2014.01.14

絶望の果てに希望は見出せるか──アフリカ遊牧民の紛争のフィールドワークから

湖中真哉 アフリカ地域研究 / 人類学 / グローバリゼーション研究

国際 #フィールドワーク#アフリカ遊牧民#USAID#ピース・キャラバン

未明の襲撃

アフリカでも高地の明け方はかなり冷え込む。

未明5時、敵の笛の音があたりに鳴り響いた。襲撃者が自らを勇気づけるために歌う戦闘歌が低く響く。辺りに悪臭が漂う。われわれの民族はシマウマの臭いを嫌うが、敵兵は、防寒のために、シマウマの脂を体に塗りつけているからだ。敵兵は、防寒のために、ジャンパーやプルオーバーを着ているが、われわれに見せかけるために、同じような腕輪、耳飾り、頭巾を身に纏っている。

敵の侵入を防ぐために集落を囲っている棘のある樹木がミシミシと破られていく。囲いには銃を持って寝ずの番をしているわれわれの警備がいる。襲撃を知った警備は空砲を撃って知らせる。「早く外に出ろ!」。

最初に、家屋の外に出ている人間がつぎつぎに銃殺されていく。そして銃を持った敵兵が家の入り口に1人1人張り付き、威嚇のために空砲を撃つ。もし、家屋から人が出てくると、そのまま即座に銃殺される。家の中を無差別に銃撃する襲撃者もいる。たまたま弾丸が当たれば子どもも老婆も死ぬ。その間に、別の一団が集落の牛群すべて――集落の人々の全財産に等しい――を略奪して、逃走する。

集落囲い
集落囲い

紛争報道――流布されるグローバルな綺麗事

よく尋ねられる。「どうしてアフリカ遊牧社会で紛争のフィールドワークをしようと思ったのですか?」実は、そう思ったことは一度もない。たんにこれまでフィールドワークしていた遊牧民が紛争に巻き込まれたからそれを追いかけてきただけなのだ。

現地の人々ですらこの紛争についてよく知らない。紛争地を訪れたのは、現地の人々から紛争が終わったと聞いたからだった。しかし実際に紛争地に行ってみると、襲撃は続いていた。夜中には銃声が鳴った。夜間には、集落の周囲は棘のある柵で囲われるため、夜通し小便を我慢した。夜に小便に行こうとして敵と間違われて銃撃された人もいた。

この紛争は、驚くほど知られていない。ある国際NGOの報告書が唯一と言って良い報告だが、そこにはこれまで無視されてきたことが特筆されている。人道的な危機であったにもかかわらず、赤十字によるわずかな支援を除き、国家からも国際機関からも、ほとんど何の支援も行われなかった。昨年英国で開催されたある国際会議には、名だたる遊牧民研究者が参加していたが、この紛争のことを完全に誤解していた。

567人。どこにも統計がないので、わたしが各地をまわって調べたこの紛争による死者数の総計である。わたしは紛争を止められたわけでもないし、死者を蘇らせることができたわけではない。わたしが紛争のフィールドワークでやったのは、せいぜいやるせない「墓標作り」の作業にすぎない。

冒頭の話を聞いていて、背筋に戦慄が走った時のことは鮮明に記憶している。フィールドワークが深まると、ちょうど映画の1シーンのように、つぎつぎにリアルなイメージが浮かぶようになった。そのイメージは、これこそが世界の真の姿だとわたしに語りかける。コンビニで、ショッピングモールで、駅のホームで、そのイメージは、突如として、つねにわたしがいる現実を揺るがせ、苦しめる。

2009年に24人が殺害された虐殺事件が発生してから、この紛争は突如として、新聞紙面に登場するようになった。

記事の多くは、この紛争を、牧畜民の伝統的な家畜略奪や民族衝突として扱っていた。とくに、近年、影響力を持っているのが、資源紛争説である。ある新聞紙面の例を挙げると、「気候変動(俗に言う地球温暖化)」の影響で、乾燥化が進んだために、稀少化した牧草や水などの資源をめぐって、遊牧民が争いを繰り返すという国連の報告書のシナリオが引用されていた。

断言するが、この紛争について言えば、これらの説明は間違っている。牧畜民の伝統的な家畜略奪においては、組織的な焼き討ちが行われることはなかった。ふたつの民族の関係はずっと良好で、通婚や贈り物もみられ、お互いの言葉を話せる人もいた。牧草や水の用益権は、両民族の間でゆるやかに共有されていた。雨が降って牧草が生えれば、よその民族が放牧に来ても、誰も文句を言わなかった。「困ったときはお互い様」というわけだ。そもそも、この地域は最も農業開発が成功した地域であり、少なくとも、稀少な資源をめぐる争いの証拠などひとつもなかった。

