2010.08.20

ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ、社会への想像力を拡張するために

『リトル・ピープルの時代』著者、宇野常寛氏インタビュー

情報 #新刊インタビュー#リトル・ピープルの時代#村上春樹#カメンライダー

東日本大震災という経験をいかに描くか。3.11以後、さまざまな報道関係者や専門家が、多くの懐疑のまなざしを向けられながらも、その問いとの格闘をつづけている。もちろん、山積みとなった社会問題の解決策を提示する作業がすみやかに求められる一方で、「いまはどのような社会であり、これからどのような社会を生きるべきか/作るべきか」という「想像力」のあり方もまた、つねに研鑽されなくてはならないものだ。

評論家・宇野常寛氏はデビュー以来、数多のコンテンツ分析などを通じて、「想像力」の変遷を描いてきた。その宇野氏は3.11以降、何を思考しているのか。『リトル・ピープルの時代』刊行に合わせ、インタビューを行うことにした。

日本のポップカルチャーにこそ21世紀的な問いがある

―― 『リトル・ピープルの時代』は、宇野さん初の、書き下ろしの評論本です。東日本大震災以後に大幅に書き換えたとありましたが、どのように書き換えられたのかを教えていただけますか。未読の方にも、まずは本書のコンセプトがわかりやすくなると思いますので。

なるほど。そもそもの発端から話すと、幻冬舎の穂原俊二氏から書下ろしを依頼されたのは「ゼロ年代の想像力」がまだ〈SFマガジン〉に連載されていた2007年の年末だったんです。当時僕は29歳になったばかりで、「ゼロ想」もまだ単行本にもなっていない時期です。〈PLANETS〉もまだ3号までしか出ていなくて、ようやく都内の有名書店に数軒卸しはじめたころですね。今考えると、ものすごく勇気のいることだったと思います。

そして「ゼロ年代の想像力」の単行本がちょうど3年前の夏に発売されて、一息ついたあたりから構想をふたりで練りはじめたんだけれども、何かしっくりこないんですよ。最初は「ゼロ年代の想像力」をアップデートしながら、もう少し国内の思想状況を整理するものを新書でコンパクトにまとめよう、という企画だったのだけれど、ぼくも穂原氏も、それが次の仕事じゃないだろうとだんだんと考えていったんですよね。

とくにぼくは「ゼロ年代の想像力」のあとは『思想地図』や『朝日ジャーナル』に参加したり、BSフジの討論番組(プライムニュース)イベントの企画をやったりとか、自分の個別の思考を追求するというよりは、若手言論のシーンをつくる編集者的な仕事が多くなった。そんななかで、自分の次の本は状況を整理するようなものではなくて、個別のテーマを追求するようなものがやりやくなってきたし、そしてその追求は世代を貫くものじゃないといけないと思ったんです。いってみれば、内田樹氏の読者に多少は届くものを書かないと、自分たちが今やっている仕事は意味がないと思うようになったんですね。

これは今さらいうことじゃないけれど、ぼくといい濱野智史といい、ある種のメディアに登場するときはここ十年か十五年くらいの若者文化の解説役になっている。でも、ぼくら自身としては、それぞれポップカルチャーやインターネットで起こっているここ十年、十五年の変化は単なる「流行」に留まるものじゃないと考えている。だから基本的にはグローバリゼーションのアジア受容という大きな問題があって、そこから何を見出すかという仕事をしているつもりなんですよ。

単純に考えて、冷戦の時代からグローバル化の時代への変化は人間の世界観それ自体を大きく変化させてしまうだろうし、インターネットの情報は人間と言葉との関係を根本から変化させてしまう。「誰でもメディアの時代」とか気軽にみんないうけれど、誰もが日常的に書き言葉を操り、情報発信する世界の出現は決定的に人間と表現、とくにテキストとの関係性を書き変える。ぼくからしてみると、この「情報化」によって「文学」観なんて根本的に変化せざるを得ないんだけど、こんな話題を出すだけで「ネットに毒された若者」とかレッテルを貼られてしまうのが現状なんですね。これを長期的になんとかするしかない。

もちろん、一気に改善するのは無理だと思うのだけど、少しずつでも上の世代「にも」読めるものを書いていくしかないんじゃないかと思ったんですね。だったら、まずはここ十年や二十年の話をしていたらダメだと思った。グローバル化を「通過した上での」日本のポップカルチャーの奇形的進化、ガラパゴス的進化にこそ21世紀の世界に問うべき思想的なヒントがあるというのがぼくの立場なのだから、国内ポップカルチャーの分析をやるという基本姿勢ははずす必要がない。けれど、それがたんなる流行分析に「みえない」ようにするためには、とりあえず扱う時間を長く取ろうと思ったんです。

村上春樹とヒーロー番組、現代における「暴力」の問題

具体的にいうと1968年的な問題意識がもう賞味期限切れになっていて、9.11以降はまったく通用しないんだということを基本的な枠組みとして訴えようと思った。そして、そんな9.11以降、要はグローバル/ネットワーク化の時代を考えるときに、奇形的進化をとげた日本的、あるいは東アジア的ポップカルチャーが提出したイメージがきわめて大きなヒントになる、ということで自分の普段の仕事、つまり同時代的なポップカルチャー分析に結びつけるというのがコンセプトになった。

そのときに村上春樹とヒーロー番組、具体的にはウルトラマンと仮面ライダーというコンセプトを思いついたのは2009年の終わりごろ。これはわれながらいいアイデアだと思った。『1Q84』を読んだとき、同作とエルサレム演説を中心に村上春樹論をやり直せるんじゃないかと思ったんですよ。「デタッチメントからコミットメントへ」という春樹の90年代における「展開」を中心に論じるのはもうやりつくされている。けれど、21世紀的な新しい「暴力」のイメージという問題に春樹がどうアプローチしていったということはあまり書かれていない。けれど、ぼくの考えではそこに問題の本質があるように思える。いろいろ異論はあるだろうけれど、春樹こそが日本が世界文学市場に輩出したほとんど唯一の「68年の問題」から出発した作家ですよね。だから「68年の問題」自体の賞味期限切れと、その次に浮上してくる21世紀的、9.11以降の問題を「現代の」春樹の分析を中心にはじめるというのは、これまで話してきたコンセプトにもっとも合致すると思いました。

