2014.03.11

メキシコ市のストリートチルドレン――アンドレとレイナの生活を足がかりに

小松仁美 社会学・社会福祉学

国際 #synodos#シノドス#メキシコ#ストリートチルドレン#フィッシャー#フレイレ

――発展途上国を訪れて、薄汚い格好の子どもに群がられた。

TVや雑誌で、マンホールやごみ山に住む子どもの映像や写真を目にするように、私たちは、経験や報道を通じてストリートチルドレンに触れる機会がある。そして彼らについて「汚い」・「危険」などのイメージや、貧困・孤児を原因とするなどといった何らかの知識を持ち合わせている。

ところが、私たちのイメージや知識はあやふやで曖昧模糊としている。「ストリート」とはどこを、「チルドレン」とは何歳までを、そして「ストリートチルドレン」とは何者を指すのか。マンホールや廃屋は「ストリート」なのか。21歳は「チルドレン」と呼べるのか。プチ家出や街頭をうろつく非行少年は「ストリートチルドレン」にはいるのか……?

「ストリート」と「チルドレン」との2語から成るこの造語は、1940年頃のラテンアメリカの中所得国を舞台に、子どもの権利を奪われてストリートにおいて労働や生活などせざるを得ない子どもおよびその社会問題を指して用いられるようになった。

いったい「ストリートチルドレン」とは何者なのか。本稿では、社会問題化過程からストリートチルドレンという言葉がどのように生じ、その言葉の生成過程における意味内容を踏まえたうえで、本稿におけるストリートチルドレンを定義する。そしてラテンアメリカ中所得国のひとつであり、ストリートチルドレンが社会問題化しているメキシコ合衆国首都Distrito Federal(メキシコ特別連邦区。以下、メキシコ市)における事例や状況から、今日のメキシコ市におけるストリートチルドレン問題について考察を深めたい。

ストリートチルドレンがいる場所のひとつ。メトロの操車場付近にある歩道橋下の通路の様子。
ストリートチルドレンがいる場所のひとつ。メトロの操車場付近にある歩道橋下の通路の様子。

その社会問題化過程とストリートチルドレン

まずはストリートチルドレンという言葉がどのように生じたのかを見ていこう。

子どもが「小さな大人」として扱われた近代以前においては、中世都市形成過程で、都市の衛生・治安の悪化ならびに施し費用の捻出等のために「小さな大人」を含む乞食が問題視された。

産業革命以降の近代化過程では、欧米先進諸国はストリートにいる子どもが都市の治安・交通・衛生の悪化を招くなどの問題を抱えた。例えば、イギリスでは浮浪児や救貧院の子どもの素行と処遇の劣悪さなどが問題視され、アメリカでは都市部のストリート・キッズの素行や、西部へと孤児列車に乗せられた子どもの保護のあり方などが問題視された。これらはいずれも工業化・都市化過程における一時的な子どもの貧困問題であった。

しかし労働者の保護を目的とした工場法の制定をかわきりに、人権思想・子どもの権利意識の高揚が徐々に広まり、子どもが「小さな大人」ではなく、大人と異なる存在として保護・養育の対象となり、制度化されていく。さらに農村から移動する親世代が定職につく、あるいは子ども世代が就学・就業するなど、時間の経過に伴い、または景気の動向によって、問題の大部分が解消された。

他方、後発で工業化したラテンアメリカの中所得国では、1940年前後の工業化に伴う農村から都市への人口移動過程において、その後進性とアメリカに近いという地理的条件[*1]によって、都市下層およびその子どもの生活状況が欧米先進諸国のように改善されなかった。

むしろ、急激かつ過剰な人口集中過程において、露天商や行商をはじめとするインフォーマル経済部門がフォーマル経済部門に吸収されることなく拡大を続けた結果、劣悪な生活状況におかれる都市下層の子どもが増加した。都市下層の子どもから一定程度の子どもがストリートにおける労働に駆り出され、その一部がストリートでの生活を余儀なくされ、都市の治安・交通・衛生を乱す存在として社会問題化した。

