2013.11.29

デジタルネイティブを取り巻くコミュニケーションの姿とは?――ネット時代の文化人類学

文化人類学者・木村忠正氏インタビュー

情報 #教養入門#デジタルネイティブ#文化人類学

あなたはいつから、デジタル技術に触れましたか? 今回の「高校生のための教養入門」は、文化人類学者・木村忠正先生のインタビューをお届けします。サイバースペースを文化人類学の立場から研究している木村先生。新しいデバイス、新しいサービスが続々と登場する現代で、それらを扱う人びとの、新しいコミュニケーションのあり方をお聞きしました。(聞き手・構成/倉住亮多)

人間を「物語る」学問

―― 文化人類学とはどんな学問なのでしょうか?

一言で言えば、人類の多様性の限界を調査する学問だと言えると思います。それは別の言い方をすれば、人間の可能性を探るということでもあるでしょう。自分たちが思いもよらない生活のあり方や物の考え方など、「人の可能性」に対する一種のイマジネーションや好奇心が、人類学を支えている一番のポイントだと思います。

また、方法として重要なのは、長期にわたるフィールドワーク(現地調査)にもとづくことです。フィールドワークを通して、ある社会文化に生きる人々のあり方をなるべく包括的に捉えようとします。そして、その眼差しには、社会構造において優位よりも劣位にある人々、マジョリティ(多数派)よりもマイノリティ(少数派)の人々を重視し、多声性を尊重しようとする方向性があることも重要な点だと思います。

―― フィールドワークなど文化人類学の研究はどのように進められていくのでしょうか?

実際に現地に赴き、現地の人々、調査協力者(インフォーマント)と長期間生活をともにして、聞き取りをしながら、そこでの人の生活のあり方や物の考え方、行動の規範や習慣などを観察します。単純に外から観察するだけではなく、その社会・集団の一員となって参加しながら観察する「参与観察」という手法で研究していきます。

研究をしていてよく感じるのですが、文化人類学は多変数を多変数のまま、多次元を多次元のまま、多元的要因が複雑に絡まりあう社会文化的動態を丁寧に記述する「厚い記述」(*1)を志向していると思います。

(*1)アメリカ文化人類学におけるもっとも影響力の強い研究者の一人ギアーツ(Geertz)が、1973年の著作で人類学的記述のあり方として提示した概念。その後、人類学的アプローチの中核的特性の一つとして、広汎な学術領域で用いられている。

多くの社会科学や人間科学では、たとえば10個の変数があったら情報を縮約しようとしたり、因果関係を措定して、どれがもっとも影響力が強いかを探ろうとします。それに対して人類学の場合は、10個あれば10個すべてがどういうふうに働いているのか、お互いがどう関係しているのかをなるべく多元的に、複合的に記述したいわけです。

そこで、仮説検証型の社会科学や人間科学の場合、調査結果は、仮説を立て、実験あるいは調査して、得られたデータを分析し、解釈・議論するという定型化されたパターンで表現されますが、文化人類学では、その社会文化に関して、生態学的環境、生業形態、政治組織、経済行為、社会組織、家族、宗教・信仰、知識、技術、慣習、行動規範、日常生活における行動や思考、感情などさまざまな要素とその絡み合いを「物語る」かたちで調査結果を表現することになります。

もちろん、こうした要素すべてを等しく見ることはできません。調査目的や研究主題によって焦点となる要素は限られてきますが、それでも、目的、主題に関わる多元的要素をできる限り広く、深く掘り下げようと人類学者は苦闘し、専門化した他の研究領域では結びつけることのない異なる次元にある要素間に結びつきを見いだし、複雑に入り組んだ人々、社会、文化のあり方を解釈し、理解し、記述しようと努めるのです。

たとえば、ジャマイカの携帯電話利用を研究しようとして、シングルマザーがショートメッセージを多用していることに気づきます。それが一方でジャマイカ携帯電話会社のビジネスモデルと結びつき、他方で、シングルマザーの社会における位置づけ、その背景にある男性、女性、家族のあり方、シングルマザーを支える親族の紐帯から、携帯電話のショートメッセージ普及による男友達との弱い紐帯への移行へと次々と結びついていきます。人類学は、丹念なフィールドワークを介して、こうした一見結びつかない要素の結びつきを見いだし、それを解きほぐしながら、新たに言葉を紡ぎ、織り上げていくのです。

