2017.03.01

「ふつうに食べる」ってなんだろう?――拒食と過食がうつす私たちの食べ方

『なぜふつうに食べられないのか』著者、磯野真穂氏インタビュー

情報 #摂食障害#新刊インタビュー#過食#拒食#なぜふつうに食べられないのか

見た目がよければこんなに苦労しなくても楽しい人生を送れる。器量がわるいわたしはこんなに勉強しても人並みの人生を送れない――4年間、111時間におよぶインタビューを通し、拒食と過食を文化人類学の視点からみつめた『なぜふつうに食べられないのか』(春秋社)が話題を集めている。「ふつうに食べられない」彼女たちの食べ方は、どのようにこの社会とつながっているのか、著者の磯野真穂氏にお話をうかがった。(聞き手・構成/山本菜々子)

文化人類学で「食べること」を考える

――拒食と過食について、文化人類学からアプローチしたきっかけを教えてください。

私はもともと運動生理学を専門にしていたのですが、学べば学ぶほど人間が細分化していくことに違和感がありました。筋肉のパフォーマンスを上げるための研究が、筋線維や筋膜、アミノ酸の話になっていく。確かにそのような視点は生物としての私たちを考えるには重要なことだけど、人間ってもっと全体的なものですよね。

たとえば、朝に見た占いの結果が、その人のパフォーマンスに影響を与えることもあるし、試合の前日に出会った人の言葉が勝敗のカギを握るかもしれない……。人間を細分化していくと、むしろ人間がみえなくなってしまうのではないか。生理学の世界に魅せられながらもそんな疑問をもっていました。

そのような違和感を自然科学にもったまま、留学してアスレチックトレーナを目指そうと思ったのですが、やはりその違和感はぬぐいきれず、その違和感のなかでたまたまもぐった文化人類学の授業に天地がひっくり返るような衝撃を受けます。

自然科学の研究では被験者は実験者の言うとおりに動きます。被験者が自分の動きたいように動いてしまうと、測りたいものが測れなくなるからです。でも、文化人類学では「あなたのことを教えてください」「あなたのことを自由に話してください」と研究者が相手の動きに合わせていくのです。

直感的に「これが私がやりたいものだ」と思い、その教授の研究室を訪ねると、「君の疑問はまさに人類学だ!」と言われました。その勢いで3日後に専攻を変えた次第です……。

また拒食と過食をテーマに選んだのは、これまで学んできた身体のことを、文化人類学的にしかできない側面からアプローチしたかったためです。社会とのつながりの中で、私たちの身体に変化がおこり、うまく食べることが難しい人がいる。これは文化人類学のテーマになりうると思いました。

――本では、6人の女性に4年間にもわたってインタビューされていますよね。

何回もインタビューしているのは文化人類学らしいかもしれません。人間って変化するものです。だれか初対面の人に、1時間、2時間話を聞いてその人がわかることはありえない。シンガポールの調査では21人の人に話を聞いたのですが、その経験から大勢の人に話を聞くのはいいようで、実はよくないないんじゃないか。むしろ少ない人数の方と、しっかり関係性をつないだ上で、どういう人生を生きているのかを教えてもらいたほうがよいのではないかと思いました。

――インタビューを受けた女性の一人が「裸になって自分を解放すれば、回復できる」と民間のカウンセラーに言われたと、磯野さんに打ち明けますよね。そこで磯野さんが「今すぐそのカウンセラーとの面会をやめるべきだと思う」と答えます。一歩踏み込んだな、と読んでいてドキドキしました。

いろいろ病院を回り、あらゆる手を尽くしてダメだった場合、それでもなんとかしたいと思って、他の人から聞いたら怪しげに思えるようなセラピストのカウンセリングを受けるのはおかしなことじゃないと思っています。なので彼女がそのカウンセリングを受けていることを聞いたときも、抜け出すための模索の1つとして聞いています。

なので、通常のインタビュー中に、私が自分の意見をいうことはまずないのですが、あの話を聞いたときは、迷わずとめに入りました。以前違う方から、摂食障害の方たちを集めて裸になって手をつなぐことを勧めるカウンセリングがあることを聞いたことがあり、それを思い出したのもとめに入った理由の1つです。