ラテンアメリカ中所得国が急激な都市への人口集中過程を経験する1940年頃は、欧米先進諸国を中心として国際的に人権思想および子どもの権利意識が高揚しつつあった。しかしそうした潮流に反して、ラテンアメリカのストリートで労働・生活などする子どもは、親権者から適切に保護・養育されることもなく、治安の悪化を招くなどの理由からときには暴力的な手段によってストリートから一掃された。こうした現象は、一部の市民や国際機関などから問題視されるようになり、ストリートを介して様々な子どもが含まれていることから「ストリートチルドレン」と呼ばれるようになった。

したがって、ラテンアメリカ中所得国におけるストリートチルドレンとは、後発の工業化過程を背景に都市への人口集中過程においてインフォーマル経済部門がフォーマル経済部門に吸収されずに拡大し、そのために大量に生じたストリートで労働・生活などする都市下層の子ども[*2]を指す。同時に、(1)主として為政者や権力者による都市の治安・交通・衛生の悪化への危惧、および、(2)主に市民団体や国際機関によりその子どもを取り巻く劣悪かつ暴力的な状況への批判という、2つの異なる主体と観点から立ち上げられた社会問題を指す。

このようにストリートチルドレンを社会問題と捉えると、その立脚点によって問題内容が異なり個々の社会問題に細分化される。ストリートにおける雑多な現象を含めつつ、今日的な意味を考えるにあたっては、ストリートにおいて労働・生活などする都市下層の子どもを出発点としたい。

[*1]「アメリカの裏庭」と称されるように、政治・経済・軍事的に米国に干渉、利用され続けてきた。ポルフィリオ・ディアス大統領が嘆いた“Pobre México, tan lejos del cielo y tan cerca de los Estados Unidos.”(哀れなるメキシコよ,あまりにも天国から遠く,あまりにも米国に近い)は、あまりにも端的にメキシコの状況を示している。

[*2]都市人口が7、8割を超えるラテンアメリカ諸国の特徴。

ストリートチルドレンの定義

ストリートチルドレンがラテンアメリカ中所得国を中心に社会問題化するにつれて、彼らの状況把握や定義が試みられるようになり、現在、国際機関やNGOが主として用いる定義[*3]の基礎的概念がパウロ・フレイレ(Paulo Freire)によって形成された。

フレイレはフィッシャー(Fisher Ferreira)[*4]の2類型を足がかりに、子どもの社会化に着目してストリートチルドレンを都市部に居住する18歳未満[*5]の、“children of the street”と“children on the street”に分類した。前者は、ストリートにおいて緩やかな相互扶助関係にある仲間集団を家族の代替とし、ストリートを第一の定住場所とする者を指す。後者は、ストリートにおける仲間集団に属していても、頻繁に帰宅し、主として家庭内において社会化される者を指す(Moulin=Pereira 2000:48-50)。

フレイレの定義から、ストリートチルドレンの社会化は家族のみならずストリートの緩やかな相互扶助関係にある仲間集団によっても担われており、ストリートとは単純に家以外の物理的な空間のみならず、人々の関係性を含んだ概念であると考えられる。

哲学者のイリイチは、産業化以前のストリートは「人々がおとなに成長する場所であって、そこで学んだことをとおして大部分の若者は、人生に立ち向かうことができた」(Illich 1981=1984:7)バナキュラーな(人々の生活に根ざした)場所であったと述べている。

産業化以降も自動車の高速移動が実現されなかった一部のストリートにおいては脈々と露天商や行商などが続けられた。ストリートの生業はその特質上、子どもの大部分を“children on the street”や“children of the street”にする。ストリートを利用して生業を得る人々は、幼少期から、自らの親のみならずストリートにおける緩やかな相互扶助のなかで生業を身に着け、社会化されていく。彼らにとってストリートは、単に移動のための物理的な場所[*6]ではなく、その上に結ばれる人々の関係性やその関係性から生じる情動、その関係性に基づく価値観や行動様式といった観念的なものを含んだ場所なのである。

しかしながら当然の帰結として、その生業の脆弱さは、不安定就労、不安定収入、社会保障の欠如、事故や事件の危険性などに加えて、正式な手続きを経ない家屋の入手などを背景に、ときとして子どもを十分に社会化できずに危機的状況に追い込む。社会化を担う家族やストリートの仲間集団が、アルコール依存に陥ったり、麻薬の売買に手を染めたり、子どもを売買春や虐待の対象としたりするような場合、ストリートチルドレンは生業を獲得する前に独立せざるを得ない。生計を立てられず、イリーガルな仕事に巻き込まれるなどする。結果的に、事件や事故、麻薬やアルコールへの依存などに陥り、若くして亡くなったり、投獄されたりする。