こうして書き著された物語る成果物は「エスノグラフィー(民族誌)」と呼ばれます。もともと「民族(ethnos)について記述したもの(graphy)」という意味でエスノグラフィーという語が作られたわけですが、エスノグラフィーは、ここまでお話したようなフィールドリサーチや参与観察といった方法論と切り離すことができません。そこで、最終的な著作物だけではなく、こうした方法論も含めて、一連の研究過程そのものもエスノグラフィーといわれます。

―― 文化人類学におけるエスノグラフィーという手法への社会的な関心はどれほどのものなのでしょう?

ものすごく高まっていますね。90年代前半以前にはほとんど関心を持たれていなかったんですが、90年代後半から、「エスノグラフィー」がキーワードとなる関連書籍の数や科学研究費での採択課題数はずっと増えているんです。心理学、教育科学、健康保健科学、経営学、防災科学など、様々な分野からの関心も集めています。

文化人類学、エスノグラフィーは産業分野でも関心が高まっていて、エスノグラフィーを調査の中心に据えるコンサルティング会社も随分出てきています。たとえば日本の家電企業がインドネシアで冷蔵庫を売りたいと考えたときに、現地ではどういうふうに冷蔵庫が使われているのかということを調査しなくてはいけない。あるいは、鉄道・車両を中東に売り込んだ企業が、運行業務を円滑に進めるために、その社会の組織のあり方や保守点検業務への規範意識などを深く理解し、その社会に合わせた納入を求められることになります。こうしたマーケティングや組織運営の観点からも、エスノグラフィーへの関心は高まっています。

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「サイバースペース」を文化人類学から研究する

―― 木村先生はいまどんな研究をされているのでしょうか?

ネットワーク上の仮想空間である「サイバースペース」を、文化人類学の立場から研究しています。サイバースペースは人類にとって新しい活動空間です。ヒトの多様性と可能性を探究する人類学にとってサイバースペースはとても魅力あるテーマだと思い、研究に取り組み始めました。

サイバースペースを文化人類学のアプローチで調査するとき、大きく分けて二つの異なる方向性があります。まず一つはサイバースペース、オンライン空間内で起きることを研究しようとするベクトルです。たとえば、電子掲示板であれば、掲示板上でのやりとりだけを見て、どういうふうに言い争い(フレーミング)が起きるのか、自己提示や印象形成がどのように行われるか、「新参者」がいかにやりとりに参加し、「常連」からどう扱われるかといったように、オンライン空間で起きることに関心を向け、オンラインに接続しているオフラインの人間の行動は考えません。

このようなアプローチでは、オンラインでの言葉の扱われ方や、絵文字の使われ方、アイデンティティ、秩序形成など、様々な特質がオンラインだけでも出てきます。そうしたオンライン空間でのコミュニケーションや行動を丹念に見ていく手法を「オンラインエスノグラフィー」と呼んでいます。

もう一つの方向性は、オンラインが日常生活に組み込まれる過程、あり方、変容へのアプローチです。たとえば、対面、アナログメディアの日常生活に、デジタルメディアが不可欠なものとして組み込まれていく過程で、人々のコミュニケーション、対人関係はどのように変化するのか(あるいはしないのか)を明らかにしようとします。先ほどのジャマイカにおける携帯電話の例を思い出してください。

このアプローチでは、従来の人類学者と同様に、オフラインで調査に協力してくれる人(インフォーマント)と出会い、その人々と信頼関係を醸成し、聞き取りやオンライン行動をともにするなど、いろいろな情報を得ながら人々のあり方を明らかにしていく手法で、こちらは「コミュニケーション生態系アプローチ」と呼んでいます。

私自身は後者の「コミュニケーション生態系アプローチ」の立場で、オフラインから人がどうオンライン空間でのコミュニケーションをおこなっているのか、また、それによって人の生活がどう変わっているのかということを研究しています。

やがて社会の担い手になるからこそ、いま「デジタルネイティブ」を

―― サイバースペースをコミュニケーション生態系アプローチから研究されていて、具体的にはどういったものを研究対象にされているのでしょうか?

