2014.06.09

つぶつぶの漢字から、世界が広がっていく

漢文学者・齋藤希史氏インタビュー

情報 #教養入門#中国古典文学#漢文脈と近代日本

漢文って、なんか古臭くて難しそう……。そう思っている高校生の方は多いのではないでしょうか。しかし、漢文学者の齋藤先生は、「自分を遠くに連れて行ってくれる一つの道具」と言います。今回の高校生のための教養入門は、つぶつぶの漢字から見える世界の魅力を存分に聞いてきました。(聞き手・構成/山本菜々子)

本を読んでいるか、山登りをしているか

―― 今日は、中国古典文学の研究をされている、齋藤希史先生にお話を伺います。なんと、2014年センター試験の現代文の問題は、齋藤先生の『漢文脈と近代日本』(日本放送出版協会)からの出題でしたね。先生は何がきっかけで中国文学に興味を持ったのでしょうか。

たまたま家にあった『新唐詩選』(岩波新書)を手にしたのがきっかけです。この本は、吉川幸次郎と三好達治の共著なのですが、当時、三好達治の詩が好きだったので、読んでみたんです。それまでは、漢文は得意なほうではあったのですが、教科書の内容はなんとなく古くさいもののように感じていました。

もちろんその古くささはそれでよかったのですが、ところがこの本を読んで、まったく違う世界が開けた感じがしました。一方で、夏目漱石が好きで、その全集が家にあって読んでいて、漢詩が多く目に入ったのも影響していますね。

―― 本を読むのが好きな高校生だったんですね。

そうですね。中学高校時代の私は、本を読んでいるか、山登りをしているか、山登りの計画を考えているか、といった感じで勉強はまあ……(笑)。じつは山登りも、漢文に興味をもったきっかけの一つです。

私は街から自然に入る感覚が好きでした。さらに尾根道に登って歩いていくのも独特の感覚で楽しかったです。視界が開けて、すごく気持ちいい。山のなかにぽっかり空いた湿原もいい感じです。

漢詩を読むと、自然を描くものが多くあります。李白でも王維でも。そうした彼らの漢詩を読んでいて、自分が山登りで感じている感覚と、どこか近いと思ったんです。

―― 山登りに没頭されていたんですか。

中学高校時代はワンダーフォーゲル部に所属していました。夏休みには、大きな荷物を背負って、一週間ずっと山を歩きます。もちろん夏でも風呂でも入りませんから、下界に降りてきたら、みんなが私たちを避けていましたね(笑)。

―― 中国古典文学には仙人のような人たちがよく出てきますが、齋藤先生は、仙人に近いことをしている高校時代だったのかもしれませんね。

それはどうかわかりませんけどね(笑)。

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入口と出口

―― 中国古典文学の中でも、特に何を研究されているんですか。

いろいろと関心はありますが、コアになっているのは詩ですね。中でも、2つの時代に注目しています。一つは魏晋南北朝時代です。前漢、後漢と統一王朝が続いて、それから分裂の時代、そして隋が再統一しますが、その間の分裂の時代です。変化の時代ともいえます。その時代の文学が一つの専門です。

もう一つの専門が、近代のはじめ。つまり日本で言うと明治時代、中国でいうと清朝の末期です。近世から近代に変わる時代です。この両方の時代を軸にしています。

―― 時代が離れていますね。

いわゆる中国古典文学、とくに知識人による詩の世界が成立するのが魏晋南北朝時代で、終わるのが近代なんです。つまり入り口と出口をみることで、中国古典文学とは何かを考えたいのです。

―― 近代の終わりとして、中国だけではなく、日本も扱ったのはどうしてですか。中国古典文学なら、中国だけの研究をするものだと感じるのですが。

中国古典文学は、高校の授業で言うと「漢文」ですね。では、漢文とはなんでしょうか。簡単に言えば、漢字だけで書いてある詩や文章です。中国古典文学は、漢字で書かれた文学全般を扱います。日本でも、漢字は共有され、漢詩や漢文がたくさん作られてきています。その意味では、日本と中国とを区別する必要はないと考えています。

魏晋南北朝時代は、3世紀から始まります。もちろん日本にはまだ漢字を使った文学はありません。一方、近代文学は中国に比べ日本の方が早く進みます。日本の方が西洋化にともなう政治体制の変革が早かったことが、その背景にはあります。

近代の東アジアで漢字を使った地域の中で、一番早い日本の姿を見ると、古典世界がどう変わっていくのかの出口をみることになります。逆に、入口として早いのは中国です。入口が中国の魏晋南北朝時代で、出口として早いのが日本の近代ということですね。

