2013.07.18

『終戦のエンペラー』 ―― 勝者と敗者の壁をこえるために

片山杜秀×小菅信子

国際 #終戦のエンペラー#トミーリージョーンズ#初音映莉子#夏八木勲

7月27日に公開される映画『終戦のエンペラー』試写会&トークショーが、7月8日に開かれた。「新しい戦争映画」と評する登壇者の片山杜秀氏と小菅信子氏。1945年8月に、マッカーサーが命じた極秘調査の裏にあるドラマに、いったいどんな意味があったのだろう? 専門家ならではの刺激的なトークショーの文字起こしをお送りする。(※なお本記事には映画の内容に関するネタバレが含まれております)(構成/金子昂)

過去を詮索する人間が悪役になっている

小菅 まずこの映画を観て、気がついたのは、二枚の写真についてです。

最初の一枚は、みなさんもこの映画をご覧になる前に教科書などでみたことがあると思いますが、昭和天皇とマッカーサーが並んでいる写真ですね。もしあの写真が、なんとなくいままでみてきたときの印象と違うものになっていたら、それはこの映画に影響を受けたということなのだと思います。

そしてもう一枚は、主人公のフェラーズ准将が映画の最初のほうで「その写真をはがせ」といって部下にはがさせた写真です。このシーンでわたしは息をのんだのですが、あの日本兵が捕虜を日本刀で切ろうとしている写真は、本当に有名な写真で。日本で捕虜になった方々は手記をたくさん残されているのですが、そのなかでよく使われる写真の一枚なんですね。あと今日、実物を持ってきたのですが、たとえば『SHOBUN』という本の表紙に使われている写真でもあります。その写真をはじめに、ハリウッド映画なのに、いきなりはがしてしまう。

それからフェラーズには、「報復は正義ではない」「われわれがしようとしているのは復讐じゃないんだ」というセリフがありましたよね。あと、この映画では、フェラーズの過去を詮索する人間を唯一の悪役として描いていました。そういったものが、カタルシスを感じさせる映画の終わり方に繋がっていて、わたしのなかでは、いろいろな意味で非常に印象に残りました。片山先生はいかがでしたか?

片山 いまの小菅先生の「過去を詮索する人間が悪役になっている」というのが決定的な感想だと思います。そこがこの映画の根幹ではないですか。言い方はとても難しいですけれども。過去にこだわりすぎると止まってしまう。動けなくなる。逆に退行してゆく。忘れて済ませることは忘れてしまおう。目の前の人間のいまの姿、いまの実をいちばん大切にしよう。そこから未来志向の物の考え方が生まれる。そういうメッセージを強く感じました。

われわれはいままでに、「ナチスでも日本でもなんでも、戦争犯罪とか『こんなひどいことをやっていた』といったんだ! 過去を徹底的に暴き立てて償わせてやるぞ! 絶対忘れないぞ! 記憶を継承するぞ!」みたいな戦争映画をたくさん観せられて参りましたよね。あるいはそれを引きずって戦後に及ぶ映画ですね。戦争映画というよりも戦争犯罪映画と呼ぶべきか。逃げたナチをイスラエルがどこまでも追っかけて罰するスパイ映画とか。目には目を、歯には歯を、やられたらやりかえせ。ところがこの映画はそうではない。まさに小菅先生のご専門と思いますが「和解」とか「共感」とか、そういう回路をいかにつくるか。そっちを優先する映画になっておりましたね。

これはやっぱりかなり新しいやり方ではないですか。少なくとも太平洋戦争や天皇や東京裁判の映画としては。しかもハリウッド映画ですし。「ハリウッドがこんなに地味で大丈夫か!?」というような淡々とした見せ方でもあるし。フェラーズと日本人通訳がまったく同質の個人的で悲劇的な体験を共有することで「共感」したり、天皇が「国民は悪くない。わたしひとりを罰して下さい」とマッカーサーに語りかけることで、マッカーサーが人間的に「共感」して、物語が回るとか。真実はどうなのか、過去に何があったかよりも、気持が通じるかというところですね。