なんとかして抜け出したいと切に願っている場合、通常であれば受け入れるはずのない要求も「これで治る」と言われれば、私たちは試してみようと思うのではないでしょうか。ですが性に関することは、そのとき良くても後から激しく傷跡を残すことがままあります。だから、これはとめようと思いました。

よく自然科学の研究では、研究者が研究対象者になんらかの影響を及ぼすことは、客観性に影響を与えるとしてご法度とされますが、文化人類学ではそれはありません。研究に参加してくださる方と人間としての関係を築くことが文化人類学のフィールドワークの最初の一歩である以上私が相手になんらかの影響を与えることは明らかです。なので「それはやめたほうがいいと思う」と彼女に伝えたことに、私としては違和感がありません。

やせてほしいのは誰?

――拒食と過食はどのように社会とつながっているのでしょうか?

たとえば、私たち日本人の社会では、女性は人前で胸部をさらしてはいけないことになっています。しかし、その考え方は普遍的ではありません。

ミクロネシアでは、女性が胸部ではなく太ももをさらすことがわいせつであると考えられていた時代がありますた。欧米化の影響でいまはTシャツを着ていますが、それまでは上半身裸で太ももは腰布で覆った女性たちをふつうにみることができたそうです。そのような社会では胸を出すよりも、短パンでいるほうがよっぽど恥ずかしいことなのです。

文化人類学では、いっけん内発的にみえる思いや感覚、ふるまいを社会の規範の内面化とみなします。これは、人文・社会科学一般に広く共有される考え方です。精神分析家のラカンも「人間の欲望は他者の欲望である」という有名な一説を残しています。

飢饉にさらされるコミュニティにおいて、太った身体は十分な食糧にアクセスできる象徴として考えられており、ぽっちゃりした身体はむしろ魅力的です。しかし、食糧に困らない時代になると、だれでも簡単に太れる社会になります。その結果、むしろ大量の食べ物に囲まれてもその誘惑に屈することなく、自分の身体をコントロールできることが求められます。つまり、やせた身体が魅力的になっていくのです。

また、消費社会のなかで、ネイルや眉毛の手入れをしたり、引き締まった身体を手に入れるためエクササイズをしたりすることが一般的になっていきました。医学の分野でも、肥満が生活習慣病は危険因子ととらえられていること、メタボリックシンドロームの診断基準の1つとしてウエスト周囲計が内臓脂肪蓄積の基準になっていることからわかるように、太っていることが不健康の指標として用いられます。食糧難の危機がある地域では、太っていることが健康の証ですから、このような基準は医学的である一方で、文化的な側面もはらんでいることがわかります。

加えてやせた身体、太った身体に人格が付与されることも注意したい点です。やせている人は自己管理ができて勤勉で美しい/かっこいい人、太っている人はぐうたらで怠け者のブサイクな人、そのようなイメージが私たちの社会にあることは否めません。後者のような人格の持ち主としてみられることは誰にとっても嫌ですから、いまの社会で多くの人がやせたいと思うのは当然ですよね。

このように「やせた身体」がなぜ理想となるのかを社会とのつながりにおいて考える際には、このような包括的な見方が必要になると思います。

もちろん摂食障害と診断されたすべての人にこの話が当てはまるわけではありません。ですが本で取り上げた女性6人のうち5人は、ダイエットをきっかけに拒食や過食に陥りました。彼女たちは生まれたときからやせたいと思っていたわけではありません。

たとえば1人の女性は「あなたが縄跳びをすると体育館中が揺れる」と教員にみんなの前でからかわれたり、やせたことをみんなからほめられたり、逆に太っていることを中傷されたりするなかで、やせなければならないと思うようになりました。またもう1人のインフォーマントで中学の時に成績がトップクラスであった結城さん(仮名)は、中学生のときにこんなことを感じたといいます。

