2013.11.27

メルケル首相の携帯電話盗聴事件と戦後ドイツとアメリカの関係

森井裕一 EU研究、ドイツ政治

国際 #メルケル#ベルリンの壁#NSA#携帯電話盗聴事件#ドイチュラントトレンド

メルケル首相の携帯電話がアメリカの国家安全保障局(NSA)によって盗聴されていたと報道され、米独関係は冷却化している。2013年6月にオバマ大統領が訪独し、ケネディー元大統領にならってベルリンで「歴史的」と評価されるべく演説を行い、多くのドイツ人が暖かくオバマ大統領を迎えたことが遠い昔の出来事のように思える。

NSA事件はちょうど4年に一度のドイツ連邦議会の選挙戦期間に発覚し、選挙戦でもメディアが大きく取りあげた。時間の経過とともにさまざまな問題が発覚し、事件の発端となったスノーデンNSA元職員と緑の党のシュトローベレ議員がモスクワで接触するなど、ドイツでのNSA事件への関心は薄れていない。しかし、米独関係を短期的な雰囲気の変化だけとらえて表面的に見てはならない。第二次世界大戦後の米独関係を振り返り歴史的な背景を理解した上で、NSA盗聴事件をドイツの政府や市民がどうとらえているのか考えてみよう。

連邦共和国とアメリカ――シンボルとしてのベルリン

ドイツの正式な国名は「ドイツ連邦共和国」である。連邦共和国は1949年5月にアメリカ、フランス、イギリスが占領していたドイツの西側の地域に建国された。第二次世界大戦に敗れたドイツは、米、英、仏とソ連に分割占領されたが、冷戦の深刻化にともなって統一された形での再建は断念され、西側に連邦共和国(西ドイツ)、東側のソ連占領地区に「ドイツ民主共和国」(東ドイツ)が建国された。

アメリカは第二次世界大戦後の早い時期にはドイツを懲罰的に占領する考えを持っていたものの、冷戦の始まりもあって、間もなくその方針を転換し、ドイツの再建を支援する政策をとった。ドイツ人から見ると、戦後ドイツとアメリカの関係を最初に印象づけることとなったのは1948年6月に始まったベルリン封鎖であったと言って良いだろう。

米、英、仏、ソ連によってドイツの国土は分割占領されていたが、戦前の首都であったベルリンだけは別途この4カ国によって分割占領されていた。ベルリンはソ連占領地区の真ん中に陸の孤島のように存在していた。ソ連はこのベルリンに至る東ドイツ地域の陸路を西側占領地域から遮断した。米、英、仏が管理する西ベルリンを西ドイツと切り離して兵糧攻めにすることによって、西側が西ベルリンをあきらめることを狙っていた。

このベルリン封鎖は、西側占領地区で通貨改革が実施されたことへの報復でもあった。通貨改革はその後実現する西ドイツの建国への重要な第一歩であり、この時期にはすでにドイツの分断は不可避となっていた。

ドイツ人にとっては戦前のワイマール共和国時代のハイパーインフレーション、そして第二次世界大戦後の荒廃したドイツ経済と、まったく価値の無くなってしまった通貨は忌まわしい記憶である。戦後の通貨改革によって導入されたドイツマルク(DM)はこの過去を完全に払拭した。そしてドイツマルクこそがその後の「奇跡の経済復興」の基盤であり、安定した通貨を持つことこそが経済的な繁栄のためにもっとも重要なことであるというドイツの信念ともいえる認識がうまれていくこととなった。ベルリン封鎖の記憶と通貨改革と戦後経済の成功の記憶は戦後ドイツの政治認識の中にしっかりと刻み込まれている。

アメリカを中心として英仏はベルリンを放棄することなく、協力してこのベルリン封鎖を乗り切った。陸路を遮断された西ベルリンは食料から燃料に至るまで、すべての必要物資を空輸によってまかなわなければならず、戦勝国の軍が実施した。現在はベルリン郊外に新空港が建設中なのでいずれその地位を譲ることになるものの、今日なおベルリンの空のメイン玄関として使われているテーゲル空港はこのベルリン封鎖の時に急遽整備された。