そして、このとき補助線に引くのはもうぼくにとってはヒーロー番組しかあり得なかった。まずコンセプトから考えると春樹に匹敵する現代の国内の固有名詞が必要なんだけれど、それは内容的に宮崎駿でも村上隆でもないと思った。だとすると、もう特定の作家名ではなくシリーズ名で考えるしかない。サイズとして「ガンダム」あたりのほうが大きいのだろうけど、60年代から現代までを貫く「歴史」があるものと考えたとき、やはりヒーロー番組しかないだろうと思ったんです。こう話すと、理詰めでコンセプトをかたちにしていったように聞こえるけれど、これは半ば編集者を説得するときのロジックに近くて、やっぱり人間の思考だからもっと混沌としているんですよ。

ヒーロー番組というのは、当たり前の話だけれど、商業的に暴力や正義の問題を描かされてしまう。それも、子ども相手がだからこそ現代的なかたちで描かないと説得力がない。たとえば、この21世紀に侵略戦争を仕掛けてくる敵国のイメージで「悪」を描くのは、単純に説得力の問題で商業的に不利なんです。だから結果的に、支持された作品からは市場の無意識の結晶として、ぼくらが考えている「正義/悪」や「暴力」のイメージがかなり現代的なかたちで提出されることになるわけです。それも、なかにはきわめて奇形的に進化した、あるいはラディカルなイメージが含まれている。オールドタイプの「知識人」のみなさんは、「市場」と聞くとすぐに消費者の欲望を画一化し、そしてそんな画一化された欲望に媚びた表現も画一化されるのだと決めてかかるけれど、そんなわけがない。市場が要請する多様化という側面は確実に存在していて、ぼくがこの本で紹介している「正義/悪」や「暴力」のイメージ、キャラクターという半現実的なナルシシズムの記述法はまさにそれに当てはまるのだと思います。

そういう意味を含めて、村上春樹とヒーロー番組の対比で、現代における「暴力」の問題を扱うというコンセプトはもう一年半前にぼんやりとだけどできていました。

震災は隠蔽されてきた既存の構造を暴き、ぼくたちに突きつけた

そしてこつこつと書き溜めていって、今の第三章にあたる理論編というか「まとめ」の部分を書いているときにあの地震が起こったんですね。これは他のインタビューでも答えたことだけど、当時ぼくはいろいろあってひどく落ち込んでいて、そのせいもあってこの本も書きあぐねていたところがあった。もう少し全体の批評的な物語、枠組みの提示が弱いなってずっと思っていたしね。三年ぶりに出す本で、しかも書下ろしなんだから中途半端なものは出せないと思っていたんです。

そんなときに地震が起きて、端的にいうと暇になったんです。喋りものの仕事や打ち合わせが全部なくなって、たぶん大学を出てからいちばん暇な半月が訪れたんですね。そして、他にやることがないから書きかけの本と震災についてずっと考えていた。そしてある日、すべてが自分のなかでつながったんです。震災への考察を主軸にすることで、全体を貫くメッセージを決定的に強化できるな、と。で、大興奮して穂原さんを呼び出して、構想を語ったら太鼓判を押してくれた。そして、それからひたすら、ぼくは当時すでに600枚以上あった原稿を最初から書き直していったわけです。とくに第三章は完全に震災後に書いています。

誤解しないでほしいのは、ぼくは震災が何かを変えたというよりは、震災のせいで既存の構造が露呈し、進行中の状況が加速したと考えているんですよね。原発の問題も、東北の問題も考えてみれば2011年に急に発生したわけじゃない。

それに、「物語批判か、物語回帰か」といった自意識的な議論は国内では90年代に決着がついている。だからこそ、ゼロ年代はプレイヤーの態度や内面ではなくてゲームシステム、つまりアーキテクチャの問題が浮上した。国内においては80年代が物語批判で、90年代がその反動としての小さな物語回帰の時代だった。物語批判に留まれ、という態度自体も含めて(小さな、即自的な)物語回帰しかなくなってしまった。だからゼロ年代はそんな小さな物語たちの関係性の問題だけが残されたわけですね。だからこそアーキテクチャの問題が浮上した。人間はどれだけ留保をつけてアイロニカルに振る舞おうが、最終的にはもう信じたいもの信じて、小さな物語回帰するしかないので、あとは彼らがコミュニケーションをとる環境を操作するしかない。たとえば、教室で喧嘩が起こったときに、各々の生徒を説得するんじゃなくて学級制度自体をいじって(選択制にするとか)解決するという発想ですね。

だから「3.11以降、ぼくらは世界のことを考えざるを得なくなった」的な言説は端的に間違っていると思う。思想的にじゃなくて事実関係的にね。震災が何かを変えた、というよりは震災はこれまで隠蔽されてきた既存の構造を暴き、僕たちに突きつけた、というのがぼくの考え。

なので地震のあとに書きかけのこの本について考えるのは、ぼくにとっては自然なことだったんですよ。というよりそれしか考えられなくなった。これは本の序文に書いたことなんだけれど、要するに今回の地震や原発事故で人びとを戸惑わせているのは、とくに後者についてうまくイメージ化できないからだと思うんですよね。

春樹いわく「もうビッグ・ブラザーの出る幕はない」

たとえば原爆を「今」イメージ化するのは簡単だし、すでにされすぎているくらいじゃないかと思う。第五福竜丸事件が「ゴジラ」を生んでからもう何十年も経つし、村上隆さんの「リトルボーイ展」のような仕事も通過しているからね。でも同じようなロジックで原発をイメージ化するのは難しいと思う。要するにね、村上春樹は2009年のエルサレム賞受賞スピーチで、現代社会を「壁」と「卵」の比喩を用いて語ったわけじゃないですか。「壁」とは社会の構造であり、「卵」とはそこに生きる人々の比喩。そして、かつて「壁」は国民国家が代表する近代的な物語装置。国家は成人男性の疑似人格としてそのイメージが共有され、「彼」=ビッグ・ブラザーの語る(大きな)物語が国民のアイデンティティを記述する。だからこそ、「卵」が「壁」の支配から自由となり、より人間らしく生きるためにはビッグ・ブラザーの語る物語を相対化し、解体する知性が重要だったのだし、「敗戦のトラウマでアメリカという父に依存したまま成熟できない永遠の〈12歳の少年〉日本は云々」といった国家を精神分析にかけるような議論も有効だった。