「見た目がよければこんなに苦労しなくても楽しい人生を送れる。器量がわるいわたしはこんなに勉強しても人並みの人生を送れない。」

――ここまで思いつめなくても、この言葉に共感できます。「女の子は勉強できなくてもかわいければいい」というメッセージは社会にあふれていますし。

拒食・過食を「摂食障害」という医学の文脈でとらえる際に、若い女性が特にやせたがるというジェンダーの問題を表層的なこととみなす医療者の方にしばしば出会うのですが、ここでは病気というフレームワークをいったん外して考えてみましょう。

苦しむ度合いにグラデーションはあるとしても、体型や食に難しさを抱える女性が少なからず社会に存在する現実を考えるときには、女性が「見られる性」であるという事実を外してはならないと思います。

――「見られる性」とはどういう意味でしょう。

身近な例として、出勤や学校にいくまでにかかる時間を考えてみたいと思います。私はこの質問をいろいろな人にするのですが、男性の場合、目の前にあった服を着て、頭にちらっとワックスだけつけて外にでるという人、中にはそんなこともせず一度も鏡を見ないで外にでるという人がいます。外にでるまでに5分とかからないわけですよね。

ところが女性の場合、服を選んでメイクをして、髪をセットして、鏡を見てとやっていると30分くらいかかることがふつうでしょう。もちろん男性でこういう方もいるのですが、鏡すら見ず出かけるという女性はまずいないと思います。

加えてこういうことをし続けたら陰で「女を捨てた」と言われかねませんが、同じことを男性がしても「男を捨てた」ことにはならないんですよね。むしろ「男はそのくらいのほうが」と許容されるかもしれません。

この差は、「人様から見られたときにそれに堪えうる格好をしなさい」という規範を女性が内面化していることのあらわれといえるでしょう。実際この規範の植え付けは小さいころからなされていて、「男だから~しなさい、女だから~しなさいと子どもの頃言われたことがありますか?」と平成生まれの大学生に聞くと、女性のトップ3には、「女だから足を閉じなさい」「女だからおしとやかにしなさい」「女だから身なりをしっかりしなさい」といった見栄えに関する指導が必ずトップ3に入ってきます。そしてこれは男子学生にはみられません。

同じように、たとえば夜間に一人で歩いていた女性が男性に襲われると、隙を見せるほうにも原因があると女性側にその責任を求める人が少なからずいます。実用的な部分で考えれば確かにそうかもしれないのですが、見ず知らずの人間に突然襲い掛かったり、わいせつな行為をしたりすることはそもそも許されないはずです。でもその責任の一端を女性が負わされることがあるという現実は、女性が「見られる性」であり、男性は「見る性」であるとう規範を映しだしているのではないでしょうか?

そしてこの現実は、結婚という人間にとって極めて重要なステージでも明確にあらわれてきます。2010年に実施された『第一四回出生動向基本調査』の調査項目にある「結婚相手の条件として考慮・重視する項目」をみると、男性は女性の学歴、職業、経済力よりも容姿を重視するという結果がでています。学歴・職業・経済力は一続きの関連性のある項目で、ある意味、これらは本人がそれまでの人生で何をしてきたかを表しているはずなのですが、これよりも「見た目がかわいいかどうか」で判断されてしまう傾向が女性にはあります。

ですから、「見た目がよければこんなに苦労しなくても楽しい人生を送れる。器量がわるいわたしはこんなに勉強しても人並みの人生を送れない。」という彼女の考えは、思いつめすぎとみることもできますが、一方で女性が「見られる性」であるという社会の本質をついているともいえます。

とはいえ別に私は、女性はおしゃれをするべきではないとか、メイクをしなくていいとか、女性が身なりを気にしなくなることが男女平等の一歩とか、そういうことを考えているわけでは全くありません。ただ拒食や過食を取り巻く問題を考えるときには、女性が「見られる性」であり、だからこそ自身の身体や食に関心がむきやすいという現実をきちんととらえる必要があると思います。

磯野真穂氏
磯野真穂氏

――このことを医学あるいは「摂食障害」という病気の文脈でとらえるとどうなのでしょう?