1948年6月から49年5月にかけてのベルリン封鎖は、占領軍としてドイツで認識されていた戦勝国の軍が、自由と繁栄を守ってくれる友人であると認識を転換させる出来事であったと言えるほどの出来事であった。

その後の冷戦のいっそうの激化と朝鮮戦争の勃発によってヨーロッパでも軍事衝突の懸念が強く認識されるようになると、西ドイツの再軍備問題が浮上する。東側と直接に国境を接し、大きな国土と人口を有する西ドイツを、米、英、仏の軍のみでは通常戦力で優位に立つ東側から守り切れないためである。

ヨーロッパ統合の枠組みを使ってドイツ再軍備を実現しようと当時のフランス首相であるルネ・ブレヴァンは、欧州防衛共同体の構想を打ち出した。しかし、結局国内をまとめきれず、フランス議会が条約の批准をできなかったことで欧州防衛共同体は失敗した。

これを受けて、アメリカを盟主とする北大西洋条約(NATO)の枠組みを使ったドイツ再軍備が実現した。ドイツは占領期から制限されていた外交主権を回復し、NATOに加盟して西側同盟の一員となった。アメリカが冷戦下で最前線に位置したドイツを東側の脅威から守り、ベルリン封鎖以来ドイツの市民はこれに感謝の念を抱くという構図が出来上がる。当初の占領者は、1950年代には友人となり、そして1961年にはベルリン封鎖15周年を記念してJ.F.ケネディー大統領がベルリンで歴史的な演説をおこなう。自由な世界に生きるものは誰でもベルリン市民であり、そのことを誇りに思うという意味で、ケネディーは「私はベルリン市民だ」と西ベルリン市庁舎の前で演説し、ベルリンの大群衆から喝采をあびた。

同盟と統合――アメリカとヨーロッパ統合

戦後ドイツとアメリカの関係を考える場合、安全保障と同盟関係は非常に重要な意味を持っている。

男子皆兵の徴兵制を採用して冷戦の最前線にあった西ドイツにとって、自国の存在を保障してくれるアメリカとの関係は外交政策上きわめて重要である。もちろん、戦後ドイツにとってはヨーロッパ統合とフランスをはじめとする周辺国との緊密な関係の構築も不可欠であった。しかし、1980年代までのヨーロッパ統合は主として経済統合を意味するものであり、外交分野での協力は非常に緩やかな形で試みられていたに過ぎなかった。まして、欧州防衛共同体構想が1950年代に失敗してからは、安全保障分野ではヨーロッパは主体的な役割を担うことができなかった。このため、アメリカ・NATOとの同盟、フランスとの協調を軸とした経済面でのヨーロッパの統合がドイツ外交の二つの柱となった。

このような対外政策の基本方針は国内の主要政党に共有され、与党も野党も対外政策の基本原則については共通した政策を展開してきた。保守系のキリスト教民主同盟/社会同盟(CDU/CSU)が首相を出す政権でも、社会民主党(SPD)の首相が運営する政権でも、対外政策の基本方針は共有されてきた。アメリカに対する姿勢も政権をどの政党が担っても、ほとんど変わらないという状況が続いてきた。

同盟を考える場合には、よく「巻き込まれるリスク」と「見捨てられるリスク」の議論がなされる。アメリカと同盟しているがゆえに、自国とは関係の無いアメリカの戦争に巻き込まれる可能性が高くなると考えるのが「巻き込まれるリスク」であり、同盟国でありながらいざとなったらアメリカが自国の防衛に力を貸してくれずに見捨てられると考えるのが「見捨てられるリスク」である。

ドイツの場合、ヨーロッパの中央に位置し、東西対立の最前線にあったために、そもそも冷戦環境のもとで戦争が起きる場合には自国が戦場となることが当然に想定され、「巻き込まれるリスク」を懸念する必要はほとんど無かった。むしろ、大西洋の向こうのアメリカが本当にドイツを防衛してくれるのかという懸念の方が常に大きかった。