でも同じようなイメージ化が今回の原発事故でできるんだろうかと思うんですよね。単純に考えて国民国家よりも市場と情報のネットワークが上位に君臨する現代において「壁」はもはやビッグ・ブラザーという疑似人格のかたちは取らないでしょう? 春樹いわく「もうビッグ・ブラザーの出る幕はない」。いってみれば非人格的なシステムこそが現在における「壁」だと思う。この新しい「壁」、つまりリトル・ピープルをイメージ化し、共有する想像力が今のわたしたちには足りないんじゃないか。

もちろん今回の原発問題の背景にはね、日本のエネルギー政策とか原発利権とかが複雑に絡み合っているのは間違いない。ぼくはそういう問題の追求が不必要だなんてまったく思っていない。それはそれでがんがんやるべき。でも、ぼくが注目しているのはその手前の段階で、現在の言論空間、文化空間の混乱の背景にはこれまでの想像力ではイメージ化できない巨大な力への不安があるんだと思うんですよ。

国民国家という疑似人格同士の総力戦の結果落とされた「トラウマ」としての原爆とは異なって原発っていうのは、あくまでぼくらの豊かな消費生活を支えるインフラで、自分たちが生み出したものなんだけど、結果としてそれが暴走して、手に負えなくなってしまったものでしょう? 正確にはコントロールするチャンスは今まであったんだろうけど、今なってはできるとしてもコストがすごいかかるしやっかいなものになってしまった。

しかもアメリカという〈外部〉から落とされたわけではなくて、原発はぼくらの世界の〈内部〉にあるもの。具体的には福島という首都圏からごく近いところに存在している。それも、一瞬で何もかも破壊しつくした津波の後に、時間をかけて日常のなかで人間の身体をじわじわと破壊していく力として出現した。そういう意味で、ぼくのイメージ的にはリトル・ピープルっていうのは放射能に近い。この放射能的な破壊を文学的なイメージで表現しようと思うときに、昔の国民国家のような大きな物語装置として捉えるより、大きなシステムとして捉えたほうがいいと思う。つまり世界の外側からやってきたわけではなく、内在的なコミュニケーションがうまくいかなくなった結果、内部からわき上がる凶悪な力として捉えたほうが、今の福島の原子力発電所の問題はしっくりくる。

この疑似人格(ビッグ・ブラザー)化できない「壁」、つまり世界の構造というのがこの本のテーマなんですよ。だから福島の問題について考えることが決定的な補助線になった。原爆的ではなく原発的なものをどう考えるかは、ぼくにとってはビッグ・ブラザーではなくリトル・ピープルについて考えることだったわけです。その辺はぜひ本を読んでほしいと思う。

こういう長いインタビューを受けると、絶対にフレーズ単位で切り抜いた揚句、「このインタビューで宇野が~といっているので底がみえた、本はもう買わなくていい」とか大はしゃぎで書いて嫌がらせをしてくる人がいるけれど、議論それ自体は本のほうに書いているんだから実際に読んで確認してほしいと思います。ぼくもインタビューで決定的な「ネタバレ」なんてしていませんしね(笑)。そもそも「読まずに批判」とか公言しちゃう時点でぼくはその人の知性を決定的に疑うけど。

……ともかく、そういう意味でもこの本は「震災に書かされた本」だと思うし、震災がなかったらまとめられなかっと思います。

もちろん、この本に具体的な復興の手がかりや原発問題の処理方法が書いてるわけじゃない。けれど、こういう巨大な破壊をどうイメージ化していったらいいのかというのは、とても大切なことだと思うんですよね。これは社会が、文化空間がこの問題をどういう視点から考えるのかという、ごくごく基本的な部分にかかわってくるわけだから。

だから読んだ人は分かると思うけれど、この本は見田社会学の文学性をどう抽出するかというのが裏テーマのひとつになっている。当たり前の話だけれど、見田宗介さんの「~の時代」という戦後史区分は、古い言葉を使えば「政治と文学」の関係性を表現したんだと思う。

「虚構の時代」から「拡張現実の時代」へ

―― 橋爪大三郎さんの入門書などにも顕著ですが、社会学の定義として、「文学でも政治学でも経済学でもないもの」といったように、消去法で語るものが多くありました。近代以降に登場した問いのうち、従来の「学」が取り扱わなかった領域を、社会学こそが取り扱うぞ、という宣言ですね。方法論で縛るのではなくて対象で縛るわけですから、いずれの領域ともつねに隣接しているということも意味する。とくに文化について論じるときは、日本の社会学は文学の領域と接近していきましたよね。文明論へのカウンターという側面もあったでしょうが、そのことが接近を強めた面もあるでしょう。

見田宗介さんの「~の時代」という戦後史区分は「~と現実」といったときの「~」の部分、つまり現実の対義語として支配的なものが数十年単位で変化していくという議論なんだけど、それは要するに「理想」「夢」「虚構」の順で「壁と卵」「政治と文学」の関係性が変化してきたということなんですよ。

ところが、社会が一定以上複雑化してくると、近代的な「政治と文学」という関係が破綻してくる。だから日本でいうと「虚構の時代」の次の「政治と文学」の関係性が記述できなくなる。たとえば東浩紀さんが「動物の時代」といったでしょう? これはさすがだなと思う。素晴らしいネーミングだと思うわけ。これはさ、見田宗介氏や大澤真幸さんの定義だとあり得ないネーミングなんですよね。だって「夢」も「理想」も「虚構」も「~と現実」の「~」の部分に入る反現実のそれぞれの時代のかたちなんだから。

でもね、ここでわざわざ「動物」っていっているのはたぶん「人間は動物化をするから、近代的な〈政治と文学〉の関係自体が成り立たないのだ」というメッセージなんですよ。「政治と文学」は完全に断絶しているポストモダンの二層構造のイメージが込められている。大澤さんの「不可能性の時代」は、その点まだ「政治と文学」の関係性を記述することをまだあきらめていない。でも、大澤さんが「不可能性」というとても広い言葉を充ててしまったのは新しい「政治と文学」の関係がまだみいだせないという苦悩の表現にぼくにはみえる。

でもぼくは「政治と文学」の新しい関係を、現代のポップカルチャーの想像力を援用すればもっとはっきりかつ、しっくりする概念で記述できるんじゃないのかということを考えた。それが「拡張現実の時代」ですね。「虚構の時代」は、今考えると「仮想現実の時代」なんですよね。だからオウム真理教とか、架空年代記(ガンダム)とか最終戦争(エヴァンゲリオン)が代表的なその時代の想像力に用いられる。だとすると、「虚構の時代」の次にくるのは「拡張現実の時代」じゃないかと考えたわけです。そして「拡張現実の時代」的な想像力がまさに、現代日本のポップカルチャーを席巻している。AKB48もニコニコ動画もソーシャルゲームも全部そう。