青少年期からデジタル技術に触れている世代である「デジタルネイティブ」を対象に研究をしています。1980年前後生まれ以降をデジタルネイティブと呼んでいるのですが、それは、この世代が、幼少期、学生時代に、コンピュータ、インターネット、携帯電話と、現在の情報ネットワーク社会に不可欠なデジタル機器に初めて出会った世代だからです。

まず、1983年に任天堂から「ファミリーコンピュータ」が登場し、家庭用ゲーム機が普及し始め、1980年前後生まれの人たちは、幼少期からゲームをとおしてコンピュータに触れることになりました。さらに彼らは、90年代半ばから後半、大学時代に、インターネットと携帯電話に接する機会が生じました。このような意味で、80年前後生まれ以降は、デジタル技術に生まれながら接する機会を持った最初の世代と考えることができるわけです。

ただ、世界全体でみると、80年生まれ以降の人口はすでに半数を超えているので、あまりデジタルネイティブということを事立てる必要はないんですよね。

ところが、日本は高齢化が進んでいるため、2010年でようやく80年生まれ以降の人口が約3割になったところです。日本社会では年齢の重心が45歳を越えていて、私でようやく真ん中から上に出てきたところですから、皆さんのようなデジタルネイティブは、まだまだ長い間「若手」「若手」と言われ続けないといけないんです(笑)。

若干気が滅入ったかもしれませんが、別な見方をすると、日本の場合、2000年の段階だと2割しかデジタルネイティブがいなかった。しかもある程度デジタル技術を活発に使う高校生以上になると、わずか6%だったんです。それが2010年には、15才以上のデジタルネイティブは16%、デジタルネイティブで3割を越えました。今後デジタルネイティブがやがては社会の中核になっていくわけだから、2000年くらいからのデジタルネイティブ拡大過程と情報ネットワークとの関係を見ていくことは、日本の社会を考える上ですごく重要な面があるんじゃないかなということで、研究に取り組みはじめたんです。

―― デジタルネイティブの研究をしていくなかで、なにか予期せぬ驚きのようなものはありましたか?

予期せぬ驚きというのは、調査協力者(インフォーマント)が調査者を信頼して、吐露してくれた(なかには、「うっかり」もあります)ことが大半です。でも、それは、文字通り「オフレコ」にしなければならないので、なかなか公表はできないんですよ(笑)。

そこでここでは、私の場合、質的研究と量的研究を組み合わせる方法論(「ハイブリッドメソッド」)に積極的に取り組んでいるので、その観点からお話したいと思います。

実際に調査するなかで一つ明確になったのは、中学生、高校生、大学生、社会人と、ライフサイクルのどの時点で、情報メディア環境における特定の技術的な変化や制度的な変化に出会うかで、日本社会のデジタルネイティブたちは、いくつかの年代に細分化されるということでした。たとえばミクシィに社会人で出会うのと大学生で出会うのではネットワーク行動に大きな違いを生み出すし、パケ放題に高校なのか中学なのかもやはり大きく異なる影響があります。

そこで、ライフサイクルと情報メディア環境の変化の組み合わせを追っていき、1982年生まれ以前を第1世代、1983年〜87年生まれを第2世代、1988〜90年生まれを第3世代、1991年生まれ以降を第4世代というふうにデジタルネイティブを4つの世代に分けました。

その上で、世代間にどのような違いがあるか、調査データを分析してみたのです。すると、その人たちのミクシィ上のフレンドである「マイミク」の数が、第2世代で平均30人くらいだったのが、第3世代になると平均100人を超えて、きれいに第2世代と第3世代が分かれたんですね。別にマイミクの数で世代を分けたわけではないんですよ。他のライフサイクルと情報メディア環境の変化から4つの世代に分けてみたら、マイミクの数が見事に違っていた。

質的な調査に基づいて世代を分けたんですが、量的なデータでここまできれいに違いが明らかになったのは、まったく予期しなかったですし、嬉しい驚きでした。

―― 木村先生の研究だとデジタルネイティブは第4世代まで分けられています。その後、第5世代は出てきていたりするんですか?