ストリートを利用して生業を得る都市下層の子どもは、2つのストリートチルドレンに分けられる。1つは、ストリートで生業を学び習得する都市下層の再生産過程にあたる者である。もう1つは、その再生産過程から外れ、生命と生活の危機的状況にさらされる者である。本稿においては、より緊急支援の度合いが高く、人権の回復が急がれることから、生命と生活の危機的状況にある後者についてより考察を深めたい。

ストリートチルドレンが暮らすあるマンホールの様子。黄色いボトルは、シンナーやボンドなどの有機溶剤の入れ物。メキシコ市は標高が高く寒いため、マンホールは暖を取るのに適している。しかし、その利用は禁じられており、見つかった場合、逃げ場がない。また、内部は食べ残しや屎尿などにハエが大量発生しており、非衛生的である。火器の使用に伴う火災などで死傷者が出ることもある。
ストリートチルドレンが暮らすあるマンホールの様子。黄色いボトルは、シンナーやボンドなどの有機溶剤の入れ物。メキシコ市は標高が高く寒いため、マンホールは暖を取るのに適している。しかし、その利用は禁じられており、見つかった場合、逃げ場がない。また、内部は食べ残しや屎尿などにハエが大量発生しており、非衛生的である。火器の使用に伴う火災などで死傷者が出ることもある。

メキシコ市におけるストリートチルドレンの問題状況の概観

メキシコ市におけるストリートチルドレンの数は、1995年に実施された調査[*7]および都市の18歳未満の未成年人口統計に基づいて推計され、2000年ごろを境に、約1万人で、緩やかに減少傾向を示しながら推移する。毎年ほぼ同数のストリートチルドレンが存在することから、新たにストリートチルドレンとなる子どもが一定程度存在すると考えられる。

支援を経て社会復帰する者が限られることを踏まえると、新たにストリートチルドレンになる子どもとほぼ同等数の、18歳となって「ホームレス」と呼称の変わる若者が年々ストリートに累積されると容易に推測される。

18歳未満のストリートチルドレンは、どのように暮らしているのであろうか。

ストリートチルドレンの暮らしは、その年齢[*8]や性別[*9]、家族との関係性やストリートにおける仲間集団との関係性およびおかれている環境によってかなりの差異が生じる。共通点としておよそ挙げられるものは、以下のとおりである。

メキシコ市周辺部の都市下層の居住区を主な出自とし、就学暦は非常に短い。ほとんどの者がシンナーやマリファナ、クラックなどの何らかの麻薬を使用しており[*10]、収入の大部分を薬物の購入資金にしている。収入は、簡易宿泊施設やふろ屋の利用にも当てられるが、日常的に利用する者は少数派で[*11]、TV視聴や性行為などの目的にあわせて利用する者が大部分である。性的な経験は男女ともに非常に早い[*12]。

民間・行政を問わずなんらかの支援を受けた経験をもち、ストリートやデイケア施設における衣食医に関する直接支援サービスから定住施設における社会復帰支援に移行するいずれかの段階でドロップアウトを繰り返す。大部分は社会復帰することなくストリートで成人年齢に達し、「ホームレス」となる。

交差点付近で稼ぐ親子が休憩を取る様子。親が休んでいるあいだ、自動車が行きかう道ばたで遊び、簡単な食事やおやつをとっている。親が仕事に戻ると、彼らも車列を縫って小物を売り歩いたり物を乞う。
交差点付近で稼ぐ親子が休憩を取る様子。親が休んでいるあいだ、自動車が行きかう道ばたで遊び、簡単な食事やおやつをとっている。親が仕事に戻ると、彼らも車列を縫って小物を売り歩いたり物を乞う。

18歳となり「ホームレス」と呼称が変わると、成人するまで支援によって賄えた全ての衣食住医に関するサービスや財を自ら稼ぐ必要に迫られる。ところが、現在ストリートにいる世代[*13]は、支援に頼ってさえいれば稼がずして生きてこられた。そのため単独でストリートで稼ぎ、暮らす術を含めて生業を身につけていない。