ソーシャルゲームが象徴する21位世紀のビデオゲーム

じつはこのアイデアをぼんやりと考えはじめたのが「PLANETS vol.7」のときなんです。コンピューターゲームというのは本来、コンピュータープログラムというシムテムと人間の身体の対峙だったわけですね。コンピュータープログラムによって人間の身体から快楽を引き出す装置だった。それが90年代に一時期、「物語回帰」の支援システムとして恐竜的な肥大をするわけですよね。つまり大作JRPGとかノベルゲームのブームがこれにあたる。

たとえばね、80年代の相対主義や物語批判を通過して、常識化したあとの当時、今さら「勇者がお姫様を救う」だとか、「難病や白雉の弱い女子の精神的な欠落を男根で埋めます」とか、そんなベタなストーリーなんかになかなかハマれないわけじゃないですか。現にセカチューに「ケッ」っていっている奴が当時いっぱいいたわけで。だけど、そんな人でも、コツコツレベル上げしていたりだとか、この選択によって女の子の運命が変わる、みたいな選択肢によるフラグ操作みたいなことを行なうと、うっかり泣いちゃう。これが物語回帰の支援装置として「ゲーム」が応用された例だと思うんですよ。東浩紀さんの言葉で言えば「ゲーム的リアリズム」の「一側面」ですね。

これは結構大事なことで、大澤真幸さんは90年代に「アイロニカルな没入」といって、「虚構の時代」には人間は逆説的に物語回帰していくんだと。そのときに、「この物語をぼくは信じてないけど誰かが信じているんだから、それは無価値じゃないんだ」とか「それが無根拠な物語であることは自覚しているけれど、あえてコミットするんだ」とか、自意識上の操作が行われることを指摘している。

この分析は正しいのだけど、現実はもう少し進んでいるんじゃないのかとぼくは思う。東浩紀的なものが持っているアドバンテージはつまり、「アイロニカルな没入」のために必要になる自意識の操作、洗練は現代においてはアーキテクチャが肩代わりしているんだと指摘したことだと思うんです。これはぼくの言葉だけど、現代では「アイロニカルな没入」はいわゆる「アーキテクチュアルな没入」に変わっている。それが90年代後半のコンピューターゲーム市場を分析するとじつによく分かる。「アーキテクチュアルな没入」によって仮想現実的な「虚構」が消費されるということがそこでは起っていた。まさに物語回帰の時代としての90年代の臨界点ですね。

そして、ぼくが注目したのはさらにその「後」、つまりゼロ年代というか21世紀的な状況なんですよ。誰もが「アーキテクチュアルな没入」で物語回帰し、「この一瞬を永遠のものにしてみせる」とか思っている世界のことを考えたかった。この時期、ゲームは物語回帰の支援ツールではなく、インターネットの普及を背景に現実のコミュニケーションそれ自体をゲームの一部に取り込んでいく方向に進化していくわけですね。『ポケットモンスター』の社会現象化からはじまって、そして現代では『モンスターハンター』とM.U.G.E.NやMMDなどのn次創作的ゲーム、そしてSNSにおけるソーシャルゲームがいまや市場の中心にあるわけです。

ソーシャルネットワークというコミュニケーションを可視化させるツールに支援させて、ユーザー同士のコミュニケーションを擬似自然として見立てて、それを取り込んでいくというゲームですね。つまり「拡張現実」的になっていく。人間の身体とかコミュニケーションを擬似自然、究極の乱数供給源に見立ててそれを取り込むことが究極のゲームであるという方向にいったわけなんですよね。

そもそもデジタル技術のトレンド自体が90年代は仮想現実で、21世紀以降は拡張現実だったわけなんだけど、まさに日本のゲーム市場はそれを端的に表している。90年代のビデオゲームは大作JRPGが代表するように仮想現実をつくり込む方向に進化したわけです。そして21位世紀のビデオゲームはソーシャルゲームが象徴するように拡張現実的です。

放射能という「みえない脅威」がぼくらの日常を半歩ずらしていく感覚

もちろん、これはゲームにかぎった話ではない。アニメで考えても80年代のアニメブーム時は昔の「ガンダム」のような架空年代記ものや、「ナウシカ」「AKIRA」のようなハルマゲドンものがシーンの中心にあった。これらは(革命を失った)若者たちに「大きな物語」を保証するファンタジーとして受容されていたと思うんですよね。のちのオウム真理教への影響ひとつとっても。しかし、現代において同じ位置にあるのは学園的な日常にファンタジー要素が入り込む作品やいわゆる「空気系」とか「日常系」とか呼ばれる作品群になっている。

これはね、オールドタイプの消費者からは想像力の衰退にみえるらしいけれどぼくは違うと思うんですよ。現実との戦い方、対峙の仕方が変化しているだけだと思うんですね。昔は「ここではない、どこか」を仮想現実的に捏造することがファンタジー的な想像力の役目だったのだけど、今は「拡張現実」的に現実を多重化して拡大することになっている。この本であげているように、今のネットワーク上のコミュニケーションのための「ネタ」としてコンテンツを消費するという態度が、基本的な消費者の態度として根づいていて、完全に支配的になっているのはその一側面なんだと思いますね。ニコニコ動画の「踊ってみた」タグから、「聖地巡礼」までね。

そしてこの「拡張現実」をキーワードに新しい「政治と文学」の関係を記述できるんじゃないのかというのが、この本の最大のアイデアなんですよ。それがなぜ「震災」で思いついたのかというと、たとえば鶴見済が『完全自殺マニュアル』で「もうハルマゲドンはこないし、原発は爆発しない」といっているんです。つまり世界はもう変化しないのだから自分を変えるしかない、その究極のかたちが「自殺」なんだと煽っているわけです。

でも原発は本当に爆発してしまった。けれど、それで大きな物語が帰ってきたかと思うと、そんなことはないわけです。原発が爆発したからといって、誰もが生き生きと元気に大きな物語を共有し出すかというと、そんなことはないでしょう。そう思い込みたい東京の左翼文化人はいてもね。実際には国民が大きな物語を共有してひとつになるというよりは、むしろ物語のレベルでの分断が起きてしまっている。関西や北海道はもちろん、被災地と関東のあいだにもかなり空気が異なっているのは明らかでしょう。むしろ原発が爆発しても大きな物語が機能しないことが明らかになってしまった。

