2014.05.16

『わが闘争』という負の遺産――書物の〈読み〉をめぐる闘争

柳原伸洋 ドイツ・ヨーロッパ現代史

国際 #アウシュヴィッツ#シンティ・ロマ#synodos#シノドス#ヒトラー#ナチ#わが闘争#フランツ・エーアー#バイエルン#「わが闘争」がたどった数奇な運命

<内容>

■2015年の『わが闘争』問題

■世界で、そして日本で読まれる『わが闘争』

■なぜ、『わが闘争』は問題視されるのか?

■読んではならないのか? 読むべきなのか?

■様々な〈読み〉とドイツ社会の公共

2015年の『わが闘争』問題

アドルフ・ヒトラーの著作『わが闘争』は、「ナチスのバイブル」とも称され、ナチス体制下ドイツの各家庭の本棚の多くに収められていた書物であった。その『わが闘争』がヒトラーの死後70年目を迎える2015年末に著作権の保護期間が終了することとなり、ここ数年、この話題はドイツのニュースを賑わしている。

ニュースの多くは、『わが闘争』を出版したフランツ・エーアー社の所在地であり、ヒトラーが住民登録をしていたドイツ・バイエルン州が保持する同書の著作権・出版権をめぐるものだ。そのなかでも、著作権の失効後も州政府が、ドイツ国内あるいは他国における『わが闘争』の出版あるいは翻訳出版に介入するかどうかが大きな争点となっている。

2012年にバイエルン州政府は、ミュンヘンに本部を置く現代史研究所が注釈つきの『わが闘争』を出版し学校教材を作成することに対して、資金援助を決めていた。現代史研究所とはドイツ連邦政府とそのほか7つの州によって運営されている公共機関であり、ナチス時代の歴史を研究するために、1949年に設立された機関である。

しかしバイエルン州は2013年末に突如、同研究所への援助の打ち切りと注釈付き『わが闘争』の出版停止を求めた。この方針転換に対して各方面からの非難がわきあがる。結果的には資金援助は停止されたが、すでに援助した分は返還を求めないことが決まった。現在でもバイエルン州は、2016年以降も他国や他団体が『わが闘争』を出版することに対しては法的措置を取るという態度を崩していない。

いまだ収束したとはいいがたい本事件については、伊藤暢章氏が『出版ニュース 2月下旬号』に「ヒトラーの『わが闘争』をめぐって」というまとまった記事を寄稿されているので、そちらを参照していただきたい。また、戦後の『わが闘争』のたどった歴史や現況については、フランスの歴史ジャーナリストであるヴィトキーヌ氏が著した『わが闘争 ある書物の歴史』(邦題『「わが闘争」がたどった数奇な運命』永田千奈訳、河出書房新社、2011年)としてまとめられており、本稿でも各所で参考にした。

同書はドキュメンタリー番組とセットで執筆された書籍であることから、その記述はジャーナリスティックではあるが、重要な指摘が多く示唆に富む。とくにトルコなどの諸国での『わが闘争』需要について書かれた箇所は非常に興味深いので、一読をおすすめする。ちなみに、この『わが闘争』のドキュメンタリー番組は欧州で話題となり、ドイツでも放送された模様だが、ヴィトキーヌ氏の書籍のドイツ語版はいまだに出版されていない。

SYNODOSの本記事では、上掲の記事や書籍を参照しつつも、『わが闘争』の〈読み〉をめぐる問題から見えてくるドイツ現代史やドイツ社会を浮き彫りし、日本の読者に知識以上の〈読み〉を提供したいと思う。

世界で、そして日本で読まれる『わが闘争』

初版が世に出た1925年のヴァイマル共和国時代からナチス・ドイツ体制が終焉した1945年にかけて、『わが闘争』は、ドイツ国内で少なくとも1000万部以上(一説では1200万部)を売り上げ、国外でも16ヶ国語に翻訳された。戦後にはさらに他の言語に翻訳されることになり、世界で最も売れた政治書だといわれる。英語版では、今なお毎年2万部の売り上げをキープしている。

また、日本語版も多くの版を重ねている。たとえば、2014年3月26日時点で、角川書店の『わが闘争』(上)は、政令指定都市にある主要図書館では、全所蔵数63点に対して貸し出し中が16冊(約25%)、東京都23区では、全所蔵数39点に対して貸し出し中が15冊(約38.5%)にのぼる。