1970年代にソ連が中距離核ミサイル(INF)を西ヨーロッパ向けに配備すると、NATOはソ連とのINF配備撤回のための軍縮交渉を進めると同時に、もしINFが撤去されない場合には、アメリカのINFを西ヨーロッパに配備して中距離核のバランスをとることを1979年に決定した(「NATO二重決定」)。

そもそもヨーロッパしか射程範囲としないINFを配備することはアメリカとヨーロッパを安全保障上分断しようとするものであった。しかし、ソ連のINFに対抗する核を配備することには市民の間では非常に反対の声が強かった。西ドイツでも非常に大きな反核平和運動が盛り上がりを見せたが、コール政権はアメリカのINF配備を支持し、これが実現していった。

NATO二重決定時のドイツの政権はSPDのシュミット政権であり、INF配備時には政権はCDUのコール政権となっていたが、このことがよく示しているように、アメリカと歩調を合わせ、NATOによって安全保障が担保されるという安全保障政策は与野党を問わない政策であった。

また経済面でも、戦後ドイツはアメリカという巨大な市場とアメリカの作り上げた戦後の自由貿易体制の恩恵を受けて豊かになったことを決して忘れてはならない。ドイツ経済は貿易指向型で、貿易依存率が高い。中国が台頭するまでは貿易額の大きさは常にアメリカとトップを争っていた。ドイツが強い競争力を有する自動車や機械、化学、薬品などの分野は強い輸出志向をもち、輸出によって豊かな社会を維持してきた。そしてその背景条件となっていたのがGATT/WTOによる国際的な自由貿易体制である。

アメリカのリードする戦後のブレトンウッズ体制からもっとも恩恵を受けた国の一つがドイツであることも間違いない。フランスとの関係の基礎を築いた1963年のエリゼ条約(独仏協力条約)を批准する際に、ドイツではアメリカや自由貿易体制との関係への配慮から、批准法の前文で対米関係やNATOの重視に言及されていたことを見ると、ドイツ外交はヨーロッパ統合とフランスとの関係を重視しつつも、アメリカとアメリカが築いた戦後の多角的国際システムにも常に配慮してきたことがよくわかるであろう。

ドイツ統一とアメリカ

ゴルバチョフのリーダーシップによるソ連の改革、東欧諸国での民主化と経済改革を受けて、東ドイツでも体制改革のための市民運動が盛り上がった。1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツ間の自由な移動が東ドイツ市民にも可能になると、新しいヨーロッパの秩序を検討し、どのようにドイツを位置づけるかが重大な国際政治上の問題となった。

多くの東ドイツ市民が東ドイツを見捨て西ドイツに移住したことと、1990年3月に初の自由選挙が東ドイツ人民議会で実施されて西ドイツとの早期統一を望む声が圧倒的であることがわかると、ドイツ統一は非常に短期間のうちに当然の目標となった。

第二次世界大戦の終結以来、最終的なドイツの将来に留保権を有していた米英仏ソの4戦勝国の出方に注目が集まった。ヨーロッパ統合と和解によってドイツときわめて近い関係にあったフランスとイギリスが当初はやや消極的な姿勢を示したのとは対照的に、アメリカはドイツ人の判断を最初から支持し、東西ドイツ統一という選択肢を戦勝国の中ではもっとも早くから積極的に支持し続けた。アメリカのリーダーシップ無しには早期のドイツ統一は困難だったであろうし、統一ドイツがNATOの一員として留まることなどへのソ連の同意を取り付けも難しかったであろう。

ドイツ統一は東西ドイツの対等な統一によるものではなく、西ドイツに旧東ドイツ地域で再構築された5州が加入するという形で実現した。つまり、西ドイツの連邦共和国という40年前から確立されているシステムに新たな5州が加わっただけなので、形式的にはほぼすべての政治、経済、社会の制度が変わらず保持された。この過程で旧東ドイツの影響力は無くなり、制度のみならず政治的な言説も西ドイツのものが全ドイツを覆い尽くすこととなった。こうしてアメリカとの関係も統一前と後で変わること無く安定したものであった。