いまの中高生がLINEを使っているというのはこれまでとだいぶ違うと思うので、そこで一つ出てくるような気はします。あとは博士の学生で調査している話を聞くと、いまの中学1年生が、はじめから「スマホ」を持っている世代なんです。それまでは一回は「ガラケー」を通過しているので、そこでもう一つ第6世代が出てくるのかなと思います。その次は、ウェアラブルがどのようになるかによりそうです。

そこは常に変化とライフサイクルの重なりあいで、日本の場合、情報メディア環境の変化が比較的一律に起きるので、共通経験を持つ世代というのが生まれやすいと考えています。それに対して、アメリカでは、州毎、学校毎にかなり個性が強いので、なかなか日本のように捉えることはできないと感じてます。

安全なのに、不安な社会!?

あと研究していてびっくりしたのが、ウィキペディアの匿名編集の割合を調べたときですね。ウィキペディアを編集するときは、利用登録をして登録名で編集をする「登録名編集」と、利用登録をせず、登録名ではなく編集したときのIPアドレスが表示される「IPアドレス編集」があります。後者の「IPアドレス編集」を一種の匿名編集とみなし、各国版のウィキペディアからデータを取ってきて、IPアドレス編集の割合を出してみたんです。

最初は英語版がもっともIPアドレス編集の割合が高いと思っていました。英語版のウィキペディアは論争が激しいので、どうしても登録名編集ではなく、IPアドレス編集が多いのではないかと。ところが、実際にデータを収集し、分析してみると、日本が一番多かったんです。日本は全体の4割がIPアドレス編集で、英語版が全体の3割でした。他の言語版ではだいたい1割か2割しかなかったんですね。日本社会は匿名を好み、自己開示が少ない傾向にあるんです。

90年代から情報ネットワーク研究に関わっていますが、日本社会は、他の主要産業国と比較すると、一貫して、オンラインでの自己開示が少なく、ネット利用の多様性も乏しいのです。世界的にみても、安全で清潔と評価される日本社会で、何となくネットへの不安感が強く、ネット上で匿名を好み、自分を積極的に出せないように思います。その理由を探るために、試行錯誤してきたのですが、質的調査、量的調査を積み重ねる過程で、「不確実性回避傾向」という社会心理的態度に着目することになりました。

不確実性回避傾向というのは、不確実性への耐性が弱く、不確実あるいは未知なもの・ことを避けようとすることで、社会生活において漠然とした不安感(anxiety)が高い社会では、不確実性回避が高いということがこれまでの研究から知られています。

不安感というのは、「危険(danger)」や「恐怖(fear)」とは異なります。危険や恐怖はその対象がわかっていますよね。「高所恐怖」は高いところが怖いし、「閉所恐怖」は閉所が怖いので対象がはっきりしている。ところが不安感というのは漠然として、捉えどころがないんです。そして、これまでの国際比較研究から、日本社会では、この漠然とした不安感が強く、不確実性回避傾向が高いことが分かっています。

それを踏まえ、私の調査研究が明らかにしてきたのは、日本社会では、不確実性回避傾向とネット利用の不安感との間に強い相関関係があるということです。ネット上にはいろいろなトラブルがありますよね。コンピュータウイルスに感染してしまうとか、自分の個人情報が漏洩してしまうとか。そういったケースをいくつか並べて、それに対する「不安感」と「実際の経験の有無」を調査したんです。すると中国やカナダ、アメリカもそうだったんですが、実際にネット上のトラブルを経験しているからこそ不安感も強い。けれども日本の場合だと、ほとんどトラブルを経験していないのに不安感だけがすごく強いんですね。

しかもこのネット利用に伴うトラブルへの不安感が、「不確実性回避傾向」と見事に相関するんです。つまり、不確実性回避傾向が高ければ高いほど、ネット利用の不安感が強いという結果が出てきました。これは他の社会では見られない傾向です。

不確実性回避傾向とネット利用の不安感に強い相関があることをどう考えればいいのか。日本社会の場合では、行動を起こす前から「困ったらどうしよう」と困る傾向が強いことを意味しているというのが、私の解釈です。実際に問題が生じてから困ればいいのに、「困ったことがあると困るなあ」と立ち止まってしまうところがある。