さらに『わが闘争』は、日本の大学生が購入あるいは図書館で借りる書籍の上位にランキングしていると思われる。私が勤務する大学でも、レポートや卒業論文のテーマとして「ヒトラー」を選ぶ学生は多い。やや余談めくが、なぜか「ヒトラー」をテーマにする学生には男性が多く、「アウシュヴィッツ」をテーマにするのは女性が多い気がする。

「ヒトラーの思想」に関心をもち、これをテーマとしてレポートや卒業論文を書く学生は、「世間一般では悪くいわれるヒトラーだが、実際には良い面もあった!」という「発見」に突っ走りがちだ。つまり、ヒトラーの全面否定への否定である。この場合、「世間の常識」にもの申したい欲望と、どこかに「良い面」を発見したいという気持ちが先行していて、結論ありきのお粗末なレポートとなってしまうことが多い。この手の論述では、『わが闘争』からヒトラーの反ユダヤ思想(悪い面)などが引用され、同書は後半部分の「良い面もあった」という結論を強調するために利用される。

このような善悪二元論的な〈読み〉を超えるために、そもそもなぜ『わが闘争』が問題視されるのかに立ち返ってみたい。それは書物をめぐる多様な〈読み〉への第一歩でもある。

ヒトラー『わが闘争』(1934年版)と400万部突破の広告ポスター。「THE・ドイツ人の本」と書かれている。
ヒトラー『わが闘争』(1934年版)と400万部突破の広告ポスター。「THE・ドイツ人の本」と書かれている。

なぜ、『わが闘争』は問題視されるのか?

ユダヤやシンティ・ロマの人々、そして障害者や同性愛者などへの差別と殺戮を実行したナチス・ドイツの総統であったヒトラー。その彼が著した『わが闘争』が差別思想を振りまく危険な書だとされ、問題視されるのは当然のことだろう。

だが、しばしば勘違いされていることだが、『わが闘争』で論じられるヒトラーの思想、たとえば反ユダヤ主義思想は、決して彼自身によるオリジナルなものではない。オーストリアのリンツやウィーンそしてドイツのミュンヘンに移り住んでいくなかで形成された思想であり、その出典元の多くは「フェルキッシュ思想」にある。フェルキッシュとは民族主義運動のひとつであり、宗教や神秘主義などからゲルマン民族の独自性を解釈するその思想の系譜は、19世紀以前にさかのぼることができる。それ以外にも、当時「科学的」とされた社会ダーウィニズムや人種理論などもヒトラーに影響を与えている。

ほかにも、ヒトラーが率いることとなる政党「国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)」、いわゆるナチ党は、もともとはヒトラーの設立した政党ではないことも想起すべきだろう。ヒトラーは、19世紀末以降の様々な思想と第一次世界大戦敗北後のヴァイマル共和国ドイツの政治状況を混ぜ合わせた演説によって、ナチ党党首にのぼりつめる。同様に、反ユダヤ主義などの思想と政治状況をミックスさせ、ひとつの「世界観」としてまとめあげた書籍が『わが闘争』である。この「世界観」は、ヴァイマル期ドイツの人々がそれぞれ抱いていた漠たる不安や日常生活の不満のどこかに引っかかるような「感情的なフック」を備えていた。

フェルキッシュ研究の古典ともいえるジョージ・L・モッセ『フェルキッシュ革命』(植村和秀ほか訳、柏書房、1998年)には、反ユダヤ主義と民主主義的衝動とを結びつけた経済学者・哲学者のオイゲン・デューリングについての記述がある。19世紀末に影響力を持った反ユダヤ主義者であるデューリングは、ゲルマン民族を、一般意志を表明し、利害の一体性のある集合体としてみなし、その共通善や一般意志に敵対するのがユダヤ人であると考えた。この論法は『わが闘争』にも用いられており、そしてまさに同書の売れ行き自体が、ヒトラーの肖像画と並んで、ドイツ人の多くの「一般意志」表明の分かりやすい指標となった。

ヒトラーの政権獲得以後、『わが闘争』は加速度的なブームを迎える。街の巨大ポスターに、ミシンの雑誌広告の隣に、結婚式の贈呈品に、そして退職のお祝いに……。『わが闘争』は、ドイツ社会の日常風景と一体化していった。こうして『わが闘争』は、ヒトラーを自発的に支持した物証ともなった。