年下のストリートチルドレンと行動をともにすれば、自らの身体や財産の安全は確保されるものの、成人に達しているためにストリートチルドレン支援が受けられないばかりか、その外見からホームレス支援の手は届かない。一方で、ホームレス支援を受けようと年下のストリートチルドレンと行動を分かてば、自らの安全の確保は難しい。

安全をとっても、支援を選んでも、成人したストリートチルドレン(「ホームレス」)は、生活と生命の危機に曝され、なし崩しに危険性の高いイリーガルな仕事に手を染めはじめる。投獄や死亡の危機的状況に陥り、あるいは極度の薬物依存と劣悪な養育環境を背景に精神保健施設等へと入所させられる。

[*3]2類型に、危険性の高い子ども“home based”を加えた3類型が主に用いられる。

[*4]フィッシャーは、親によって保護・養育される子どもが路上において遺棄されていることに着目し、定位家族との関係性に基づいて1979年にストリートチルドレン概念を整理して“children of the street”と“children on the street”との2類型を用いた。

[*5]多数の国が成人年齢を18歳としており、支援や政策実施のためには問題群を特定して対象を限定する必要があるものの、子どもの社会化機能に着目すれば、当該社会が大人とみなす諸要件を満たすために必要な期間を加味する必要があるのではないだろうか。現在、少数ではあるが、20歳半ばまでを支援対象にする民間支援団体も存在する。

[*6]移動経路となる道路に加えて、その延長線上にある市場や公園、あるいは休息などのために暗黙の了解で利用する廃屋やマンホール内なども物理的な場所に含まれる。

[*7]ストリートチルドレンの多い地点における市内全域を対象とする定点調査。数少ない大掛かりな調査で、非常に貴重な多数の知見をもたらした。しかし、定点以外の場所を利用する少数・単独行動者および移動層は調査対象となり難かった。

[*8]自らストリートで労働・生活し始めるのはおよそ8歳前後であるが、ストリートで生まれ育てられる子どももおり、年齢の下限はない。

[*9]男女比は7対3で男子が多い。ストリートで稼ぎ家計を支える男子と家庭内で母親を助ける女子というジェンダーがある。このために女子はストリートへのアクセスが限られ、性的虐待や生命にかかわるような虐待がない限りストリートに出ない。

[*10]メキシコの麻薬カルテルが力をもち、容易な麻薬入手環境ができた。また、支援拡大に伴いそれまで生活費としていた収入の大部分を薬物購入費に当てられるようになった。これら2大要因が、ストリートチルドレンの麻薬依存の深刻化を招いたと考えられる。

[*11]近年、簡易宿泊施設利用者は増加傾向にあると考えられる。一見すると衛生的でストリートチルドレンに見えない者が増加してきたと民間支援団体の職員は口をそろえる。

[*12]女性であれば、売春や庇護を得るための仲間内の男性への性的奉仕の経験があり、半数以上が10代半ばまでに妊娠を経験している。出産された子どもは、劣悪な養育環境のため死亡したり、施設・親族に預けられたりする。子どもの生物学上の父親は、その大部分が妊娠を期に離別して妊娠・出産・育児には携わらずに他の女性との関係に興ずる。

[*13]支援が拡充した1990年以降にストリートチルドレンとなった者。

メキシコ市におけるストリートチルドレンの事例

ストリートチルドレンは、置かれた状況も背景も個々人によって大きく異なり、その問題状況の内実は十人十色である。事例から普遍性を導きだすことは難しいが、しかし、事例をぬきにして、個々人が置かれた困難きわまる状況やその背景を知ることはできない。

以下では、ストリートで生業を学び習得する都市下層の再生産過程から外れ、生命と生活の危機的状況にさらされる者の事例として、アンドレ(仮名、男、27歳)とレイナ(仮名、女、2011年に23歳で死亡)のカップル(2004年から2011年まで交際)を取り上げる。