この映画は天皇の戦争責任を探るような探偵映画的な要素もある。そこから始まる。三人の男を探し出して尋ねればわかる。それで探しに行って尋ねるとはぐらかされたり、来なかったりする。それで困る。これは探偵映画の決まり事ですよ。犯罪捜査映画の常道である。そのあと「大物」が出てくる。ここも定法なんだけれども、そのへんから先は決定的に違う。「真相はこれだ!」にならない。証拠の取りそろえとかはいつのまにか吹っ飛んで、肝腎なことは永遠にわからないということで棚上げされて、あとは「純粋情状酌量世界」みたいなものだけになってしまう。

開戦の責任の話だったのに戦争をやめられてよかったみたいなほうに論点がすりかわってあとは泣きですよ。涙のカタルシスで、「よかったね」で終わる。小菅先生のおっしゃった通り。カタルシス映画として完成する。探偵映画ではなくてメロドラマなんですね。戦争映画は白黒ハッキリ付けて派手にやっつけたりやっつけられたりするものだという常識の対極にある。しんみりとした新しさですね。

小菅 ええ、派手なシーンのほとんどない映画ですが、終戦についての、新しいハリウッド映画だと思います。

みなさんもご存じのとおり、アメリカ政府には、「2つの原爆投下が終戦をはやめた」という公の見解、言説があります。この見解は、アメリカで世論調査を何度やっても、賛同する人が7割を切らない。アメリカではやっぱり原爆投下が終戦のきっかけになったと考えられているんですね。

それに対して多くの日本の研究者は、8月9~10日に開かれた御前会議では、広島・長崎への原爆投下よりも、ソ連の中立条約破棄と侵攻のほうがインパクトがあったのではないか、それが終戦をはやめたんだという見解がある。これは最近、モスクワで歴史会議に参加したときに、ロシアの研究者のなかでも同じことを言っている方がいました。つまりロシアの侵攻が、戦争終結を招いたのであるという考えですね。

でもこの映画は、開戦はともかく、終戦のイニシアチブは天皇にあったと描いている。滅私奉公のお話はあとでしたいと思いますが、国民が滅私奉公で天皇に仕えたように、天皇もまた滅私奉公して日本のために、マッカーサーに「わたしの処遇をゆだねます」とお話をしていました。昭和天皇は平和主義者だったという言説はすでにありますが、こういう描き方があるあたりは、やっぱり新しいタイプの戦争映画だと思うんですよね。

だから最初にお話したように、この映画をみてからでは、よく占領の象徴として語られる昭和天皇とマッカーサーが並んでいる写真が、いままでと違ってみえる気がするんですよ。

片山 そうですよね。ある種の、歴史を修正しようとするようなタイプの映画ですよね。

日本人への心遣いを感じさせる

片山 映画では、終戦後に誇りを保って生きている日本人がいることを一生懸命描いておりましたね。

小菅 おっしゃるとおりで、この映画は負けた側の日本が、征服されたのではなくて、自ら降伏したのだと、勝った側と負けた側が対等に描かれているので、日本人がみなプライドを持っているようにみえました。

皇宮警察のプライドの異様な高さや、焼け出された人たちが決してアメリカ人に心を許していない様子であったり、あるいは途中ででてくる娼婦のみなさんが綺麗で迫力をもって描かれていたりしていたり、またはフェラーズがちゃぶ台返しをしているシーンがあったり、なんだか日本人に対する心遣いが感じられるんですよね。

片山 普通は派手な戦闘シーンなんかにお金を使うんでしょうけれど、この映画では、そういった人々が生きている東京の焼野原や廃墟の再現に予算を投じているように見えました。大規模なセットで見事に再現されている。日本映画なんかだと記録フィルムなどで逃げるところだけれども。

しかし景色を生きた映像にしてドラマに取り込むためには、実景として焼け野原が必要で、そこで俳優が演技しないとだめなんで、記録映像を取り込んで「焼け野原はこうでしたよ」と見せて、次にちゃちなセットで俳優が居てもやっぱりうまくない。嘘っぱちに見えてきますわね。空間の経験が心象を決定する。映画美術はその意味で大切である。この映画の場合はどうしても焼け野原。そういう映画にとっての当たり前の前提を徹底して正攻法でクリアしようとして、しかも成功している。そのへんにこだわる意欲が物凄くありますよね。