こうして、一度も現場に足を運んだことのない国際機関やメディア関係者の、すべて憶測と仮定に過ぎないことが真実として流布されていく。われわれの現実はこうしたグローバルな綺麗事によってできあがっていくのだ。

紛争の主因は何か

それなら、なぜ紛争が発生したのか。

ある大規模な決戦の後、被害側の民族は、足を負傷して逃げ遅れた兵士を捕虜にした。自白すれば病院に連れて行ってやると偽りながら、その捕虜を殴り続け、紛争の首謀者を自白させたのである。

首謀者は、攻撃側の民族集団出身の国会議員だった。この議員は、選挙の集票のために、お隣の民族を襲撃し、その土地を奪って、支持者に配分する公約を掲げたのである。焼き討ちが行われたのは退去を促すためだ。この選挙公約のおかげで、彼は当選した。そして当選後、公約実現のために、隣国の紛争地からAK-47を中心とする500丁のアサルトライフルを密輸して、紛争を扇動した。

「牧畜民の伝統的な家畜略奪」、「民族衝突」、「資源紛争」。これらの偏見や先入観は、地域住民に、好戦的で無知な遊牧民というレッテルを貼りつけ、国会議員が紛争の主因を、自らの扇動ではなく地域住民の争いへと転嫁するのに大いに役立った。議員にとっては、実に都合の良い隠れ蓑だったというわけだ。

しかし、自白した捕虜は、拷問後、殺害された。そして殺害した人々が、その罪を問われることを恐れたため、その真実が警察に伝えられることはなかった。あるいは、この時点で、彼らは、既に警察に頼ることは断念していたのかもしれない。攻撃側の死者が持っていた携帯電話の「連絡先」には、警察署の電話番号が登録されていた。当地の警察は、その国会議員によって買収されていたのである。

焼き討ちされた家屋
焼き討ちされた家屋

襲撃側よりももうちょっとはずんでくれ

襲撃者は、襲撃前にまず警察署に立ち寄って、法外な大金を警察官にわたす。「これから襲撃に行くから、警察は来ないで欲しい」。そのため、警察が現場に来るのは襲撃の翌日である。「車の燃料がなくて来られなかった」と言い訳をするのだという。

被害住民を保護する目的で派遣された特殊部隊(SATやSWATのような組織)ですら買収されていた。「パトロール」にみせかけながら、収賄金の受け渡しをするのだ。警察から、被害者側の集落に電話がかかってきたことがあった。「襲撃側よりももうちょっとはずんでくれたら、お前らを助けてやってもいいんだぜ」。

当地では、金さえ積めば、警察や軍は何でも売ってくれる。そう、弾薬や銃から、制服に至るまで。ある集落では、弾薬の半分は、警察から買っていた。虐殺事件が起きてから、警察と軍が「武装解除」に来たこともあった。村人は無抵抗であったにもかかわらず、住民1人が殺害され、11人が負傷し、6人の少女が性的暴行の被害にあった。銃は1丁も没収されなかった。平和構築には、警察や軍による武装解除が一番有効だという考えは、少なくとも、ここでは通用しないようだ。

闇の資本主義経済

略奪した家畜の4割は、国家議員のもとに行く。この議員は、略奪した家畜を、証拠が残らないように、遠方の町の家畜市に輸送して売却させていた。屠殺・解体した後、 冷凍輸送トラックを使用して、首都まで輸送して、肉として売却することもあるようだ。肉なら証拠が残らない。

略奪した家畜の肉の売り上げは、この議員の私腹を肥やすほか、武器の購入資金や警察の買収資金として使用され、それを使って地域住民は再び略奪に行く。現金収入源が不足している当地では、なかなかのビジネスだ。アフリカの藪の中で、小さな闇の資本主義経済が成立しているのである。都市のホテルで観光客が口にしたステーキにも、その肉が使われていたかも知れない。

難攻不落の集落

襲撃を受けた後、被害側の民族は一旦全員が避難し、彼らの土地は無人の地となった。ある国際NGOは、国内避難民の数を22,000人と推計している。

国家は彼らを守ってはくれないどころか攻撃側に荷担するようになった。しかし、彼らは一致団結して、10箇所に防衛のための巨大集落を建設して戻ってきた。巨大集落は、国内避難民キャンプであると同時に、文字通り「前線」である。しかし、その巨大集落も連日連夜襲撃されており、人々は壊滅寸前の危機にあった。冒頭の情景は、その頃の話である。

