2013.07.05

漂白された人々の「物語」を紡いでいく

『漂白される社会』著者・開沼博氏インタビュー

情報 #新刊インタビュー#「フクシマ」論#漂白される社会#ホームレスギャル

『「フクシマ」論』で脚光を浴びた社会学者・開沼博氏の三冊目の単著『漂白される社会』が出版された。本書は、「売春島」「ホームレスギャルの移動キャバクラ」「シェアハウスと貧困ビジネス」など12個の異なるテーマを取りあげながら、「自由」で「平和」な現代社会は、「周縁的な存在」の猥雑さを「漂白」しているのではないか、それは、わかりにくい社会的弱者をよりいっそう弱者化してしまっているのではないか、と問題提起している。著者・開沼博氏にお話をうかがった。(聞き手・構成/金子昂)

原発・震災の問題だけでは足りない

―― ダイヤモンド・オンラインで連載されていた「闇の中の社会学『あってはならぬもの』が漂白される時代に」を大幅に加筆・修正して書籍化された『漂白される社会』ですが、そもそもこの連載はどういった経緯で始まったのでしょうか?

2011年の末あたりに、ダイヤモンド社の編集者が「『「フクシマ」論』読みました。原発や福島の話についてなにか書けることありませんか」って私のところに来てくださったんですね。村田さんといって、私より1つ下なんですが、ダイヤモンド社の書籍編集者でも一番若いそうです。

『「フクシマ」論』を書き終えて10か月近くすぎ、ちょうどその頃から「いま起きている問題は“原発や震災の問題を論じること”だけに閉じ込めていたら解決しない。もっと視野を広げて、もう一段上から広く問題を俯瞰するような視座を確保して、現代社会をみていくことが必要だ」と思っていて。

原発の研究をしていた時期に、原発以外の取材もいろいろとやっていたので、それらのネタのなかから、論じておくことが必要なのにあまり論じられてこなかった論点を扱いうる対象を選んで再構成しながら、「現代社会とはどういうものなのか」を探求しようと。そのとき、すでに漂白される社会というキー概念、タイトルもでてきていて。それで、2012年6月からダイヤモンド・オンラインでの連載が始まりました。

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「明日は我が身」

―― 本書は「売春島」「ホームレスギャル」「シェアハウス」「ヤミ金」「援デリ」「違法ギャンブル」「脱法ドラッグ」「やくざ・右翼」「新左翼」「偽装結婚」「ブラジル人留学生」「中国エステ」と非常に多岐にわたる12のテーマをとりあげられていらっしゃいます。どのテーマへの反応がとくによかったのでしょうか?

ずばぬけて反応がよかったのは第二章の「ホームレスギャル」。これは意外でした。正直いって、目次をたてている段階では他のテーマに比べると比較的地味だと思っていたし、もっと「やくざ・右翼」や「ドラッグ」のような、読者にとってわかりやすい、ある程度の筋が想像しやすいテーマのほうがウケると予想していたんです。ところが、「ホームレスギャル」のような、まだ概念化されていない、ふわっとしたなにかのほうが共感された。これは驚きましたね。

あと「シェアハウス」も反応がよかった。お読みいただければわかるように、これは、メディアや研究者が「シェアハウス」を新しい「夢」の現場として安直に報じる一方で、そのイメージから外れたところに、確実にある現実を、そこにある「貧困」や「孤独」な人びとの実態に沿いながら描いています。「死」すらも「漂白」されてしまう、ともっとも「漂白される社会」というテーマをストレートにあらわすエピソードも出てくる章です。そこで「たしかにこういう側面はみえていなかった」「考えてみたらありえる話だ」という反応をいただいた。

「ホームレスギャル」も「シェアハウス」も、あるいは他の章にも出てきますが、「グレーなセーフティーネット」がそこには存在しているということを切り口にしたことがその反応の背景にはあったと考えています。「社会的弱者」とか「セーフティーネット」とかを論じるとき、はじめは現場を丹念に追う人が議論し始めていても、多くの人がその議論に参入するなかで、肯定するにせよ否定するにせよ、いつの間にか現場からかけ離れたキレイ事とイデオロギーのなかに向かってしまう側面がある。

そして、結果として、その議論で本来救われるべき人が救われるどころか、かえってよりひどい状況のなかに追い込まれてしまう。具体的なことは本を読んでもらえればと思いますが、このような状況を私は「弱者の弱者化」と呼んでいます。そういう意図せざる結果がおこる空中戦の議論の背景にある、「グレーなセーフティーネット」の存在を読者が実感してくれたのだと思います。

―― なぜ「意外なテーマ」のウケがよかったのだと思いますか?