さらに『わが闘争』が売れれば売れるほど、ヒトラーに莫大な印税をもたらした。この収入によって、政治家として支払われる俸給はヒトラーにとって不要となり、「無給で奉職する総統」というアピールにつながった。実際に彼は、演説で「私は給与のために首相となったのではない。皆のために就任したのだ!」と、自己正当化のための強弁に利用することができたのである。そしてこれが、ヒトラーの支持率アップにつながり、『わが闘争』はさらに売れ行きを伸ばすという循環を生み出していた。

ただし実際の購入者の多くは、ヒトラーを熱烈に支持しているから『わが闘争』を入手したというよりは、日常空間が『わが闘争』に染まっていく中で、異端扱いされないために同書を購入したと考えられる。個人のみならず各自治体や団体も、決して同書の購入を政府から強制されたり、命令されたりしたわけでもないのに、自己判断で『わが闘争』の購入を推奨した。この構造は、ヒトラー自身が「ユダヤ問題の最終解決(つまり大量虐殺)」を実際に直接指示したのかどうかという未解決の問題にもつながっている。あの虐殺はヒトラーの「意を汲んだ」官僚組織あるいは個人の判断が連鎖していった帰結ではないのか、という問いだ。

ヒトラーの世界観が示されている『わが闘争』を、上述のように「フリ」だけの場合もあったにせよ、彼を「わが総統」とした1000万人以上が入手したという揺るぎない事実。『わが闘争』とは、ナチズム体制を積極的にせよ消極的にせよ支持したことに対する統計的な数値・指標としての事実であった。それゆえに、同書は戦後ドイツの人々にとっては苦い存在となったのである。

読んではならないのか?読むべきなのか?

前節で述べたように、『わが闘争』は出版から終戦までの間のドイツ社会で重要な書とされ、私的・公的空間に氾濫していった。焚書によって「反社会的な」書籍が焼かれた一方で、である。今回のバイエルン州政府とドイツ現代史研究所との『わが闘争』をめぐる態度の違いを理解するためには、時計の針をもう少し現在に進めて、戦後ドイツについて概観しておく必要があるだろう。

とくにドイツ連邦共和国(西ドイツ)では、その公共空間にヒトラーは影を落とし続けた。たとえば、1950年代末に起きたユダヤ人墓地荒らしやシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)への「かぎ十字」の落書き事件はドイツの歴史教育を考え直すきっかけとなるほどドイツ社会にショックを与えた。また、連合国による裁きであったニュルンベルク国際軍事裁判の後にも、60年代以降にドイツ人自身の手で「アウシュヴィッツ裁判」などが開かれ、さらにナチ犯罪の時効を無くすなどの決定も下された。

「ナチへの抵抗者が建国した国」とするドイツ民主共和国(東ドイツ)は、西ドイツの政治家が過去にナチ党員として活動していたことを告発する『褐色の本』を発行し、数々の政治家や文化人がこれらのスキャンダルに巻き込まれた。このように東側から「ナチの後継国家」として難じられた西ドイツは、西側の同盟国との関係もあり、ヒトラーを含めるナチス問題に常に気を配ってきた。また現在でも、政治家がナチスに関わる失言をすれば、その政治生命が絶たれる場合があるほどの一大事となる。

今回のバイエルン州政府の決定は、公式には「ユダヤの人々の心を傷つけることに配慮した政治的な決定」というものであり、やはり戦後ドイツが継続して行ってきたナチスの過去との取り組み、やや意地悪く言えば、そのトラウマが影響しているだろう。

これに対して、現代史研究所の研究者は、別の立場から『わが闘争』に取り組んでいこうとしている。ここには素朴な疑問が前提として存在している。それは、「『わが闘争』がこれほどまでに問題になりながら、実際にはどれほど読まれているのだろうか」という問いだ。これは、「モノとしての『わが闘争』に注目を浴びせ、それを悪魔視してしまい、内容そのものをじっくりと読むという視点が失われてはいないか」という問いでもある。『わが闘争』を分析的に読めば、ヒトラーの思想だけではなく、ユダヤ人差別を後押しした当時の社会についても学ぶ手立てになるかもしれない。こうした意図から、ミュンヘンの現代史研究所は、『わが闘争』を「読まれるべき書」だとしたのである。