その理由は、次の3点にある。第一に、彼らは都市下層を出自としてストリートで働き、生活するようになった“children of the street”であり、ストリートで成人し、死に至った典型的な事例のひとつである。第二に、5年以上にわたって継続的な協力が得られ、行動をともにし、語りを収集できた数少ない調査協力者であり、収集されたデータに一定の信頼が置ける[*14]。第三に、レイナの行路死亡にともない、アンドレは生活場所を移動させた。これまで調査倫理上記述が難しかった点に踏み込んで記述できるためである。

アンドレはメキシコ市の北東に位置する郊外のスラムに生まれた。異父母兄弟が何人かおり、父親は自分が生まれる前後に蒸発した。主たる働き手の一人として家計を支え、聡明で機転が利く子どもとして母親にかわいがられた。ところが、事故に遭って片足を失って働けなくなると、母親から「不要な子ども」として扱われるようになり、自信を失った。

松葉杖を使って動けるようになると、家を出てストリートに暮らしはじめた[*15]。しばらくはときどき帰宅したが、母親にとって自分が「不要な存在」だと強く感じ、連絡を絶つようになってからは母親の所在がわからなくなった。また、他者への不信感を強め、内気になった。

レイナはメキシコ市から北へバスで3時間ほどのケレタロ州、州都サンディアゴ・デ・ケレタロ(Santiago de Querétaro)に生まれた。幼少期は、おばの小さな家に8~10人ほどで身を寄せ合って暮らし、暴力的に扱われた。幼少期については多くを語らず、姉と母親、おばがいる以外は不明。父親については一度も語らなかった。性格は大雑把で明るく人懐っこく、負けん気が強い。公教育を受けていないため、文字はほぼ綴れないが、多少読むことができる。筆者がスペイン語をほとんど理解していないときに、彼女はしばしば私の辞書を引いてくれた。LとRの綴りや文節を間違えるので、一単語を調べるにも時間がかかったが、あきらめずに辞書をめくっていた姿が印象的であった。レイナは、最初に私にストリートのスペイン語を教えてくれた友人でもある。

12、13歳のときに単身でメキシコ市に出てきたものの、仕事がなく、新市街地のソナ・ロサで春をひさいだ。1年程が経過して自分に似た境遇の者が大勢いると知り、旧市街地のセントロに移動した。ストリートの仲間集団に入り、売春から足を洗ったが、ときには食べていけず、ソナ・ロサの通りに立つこともあった。ちょうど15歳前後のとき、妊娠に気付き[*16]、子ども産んで、おば宅に預けた。子どもに会いに年に1、2度、ケレタロに帰っていたが、18歳のときにおばの家がなくなっていて、肉親との音信が途絶えた。

標高が高く寒いため、夜間、屋外で眠ることは難しい。屋外で生活するストリートチルドレンは、夜間にシンナーなどを吸引して寒さをごまかし、寒さが和らぐ昼間に眠る。手前(赤いストール)は筆者。
標高が高く寒いため、夜間、屋外で眠ることは難しい。屋外で生活するストリートチルドレンは、夜間にシンナーなどを吸引して寒さをごまかし、寒さが和らぐ昼間に眠る。手前(赤いストール)は筆者(栗林撮影)。

筆者が2人にはじめて出会ったのは2003年、アンドレが16歳、レイナが15歳の頃で、セントロの西に位置する地域においてであった。レイナが出産後にメキシコ市に戻ってきて間もない頃であった。アンドレはときどきレイナを世話していたが、まだ付き合う関係には至っていなかった。本格的に筆者が彼らと行動をともにし始めた2004年に再会した際も、まだ2人は付き合っていなかった。

筆者はアンドレがレイナに好意を寄せているとすぐにわかった。しかしアンドレは、母親に不要な子どもとみなされるようになった自身の障害について非常にナーバスになっていた。仲間は、まじめに働き、稼いでいたアンドレをやっかみの対象とみなして「松葉杖ヤロー」と呼んだ。男女問わずアンドレをからかったが、レイナは違っていた。レイナは、からかう仲間に罵りの言葉で応酬した。アンドレはレイナと一緒にいるのを好むようになった。

一方のレイナも、アンドレといることを好んだ。アンドレがご飯に誘ってくれるので、レイナは稼ぎが悪くても春をひさがずに済んだ。また、庇護の見返りに性的奉仕を求める他の仲間と違って、アンドレはそれも求めなかった。レイナは、最初、アンドレといれば「楽ができる」と打算的に行動をともにしだした。しかし、アンドレの見返りを要求しない献身的な振舞いに、徐々に安堵感や安らぎを感じるようになっていった。