いまだに忘れられないのが4、5月の東京の空気で、いつ余震があるかもわからないし、放射能情報も刻一刻と変わっていくんだけど、日常は否応なく回復して、みんな当たり前のように仕事をしているし、当たり前のように消費生活をしていると。にも関わらず、所々でノイズのように地震速報とか、放射能という「みえない脅威」がぼくらの日常を半歩ずらしていく感覚。そういう感覚をずっと考えていたときに、これって原発が爆発した瞬間に最終戦争だとか大きな物語が復活したもういっこの未来・世界にいくのではなくて、現実が変革ではなく拡張したという考え方をした方がぼくにはすごく合ったんだよね。

拡張現実的な想像力による現実の多重化こそが世界を変える

―― 世界外在的な変革を期待するな、世界内在的なさまざまな問題に、改良主義的に対処していかなければならない――。さまざまな文化コンテンツや現象が、そうした「変化した後の社会」に「耐える」ためのものだという前提で分析されたりもしましたね。そうした「時代精神の変遷」を切り取るという議論を宇野さんは引き継いだうえで、『リトル・ピープルの時代』という本を出されたわけですね。

村上春樹『1Q84』において、「リトル・ピープル」は非常に抽象的なモチーフですが、あからさまに「ビッグ・ブラザー」ではないものとして、変貌した権力のかたちとしてイメージされています。巨大な一望監視的なものではなく、より拡散的なバイラルもので、そして不可視な存在であることがほのめかされて、その対抗手段もまた、『空気さなぎ』を用いた情報戦であることが示唆されている。

『リトル・ピープルの時代』のコンセプトは、いま向き合うべきはそうした「リトル・ピープル」を描写するための想像力なのだとしたうえで、しかし春樹自身はそのコンセプトを明確に描けなくなってしまったことを指摘します。一方で、そうしたコンセプトに真正面から向き合っていたコンテンツが他にあり、それはたとえば「平成仮面ライダーシリーズ」―― 表紙にも写真が掲載され、本書でも膨大な頁が割かれていることから、『仮面ライダーの時代』というタイトルであっても誰も違和感を抱かないであるほどに――であると論を拡大します。つまり、自己や社会の内部に浸透している「みえにくい敵」「みえないもの」を、いかに描くか。そうしたモチーフの本書だからこそ、震災以後、原発事故以降に、大幅に書き換えられる必要があったということですね。

誤解しないでほしいのは、ぼくは世界の変革をあきらめて想像力を封じ、現実を受け入れろといっているんじゃないんです。オールドタイプの思考法では、革命か、革命を仮構する仮想現実の構築だけが現実批判であり想像力の行使だということになっている。けれど、21世紀のこの世の中にそんな馬鹿なことがあるわけがない。拡張現実的な想像力による現実の多重化こそが、このグローバル化、ネットワーク化を成し得た現代においてはもっとも有効な現実への対峙であり想像力の行使だといっているんです。世界の構造が変化しているんだから、当然人間の構造に対するアプローチ、壁と卵の関係、政治と文学の関係も変わってしまう。20世紀的な「革命」思考に縛られている人が、まあ、仕方ないけれど40代以上に多すぎると思いますけどね、単純に考えて。

「革命を失ってしまったぼくら」という自意識の古さ

いま、「みえないもの」という言葉が出ましたけれど、これはとても大事な概念だと思います。ぼくはこの本を書くときに、やはり放射能について考えざるを得なかった。もちろん、文学的な比喩としての放射能について、ですけどね。放射能という「みえない」力について考えることと、リトル・ピープル的な現代における非人格的な「壁」について考えることはとても近いと思った。

「拡張現実の時代」というのは定義的に、少なくともこれまでのやり方(「革命」モデル)では、敵がはっきりとみえない時代のことですからね。逆に考えるとね、国民国家という装置が、男性の擬似人格的なイメージと結びついたからこそ人間の自意識の問題を語ることが、そのまま社会や国家を語ることの比喩になり得たんだということにもっと自覚的であっていいと思う。そのことによって国民のアイデンティティを強力に記述するというのが国民国家という物語装置だったわけじゃないですか。だからこそ、自分の謎が解けると世界の謎が解けるという物語に比喩的な説得力があった。そして70年代に入ると大きな物語=倒すべきビッグ・ブラザーを失ってしまった、革命を失ってしまったぼくらの自意識をどうしようという問題が浮上して、ある種の創作物にとってはビッグ・ブラザーの成立する世界をいかに、仮想現実的に構築するかが大きな課題になった。

けれど、正直もうそんな「革命を失ってしまったぼくら」みたいな自意識の問題はどうでもいいと思う。お前たちの、ぼくらの男性性が回復しようがしまいが、世界の構造の問題はまったく別にあるよ、と思うんですよね。村上春樹がどこでつまずいているかというと、9.11以降の暴力に立ち向かうと宣言しておきながら、いまだに暴力のイメージが新左翼とかオウム真理教なところじゃないですか(笑)。「革命を失ってしまったぼくたち」という自意識をうまく制御できない若者たちが、自分探しでサリンを撒いたり内ゲバしたりする、それが悪しき暴力だ、と。そんな奴らに抗体として文学の力で説教をして更生させようと。

ぼくはそれって、正しいか正しくないかでいったら、全面的に正しいとは思うわけ。世界の多様さを受け入れて、性急に発泡スチロールのシヴァ神を拝むのではなくて、つねに試行錯誤を繰り返して、トライアンドエラーを繰り返していく柔軟な知性が必要です……なんて、まったくその通りだけど、問題のレイヤーをはき違えている気がする。それって正しい「対処療法」だと思うわけ。一言でいうとグレそうな奴らを説教して潰していくということじゃん。

それをぼくは全然否定しないし、それはそれで必要だと思うわけね。正しいとは思う。でももうちょっと別の次元でものを考えないと、状況に対しての介入はできないんじゃないかとも思う。

―― 春樹の場合は、それでもなぜか「卵」の側として、いつのまにコミットメントできてしまいます。そして、そうした「コミットメントの成功」イメージは、広く支持されてもいます。