メールの場合だと「これを送っても、自分は面白いと思うけれども、相手はそうは思わないだろうな」とか、「送っても無視されたらどうしよう」とか、行動を起こす前に不確実性回避傾向が働いてしまう。だから日本ではネットの利用のしかたが他の社会に比べると若干おとなしいというか、活発度が低い面があるんです。

対人関係から見えてくるもの

―― 日本人はネットをあんまり活発に利用していないんですね。

たとえば、SNSをとりあげてみましょう。日本でも、ミクシィ、フェイスブック、ツィッターなどSNSは広く普及し、利用されているように思います。ですが、いわゆるフレンド数の国際比較をみると、平均100人を越える社会が多いのに対して、日本のSNSフレンド数は平均だとおよそ30~50人程度にとどまります。フェイスブック利用者も2000万人を越えたと言われていますが、人口比で考えたときには2割にも満たず日本は決して利用率の高いグループではありません。

日本でフレンド数が伸びない理由には、対人距離が関わっていると思います。ボワセベンという人類学者は、対人距離を近い順から、「近親者、最も親しい友人」(第1ゾーン)、「自分が積極的に親しい関係を維持している親密な友人、近親者」(第2ゾーン)、「重要だがやや受動的に親しい関係を維持している友人、親族」(第3ゾーン)、「日常生活において実際的な意味で重要な人びと(自分が知らない人につないでくれる人)」(第4ゾーン)、「自分にとってほとんど意味を持たない単なる知り合い」(第5ゾーン)の5つのゾーンに区分したモデルを確立しました。

日本では、このモデルの第2、第3ゾーンに属するような、既知で比較的親しい人たちとの関係が社会的に重要とされていて、まずはその人たちとの付き合いが優先される傾向にあります。そのためフレンド数もそれほど増えていかないんです。それに対してアメリカのデジタルネイティブを調査すると、彼らの場合は、第4ゾーンが大きな役割を果たしています。彼らの場合、転職したり、新しいことを始めようとしたり、イベントを企画したり、さまざまな社会的場面で、第4ゾーンを必要としているのです。つまり、第2、第3ゾーンの人は、お互いすでに知り合いで、そこから人脈が広がることはないのに対して、第4ゾーンの人は新しい関係をもたらしてくれるわけです。

だからアメリカの場合は第4ゾーンがものすごく大切で、別の言い方をすると、第4ゾーンの人たちとの関係が大切だからこそ、フェイスブックというプラットフォームに意味があるんです。実際には彼らも決して自ら進んで実名をネット上に出したいとは思っていないんですが、フェイスブックは第4ゾーンの人たちと繋がる機能を提供してくれているので、彼らにとっては必要不可欠なんです。

アメリカ人も気を遣っている

―― 日本とアメリカの比較で、他になにか興味深い点は見られましたか?

日本人は空気を読んで相手を気遣うのに対して、アメリカ人は他者に気遣いなどしないのかと言ったらそんなことはなくて、アメリカ人も気を遣っているんですよ。たとえば「SMS(ショートメッセージサービス)を書くときに気を遣うか」という質問では、半数以上が気を遣っていると回答しているし、「友達からのSMSは数時間以内に返信すべき」という質問項目に対しては7割以上が返信すべきと答えています。「返信が半日ないといらだつ」と回答した人は全体の3分の2です。

日本のデジタルネイティブの特徴としては、音声通話をしないというのがすごく多いんですね。「緊急時を除いて、夜遅くには音声通話をしない」という人が全体の8割近くなんですけれども、アメリカだと半分もいないんですよ。これはどうしてなのか彼らに聞いてみると、「電話がかかってくるのが嫌だったらサイレントモードにしておく」というんです。自分で携帯電話が鳴る状態にしておいて、それで夜中に鳴ってしまったら自分の責任だし、相手も夜遅くに電話をかけるときは、本当に必要であればかける。基本的には夜中にかけないというのは一種のマナーとして捉えているんですよね。

ところが日本の場合には、不確実性回避傾向が働いていると思うんですけれども、先回りして空気を読んで、「夜中にメールして呼び出し音で起こしちゃうんじゃないか」「そんなことをしたら相手から嫌われるんじゃないか」といったように、「マナー」として捉えずに「空気を読む」というかたちになってしまう。だから、なんとなく息苦しさがあるんじゃないかと思います。別にアメリカ人が気を遣わないわけではなくて、「気の遣い方」が違うんですよね。アメリカ人は基本的には自分が判断してやったんだからしょうがないと考える点がちょっと違うのかなと思います。

文化人類学で、自分を知りたい

―― 木村先生が文化人類学に興味を持ったきっかけはなんですか?