冷戦が終焉してドイツに駐留する大規模なアメリカ軍はその役割を終えた。そしてその大部分が撤収して帰国することとなった。ドイツには各地に大規模な基地と多数の軍人、軍属とその家族が駐留していた。彼らはドイツの安全保障の要であったが、同時に重要な経済ファクターでもあった。ドイツの地方都市にとってアメリカ軍は重要な雇用主であり、同時に消費者でもあった。多くの周辺住民を雇用すると同時に、基地周辺での消費によって地元経済が潤ってもいたのである。

アメリカ軍の撤退計画が発表されると多くの関係する自治体が遺憾の意を表明し、可能な限り引き留めようとしていた。このような事例からもわかるように、アメリカはベルリン封鎖から冷戦の時代を経て、占領軍ではなく、友人、隣人となっていたのである。

イラク戦争とその後の関係修復

これまで今日の米独関係の基底にある歴史的な経緯について論じてきたが、このような米独関係も冷戦が終結してヨーロッパの安全保障環境が大きく変化したことによって、時間の経過とともに変容してきた。

とくに2003年のイラク戦争をめぐるアメリカとドイツの対立は大きな転換点を象徴していた。2001年9月にアメリカ同時多発テロが発生したときにはシュレーダー首相はアメリカとの無制限の連帯を表明し、その後のアフガニスタン・タリバンへの軍事作戦でも前面的にNATOと歩調を合わせて活動した。しかし、その後のイラクの大量破壊兵器をめぐる対応では米欧間で認識が開いていった。とくにドイツとフランスはイラクへの軍事力の行使に反対し、その2年前の同時多発テロの時とはまったく違った対応を示した。

2002年9月には連邦議会選挙が実施されたこともあって、選挙戦の中でシュレーダー首相はドイツの外交政策の自律性を強調し、アメリカの対イラク政策を批判した。ドイツの首相がアメリカの政策を公然と否定することは極めて異例であり、米独関係は急速に冷却化した。もっとも、このようなシュレーダー首相の政策は国民から支持を得たし、当時の世論調査をみるとW.ブッシュ大統領のドイツでの評価がとても低かったことからわかるように、市民の多くもアメリカの単独主義的な行動様式と軍事力行使の政策に極めて否定的な認識を示していた。

この背景には、統一後のドイツではヨーロッパの安全保障環境が大きく変容したことを背景として、国際的な安全保障に関する認識が大きく変容してきていたことがある。もはやドイツのみならずヨーロッパを軍事的に脅かす国家は存在せず、安全保障のリスクはむしろ貧困や崩壊国家からうまれるテロ、国境を越えた犯罪など新しい脅威とよばれる非国家のリスクであると認識されていた。そのため、問題への対処は単独主義的な軍事行動では無く、国際組織と国際的なコンセンサスに基づく多角的な協調行動が重要であるという認識となっていた。アメリカ、とりわけブッシュ政権の世界観とドイツの安全保障観の乖離が大きくなっていたところに、選挙期間中の直接的なシュレーダー首相の発言スタイルが加わって、米独関係は冷却化した。

しかし、ここでも注意しておくべきことは、イラクをめぐる対立の時期にもドイツはアフガニスタンやアフリカの各地域などでの作戦には協力し続けていたことである。

米独関係は一部で問題が生じたとしても、それがすべての関係を壊してしまうほど薄っぺらなものでは決してない。政治的にも経済的にも、当然社会的にも基底には非常に層の厚い関係が存在している。2005年9月の連邦議会選挙でCDUが優位となりSPDとの大連立政権がメルケル首相の下で発足すると、ブッシュ政権との関係も回復していった。シュレーダー政権は、ロシアとの関係を緊密化しヨーロッパの自律性を強調しすぎたことによって、「アメリカと大西洋同盟」と「フランスとヨーロッパ統合」という二つの軸の間で展開してきたドイツ外交のバランスをやや崩した。メルケル政権はこのバランスを回復し、対米関係を改善していった。

メルケル政権とNSA事件

2009年にオバマ大統領が就任すると、ドイツの世論は新しい指導者を大歓迎した。単独主義的な行動では無く、新しい時代に合った新しい世代の指導者を選んだアメリカに対するドイツ市民の期待は非常に大きかった。ドイツの代表的世論調査「ドイチュラントトレンド」によれば2009年11月にはアメリカを信頼できるパートナー国と考える市民は78%もいた。