そのコミットメントの成功のための装置が、既存の性暴力的な構造に依存したものなのがぼくにはちょっと残念なんですよね。だからこそ支持されている側面もあるんだろうけれど。あれだけ想像力豊かな春樹が、ここだけは完全に現実の差別構造に甘えてしまっている。ここはもう少し想像力で戦ってほしいところですね。

だから問題の立て方を変えないといけないと思うわけね。決定者としてコミットメントするか否か、象徴的な「父」になるのかならないのかという問題は自意識の問題でしかない。でも今発生している暴力というのは、それこそ「アーキテクチュアルな没入」によって自動的に物語回帰した「父」同士の衝突なんですよね。グローバル化やネットワーク化というのは、要するに世界をひとつにつなげる力で、そうなるとこれまでぶつからなかたったものが、ぶつかってしまうようになる。

そこに関しては人間の内面とかを調整してもしょうがなくて、ぶつからないシステムをどうするかとか、ぶつかってしまった後にどうするかというようなことを考える方に、思考の場を移した方がもっと本質的な議論ができると思うわけ。ぼくはね、9.11以降のテロの連鎖の問題を春樹のように旧来のね、新左翼からオウム真理教までの系譜に位置づけて「自分探しの暴走」とする理解には明確に反対ですね。グローバル化そのものへの反作用と考えたほうがいい。だとすると、問われるべきはいかに「父」になるか、ならないかではなくて、すでに不可避に「父」として機能してしまうプレイヤー同士の関係性を問うことだと思う。こうした発想の転換が本来文学に必要なはずなんですよね。

特異な商品が全体のシステムを書き換える

―― 対して、「平成ライダーシリーズ」は、つねに「ゲームのからくり」を問い直そうと試行錯誤がつづきますね。

別に『仮面ライダー』じゃなくてもいいんですよ。AKB48でもニコニコ動画でもいいんです。けれど、これらの表現に共通するのは世界構造を物語ではなくてゲーム的に捉えていることだと思うんですよね。前田敦子個人の内面や身体性に本質はなくて、彼女のポテンシャルを120%以上引き出すAKB48というゲームシステムに本質がある。大きな物語的には国民的アイドルはもう成立しないけれど大きなゲームとしてなら成立する。

同じことがM1やアメトーークにもいえると思う。これはじつのところ、「政治と文学」の新しい関係のことをほぼ指しているんだと思う。「政治と文学」の関係を「大きな物語」で説明できなくなった今、それは完全に断絶してしまったんだという立場がある一方で、ぼくは一言でいえば「大きなゲーム」で説明できるじゃん、と思っている。「ゲーム」という言葉は年長世代のイメージが貧困なせいでひどく誤解を招きやすいのがネックですね。彼らは将棋とかチェスみたいなものを考えて、閉鎖的な盤があって、そこでの駒を奪い合うゼロサムゲームをすぐに連想する。けれど、ぼくがここでいう「ゲーム」はまったく違う。

―― ストーリーベースのゲームでなく、ソーシャルゲームやオンラインゲームのイメージですね。

先ほど「ポケットモンスター」の例を出したことにもつながるんだけれど、源流にあるのはアメリカのトレーディング・カードゲームですね。「マジック・ザ・ギャザリング」とかの。これらゲームの本質はむしろその拡張性です。これらのカードゲームではひとつのルールのもとに、カードが無限に増えていく。これはまさにポストモダンの二層構造の話で、画一化されたアークテクチャ(ルール)の上に、多様なコミュニティ(カード)無限に増殖していく。そして、ここからが重要なんだけれど、これらのゲームでは既存のルールにそぐわないカードが発売されることがある。そのときはルールのほうが上書き的に改正されることになる。つまり特異な商品が全体のシステムを書き換えるわけなんですね。

カードゲームの場合、この改正はメーカーの担当者だったり、ファンの有志のつくる団体だったりが担うことになる。一方でぼくが『M.U.G.E.N』や『SRC』など、インターネット上のn次創作ゲームに注目するのは、このルール改正のシステムがwikiなどのルールを用いてなかば集合知的に行われる傾向になってきていることなんですよ。

ここでのポイントはふたつあって、ひとつは、市場というのは欲望を画一化して、文化を多様化させないというけど逆で、むしろグローバル資本主義的なシステムというのは、例外的なものを商品として積極的に取り込んでいくということですね。スローフード運動だろうが、アンチグローバリズム運動だろうがイスラム原理主義だろうがカードの一枚として取り込み可能であると。実際にできているかどうかはともかくとしてね。まあ、できていないからこんな問題が起きているんだけど、それはどちらかというとグローバル資本主義のポテンシャルを引き出せていないからで、本来なら「取り込めてしまう」ところにグローバル資本主義の怖さというか、むしろ問題があるはずなんですよ。多様性を保証して包摂してしまうがゆえにヤバい、と考えた方がグローバリズム「批判」としても正しいと思うんです。

もうひとつがそれを前提に、これは左翼っぽい話になってしまうけど、現状批判の契機としては、マイノリティとしての例外的なカード、既存のルールにそぐわないカードがあったときに、ルールの方を集合知的に書き換えていくというシステムをどうつくるかということが、多様でリベラルな社会を作るためには重要だと思うんです。マイノリティを、そのマイナー性ゆえに魅力的な商品として機能させることでルールの更新を促す、というモデルですね。

仮想現実的な「革命」から拡張現実的な「ハッキング」への転換

「革命からハッキングへ」という表現をこの本ではしているのだけど、「集合知による自動更新による社会変革」というイメージが大切だと思うんです。でも、こういう発想は「革命」や「カウンターカルチャー」や「大きな物語の現存」をまだ信じていると絶対に出てこないんですよ。グローバル/ネットワーク化を不可避の条件として受容し、大きなゲームとして新しい「政治と文学」の関係を捉えたときはじめて可能になる。けれど、こういうことをいったらすぐにネオリベラリズム的だとか、とか現状肯定的とかレッテルを貼って片づけちゃう人が多すぎる。でもそんな思考停止からは絶対に建設的な議論は生まれてこない。

ぼくはさっきもいったように物語批判か、物語回帰かという議論はもうつまらないと思う。運動論ひとつとってもね、「運動が自己目的化すると暴走しがちでヤバい」と「そんなこといってたら何もできない。でもやるんだよ!」ってどっちも正しいに決まっている。そんなのバランスをとってやっていくしかないじゃない。それよりも大事なのは、旧い「革命」モデルではない社会変革のイメージの獲得だとぼくは思う。あらゆる言説というか、小さな物語が商品になりえるこの現状を逆手にとって、どう多様性を維持するのかという方向に思考のポイントを移すべきだと思うんだよね。

