庭の母親がガーリック・ピーラーの多くを占めている。

様々なサービスがスラムという環境に適応した独特なかたちで提供されている。 下の写真はインターネットとコンピュータを格安で利用できるインターネット・カフェの様子だ。1分単位で借りることができるため、つねに店は賑わっている。店内ではフェイスブックやユーチューブ、オンラインゲームなどに興じる若者たちの姿がつねに見られる。

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インターネット・カフェ

スラムの入り口近くに水道メーターがまとめて設置されている場所がある。それぞれのメーターからホースが伸び、各家庭に水が送られているのだ。よく見ると鍵でしっかりとロックされたメーターがちらほらと見られる。水泥棒への防御策なのだ。

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一箇所に集められた水道メーター

水道を引くのには非常にお金がかかる。メーターを購入するのに二万円、ホースは1メートル3000円。家がメーター集積所から遠ければ遠いほど、よりたくさんのホースをつながなければならないため、水道を引くことができるのはすぐ近くの住民だけだ。ほとんどの家庭にとって、水道を引くことは不可能なのだ。ジャネットも例外ではない。彼女の家はこの場所から歩いて15分ほどの場所にあるため 、ホースだけで何万円もかかってしまう。

ジャネットを含め、ほとんどの住民の支出は水代が多くを占める。安全な飲み水なら500ml入りのペットボトルで一本五十円、洗濯や皿洗いに使う水は5ガロンで六十円。井戸からの水を利用する人も多く、衛生問題がつねにつきまとう。ある地域の子供たちは、ゴミ山のすぐ横にある井戸の水を飲むため、下痢を引き起こすことも少なくないという。水問題は住民同士の間に深刻な不公平感をもたらしている。

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井戸から水を汲む女性

水道と並んで、電気も住民が抱える大きな問題の一つだ。電気メーターはひとつ三万円ほどかかるため、自力で購入することは難しい。そのため、下の写真のように電気メーターを大量に備え付けて、格高でレンタルする店が存在する。借り手は通常の2倍の電気代を払うことでやっと自分の家に電気を引くことができる、というわけだ。

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レンタル電気店

バセコ・スラムはマニラ湾に面しており、下の写真のようにバンカと呼ばれるフィリピンの伝統的なボートが浮いている光景が多数見られる。ガーリック・ピーラーと並んで、漁師も多いためだ。彼らは日が落ちてからバンカに乗って海に繰り出し、反対側に浮かぶ貨物ドックまで渡る。そして、一晩中ドックにぶら下がるマニラ・クラムと呼ばれる貝を採取する。とはいえこの貝は1キロ集めて五十円、一晩中働いても五百円にしかならないと言う。

彼らは決して昼間は海に出ない。なぜなら対岸の貨物ドックはフィリピン港湾庁(PPA)が所有しており、ドックでの漁はかたく禁止されているからだ。昼間は銃を装備した警備員が監視し、不法漁獲を見つけるや否や撃ち殺してしまうという。これまでにも数名の漁師が命を落としており、したがって漁師たちは夜に仕事をせざるを得ないのだ。

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マニラ湾に浮かぶバンカ

スラムで暮らす子供たち

ツアー参加者はスラム内のそこかしこで子供たちの姿を見かけることになる。洗濯や皿洗いを手伝う子供、母親や祖母と一緒にニンニクを剥く子供、ゴミ山を漁って売れるものを探す子供、そして仲間同士で子犬のようにじゃれ合う子供たち。

フィリピンの平均年齢は24歳と日本の半分ほどの若さだが、こうした貧困層の家庭に子供が多いことが理由の一つである。自身も二児の母であるガイドのジャネットによると、スラムに住む20代女性のほぼ全員が子供を育てているという。貧困ゆえに将来の労働力として5人、6人とたくさん子供を産み育てるのが普通なのだ。幼い頃から物売りやジープ洗い、ゴミ拾いなどで小銭を稼ぎ、家計の足しにする子供も数多く存在する。

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路地裏で遊ぶ子供たち

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広がるゴミの上で遊ぶ子供たち

子供たちはとても人懐こく、フレンドリーだ。ツアー参加者に元気よく「ハロー!」と声をかけ、細い路地を裸足で駆け抜けていく。しかし、子供たちの多くは学校に通えていない。食べていくだけで精一杯の家庭にとって、子供を学校に行かせるのは非常に大きな負担なのだ。また学校へ行くには数十円から百円ほどの交通費を払わねばならず、 それだけの支出をサポートすることは至難の技である。

この問題を受けて、スモーキー・ツアーズは学校に行けない子供たちへの学習支援も行っている。収益の一部をコミュニティ図書館の運営費に回しているのだ。図書館の建物は竹を組んで作った粗末な小屋だが、中には本や文房具などがぎっしりと詰まった棚が並んでいる。