20代、30代の女性のやせすぎが問題になっていますが、その対策として政府が打ち出しているのは、栄養学的に正しい食生活を推進し、適正体重を維持させることです。そこには、やせていることが良いこととされている社会や、女性が「見られる性」であるゆえにその影響を受けやすいという事実への配慮はみられません。

残念ながら摂食障害治療にかかわる一部の医師の方にもそのような姿勢がみられることがあります。以前、あるシンポジウムで著名な医師の方が「みんな心がやさしくて、すごくアクティブ、いつもハッピー。内面が素敵だと自然にきれいになれるんでしょうね」というミスユニバースに選ばれた森理世さんの言葉を紹介し、このような考えを女性がもつことができれば、女性のやせ願望も修正されるのではと話をまとめました。

この議論も、個人の心のあり方に問題を求めていて、やせていることを求める社会に目を向けていません。ミスユニバースの森理世さんのBMIは17.8で、適正体重からすると立派なやせすぎです。

母親に責任を押し付ける「家族モデル」

――本のなかでは「家族が悪いから発症した」という「家族モデル」の問題点を指摘していますよね。

はい。日本ではいまだに摂食障害の原因を家族に、特に母親に求める傾向がみられ、私はこれを「家族モデル」と名付けました。家族モデルの源流は20世紀の中後半に摂食障害の治療で大変著名になったアメリカの精神分析家ヒルデ・ブルックに端を発します。

この母親原因説は、父親の役割が無視されているとか、摂食障害の親子関係に特徴的と思われていたものは、実は発症後につくられたものといった報告がでるなかで欧米では収束していきます。しかし、日本の場合は、摂食障害が増え始めた80年代後半から90年代にかけて、母親と当事者のゆがんだ関係性に摂食障害の原因があるという説を後押しするような論文が大量にでています。さらに、この説の賛否について社会学者をまきこんだ論争にまで発展しています。

これは私がフィールドワークをおこなったシンガポールと対照的です。シンガポールでは、もちろん家族の果たす役割は大きいとされますが、母親に原因を求める「家族モデル」はほとんど広がりを見せていません。むしろシンガポールでは欧米化の影響と摂食障害の関連性を重要視する研究が多く発表されています。

――社会状況で「原因」が変わっているのですね。

はい。日本の場合、摂食障害が増え始めた時期と、子どものありとあらゆる問題を女性の社会進出に求める論調が盛んであった時期が並行していることに目を向ける必要があるでしょう。

「母原病」とは、アトピー性皮膚炎、家庭内暴力、不登校など20世紀の中後半に出始めた子どもの問題の原因を、女性の脳に生物学的にインプットされているとされる「母性」の狂いに求める見方です。内科医の久徳重森さんにより広められました。女が男の真似をして会社でバリバリ働いたりしようとするから、母性に狂いが生じ子どもに問題が起こるという理論です。

いまではトンデモ理論だと多くの人に思われていますが、この時期の摂食障害はこの流れで良く語られています。母親が母性に反して男のようになろうとするから、娘が成熟した大人になることを拒否して摂食障害になるという流れです。

シンガポールの場合、女性は主婦として家事・子育てを一気に引き受け、男性は外で働くという構造がもともとありませんから、家族モデルが根付く土壌自体がもともとなかったのでしょう。

また拙著で注目したのが、当事者の方の語りが「家族モデル」に沿うような形で変化していくことです。お話を聞いていると「夫婦の問題を子どもに愚痴る親」「成績がよいときだけほめるといった子どものありのままを認めない親」といった親の態度が彼女たちの摂食障害を形作った原因としてご本人から語られることがあります。

これらは摂食障害にありがちな親の姿勢として専門書などでまさに指摘されていることなのですが、お話を長期間にわたって聞いていると、そのような語りが専門書を読みこんだり、親子関係をそのような形で重視する医療者と出会ったりするなかであらわれてくることがわかります。

つまり家族が自らの拒食や過食の原因であるという「家族モデル」を自分の物語として読み込んでいるのです。ですから、家族モデルが摂食障害の原因を説明しているかどうかという正誤の検証よりも、家族モデルを当事者がどう読み取り、それを用いてどう人生の物語を再構築していったかに注目しました。

「ふつうに食べる」ってなんだろう?