巨大集落
巨大集落

しかし、その中で一箇所だけ、難攻不落の集落があった。この集落には、戦死者はいたが、驚くべきことに、設立以来、一度も、家畜を略奪されていない。他の巨大集落は、伝統的な氏族ごとにつくられ、各地に点在していたが、この巨大集落は、氏族を全く問わずにただ一箇所に人々が集結してできた。警察も軍も守ってはくれない生存の危機に、人々は、伝統のしがらみを捨てて、一致団結して立ち上がったのである。集落では、輪番制により、誰もが平等に夜警や放牧の労働を負担し、直接民主主義に基づいて、何度も議論が繰り返された。

わたしは、この集落の国内避難民を対象として、その所持品の調査を行ったことがある。着の身着のままで逃げてきた避難民だから、所持しているものが少ないことは予想できた。

しかし、新婚早々、出産早々に夫を殺されたある女性の家屋を訪問したときにはさすがに絶句した。家屋の中には、ずだぶくろ1枚しかなかったのである。どうやってずだぶくろ1枚で生活しているのか。気の毒に思った集落の代表者が、彼の家に呼び、心を病んでいた彼女の生活の面倒をすべてみていたのである。国家からも国際機関からも支援が得られなかったので、ここでは、地域住民同士がなけなしの自助努力で支え合っていた。

唯一の持ち物であるずだぶくろ
唯一の持ち物であるずだぶくろ

この集落では、「槍を持って闘う遊牧民の戦士」という伝統的なイメージを覆す戦法が採られていた。まず、集落には、退役軍人4人がいたので、彼らが司令官となり、「遊牧民の戦士」に対して、近代的軍事訓練を行った。

集落の周囲に32箇所の塹壕を掘って近代的戦術を採用した。携帯電話を無線機代わりとして使用することで、小隊を連携させる新たな戦術があみ出された。最も重要な戦術上の特徴は、この集落では、一切報復攻撃を行わなかったことである。道徳的理由によるものではない。防衛戦術に徹した方が、戦術上有利だと判断したからである。

政府の軍服を不正に購入し、迷彩服を着て、弾帯をかけた村人は、外見からは正規軍兵士とまったく見分けがつかなかった。さらに、集落内で寄付金を募り、警察から4機のバズーカ砲を不正に購入した。

メディアでは一切報道されなかったが、24人が虐殺された同じ日に、実は、過去最大規模の兵力が難攻不落の集落に向かっていた。この最大の決戦で、難攻不落の集落では、バズーカ砲を用いて、襲撃者を迎撃した。防衛戦術に徹した方が、戦術上有利だということは、はからずもこの時証明された。バズーカ砲で吹き飛んだ敵側120人の死体は、葬儀も現場検証も行われず、すべてハイエナが食べた。その後、集落では人肉の味をおぼえたハイエナを警戒したそうである。

紛争が終結した理由のひとつは、この戦闘で、攻撃側が、「難攻不落の集落」の圧倒的軍事力を思い知ったからである。平和をもたらしたのは、美談ではなく、圧倒的軍事力だったのだ。

票が欲しかったから。

2009年末に紛争はほぼ終結した。終結したのは、先に述べたように、攻撃側が「難攻不落の集落」の圧倒的軍事力を思い知ったことが原因だが、虐殺事件が新聞沙汰になったので、国内治安大臣が国会議員に圧力をかけたことも影響している。

和平会議でつるしあげられた国会議員は、なぜ紛争を扇動したのか、と尋ねられ、こう答えたそうである。「票が欲しかったから」。和平会議で、この紛争被害についてはすべて免責にすることが決められたため、この議員も免責になった。

無意味に生産される「浅い希望」

紛争終結後、国内外の開発援助団体が、矢継ぎ早に、平和構築と復興支援のプロジェクトを実施した。例えば、USAID(米国国際開発庁)は、「ピース・キャラバン」を実施している。両民族の代表者を乗せた車が各地を巡回して、平和の意義を啓蒙する演説を行うという趣旨である。

ピース・キャラバン
ピース・キャラバン

しかし、考えてみればおかしな話だ。もともと両民族の地域住民は、平和に共存していたのである。紛争をもたらしたのは国会議員なのだから、このキャラバンは彼の自宅前でやるのが最も効率的であり、地域住民に平和の意義を啓蒙するのはほとんど無意味である。