小菅 ありますよね、驚きました。

片山 あと、衣装やセットの東京の街に貼られている標語のポスターなど。時代の再現への配慮にはびっくりさせられる。照明の使い方も、最近の日本の映画やテレビドラマが敗戦直後を描くのとは比べものにならない。暗さや影の出し方ですね。すごく上手ですよ。「昭和20年の夏秋」の感じはすごく出ていると思いました。

片岡×小菅全体

勝者と敗者の壁をこえるための共感共苦

小菅 片山先生にあえてお聞きしたいんですけれども、どうしてアヤとフェラーズの恋はあんなふうな成就のしかたでなくてはいけなかったんですか?

片山 フェラーズ准将の痛みの度合いが違ってくるからでしょうね。アヤもフェラーズもつらい、酒場でフェラーズに石かなにかをなげている日本人たちもつらい、フェラーズ専属の通訳も東京大空襲で妻を亡くしていてつらい、みんなつらい、そういう「共感共苦」ですね。お互いが傷ついているんだと強調することで、捕虜を虐待したとか、殺したとかいった、する側/された側、勝者/敗者の壁を突破すると。アメリカの軍人なのに最愛の人をアメリカ軍の空襲で失うアメリカ人がいないと、アメリカと日本、勝者と敗者の壁はこえられない。「共感共苦」による勝敗とか優劣の超克ですね。

ただ、歴史の大局を描こうとする映画でここまでメロドラマ的なものを強調するのはいかがなものかと思わないでもないですし、フェラーズが夜中に車に乗って静岡まで3時間かけてアヤを探しに行ったときは、昭和20年代の交通事情で、あの車で、3時間で行けるはずがないだろうとは思いましたが……。

 (笑)

片山 ……ともかく、でもこれしかドラマ作りの突破口はないのかなと思いましたね。

映画だからこそのインパクト

小菅 フェラーズがアヤの住んでいる静岡を爆撃対象地域から外していたというのは、現実的にいったらありえないことだとは思いますが、わりと人間の真理をついているとも思って。やっぱり人間の極限状態になったときは、『シンドラーのリスト』でもそうでしたが、最後の絆は個人と個人のヒューマニティーになるのだと思うんですよね。恋愛はそのひとつのかたちなのかなって。

観客のみなさんに伺いたいのですが、この映画でのフェラーズとアヤの恋愛を「なんてふしだらな!」って思った人は少ないと思うんですよ。でも1940年代の、日米開戦直前の時代の感覚でいえば、たぶんあの恋愛は、ふしだらだったのかもしれないですよね。

わたしが二人のラブシーンに感じたのは、時代の価値観っていうのは、歴史研究においてはしっかりと検証して再現しなくてはいけませんが、フィクションのなかでは、むしろ今日の価値観をふまえて描かれるものなんだなと思いました。

片山 やっぱり映画で、メロドラマで、そこでいろいろなものが通じ合うというのは、現代の物差しに書き換えないと難しいでしょうね。やっぱりあの時代の価値観にあわせて、フェローズとアヤを恋人でなくて、友人として描いてしてしまったら、物語はうまくまわっていかないと思います。

小菅 この映画が史実に基づいているかどうかは、歴史家の皆さんが映画公開後に検証されると思うので、それはそのときまで待つことにします。きっとアマゾンのレビューみたいにいろいろな、十人十色の反応が出てくる、そんな映画だと思いますし、それは良い芸術作品である証(あかし)だと思います。

それで思うのは、学術論文はどんなに面白く書いても、広島の原爆ドームやアウシュビッツ収容所を直接みたときのインパクトや、この映画をみて感じるインパクトにはかなわないと思うんですね。

メロドラマで訴えることの意味

小菅 そして、こういう映画がつくられ続けられることは……。

片山 うーん、新しい映画だと思いますが、作られ続けるかは、どうでしょうね?