つぶつぶの漢字

―― 中国古典文学をやっていて面白いと思った瞬間を教えてください。

漢詩はつぶつぶの漢字が、ぽつぽつ並んでいるだけで、そこから意味をくみ取っていきます。漢字だけなので、読みにくいこともありますし、いろいろと解釈しなければいけません。歴史的な故事や古典の表現などを踏まえていたりするので、ぱっと読んですぐ理解できるというものでもありません。

いろんな詩を読んだり、当時の社会状況も勉強していく必要があります。でも、勉強した末に、今までは、こんな風に読まれてきたけど、じつはこういう新しい読み方が出来るかもしれないと発見した時は、すごくうれしいですね。

また、ある詩とある詩のつながりを感じたり、先行する詩の表現を参考にしていることがわかると、詩の世界が広がっていくように感じます。詩は窓のようなものです。部屋の中かから、窓をみる時、ただ切り取られた空間だけではなくて、その奥の世界を感じますよね。いい写真や絵をみても、向こうにある世界を感じられます。そういう感覚を詩でも感じられると、研究していて面白いですね。

そして、私は基本的に詩を読むのが好きなのかもしれません。漢字による表現や、詩を書いた人たちが感じていた世界を面白く感じます。詩を読んでいると、自分は今2014年に生きているけれど、人間はものすごく前から生きていたんだなぁと、あたりまえのことなんですが、実感として思います。はるか昔から、人間の営みは続いていて、自分もその中の一人なんだなぁと。

高校時代から好きな詩に、王維の「鹿柴」という詩があります。教科書にも載っていますよね。

空山不見人 但聞人語響

返景入深林 復照青苔上

「返景」が夕日のことだとわかれば、使われている字はすべて現代でも日常的なものですから、意味を取るのは難しくありません。人の姿が見えない山に、人の声だけが響く。でも、たとえば後半部分、夕日が林のなかに差して、青い苔を照らすというイメージがなぜ詩になるのか、ずっと不思議に思ってきました。もみじが秋の夕日に照らされている、というようなものならわかりやすいです。

でも、青い苔に夕日とは。『新唐詩選』には、「ぱっとさしこむ入り日に、あおあおと照らし出された苔の色のあざやかさ」とありましたが、納得できませんでした(笑)。「返景」が月光ならしっくりくるのになあと思ったこともあります。

そのうち、王維を含めて、魏晋南北朝から唐にいたる詩を広く読むうちに、緑のなかに差しこむ光というものに対する鋭敏な感覚があるのだと気づかされました。夕日に紅葉というような、はっと人目を引くような色彩ではないけれども、そこには独特の情景がある。「あざやかさ」ではないと思うのですね。

専門的には、こういうときは他の詩を例に出して、論証したりもします。もう一つ、「復」という字も興味深いです。なぜ「また」なのか。そこには、それ以前の状態が暗に含まれているわけです。そうでなければ、「また」とは言わない。こんなふうにして、詩を読みほどいていくのです。

言葉で自分がつくられる

―― 研究していて、意味が分からない漢詩などは出てくるんですか。

もちろんあります。文学だけではなく、宗教の知識が必要な詩などもありますし、社会的背景を研究しないと読めないものがあります。研究者の間でもまだ意味が分かっていない、あるいは確定していないような箇所を含む詩は、めずらしくはないです。

―― 中には、もしかしたら適当に並べてつくった漢詩もあるかもしれませんよね。

たとえ、でたらめに字を並べた詩であっても、今まで残っているわけですから、当時の人が「意味がある」と判断したわけですよね。だったら意味があったと考えます。何かあるからこそ、今の今まで伝わってきたわけです。その「何か」を解明する価値はあると感じます。

意外と、つくった本人にも意味が分かっていないことってあると思うんです。それも面白いですよね。文学は人間の言葉を研究しますが、人間は必ずしも自分の言いたいことを言葉にしているとはいえません。言葉にしてみて、自分が言いたいことに気づくこともあります。言葉の意味を、話し手は必ずしもコントロールできません。

よく、自分の発言に対して、「そういう意味で言ったんじゃない」と弁解することがありますよね。こんな時って、意味を考えずに言葉を出しているだけだったりします。その後に「これ、こういう意味だよね」と言われて「そういう意味じゃない」と慌てることがある。

言葉はもともと人間から少し離れたところに行ってしまうもので、発信した人の手を離れて、いろんな解釈をされてしまいます。そういう言葉の働きに私は関心があるんです。ですから、詩を書いた人が本当はどう考えていたかよりも、書いた人が自分の詩を読んでどう考えたのか、別の人がその詩を読んでどう考えたかに、言葉の面白さとか、言葉の可能性を見出したいんです。

―― 研究の方法として、まず考え付くのは、李白だったら、李白を読みこむように、1人の人に集中してやる方法だと思います。齋藤先生は人そのものよりも、中国古典文学の世界を広く研究していますよね。それは、なぜですか。