―― しかし、「ハッキング」という技術を活用するためにも、現実問題としては快楽のみならず、たとえばハッカー倫理などの、物語を供給するキュレーターが必要になります。

そうですね。だから彼らの原理を規定するある種のメタ物語のようなものが重要になるんじゃないかと思います。たとえばぼくは今、ファンタジーときちんと向き合うことが大事じゃないかと個人的には思っているんです。先ほど、日本のファンタジー的想像力の発展が特殊だという話をしたでしょう? そこにつながるんだけれど、現代日本のポップカルチャーは、現実のコミュニケーションを拡張して虚構化する方向に進化している。それはつまり現実の人間間のコミュニケーションをひとつの自然として見出していることを意味する。この疑似自然と、ファンタジー的想像力が本来もっている疑似自然の構築機能が接合しているのが今のオタク系のポップカルチャーだと思う。「東方project」なんてまさにそうだと思う。ここには、「革命を失ったぼくたち」の自意識の受け皿「ではない」日本的ファンタジー発展の可能性があるんじゃないか。

こうやって新しい「政治と文学」の関係性を考えていかないと堂々めぐりを繰り返すしかないと思うんですよ。まずは、仮想現実的な「革命」モデルから、拡張現実的な「ハッキング」モデルへの転換が大事だと思う。現実では二十世紀左翼の亡霊に取りつかれた人たちから修正主義的、拡張主義的、現状肯定的だと攻撃されてしまうけれど、はっきりいえば今の30代以下にはこっちのいっていることのほうが説得力があると思う。彼らとは現実との向き合い方が違うんですよ。「革命」モデルじゃないと世界を変えられない、「仮想現実」的じゃないとファンタジーじゃないというのは20世紀の思考法でしょう。新しい「政治と文学」の関係性にもとづいて、想像力を行使して世界を変えるためのヒントになるモデルはすでに国内ポップカルチャーのなかに散見されるんじゃないか。

―― リベラリズムに対する「修正主義」という批判は、「俺らに比べてヌルい」っていう揶揄の基礎づけとなるようなラディカリズムがあったうえでかろうじて成立するものですが、その対抗軸はすでになくなっています。

むしろ現代においては広義の拡張主義「こそ」がラディカルであるはずなんです。そもそも、ぼくがこの本で書いたのはリトル・ピープルの時代=拡張現実の時代においては従来の超越―内在の図式が崩壊するということですからね。その辺を読みもしないで内在的な拡張主義はけしからん、とかいわれてもそれは的外れもいいところでしょう。

たとえば『完全自殺マニュアル』の鶴見済氏やオウム真理教の麻原彰晃は、「革命」を失った今、世界を変えるのではなく自分を変えようとしたわけですよね。ドラッグや「修行」によって。麻原は鶴見さんほど徹底できなかったヘタレだから革命のでき損ないに走っちゃったわけです。しかし、彼らのやったことはまさに「内在」的なアプローチだったと思う。だって、世界変革を「諦めて」自分をチューニングするんだから。

でも、ぼくがこの本で書いた「拡張現実の時代」においては、先ほどのゲームの例が代表するようにネットワーク的なものに支援されて超越―内在といった図式自体が崩壊していて、徹底的に内在することが超越に近づくというモチーフが頻出する。「ここではない、どこか」ではなく「いま、ここ」に留まったままゲームのルールを書き換えるための想像力の行使に焦点を合わせているわけ。それはそのまま「虚構の時代」(鶴見・麻原)と「拡張現実の時代」の違いでもある。ここもポイントで、「外部」を断念するというとすぐに鶴見・麻原的なものを年長世代自体は想像しちゃうけれど、それは90年代で時間が止まっている思考ですね。21世紀的な現実は「徹底して内在することによる超越」が、自意識のチューニングではなく現実のコミュニケーションとして創作物の生成や社会変革の可能性の方向に向かっている。これがまさに「仮想現実から拡張現実へ」ということ。

ものすごく大ざっぱにいうと、革命や外部が無邪気に信じられた「理想の時代」、革命を失ったぼくたちの自意識をどうしようという問題が肥大化した「虚構の時代」、そして革命ではなくハッキング的な思考が支配的になる「拡張現実の時代」というふうに整理できる。

「壁と卵」「政治と文学」の新しい関係性

―― 前著『ゼロ年代の想像力』では、ここ20年間に受容されてきたコンテンツがもっている想像力を描き出していました。書き方としては明確に、年長論客にカウンターをぶつけるような仕方で。一方で『リトル・ピープルの時代』というのは、それをさらに延長させつつも、さまざまなコンテンツのなかにある、どちらかといえば失敗や苦闘の歴史をシミュレーションしていくようなかたちで、自分が評論家としてどう応答していくか、という問題がより明確になっているように思いましたが、役割の変化みたいなものを感じたんですか?

そうですね。ぼくは今回個々の作品評価は横において、ひとつのテーマを創作物が提出してきたイメージを用いてとことん考えるということをやったんですよ。「ゼロ年代の想像力」はある種の文化史と精神史を重ねあわせた本だと思うんですが、「リトル・ピープルの時代」は違う。「壁と卵」「政治と文学」の新しい関係性について村上春樹やヒーロー番組の四十年強の歴史を手がかりに考えるのがこの本です。もちろん、話の流れで部分的に作品自体の評価を付記しているところもあるけれど、全然本題じゃない。たとえば『ねじまき島クロニクル』という作品の出来/不出来をぼくがどう評価しているかはこの本を読んでもわからないと思う。そんな視点から書いていないので。

―― ただ、価値判断はしないといいつつも、これはアクチュアルだが、これは耐久消費年数をすぎている、というパラフレーズは暗に示しています。

逆に作品内で提出されたイメージについては詳細に論じていますよ。なんかこういう当たり前の話は今さらしたくないんだけれど、現代から考えるとそのイメージが時代遅れになっていても、当時の表現としては優れていたとぼくは考えています。『ウルトラセブン』のような作品は現代では成立しないけれど、あれはきわめて優れた68年的な作品だと思う。