小菅 でも少なくともいまの段階で作られたことは、すごいことだと思うんですね。

いまは不景気なので難しいのかもしれませんが、やっぱり事業や構想にお金を使っていけば、こういうハリウッド映画がでてきたのだから、追随してどんどん新しい映画が出てくると思いますよ。これまでナチスの非道をテーマにした映画がたくさん作られ、日本人の多くが共感したり感動したように、今後は日本を主題にした映画がたくさんつくられる、そういうものじゃないかなとわたしは思います。

片山 この映画が大きな刺激になるのは間違いないでしょうね。

わたくしどもが子どもの頃からみていた、大きく時代を描こうとする、偉い軍人や政治家やや資本家が出てくるようなタイプの戦争物の歴史映画といったものは、右翼的なものも左翼的なものでも、メロドラマの要素よりも制度や機構やお金や人間のしがらみやイデオロギーの作り出す「時代の歯車」のほうにポイントがあって、けっきょく男女の愛なんて「時代の歯車」の前では役割を果たせない。添え物としての物語にしかなっていなかった。

たとえば岡本喜八監督が敗戦の日を描いた『日本のいちばん長い日』には女優がほとんど出てこない。それはマルクス主義であったり、近代国民国家のナショナリズムであったり、「大きな物語」が強かったからでしょうけど、とにかく「情の話は虚しい」。それがこの映画は、むしろ情や愛が主役で、他が吹っ飛んでいる。

小菅 はい。美談になっていますね。

片山 なんだか、それは19世紀のオペラに戻ってしまっているような、そんな気はするんですよね。

メロドラマに訴えるしかないのはわかるけれども、訴えるために作りこんだドラマには限界がある。フェラーズや『蝶々夫人』のピンカートンのような日本人の魂に触れてのめりこんだり、あるいはするりとかわすような特殊なアメリカ人にこだわっても、彼らは例外だから、そこからひとつの素晴らしいドラマは紡げるんだけれども、そこまでであって、だから日米がわかり合えるというのとは違うんではないかと。わたくしは確かにこの映画でかなりぐっと来ました。男女のくだりもだけれど、天皇とマッカーサーのところも。でもメロドラマでないものも観たい、大事だろうと改めて思いました。

もちろん、メロドラマの次元でなければ人間は通じ合えないというお話なのだと思うのですが……。

片山さん

小菅 わたしは、極端なかたちではあると思いますが、人間性を保護しうるのは個人と個人の関係なんだと思いましたし、世界中のいろいろな紛争や、武力衝突にいたらない対立などでも個人と個人なら心を通い合わせることができるんだと、そういう風にみるほうが、問題を解決するのにいいときもあるんだと思うんですよね。

この映画で、フェラーズが日本語を話したら日本人は喜んでいましたし、日本人が英語を話したらアメリカ人は喜んでいたじゃないですか。人間の気持ちとか感情ってそういうものなんだと思うんですよ。

言語の違いって、バベルの塔ですよね、神様が下した罰だって言うけれども、学習すれば乗り越えることのできるものですし、それは思った以上の効果が得られるのだと思います。それはアヤが学校で英語の先生をされていたことも関係あるのかもしれません。

片山 確かに言語については、通訳が重要な役回りになっていたり、「陛下は英語がそれなりにおできになりますが、間違いないよう通訳を介して」というようなセリフがいちいち挟まれたり、いろいろと工夫されていましたね。それはやはりお互いのプライドを傷つけないかたちで、しかも相手の魂にふれるかたちで、相互に理解してゆくための決定的ツールとして言語の使い方、この映画なら英語と日本語の使い分けの問題が、極めて繊細に意識されている映画と感じました。奈良橋陽子さんがプロデューサーならではの濃やかさだと、と思いました。

それから言語で思い出しましたが、関屋貞三郎演じる夏八木勲が御製拝誦をしていましたけど、あそこまで本格的に御製拝誦を聴かせる、俳優がきちんと演ずる日本映画って、わたくしの記憶の範囲ではないんですよね。