もともとは高校生の頃、フランスの人類学者であるクロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』という本に騙された(笑)のが大きいです。私が高校生だった80年代の初めには、浅田彰さんらが活躍された「ニュー・アカデミズム」と呼ばれる知的潮流があったんですね。そうした流れのなかで、私も知的刺激を求めていたときに『野生の思考』に出会いました。当時は高校生ですから、何もわかってなかったんですけど、すごい衝撃を受けました。

「よくわからないけど強い衝撃を受けた」というのは、人間の普遍的な構造というものを明らかにしたいという大それたことに当時強い知的好奇心があって、レヴィ=ストロースの『野生の思考』と「構造主義」は、とても野心的で、その好奇心に応えてくれる部分があったんだと思います。そこで、哲学の道や心理学の道もあったんですけれども、人類学に惹かれることになりました。

人類学は結局、「野生」あるいは「野(フィールド)」を基盤にした経験科学だと思うんですね。哲学のようにテキストと思考、論理、議論でヒトを掘り下げていくのでも、心理学のような実験的状況を作り出しての実験でもなく、なるべく自然状況のなかで人と出会うことによってヒトを掘り下げていく、フィールドを生きることでそこで生きているヒトを理解していく研究領域だと思いますし、私自身、そうした研究スタイルが好きなのだと感じます。

おそらく、人類学を志した背景には、「自分を知りたい」ということがもっとも大きな動機としてあって、その意味で、いわゆる一般的な人類学のイメージにある「未開」社会を対象にするのではなく、自分が生きている現代社会を人類学のアプローチで研究したいと考えていました。別に職業として研究者になりたいというよりも「自分を知りたい」。今から考えればすごく向こう見ずで、怖い話ですよね。どうやって食べていくかというのはあまり考えなかったので(笑)。

―― 文化人類学のどんなところが面白いですか?

「野生(フィールドに生きる)の学問」ですから、やはり、一番面白いのは人との関係ですよね。実際に調査に協力してくれた人のなかには、現在までつきあいが続き、何年もたっているのに、繰り返し調査に協力してくださる方もいます。また、家族ぐるみのつきあいになった人もいます。

やはり人類学は、一人ひとりのヒトを大切にしようというのが基本にあると思います。自分が知らないところに行って、そこの人に受け入れてもらうということをしなければいけない研究領域なので、相手に対しても寛容さが不可欠ですよね。そういうところはやはり人類学の良さじゃないかなと思います。

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―― 最後に、高校生に向けてメッセージをお願いします!

最近は業績主義が強まって「お仕事」として研究者になってしまう側面が、他の分野では強くなっている気がするんですよね。人類学はそういう意味では時間軸もゆったりしてるし、物事を多面的、多元的、多義的に捉えて考えていく。だから人類学の研究はなかなか完熟しないというか長期熟成しなきゃいけないし、汎用性の高い知識ではなく、一つ一つの研究がそれ独自の意味をもつ一品物のような知、職人技のような知が生み出される。

現在学術研究を取り巻く状況は、より早く、より多く業績を、という傾向があり、人類学的研究は、時代にそぐわない面があることはたしかです。でも、こうした「野生の知」の必要性は学術研究でなくなることはないし、取り巻く環境が厳しいからこそ、人類学が持っているパワーはより強くなることはあっても、弱まりはしないと思うんですね。文献案内で紹介する著作には半世紀前や一世紀前に近い作品がありますが、それらはいまだ現代的インパクトを持ち、命脈を保っています。それは人類学の持つ力、奥行きの深さと拡がりを示していると思います。