――「ふつうに食べる」と「ふつうに食べられない」をわけるものはなんでしょうか?

私たちにとって「ふつうに食べる」ことは、日常生活に自らの食の軸足を置くということだと思います。たとえば、ケーキであってもそれが誕生日ケーキなのか、コンビニで買ってきて一人で食べるケーキなのかで意味が変わります。食べものにはその文脈でしか現れえない意味があり、私たちは知らず知らずのうちにその意味を読み取りながら食べているのです。

一方で、「ふつうに食べられない」女性たちは、食の軸足を栄養素やカロリーといった科学の分野にうつしている傾向があります。たとえば、ケーキを見たら「炭水化物だ」「300キロカロリーだ」というように意味を固定させてしまい、その食べ物が置かれた文脈でしか現れえない食べ物の意味――たとえばこれは大事な人が自分のお祝いのためにつくってくれたケーキ――といったことに目がむかなくなっているのです。

インタビューに協力してくれた皆さんが「おいしさ」を感じにくくなっているのは、その文脈でしかあらわれない食べ物の意味を身体全体で感じ取ることができず、頭で栄養素や数字に変換してしまうところに一因がある場合があると思いました。

ですが、ある栄養素に着目したり、カロリーが気になったりすることは、私たちも同様にやっている行為ですし、むしろそのような食べ方はむしろ推奨されています。つまり彼女たちの食べ方はいっけんすると大変奇妙なおかしなものにみえますが、その食べ方は実は私たちの社会としっかり接合しており、そこで推奨される食べ方を先鋭化させていると私は思います。その点で彼女たちの食べ方は実に人間的なのです。

摂食障害は紛れもなく食べることにかかわる病気でありながら、そこでどのような食が展開されているかについてはほとんど注目されてきませんでした。拒食や過食は本質的な問題のあらわれに過ぎず、それを取り払ったところに本当の問題はある、というのが主流の見方であるからです。

しかし摂食障害に限らず、人間が抱える問題とは、ミカンの皮をむいたら実があらわれるといったようなものなのでしょうか? 私たちが抱える問題はもっと入り組んでいて、本質と表層というような形にわけられるものではないのではないでしょうか。その疑問を突き詰めてみたのが拙著になります。

――最後に一言、読者に向けて何かメッセージはありますか?

よく「こんな研究をしていたら、自分もまきこまれない?」なんて言われることがあるのですが、この調査に4年近く協力してくださった6名のみなさんは、とても素晴らしい方たちで、私の方が励まされることもよくありました。

ずっとインタビューを続けさせて思ったことは、人間って弱いけど強いなということです。彼女たちは、大変な状況になって、ときには家からでられなくなったり、入院をしたりしているのですが、社会から完全に撤退することはなく、それがたとえ周りからみたら格好の悪い形だったとしてもちゃんと這い上がってきます。自分の人生の物語を閉じた世界のなかで終わらせることなく、外に開き、描き続けることの力強さを、インタビューを通じて教えてもらった気がします。

「自分にとって食べるってなんだろう」、「身体って何だろう」、そんな疑問を感じたことのある方たちに、自分の人生の物語と共鳴させながら読んでもらえれば嬉しいです。

プロフィール

磯野真穂文化人類学

国際医療福祉大学大学院講師(博士【文学】)。文化人類学者。1999年、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。2003年、オレゴン州立大学応用人類学修士課程修了(修士【応用人類学】)。2010年、早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。早稲田大学文化構想学部助教を経て現職。2000年より拒食・過食についての研究をはじめ、シンガポールと日本でフィールドワークをおこなう。現在は主に現役の医療者に向け文化人類学を教える傍ら、医療現場でのフィールドワークを続けている。一般に向けた企画である、「一億総やせたい社会を考える人類学ワークショップ・からだのシューレ」の主催者の一人。著書に『なぜふつうに食べられないのか―拒食と過食の文化人類学』(2015、春秋社)

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