小菅 綺麗な旋律でしたよね。

片山 あれは宮中歌会始の人よりも上手に思ったくらいでした(笑)。

俳優と配役について

小菅 あと近衛文麿に「どっちもどっち」論を言わせているのは面白かったですよね。

片山 そうですね。あれも、少なくともアメリカ映画ではやらないような話を、中村雅俊に言わせていましたね。

小菅 あ、近衛文麿は中村雅俊だったんですか! 気がつかなかった。

片山 ええ、みなさんメイクも凝って、よく似せていました。

小菅 近衛文麿の「どっちもどっち」論に対して、フェラーズは「歴史の教育は結構です」みたいなことを言っていました。『戦後和解』に書きましたが、太平洋戦争は、戦争の勝利の質を決定的に変えました。アメリカによる「再教育」、あるいは「洗脳」という方もいますが、ようするに敗者に勝者の正義をどれだけ受け入れてもらえるかということ、最後のシーンで、マッカーサーが昭和天皇に伝えたかった一言は、報復とか復讐をこえる協働へのプロポーズなんですね。

片山 それとパラレルに、フェラーズと妻を亡くした通訳が酒を一緒に飲みに行く。みんながお互いに通じ合うという回路が物語としてできている上手な映画だと思います。

ちなみに近衛文麿はともかく、御前会議の阿南惟幾陸軍大臣あたりは貧弱に見えまして、もうちょっとまともな阿南を出してくれと思ったりもいたしました(笑)。陸軍が悪かったという戦後の定説みたいなトーンがこの映画には相変わらず強くて、その意味では新しくないかなとも……。

小菅 それでいうと、東条英機はなかなかかっこいいというか、悟りきった人間として、諦めとともにでてきて、悪役というよりは人間として描かれているのは興味深かったですね。

片山 ほんと、火野正平の東条は枯れきっておりましたね。

俳優のお話ですと、昭和天皇を演じていた片岡孝太郎はわたくしの妹の同級生でして、あちらが高校生でわたくしが大学生の頃は家の廊下ですれ違って、「こんにちは」なんて言ってたこともあるんですが、そういうひとが昭和天皇を演じる歳になったのだから、そりゃわたくしも歳をとったわけだと思いましたね。

 (笑)

片山 しかし孝太郞丈のお芝居は迫真的でした。「昭和天皇はやっぱりすごい」と、思わず眼がしらが熱くなってしまいました。

滅私奉公について考える

小菅 先ほどお話した滅私奉公のお話をしたいと思いますが、アヤがアメリカにいるとき、フェラーズに「わたしは日本人にしては積極的(outspoken)なの」といっていたじゃないですか。“outspoken”ってようするに「おしゃべり」ってことなんですね。

それで思ったのは、この映画ってすごく日本についておしゃべりな映画だと思ったんです。非常に多弁に日本について語っている。

片山 確かにいろいろなことをたくさん言っていて、日本論が詰まっている映画と思いました。いままでアメリカ映画が日本について語ってこなかったことへのストレスが一挙に爆発したような……。

小菅 ええ、それこそ新渡戸稲造の時代から現代まで、いろいろな日本研究の、特に80年代以降の研究を踏まえて、印象的な言葉を織り込んでつくっている映画でした。

そこで面白いと思ったのは、わたしが聞き取れなかっただけなのかもしれませんが“shame”という言葉がでてこなかったんですよね。かわりに“selfless sacrifice / devotion”という言葉を使っている。字幕では「信奉」と訳していましたが、これは「滅私奉公」という意味ですね。

片山 そうですね、そういう切り口で出てきました。

小菅 日米が開戦する前に、フェラーズがアヤの家を訪ねたときに、西田敏行演じる海軍大将の伯父が、日本人には無私の精神で天皇に滅私奉公で仕えるからアメリカには負けるはずがないと言っていましたよね。

でも終戦後にフェラーズがアヤを探して再び同宅に足を運んだときに、西田敏行が「あれは妄想と熱狂だったんだ」と言った。どうしてわたしが滅私奉公のお話をしたのかと言うと、今日はこのお話をぜひしたいと思っていたんですが、せっかくこういう新しい映画が出てくるようになったんだから、あの時代の熱狂、軍国熱について、日本の新聞社はあの時代の新聞がどういう状況だったのか、それこそラブロマンスをいれてもいいので、一本映画を作ってみたら面白いんじゃないかな、と思ったんですね。

いま不景気のせいか、なんだか「滅私奉公」がすごく求められているような気がするんですよね。そういう意味で、この映画は綺麗な物語なんだけど、綺麗ごとですまないドロドロしたものも問いかけているように思う。いま、あらためてあの時代の日本人のひとりひとりの姿を、スクリーンとわたしたちそれぞれの心のなかに描き出す意味があるのではないか、というのが今日のわたしの結論です。