あるストリートチルドレンが撮ってくれた筆者とストリートチルドレン、「ホームレス」の写真。
あるストリートチルドレンが撮ってくれた筆者とストリートチルドレン、「ホームレス」の写真。

[*14](1)自己肯定観が低く、他者への信頼観が低い。(2)薬物・アルコール依存状態。(3)インタビューへの見返り欲しさに用意された語りを話すなどから、ラポールの形成が非常に重要となる。短期的なフィールドワークでは信憑性の高いデータ収集は難しい。

[*15]筆者と出会った当時は松葉杖を購入できず、1本のみを使用していた。このことから、金銭的にアンドレを十分に養うだけの余裕はなかったと考えられる。

[*16]子どもの親は不明で、売春によって孕んだとレイナは考えている。

2004年が終わるか2005年が始まるころに2人は付き合い始めた。アンドレはレイナと生活をともにするようになり、表情が明るくなり、よりいっそう働くようになった。公園のベンチ下に2人が何とか入ることのできる大きさのテントを張り、夜はそこで寝泊りした。日中はレイナがテントを守り、アンドレが交差点に立って物乞いとキャンディ売り、窓ガラス拭きで稼いだ。

当時の彼らの家財は、ブルーシート、ほうき、数枚の服、薄汚くなったぬいぐるみとおもちゃのような携帯ラジオだった。レイナは、これらを守り、テント周りをきれいにしていた。アンドレは、休憩や食事時間にジュースや食事を持ってきた。

風雨に耐えながら半年、1年と過ぎた2005年の秋ごろから、2人は寝る場所を簡易宿泊施設に移した。毎日、荷物を宿に預けて昼前から夕方まで2人で働き、夜は宿に戻って過ごす。少しずつ服やカセットラジオなどを買い足し、より条件のよい宿へと移っていった。このころ、アンドレは2本の松葉杖を使うようになった。

筆者が2人の常宿に出入りするような関係になった2006年、2007年には、2人が別々に過ごしているときに、各々の将来について尋ねた。

アンドレは、レイナと結婚したいと話した。具体的には、性行為をして、子どもがほしいと話し、これまで数回しか性行為ができていないのはレイナがあまり望んでいないように思うことと、自分が「松葉杖ヤロー」であるため彼女に受け入れてもらえるか自信がないということであった。

一方のレイナは、春をひさいでいたことと子どもがいることを負い目に思っていた。アンドレには自分が売春婦だったことを知られたくないが、もう気づかれているかもしれないと不安がった。今は、アンドレが望むように性行為をしたいとも思うけれど、どことなく性行為に恐怖感がある。また、子どもを育てる自信がないので、性行為をしたくないという気持ちもある。ただ、もっと安定したらアンドレと結婚たいし、アンドレの子どもを生みたいと考えていると話した。

お互いを大事にしたいとの思いが強いようであった。これまで置かれてきた環境からくる戸惑いを抱えながらも互いを強く思いやる2人の幸せを、筆者は切に願った。

しかし、2人の歯車は狂いはじめる。アンドレは、母親から捨てられた自分に唯一愛情を注いでくれるレイナを失いたくないとの思いから彼女の考えや行動を優先した。レイナは、売春を思い起こす性行為や子どもを持つことに躊躇を覚え、家族を築くことに前向きになれず、アンドレが自分を傷つけないように接すれば接するほどその愛情をうまく受け止められないで苛立ちを募らせていく。

レイナは、次第に働かなくなり、シンナーを片時も手放さなくなっていった。アンドレは、レイナの稼ぎを補うべく、休みもとらず、ほとんどシンナーを吸引することもなく働いた。レイナのシンナー代も稼いだ。そしてレイナの薬物依存はより深刻になっていった。

2008年頃になると、レイナはほぼ毎日を極度の酩酊状態で過ごすようになっていた。会っても簡単な会話や同じ発話を繰り返すだけになった。呂律が回らずに会話できないとき、筆者とアンドレの3人で話すとき以外は受け答えもしない日が目立って多くなっていった。出会ってから常に内気なアンドレにかわって会話をリードしてきたレイナが、まともに話せず、その代わりにアンドレが話す。このような状況が続いて危機感を抱いたアンドレはレイナに脱薬物依存プログラムを受けさせるが、結局、レイナは2週間もせずに施設を抜け出して元の薬物漬けの生活に戻ってしまった。