ですから、多面的、多元的、多義的を大切にし、じっくりと自分のなかで考えをふくらませていく。人と関わることで経験主義的にものを考えていくことが好きな人にとって、「野生の学問」である人類学はすごく魅力的だと思います。そうした知的営為に共感を持つ人には、人類学を自分の将来像の一つとして、是非関心を持ってもらえたら嬉しいです。

文化人類学がわかる! 高校生のための5冊

文化人類学の魅力を知ってもらうには、やはり骨太の「民族誌」をじかに読んでもらうのが一番だと思います。マリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』の原著は1922年。90年以上も前の著作で、たしかに時代を感じるところもありますが、市場原理が強まる現代社会において、ヒトが「交換」することの意味を改めて問い直す強烈なインパクトをいまだに持っています。

市場原理に対抗あるいは補完する意味合いで、相互扶助、贈与、互酬、絆などの概念がコミュニティ、地域社会、ネットワークなどとともに語られることがありますが、本書を読めば、現在における議論の多くがいかに底の浅い空論かがわかると思います(あるいは、そうした議論をする人たちは、まず本書を読んでからにしてほしいと思っています)。 (この学術文庫版は原著の抄訳で、かなり割愛されているので、関心を持った方は原著を読んでもらえればと思います。原著はインターネットでオープンアクセス可能です)

『野生の思考』に触れた以上、レヴィ=ストロースの著作を紹介しないわけにはいかないと思います。難解な理論に入る前に、まずは、『悲しき熱帯』(原著は1955年刊)を読んでもらえたらと思います。この作品は、レヴィ=ストロースの文学的感性が強く表れており、まさに「野生(フィールドを生きる)」としての人類学のダイナミズムを実感してもらえるのではないでしょうか。

マリノフスキー(イギリス)、レヴィ=ストロース(フランス)ときたので、アメリカ人類学の巨星としてギアーツを紹介しましょう。文化人類学という学問領域全体への影響を考えると、『文化の解釈学』(1987年、岩波書店)、『ローカル・ノレッジ』(1991/1999年、岩波書店)をまずあげるべきところですが、現在でも翻訳が比較的入手しやすく、なおかつギアーツの議論がもつ奥行きの広さ、深さを知ることができるという意味で、『インボリューション』を薦めたいと思います。

これは、インドネシア・ジャワ農業を主題として、可耕地に限界があるなかで、労働投入を増大させることによって産出量の増加を実現しようとした内向的発展について議論していますが、同様の傾向が日本社会にも認められ、ギアーツは日本との比較も行っています。原著は1963年と半世紀前の著作ですが、現在もこの「インボリューション論」は論争の対象となり、新たな研究を生み出す原動力であり続けており、皆さんにとっても優れた知的刺激となるはずです。

インタビューのなかで、人類学者は、「異なる次元にある要素間に結びつきを見いだし、複雑に入り組んだ人々、社会、文化のあり方を解釈し、理解し、記述しようと努める」と言いました。この時、念頭においていたのが、ラトゥールの『科学が作られているとき―人類学的考察』です。

ラトゥールは、科学技術人類学と呼ばれる比較的新しい分野を開拓した中心的研究者で、上記のような観点から、科学者、研究対象となる自然、実験装置、実験データ、解釈、学会、論文、研究助成機関などさまざまな次元にある多様な要素がいかに結びつき、「科学」というものが形成されるか、そのダイナミクスを理解し、記述する枠組を提示しました。「科学」を対象とする新しい人類学の方向性を感じ取ってもらうことができればと思います。

プロフィール

木村忠正文化人類学

ニューヨーク州立大学バッファロー校、東京大学大学院総合文化研究科にて文化人類学を専攻。東京都立科学技術大学、早稲田大学などを経て、現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。Ph.D. Yale大学客員研究員、CS朝日ニュースター「ニュースの深層」キャスター、総務省情報通信審議会専門委員などを歴任。主著に、『デジタルデバイドとは何か』(岩波書店、2001年、日本社会情報学会優秀文献賞、電気通信普及財団テレコム社会科学賞)、『ネットワーク・リアリティ』(岩波書店、2004年)、『デジタルネイティブの時代』(平凡社、2012年)などがある。

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