図書館を管理する男性は、訪れる子供たちに文字の読み書きも教える。「文字が読めないために不公平な契約書にサインをさせられたり、それを恐れてスラムの外に職を探すことをやめてしまったり、貧困を抜け出す一歩を踏み出せない住民が大勢いる。子供たちには学位がなくてもいいから基本的な『生きる力』としての読み書きの能力を身につけて欲しい」と男性は語る。

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コミュニティ・ライブラリー

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コミュニティ・ライブラリー内にズラリと並ぶ本

「スモーキー・ツアーズ」は課題も抱えている。経営する簡易医療センターの限界だ。バセコ・スラムの住民は、病院など一定以上の機能を持つ医療機関へのアクセスが限られている。そのため、一度病に冒されたら、行くところは簡易医療センターしかないのだ。

とはいえスラムツアーで得られる収益ではすべてのニーズに対応した医療サービスを提供することは不可能である。風邪や下痢など、あくまで基本的な症状に対応するために作られた施設なのだ。薬が足りずに患者が何日も医療を受けられないことも多いため、常備薬の増加は喫緊の課題である。

マニラは、富める者と貧しい者が物理的・心理的に分断された社会である。 富裕層がストリートを歩くことはなく、貧困層が高い壁で囲われた高級住宅地に入ることもない。富裕層やビジネスをする外国人、また旅行者たちにとって、スラムとは犯罪が横行する危険な地域として認識されているに過ぎない。「スモーキー・ツアーズ」は貧富の垣根を超えた交流を促し、社会が今その瞬間にも直面している問題について考えるきっかけを与える役割を果たしている。

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高価なおもちゃや綺麗な服がなくとも、子供たちは無邪気に笑う。子供たちの笑顔を守り続けるために、また彼らを今よりも少しだけ幸せにするために、ジュリエットと仲間たちは今日も活動を続けている。

フィリピン基本情報とスラム問題

概要

フィリピンは16世紀初頭にマゼラン率いるスペイン人船団が上陸して以来、400年にわたりスペインによる植民地支配を受けてきた。19世紀末に米西戦争によってその覇権はアメリカ合衆国に移り、第二次大戦時には日本の植民地支配を受けた歴史を持つ。国民の80%がカトリックを信仰する、アジア随一のキリスト教国家だ。

人口は2014年に一億人を突破してからもなお増加を続け、2017年現在は一億六百万人に達している。平均年齢は24歳、平均寿命も68歳と若い。乳幼児の死亡率は12%で、日本の0.6%と比べると20倍もの高さである。首都マニラは一時「東洋の真珠」と讃えられるほどに繁栄していたが、第二次世界大戦時に日本軍およびアメリカ軍によってその街々は無残に破壊されてしまった。戦後、マニラ首都圏が徐々に復興していくにつれて地方からの貧しい農民が流入するようになり、現在にわたってスラム街が形成されていくこととなる。

貧困とスラム

なぜ地方からの人口流入が止まらないのか。それはフィリピンの土地問題と密接に関係している。

スペイン植民地時代、フィリピンの土地はそのほとんどが数少ないスペイン人支配者と一部のフィリピン人支配層によって山分けされた。こうして生まれた大土地所有者たちは、土地を持たない小作人から絞れるだけ富を搾取してきた。第二次大戦後、「戦勝国」の一つであったことがかえって災いし、農地改革は行われないまま戦後の復興が始まった。経済成長はするものの、 その恩恵はもっぱら大土地所有者である富裕層にもたらされたのである。

こうして、地方の人々はそのほとんどが極貧生活を強いられる「貧困層」となった。彼らにとって、首都マニラは「なんでも手に入る」ドリームランドのような場所として捉えられてきた。仕事を、教育の機会を、よりよい生活を求めて、都市に大挙して押し寄せてきた人々が行き場を無くして流れ着く場所、それがスラムであった。

フィリピン政府は、長年にわたりスラム問題に取り組んできた。にも関わらず、スラムはいまだに深刻な社会問題であり続けている。なぜか。政府にとっての「スラム問題に取り組む」とは、イコール「景観を損ねるスラムを排除し見えなくする」ことを意味してきたからだ。

フィリピン国家住宅庁(NHA)は、これまでに多額の予算をスラムのリロケーション(再定住)プログラムに費やしてきた。郊外の草も生えない貧しい土地にコンクリートで作った家をズラリと並べ、スラム居住者を強制的に「移住」させるという行為は、首都圏からスラム住民を投げ捨てる行為に他ならない。水道や電気はおろか、仕事すらない遠い土地に放り出された人々が生きていくのは困難だ。当然のことながら、移住後に首都圏のスラムに舞い戻ってくる人々が後を絶たず、加えて地方からの新たな移住者が流入し続けるため、マニラ首都圏のスラム問題にはいまだ終わりが見えていない。

プロフィール

堤祐子都市交通計画、都市貧困

1992年生まれ。東京外国語大学フィリピン語科卒業後、2016年よりフィリピン国立大学ディリマン校都市地域計画学部修士課程在籍。研究分野は都市交通計画、都市貧困、スラム再定住。

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