私は、言葉というものにすごく興味があるんです。漢字は一字一字に言葉が圧縮されています。まるで、言葉の結晶です。漢詩の場合、李白や杜甫といった詩人は、その結晶の周りにいる人々だと考えているんです。あくまで、中心にあるのは言葉だと思います。

言葉を海に例えるとしたなら、詩人はその言葉の海の中で泳いでいる人たちです。私は言葉の海そのものに関心があるので、一人の人間よりは、海全体を見たい。

詩人は詩を書くことで自分を作っていく人です。たとえば、李白がいて、詩が生まれたのではなく、詩を書いているうちにだんだん李白になっていったんだと私は考えます。最初に詩人が存在して、そこから言葉が生まれてくるのではなく、言葉がある中にその人間の人格や人生が形成されていく。

高校生のみなさんもTwitterをやっていたら、Twitter用の自分になることはないでしょうか。ブログや日記を書いていくうちに、自分はこんな人間なんだと気づくこともあるでしょう。人間は言葉によって自分をつくっているんです。

―― なるほど、日記を書いていると、自分でも思っていなかったことを書く瞬間ってありますね。

人間は書いていくことで自分を作っていく、話すことも一緒です。誰かに話してみて、自分がどういう人間か知ることもあります。

根本的に、人が言葉を操っているのではなくて、極端に言えば、言葉によって人は操られているのではないでしょうか。もちろん、それに人は抵抗して、言葉を自分で操ろうとします。でも、だいたいはうまくいかない。言葉の力は大きいと思うんです。

だから、私は一人の人を研究するのなら、まず言葉を研究した方がいいと考えています。人間はそのうちに見えてくると思っているんです。

意味が圧縮されている

―― 先ほどおっしゃっていた、「漢字には言葉が圧縮されている」ってどういう意味なんですか。

たとえば、ひらがなやカタカナ、アルファベットは「表音文字」です。しゃべっている言葉そのものをあらわしています。「あ」という文字は、「あ」と読むだけで、意味はないですよね。文字と音がセットになっています。

一方で、漢字は言葉の音と意味をあらわしている、「表語文字」です。「山」という漢字は、サンもしくはヤマという語と結びついています。さらに、その語のもつイメージ、つまり盛り上がった地形を想像することもできます。抽象的な語を示す漢字なら、そういうイメージを表すこともできますね。人の名前をつける時も、それは意識されますよね。他にも、たとえば「今年の漢字」なども、漢字が示す言葉のイメージを利用したものではないでしょうか。ですから、漢字というのは、言葉が圧縮された文字だと言うのです。

―― 漢字以外で表語文字を使っている地域はあるんですか。

現在では、広い地域で使われているのは漢字だけです。あとはほとんど表音文字ですね。

―― 表音文字が多く使われているということは、表音文字の方が使い勝手がいいのでしょうか。

どっちも一長一短だと思います。ただ、教育の時間は漢字の方がかかります。実際に、中国語を話す地域ではないのに、日常的に漢字を使っているのは日本だけですよね。韓国やベトナムも使わなくなってきています。日本が今でも漢字を使うのは、近代以前からの教育のありかたとも関わっていると思います。

―― どういう意味でしょうか。

漢字は学習するための教育にコストがかかります。ということは、漢字をどれだけ読み書きできるかで、「自分はこんなに教育を受けたんだぞ」と周りに示せるということでもあります。それがよいかどうかは別にして。つまり、日本において漢字は教育の象徴だったのではないでしょうか。

教育を受け終えた人からすると、せっかくコストをかけて身に付けたこの漢字を手放したくないですよね。漢字が書けたり読めたりすることは一つの財産ですから。漢字の読み書きが教育の象徴であったために、日本では漢字が廃止されなかった面は大きいと思います。

もし、日本で漢字を読み書きできることの社会的価値が高くなければ、多くの人が漢字を勉強する意味がなくなるので、漢字学習はすたれていったかもしれませんね。

―― たしかに、テレビのクイズ番組をみていても、漢字のクイズがよく出されますし、「漢字が書けないと恥ずかしい」という思いは根強くありますよね。

そうですよね。「漢字も書けないのか」と言う大人は多いですよね。必ずしも、それがよいことだとは思いませんが。歴史的な条件として日本はそういう社会だったわけです。

道具を受け継いで

―― 中国古典文学を読むとどんな役に立ちますか。

中国古典文学に限らず、自分の世界とは違う世界に触れることは大切です。食べて、寝て、目の前のことばかり考えていたら、人間って生きている感じがあまりしないんですよ。人間の精神には、遠くのことを想像したり、身近ではないことを考えることも必要です。部屋には窓がないとだめで、窓があれば外を見たくなるのです。近くだけを見ていると「生きづらい」ものです。