開発援助機関は、アフリカ遊牧民は好戦的で無知なのだから、彼らを啓蒙・教化してあげれば良い、という見下した発想にそもそも問題があることに気づいていない。こうして、グローバルな綺麗事によって「浅い希望」が無意味に生産されていく。

携帯電話による平和構築

和平会議は繰り返し開催されたが、地域住民に発言の機会が与えられることはほとんどなく、いつも政治家と役人が演説をするだけだった。ところが、2009年10月に開催されたある和平会議では、政治家と役人が何かの都合で演説を切り上げて早々に帰ってしまった。そこで、ようやく地域住民同士が話し合う時間ができた。そこで提案されたのが、前回記事(携帯電話を手にしたアフリカ牧畜民、その光と影)でも少しふれた携帯電話による民族間連絡網である。

以前は、ほとんどの人々が固定電話すら持たなかったこの地域では、兵士を動員するためには、みずから伝達におもむくほかなかった。しかし、携帯電話の普及により、携帯電話で知り合いを辿って広域に援軍要請の連絡が行われるようになった。その結果、襲撃や迎撃に際して、それ以前では考えられない数百人が100 km以上の範囲から集結し、戦闘の規模は急速に拡大した。

それゆえ、紛争終結後も、たんなる個別の事件の場合でも、それが全面的な紛争の再開を意図する攻撃と相手方に誤解されて、紛争が再発してしまう危険性は残っていた。そこで、両民族の間で、携帯電話の番号を交換し、民族間連絡網を創り上げることで、平和を構築する新たな方法を考え出したのである。

2011年の1月から2013年8月までの約2年半の間に、17件の紛争に携帯電話による民族間連絡網が活用され、うち10件では紛争解決に重要な役割を果たした。これまで殺し合っていたふたつの民族の人々が、携帯電話で情報を交換しながら、一緒に協力して犯人を追跡し、家畜を捜索に行ったのは驚くべきことである。

「平和愛好家の遊牧民」では絵にならないからなのか、どこにも報道されなかったが、無意味な「ピース・キャラバン」とは対照的に、携帯電話による民族間連絡網を導入してから、民族間の紛争は激減した。

当初は紛争の手段として用いられた携帯電話を、人々はやがて平和構築の手段として利用するようになった。こうして、アフリカの遊牧民は、誰にも頼らずに、自らの知恵と工夫によってようやく平和を勝ち取ったのである。

絶望の果ての深い希望

現地では、事実をたんたんとフィールドノートに書き綴っていくやるせない日々が続いた。資料の整理が一段落して、宿でフィールドノートを閉じたとき、それまでおさえていた何とも言えない複雑な感情が堰を切り、一気に涙となって溢れた。「絶望の果ての希望」とノートには記した。

毎年、現地と日本を往復する度、アフリカの遊牧民は、国家からも国際社会からも見捨てられた究極の棄民(見捨てられた人々)だという思いを強くする。これを書いている最中も、南スーダンでは、アフリカの遊牧民が戦火に追われている。アフリカの遊牧民が何人死のうと、世界にとってはどうでもよいことなのかもしれない。

「武装解除」の後、難攻不落の集落の村人達は、詫びに来た警官達を、空砲を放って追い払った。この集落は、安全保障すら彼らの国家に依存できない。ひとつの集落が、ある意味で、独立国たらざるを得なかったのだ。

浅い希望やグローバルな綺麗事はもう要らない。アフリカの遊牧民が、国家にも国際社会にも見捨てられながらも、なけなしの自助努力によって自らの手で勝ち取った平和には、計り知れない価値があると思う。紛争と国内避難民はもとより、開発援助、国際協力、人道的支援、平和構築、武装解除……多くのものごとを根本的に考え直す手がかりになるはずだ。それは、民衆の自生的な底力が絶望の果てに見出した深い希望の価値であり、この世界のうちひしがれた人々に勇気を与えてくれると信じる。

*注記:この報告では、劣悪な統治に苦しみ、深刻な人権侵害を受けている人々を対象としているため、彼らに及ぼす影響に配慮して、民族名、国名等については、あえて示しておりません。ご理解をお願い致します。

プロフィール

湖中真哉アフリカ地域研究 / 人類学 / グローバリゼーション研究

1965年生まれ。筑波大学大学院博士課程単位取得退学。京都大学博士(地域研究)。現在、静岡県立大学 国際関係学部 教授。おもに、東アフリカ遊牧社会のグローバリゼーションを対象とした調査研究を行う。主要著書: 『牧畜二重経済の人類学─ケニア・サンブルの民族誌的研究』(2006年、世界思想社)など。

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