ただし、研究者集団も『わが闘争』をめぐるトラウマとは無関係ではない。1933年から始められた焚書はドイツ各地の大学で行われたし、歴史学自体もナチズム体制を支える学問として機能した。そして、戦後ドイツでは、1980年代の「ヒトラーの偽日記事件」で、日記が本物だと主張した歴史学者もいた。このように、歴史研究者サイドにも、ヒトラーあるいは彼の書いた『わが闘争』に対する一種の「後ろめたさ」があるといえるだろう。

様々な〈読み〉とドイツ社会の公共

州政府と研究者という異なる立場からの、『わが闘争』をめぐる〈読み〉はたしかに対立してはいるが、少し視点をずらしてみると、実は住み分けがなされているとは考えられないだろうか。この点をドイツ社会における「公共」をキーワードにして、ここで触れてみたい。

1960年代から古物商での『わが闘争』の扱いがニュースとなっていたが、これが1990年代のインターネット時代の訪れとともに、オークションサイトでの『わが闘争』の販売やドイツ・アマゾンでの古書販売問題へと発展した。

バイエルン州政府も、インターネットで検索すれば『わが闘争』の全文が読めて、さらには購入さえ可能なことを知らないはずはない。そこで着目したいのは、「公」の切り分けである。つまり、州政府は「公的機関」としての態度を重視し、実際には『わが闘争』が出回っていることを知っているが、公的には禁ずるという政治的な立場を表明した。

この「公的には」という語は、ドイツ社会を理解する上できわめて重要だ。ヒトラーの礼賛でさえも、居酒屋の会話であれば、私自身も幾度となくドイツで聞いたことがある。しかし、それが公的な場での発言となると問題視されるのがドイツ社会である。

研究者集団もしかりだ。ユダヤ人団体への配慮を重んじた州の政治的決定を片目で捉えつつも、研究者としては、注釈を付けた書籍を公表することが重要だと判断したのだろう。事実、州政府からの資金提供は中途で打ち切られたが、すでに配布された資金はそのままであるということにも注目せねばならない。おそらく内幕は、この論考では語りきれないほど複雑なものだろう(たとえば様々な人間関係やバイエルン州政府内での利権など)。だが本稿では、両者がドイツの公共空間でお互いに補完する関係にあるという、私の〈読み〉を提示したい。

ドイツの市民社会は各アクターがある程度の独立性を保ち、ときには対立しつつも、それぞれが、意図する意図しないに関わらず、補完しあうかたちで「公共」をかたちづくっている。よって、『わが闘争』に対する〈読み〉が州行政と研究者集団では異なっていたとしても、両者がともにドイツ社会を形成するアクターとして機能しているといえよう。

では最後にふたたび、「ヒトラー」を題材とした学生レポート・卒業論文あるいは日本での『わが闘争』をめぐる〈読み〉の可能性について言及したい。

ドイツから遠く離れた日本では、どのような『わが闘争』の〈読み〉に取り組んだらよいのだろうか。たとえば、「世紀の独裁者」であり、「民主主義の破壊者」であるヒトラーの思想をのぞき見たいという知的好奇心は保持しながら、『わが闘争』という書物に対して、あらゆる角度から接近しつつも、それに取り込まれてしまわないような〈読み〉が必要なのではないだろうか。

立場や主義主張が異なっていたとしても、そのような〈読み〉を蓄積あるいは共有していけば、『わが闘争』は民主主義国家である日本の社会を考えるうえでの参考書たりうるだろう。つまり、バイエルン州政府が危険視する〈読み〉を意識することでそれを回避し、研究者が求める〈読み〉を丹念に行えば、『わが闘争』は、ドイツだけではなく、日本にとっての教科書になりうるかもしれない。

プロフィール

柳原伸洋ドイツ・ヨーロッパ現代史

京都府出身。東海大学文学部ヨーロッパ文明学科講師。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。在ドイツ日本大使館専門調査員を経て現職。ドイツに関するライター・伸井太一としても活動。東西ドイツの製品文化を扱った著作『ニセドイツ』シリーズや、『ペンブックス21 ロシア・東欧デザイン』(分担執筆、阪急コミュニケーション)など。

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