たとえば、いまこの記事をウェブで読んでいると思いますが、身の回りの世界だけで満足していたら、そもそもウェブなんか開かないわけです。また、サッカーをみるのが好きな人も多いと思いますが、自分がプレーしないのに試合を見るのも、テレビのむこうの世界に楽しさを感じているからでしょう。

人生にはつらいことが避けられません。生きていくのはそれなりに、苦労が多い。人は必ず死にます。自分の大事な人も、いつか必ず亡くなります。自分が死ぬのはそこで終わりかもしれませんが、自分の大事な人を失う悲しみって大きいですよね。そんな時、昔の人も死に対して深く悲しんでいたことを知れば、自分の悲しみに閉じこもらなくてもすむかもしれませんよね。

中国文学も、自分を遠くに連れて行ってくれる一つの道具です。少し勉強すれば、漢詩を読めるようになりますし、別の世界を知ることができます。それはどのような文学でも同じですが、中国文学のすごいところは、2000年も前に、漢字を読めるだけで、さかのぼれることです。2000年も前の世界へ連れて行ってくれる道具は、なかなかありません。

―― 中国古典文学を学びたい高校生はどの学部に行けばいいですか。

文学部です。ですが、文学を学ぶのは大学を卒業してからでも十分間に合います。そんなに急いで決めなくてもいいとおもいますね。理系の学部に行って、途中から文学部に来た友人は少なくありません。自然の真理を解明しているうちに、人間とはなにか知りたくなったというパターンも多いようです。文学は何歳でも始められるのがいいところです。

―― 最後に、高校生に一言お願いします。

漢字の面白さは、文字を使って、いろんな人が様々なイメージを読み取って、表現して、受け継がれてきたことです。意味や音を伝えたら役目はおしまい、というわけではなく、いろんなものがこれまで受け継がれてきました。

地域や時間を超えて、何かを受け継いで、共有していることの意味を感じて欲しいと思います。たとえば、雨が降ったら傘をさす、遠くへ行くときには自動車に乗る。傘も自動車も道具に過ぎないと言えば、そうかもしれません、でも、それが世界で広く共有されていること、たんに道具として共有しているのではなく、道具を共有することで、行動様式やものの感じ方につながりが生じていることに、目を向けて欲しいと思います。文字や文学も、そのようなものではないかと思います。

ときどき、「漢字は中国からやってきたもので、日本のものではない」と言われることがあります。ですが、それを言うなら漢字はもともと黄河流域の限られた地域で使われていたものです。それが中国大陸に広がっていったものですから、ほとんどの地域において、それは「自分のもの」ではないのです。

また、漢字が生まれた地域にしても、最初は神官たちのもので、一般の人たちは使っていなかったわけです。そういう意味では、誰にとっても「自分のもの」ではありません。それを共有しながら、あるいはそれと格闘しながら、それぞれの地域において、漢字を用いてきたわけです。

漢文の授業が苦手な人は少なくはないかもしれません。しかし、せっかく漢字の読み書きを身につけたのですから、あと一歩、何か好きな漢詩に出会って、自分の窓を見つけてはどうでしょうか。その窓は、自分だけの窓ではありません。漢詩や漢文の世界を知ることは、過去の詩人や読者、あるいはこの時代の読者と、その詩のもたらす感覚をシェアすることになると思うのです。私たち人間は、そうやって生きてきたし、今後もそうなのだと思います。

高校生におすすめの3冊

著者の吉川幸次郎は、戦後の日本を代表する中国文学者であり、知識人でした。この本は、その学識をふんだんにもりこみながら、高校の授業とはちょっと異なった方向から、漢文の読み方を教えてくれます。入り口はやさしく、内容は深い。私自身、いまでも読み返しています。

唐の終わりごろの詩人、李商隠は、その解釈の難しさで知られています。李白や杜甫といった詩人とは異なった独特の抒情は、言葉の結晶としての漢字の機能を縦横無尽に使うことで達成されたものです。この本は、李商隠の詩をていねいに解説しながら、その核心を明らかにしています。

高校生のみなさんは、漢文を訓読で習っているはずです。日本独自の技法と見られがちな訓読を、広い視野で捉え直したのがこの本です。読み書きされる文字と、口頭で話される言語との食い違いを、人々はどのように処理してきたのか。試験のために覚える訓読とは別の見方が、きっと得られます。

プロフィール

齋藤希史中国古典文学

1963年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程中退(中国語学中国文学)。京都大学人文科学研究所、奈良女子大学文学部、国文学研究資料館文献資料部を経て、現在、東京大学大学院総合文化研究科教授(比較文学比較文化)。著書に『漢文脈の近代――清末=明治の文学圏』(名古屋大学出版会)、『漢文脈と近代日本』(角川ソフィア文庫)、『漢文スタイル』(羽鳥書店)、『漢詩の扉』(角川選書)、『漢字世界の地平──私たちにとって文字とは何か』(新潮選書)など。

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