余談ですけど、ぼくは昭和特撮は昭和特撮で、円谷作品は円谷作品で結構好きなんですよ。だから戦争や公害の比喩としての「怪獣」というイメージは、役割を果たしたからこそ今はもう通用しなくなっているということを書きたかったんですよね。

―― 本書は前著に比べても、クリエイターたちの発言や制作現場の事情などが多く引用されていますね。

調べれば調べるほど円谷っていうのは戦争映画の残党なわけで、東映っていうのはチャンバラだから非政治的。その非政治的な東映のある種のプログラムピクチャー的な文化がゼロ年代になると、逆説的に政治的なものを扱えるようになっていくんだっていう逆転的なダイナミズムがすごく面白いと思っていて。村上春樹自体についても、ぼくは評価自体は高いんですよ。ただ趣味的に好きではないっていう問題で。

―― それでも、たとえば加藤典洋氏のような、「捻れを解消したい」という欲求の安直さについては、明確に批判していますね。

随分とこだわるね(笑)。加藤氏の議論は何かね、国家を精神分析するような批評が有効じゃなくなってきた時期に出現したものだと思うんですよ。けれど、ぼくの考えではそんな国家を疑似人格とみなせなくなった新しい世界の出現が、さまざまな問題を生んでいるわけで、批判というよりはそんなことはもう問題じゃないんですよ、加藤さん、っていいたかったんですよね。

国家というビッグ・ブラザーのトラウマを解消するために云々とかいっていたら、問題の本質をかえって見失うんじゃないか。つまり、設計と物語的想像力が相反しないっていうことなんだよね。たとえばね、ぼくは「アナログ説教厨」と呼んでいるけれど、今、文化論でもっとも安直な立場は「身体性」がとにかく大事だといって思考停止する立場だと思うんですよね。「文学や表現で大事なのは身体性のもつアナログな、ヒューマンエラーの生む〈割り切れない〉面白さだ」云々、とかね。

これって、たんに最近の文化について何もわかっていないだけだと思う。21世紀に入ってから、デジタル技術が拡張現実的な方向に大きく傾いたわけだけど、これは同時に彼らのいうアナログな身体性を可能なかぎり効率よく引き出すアーキテクチャの洗練に傾いたということでもある。この十年余りで起こっていたのはむしろアーキテクチャと身体性の「結託」なんですよ。なのに設計的な、あるいは工学的、社会学的な思考や情報化を反文学的、反芸術的なものとして捉えている人が多いんですよね。そんなわけあるわけがないのに。

これって壁と卵が混然一体となった世界の一部の発現だと思うんですよ。そういったことがまったくみえていない状態で、人間主体的なものを大事にしようといっても、そもそも対立してないよ、と思うわけです。むしろ両者の積極的な結託を踏まえた上で、どう変革していくかということを考えていかないといけないわけですよ。いまだに社会を物語として捉えて、アプローチを革命モデルで考えている人には、それこそ拡張主義や修正主義にみえちゃうって問題にすぎないと思うんですよ。

ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ、ウルトラマンから仮面ライダーへ

―― これまでのお話を振り返ると、むしろ「設計的な没入を促す、物語的想像力を」、ということになるでしょうか。ソーシャルハッキングのためのハッカー精神を再考する、そうした作業が重要だと。それにしても、革命的な物語との結託というのは、いつまでも根深い問題だとは思いますが。

存在しようがない「外部」に祈って、今どき昔の文学が好きなぼくたちは愚民大衆とは違って戦ってますよ、的な物語で元気になる人は多いんだろうし、別に否定はしない。けれど、ぼく個人はそれはシニシズムのバリエーションだと思う。はっきりいって、ぼくらの方がロマンチストだし、ぼくらの方が現状批判的だと思うよ、逆説的にね。

―― 祈りとしての文学、「自分はヤツラとは違う何かをやってるんだ、たぶん」という自己言及的な思念だけが強調されているということですね。

それって結局自分のプライドしか守っていないよ。自分たちが戦わないために言い訳しているだけじゃない? 面白いことをやろう、面白い表現を生み出そう、社会に対しての改善のイメージを打ち出そうとすると、現代はどうしても拡張現実的にならざるを得ない。だって「外部」のない世界で想像力を行使すると、不可避に拡張主義的にならざるを得ないと思うのね。それがオールドタイプには分からなくって、彼らは社会を物語だと思っているし、変革は革命だと思ってるし、文化は仮想現実であり、カウンターカルチャーだと思っている。だからAKB48もニコニコ動画もその面白さがわからないし、説明できないんだよね。最近で言うと映画『告白』も当てはまる。「あんなものは映画じゃない」って荒井晴彦氏が批判したけれど、映画という近代的表象の「鬼子」の定義がゆるやかに拡大しはじめているという視点から論じないと絶対にあの映画の良さはわからないし、分析できないよ。

―― 既存の文法に合わないから駄目だ、ではなく、文法そのものの組み換えが必要になる、と。

そうそう。誤解しないでほしいのは、旧来の文学や映画の快楽を否定しているわけじゃなくて、彼らのもってるロジックや道具立てでは説明できない新しい快楽がすでに出現していて、それが多くの人に支持されていて、グローバルな発信力をもっている現実があって、だとすると国内の言説がそこに対応できないとまずいでしょってことなわけ。ぼくは文化評論家だから、文化のジャンルでそれをやっているけれど、同じようなことが社会にもいえると思うわけなんです。

ぼくがこの本で取り上げた表現の多くが、上の世代の人たちには表現「未満」のものだと思われてしまっている。なぜかといえば、表現がコミュニケーションの一部になっているからですね。それが情報化ということなんだけれど、文学が情報の一ジャンルになって、コミュニケーションの一部になって、現実の一部になって、虚構として独立していないからダメだと。でもね、そうじゃないんですよね。現実の、情報の一部になって、情報の下位カテゴリーになっているからこそ発生する快楽というのが存在するんですよ。この新しい世界を視野に入れたとき、はじめて革命モデルとは違う社会変革のモデルだってみえてくる。革命からハッキングへ、文学から情報へっていうのはまったく同じことなわけです。ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ、ウルトラマンから仮面ライダーへでもあるわけだけど(笑)。

プロフィール

宇野常寛評論家

1978年生。評論家。PLANETS編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川文庫JA)。『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)。濱野智史との共著に『希望論』(NHK出版)、石破茂との共著に『こんな日本をつくりたい』(太田出版)。企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。

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