小菅さん

―― ありがとうございます。そろそろお時間ですので、最後にお二方に一言いただいて、トークショーを終了したいと思います。

小菅 「終戦のエンペラー」で、フェラーズとアヤの恋物語が、とても印象的でした。たとえば「戦場のメリークリスマス」は不器用な、outspokenではない友情の物語でした。一方、この映画は、友情ではなく恋愛が描かれているんです。フェラーズはマッカーサーの、アヤは昭和天皇の分身なんだとも思いました。最後のシーンで、マッカーサーが昭和天皇にプロポーズしているように見えました。

わたしには日米関係がときに排他的関係に見えるのですが、友情はほんらい排他的ではないですよね、でも恋愛は排他的です。この映画の封切りでどんな反響が出てくるのか、いまからとても楽しみでなりません。

片山 わたくしは夏八木勲の名演技による関屋貞三郎の御製拝誦の場面をアメリカの人にも日本の人にもよく考えて欲しいと思います。あそこは戯画でも滑稽でもなく、とても真面目なこの映画のいちばんの場面だと思うんです。日本人の意思伝達の方法ですね。政治であり文学であり美学である。歌から慮る。で、関屋はフェラーズに「もう一回やりましょうか」と言ってフェラーズは「もういいです」と言う。あそこはもしかするとこの映画の「共感」ではなくて「断絶」を表現している数少ない場面のひとつかもしれません。アメリカ人が御製拝誦に感動するようになると、これはもうメロドラマをこえて宗教映画になってしまうかもしれないけれど。

西田敏行演じる大将の台詞も大切ですが、この映画の日本論の核心は、関屋が短歌に伝統の節をつけて、昭和天皇の歌い方を再現して歌い上げる場面であると、これはわたくしの勝手な見解ですけれども、しつこく申しあげておきたいと思います。でもあの和平を望む歌を日本の指導者たちは慮りきれず、戦争が始まってしまって焼け野原になった。その悔恨が天皇から出てくる。だから今度は歌ではなくて「聖断」としてはっきり言って戦争をやめさせた。歌ではなくてあのとき「聖断」しておけばよかったんじゃないか。そういう誘導がどうもこの映画にはあるようにも感じましてね。単なる深読みかもしれませんが。

とにかくマッカーサーと会談する天皇の立ち居振る舞いから悔恨の深さが滲み出てくるんですね。孝太郎丈も夏八木勲もマッカーサーもフェラーズも、映画の主要人物のかなりが珍しく揃うあの会見場面ですね。小菅先生が本日のこの場の最初でおっしゃったことですけれども、この経緯を踏んでマッカーサーと天皇のあの写真にたどり着く。そう思ってみると、やっぱり写真の見え方はもう変わらざるをえないかなと。

―― ありがとうございました。お二人のお話をお聞きしているうちに、もう一度この映画を観なおさなくてはいけないという気がしてきました。試写会にご参加いただいた皆様も、ぜひ全国公開の折には劇場に足を運んでくださると幸いでございます。

●「終戦のエンペラー」公式サイト

http://www.emperor-movie.jp/

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・コピーライト

(c)Fellers Film LLC 2012 ALL RIGHTS RESERVED

・公開表記

7月27日(土)ロードショー

・配給:松竹

プロフィール

片山杜秀

1963(昭和38)年生まれ。思想史研究者、音楽評論家。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。慶應義塾大学法学部准教授。著書に『音盤考現学』『音盤博物誌』(吉田秀和賞、サントリー学芸賞)。

この執筆者の記事

小菅信子近現代史 / 国際関係論

1960年東京都生まれ。山梨学院大学法学部教授。上智大学大学院文学研究科史学専攻後期博士課程修了。著書等に、『戦後和解』(中公新書・第27回石橋湛山賞)、『ポピーと桜』(岩波書店)、『14歳からの靖国問題』(ちくまプリマ―新書)、『東京裁判とその後』(中公文庫)、『歴史和解と泰緬鉄道』(朝日選書)、『歴史認識共有の地平』(明石書店)など。

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