ストリートで出会い、愛情や安らぎ手に入れられたかに思えるようになったのもつかの間、2人はボタンを掛け違えたまま寄り添いあって暮らした。レイナの薬物依存は改善されないままに、ときだけが過ぎていった。

2011年1月、アンドレはいつもどおりにストリートで働き、レイナはアンドレの働く交差点の脇にある広場でシンナーを片手に日中をやり過ごしていた。2人の日常の風景であった。この日常が、大型路線バスが何かにぶつかる音ともに崩れた。2台の大型路線バスが、レイナの躯を引き裂きながら走行した。レイナは23歳であった。

アンドレは、レイナの死後、廃人のようになった。2人で暮らした宿を引き払って、事故現場を含めて2人の思い出の残るセントロ一帯には近寄らなくなった[*17]。ときおり、他のストリートチルドレンが立てたテントに拠りつくほかは一人で過ごし、路上駐車の誘導で小銭を稼いでシンナーを片手にその日をやり過ごすようになった。体臭や屎尿のにおいのこびりついたぼろをまとい、体には蚤や虱が這うのも気にしなくなった。血色が悪くなり、やせ細った。シンナーが手放せなくなり、震える手で口元にシンナーをやっては、だらだらと止まらなくなった唾液をぬぐう動作を繰り返ようになった。

筆者は、2012年に再会した際の、変わり果てたアンドレの姿に驚かされた。しかしそれ以上に、生前のレイナに渡した2人の写真をアンドレが折りたたんでズボンのポケットに入れて、なくさずに持っていたことに驚かされた。

アンドレは「Mi amor, mi vida…(俺の愛、俺の人生……)」そういって写真を取り出して涙を流した。そして、他にレイナの写真を持っていないかを筆者に尋ねた後、「Atropellaron…mi vida(轢き殺された……俺の人生は)」とレイナが殺害されたことへの憤りを言葉少なに語った。

アンドレは「レイナがいなくなってどう生きていいかわからない。どこにいけばいいかもわからない。お母さんが欲すれば家にも帰れる。でも、稼げない俺はごみ同様だよ。お母さんは俺を欲しない。ごみみたいなこの生活が似合っていると思う」と言って、筆者から離れていった。

2013年5月時点でアンドレの生活に変化は見られない。よりやせ細り、足取りがおぼつかなくなっている。経口での食事も受け付けにくくなってきているのだろう、嗚咽し、唾液や胃液をはき捨てる動作がたびたびとられた。アンドレの顔色に死相がうかがえた。

“もしも”があったとして、レイナが亡くなっていなければ、2人は案外うまくストリートで生きていたかもしれないし、子どもが生まれていたかもしれない。

2人は、2人だけの閉じた関係を保ち続けた。もし2人がストリートの仲間集団に属し続けて、仲間から「あいつはヤバイぞ」といわれていたならば、レイナは極度の依存に陥らなかったかもしれない。

あるいは支援を利用していればとも思う。アンドレは稼ぐことに長けており、支援に頼る必要がなかった。夫婦で入所できる施設が少なく、2人は別々に社会復帰支援を受けたくなかった。また、女子専用施設も少なく、レイナは男子と同じ施設には入りたくなかった。

さらに、ホームレス支援は、ストリートエデュケーションのように支援者側がストリートに訪ねて来ることは少なく、利用者から施設に出向く必要があり、非識字者の2人はアクセスし難かった。これらのために、2人は支援を受けなかった。

[*17]ストリートチルドレンの大部分が定住者ではないため、調査協力者とのコンタクトが一度途絶えると、追跡調査は容易ではなく調査続行が不可能となる。レイナとアンドレの消息がわからなくなった際も、彼らへの調査を打ち切るつもりでいたが、偶然にもレイナの死とアンドレの居場所を知るストリートチルドレンに出会え、アンドレに再会できた。しかし、うれしい再会にはならなかった。