ところがNSAによる盗聴問題が明らかになってからこの数値は急激に低下し、2013年11月の調査ではわずか35%にまで低下してしまった。オバマ大統領に対する支持も、就任当初から見るとほぼ半減してしまっており、不人気であったブッシュ前大統領とほぼ同じレベルに落ち込んでいる(http://www.tagesschau.de/inland/deutschlandtrend2094.html)。

NSA事件は、個人のデータ・プライバシーに敏感なドイツ市民のアメリカに対する不信感を強めた。事件が報道された当初はアメリカがインターネットを盗聴し、ドイツ市民のプライバシーが侵されていること、それに対してEUもドイツ政府も法的にも技術的に対応できないことなどが問題とされたが、後にメルケル首相の私的携帯電話も盗聴されていたことが発覚し、同盟国間の信頼関係を揺るがすものであるという議論に展開していった。

メルケル首相や政権党の関係者は、公式にはドイツとEUの法律に照らして問題があるところは対応するという冷静な対応を示してきた。携帯電話盗聴の疑惑が出てからも、ずっと冷静な対応に終始しており、問題を厳しく指摘する多くの報道とは一線を画している。11月18日には連邦議会の本会議でこの問題が取りあげられたが、担当相であるフリードリッヒ内務相は、暴露された文書が大変に腹立たしいものであり、アメリカから十分な説明がないことは遺憾であるとしながらも、アメリカとの関係は緊密で、友好的かつパートナーシップに基づくものとこれまでの基本認識を確認している。野党の中でも緑の党や左派党は厳しい批判を展開しているものの、この問題が米独の政府間関係の本質を揺るがすことはないであろう。

ドイツもナイーブにアメリカの諜報の対象となっていたわけではない。ドイツも情報機関を抱え、情報収集・諜報活動を行っているし、アメリカの諜報機関との情報交換も行っている。アメリカのNSAが同盟国の信頼関係を揺るがす形で諜報活動を行い、これが公表されたことは極めて遺憾であるとしても、スノーデン元職員による内部告発という形であったことと、ロシアの保護下にありドイツへの庇護申請を希望していることなどから政治的に微妙な問題となっている。

アメリカとドイツは第二次世界大戦後の歴史を振り返ってみると、いくつかの転換点をへながら冷戦の環境のもとできわめて強く結びついてきた。冷戦後の世界では、平和なEUの中のヨーロッパに位置するドイツと、不安定な世界にも関わらなければならない大国としてのアメリカとの間の世界認識が乖離してきた。オバマ大統領のように新しい思考を持った指導者が登場したことにドイツ人は期待したものの、アメリカの諜報機関はこれまでの任務を新しい技術的環境の下で行っている。

NSA盗聴事件はドイツ政府にとっても市民にとっても、非常に不愉快な事件である。アメリカに対するドイツの信頼が大きく傷ついたことは間違いない。しかし、米独関係の紐帯の太さを考えるとき、このことが米独関係全体を決定的に傷つけるとは思えない。少なくともドイツ側はこれまでこの問題が大きくなりすぎないように注意深く対応してきた。これまでのオバマ政権の対応はドイツから見れば後手後手に回っており、十分な対応がされていないと認識されている。

メルケル首相が連邦議会で発言したように、事態を解明し未来に向けて新たに信頼関係を構築しなければならない段階にあるが、歴史的な米独関係のレガシーを無にせずに信頼を回復できるか否かのボールは現在アメリカ側にある。

サムネイル「Angela Merkel, CDU Election Rally in Hamburg」www.GlynLowe.com

http://www.flickr.com/photos/glynlowe/9806719774/

プロフィール

森井裕一EU研究、ドイツ政治

東京大学大学院総合文化研究科准教授。琉球大学、筑波大学を経て2000年より現職。専門はEU研究、ドイツ政治、国際政治学。『現代ドイツの外交と政治』(信山社、2008年)、編著に『ヨーロッパの政治経済・入門』(有斐閣、2012年)、『地域統合とグローバル秩序−ヨーロッパと日本・アジア』(信山社、2010年)など。

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