むすびにかえて

アンドレも、レイナも、都市下層を出自とする。“children of the street”となり、ストリートで成人し、「ホームレス」となった。アンドレは、家計を助けるための仕事をする“children on the street”から、事故に遭い、母親からの愛情を感じられなくなって帰路を失い、自ら“children of the street”となった。レイナは、何も語らなかった。ケレタロで物売りなどをして幼少期を過ごしかもしれないし、親族からの性的暴力などから逃れるため直接メキシコ市にやってきたのかもしれない。春をひさぐほかにストリートでの凌ぎ方など知らぬまま“children of the street”になった。

アンドレは身体障害を武器に稼いだ。交差点に停止する車列を縫って言葉数少なに自らは「かわいそう」な片足の少年であるというように演技した。片足であるのも、親に見離されたのも事実であったから、彼の演技は通行人の心に響いた。稼ぎは良かった。アンドレは支援に頼らずに生きていけた。

車列を縫って芸(ピエロ)をして稼ぐ少年。その手には、立った今稼いだ小銭が握り締められている。
車列を縫って芸(ピエロ)をして稼ぐ少年。その手には、たった今稼いだ小銭が握り締められている。

アンドレがレイナに出会い、行動を共にし始めると、アンドレはいっそう働いた。レイナのためにアンドレは稼ぎ、アンドレのためにレイナは仲間を蹴散らせた。2人は互いに奮闘し、比較的安定した生活を手に入れていった。支援にも仲間にも頼らずになんとかストリートで暮らし、2人は成人年齢に達した。

2人にとってストリートは、仲間集団のなかに迎え入れられて、人として生きていくために必要とされる自己肯定観や自信、他者との関係性を築く場所とはならなかった。アンドレは仲間からからかわれたし、レイナは仲間への性的奉仕を嫌った。2人は仲間と距離をとりはじめ、アンドレは母親に愛されない自分を受け入れてくれたレイナにのめり込み、レイナはアンドレを受け入れきれずに麻薬におぼれた。

現在、メキシコ社会は、麻薬戦争と表現されるほど深刻な麻薬問題を抱え、マフィアがはびこり社会を恐怖で牛耳っている。2000年頃を境に、ストリートにも大量の薬物が出回るようになり、また、ストリートチルドレンの一部が麻薬の売買にかかわるようになってきている。ストリートチルドレンはすでに何らかの形でアンダーグラウンド経済に接しており[*18]、極度の依存や事件に巻き込まれる高い危機性をもっている。

極度の依存状況に置かれるストリートチルドレンのケアは容易ではなく、定住・就学・就職・社会復帰という一連の社会復帰支援の流れに至る前に、依存状況から脱するための過程を必要とする。脱依存支援には、専門性の高い人材や施設を要するのみならず、時間も要する。麻薬の蔓延は、結果として、ホームレス化するストリートチルドレンを増加させる。「ホームレス」になると支援を受けづらくなり、イリーガルな仕事、アンダーグラウンド経済への接触の危険性を高める。これが、ストリートへの麻薬流通量のさらなる増加を招く。

このような一連の負の循環を踏まえると、今日必要とされるのは、毎年一定程度ストリートチルドレンとなる都市下層の子どものストリートチルドレン化をいかに防ぐかという予防政策であり、また、成人年齢に達しても直ちに支援を打ち切らないホームレス支援との連携を視野に含めたストリートチルドレン支援である。さらに、麻薬戦争の様相から脱するための政策の必要性が高いと考えられる。

[*18]アンドレらが利用した交差点や広場には、ストリートチルドレンを相手に麻薬を売りつけるバイヤーが出入りしていた。バイヤーは、ストリートチルドレンの場合もあるし、外部からやってくる者の場合もある。ストリートには各種の麻薬が出回っており、安価なシンナーやマリファナ、少々値の上がるクラックやLSD、医薬品などである。 アンドレはストリートチルドレンのバイヤーから購入しており、時にはバイヤーから無償提供されてもいた。

プロフィール

小松仁美社会学・社会福祉学

淑徳大学大学院研究生。国立高知大学人文学社会経済学科卒(経済学学士)、私立淑徳大学大学院総合福祉科社会学専攻(社会学修士)、同大学院総合福祉研究科社会学福祉専攻単位取得退学。

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