うーん、「ドラッグ」や「ギャンブル」といったテーマはイメージしやすいしウケがいいと思っていたんですけど、もしかして現代社会においてこれらのテーマは、読者にとって遠い問題なのかもしれない。

たぶんウケの良し悪しで一番のポイントは「明日は我が身」なんですよ。漫画の『闇金ウシジマくん』と同じで、「明日は我が身」と感じるようなテーマは、恐怖心と好奇心が入り混じった、なにかが自分の身に迫ってくる実感をもちながら読めるのではないかと思いました。

っていうのは、毎回読者のリアクションを見ていたんですね。今回のダイヤモンド・オンラインでの連載中には、Facebook、Twitter、はてなブックマークであった読者の反応を編集者と一緒になって徹底的に記録・分析しました。連載では1記事あたりのPVで数十万から100万PVを超えるものまであったんですが、Facebook、Twitter、はてなブックマークのそれぞれに数百件のリアクションがくることもありました。ある意味、それだけの読者に論文の査読をしてもらっているようなもので、これはオンラインの連載ならではのこと。いままでできなかったものが技術的に可能になった。これは面白かったですね。

加筆されたアカデミックな分析の狙いは

―― それは面白いですね! どんなコメントがありましたか?

予想通り「社会の闇について書いているとか言ってるけど、俺だって前からこんなこと知ってたし、全然怖くね~し」みたいな、上から目線・強がり系コメントもありましたし、「共感した」とか「こうなっているとは意外だった」みたいなものもありました。他方で、「この話って、あの問題とつなげて考えるとわかりやすい」とか「この部分は、本当のところデータはどうなんだ?」という、書籍化するにあたって参考になるコメントや新しい視点をくれるコメントがありました。

書籍化するにあたり、WEB連載の分量の1.5倍近くになりました。いただいたコメントをすべて詰め込んで、データをいれたり、文章の穴を埋めたり、発展させたりして加筆したつもりです。ですからもしダイヤモンド・オンラインの連載を読んでいた読者がいたら、なにが変わったか注目してもらえたらと思います。

―― 加筆されたなかでも、WEB連載と書籍との一番の違いというと、序章と終章、各部の冒頭にあるアカデミックな部分だと思いますが、なぜわざわざ加筆されたのでしょうか。

アカデミックな手法を取り入れる特長、メリットには、権威性と網羅性があると思います。

荻上チキさんが『彼女たちの売春(ワリキリ)』でやられたように、どれだけの調査をしているか、どういった統計データがあるかをないがしろにせず、系統立ててしめすことは、その本の正統性の確保するうえで重要です。あるいは、本書によってセッティングされたアジェンダを、誰かが検証しようとしたときに、アカデミックな手順を踏んでいればそれを使いまわせる。これが一定程度の普遍性・一般性を持ちうるんだ、と一つの権威を持たせられる。

あとは情報の網羅性ですね。この本で取り上げた事例が、特殊事例でしかない可能性はあります。ですから違った事例があることもきちんと註に書きました。研究とは、一つの特殊性・個別性を、いまなされている研究の全体のなかに位置づけるわけです。そのプロセスは、読み手にとってある問題の全体像をつかむきっかけとしては非常に有用です。あるトピックについて総合的に知りたいときにこの本を手に取ってもらえれば、ある知見までは現状をおさえられるようにしたつもりです。

わかりにくい弱者が漂白されてしまっている

―― 数々のインタビューを受けていくなかで、開沼さん自身もいろいろな発見があったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

いろいろな読まれ方をするんだなあと思いましたね。

以前に書いた『「フクシマ」論』や『フクシマの正義』は、「この本はこういう本で、現状はこうなっていて、これこれこういうことを書きました」って自分のなかで綺麗にパターン化できていたので、それを再生産していけばインタビューに乗り越えられましたが、この本はインタビュイーによって聞いてくる内容が全然違うんですよね。

たとえば酒井順子さんには『週刊文春』の「私の読書日記」で、「落語の本と一緒に読んだ。これは現代の落語みたいな、人情や人間のなまなましさのつまった本だ」と書いて頂いた。予想もつかない読み方で驚きましたね。

一方で『AERA』では、佐藤優さんが、彼自身が常に持っている問題意識にそって、権力のあり方について、または権力とどのように付き合っていくかといった観点からお書きになっていました。自分が思っていた以上にいろいろな読みができる本なんだと思いましたね。

―― 一方で、ぼくは『「フクシマ」論』と扱っているテーマは違えど、開沼さんの問題意識は変わっていないように感じました。

そうですね。『「フクシマ」論』でも『フクシマの正義』でも、「無意識のうちにわたしたちが設定している原発や地域に対する問題意識だけでは、この問題を解決することはできませんよ」と、「だからこういう思考の枠組みをもって既成の知の権力構造を相対化しないとなにも変えられませんよ」と指摘したわけです。そして、本書でも同じ問題意識で12のテーマをみていったわけです。つまり、いまある特定の社会問題に対して設定されている問題意識は、本当にそれで正しいのだろうかという視座ですね。そこで発見した現象が「漂白」なわけです。

どういうことか。たとえば、私が子どものとき、つまり15~20年前って、田舎でも都市でも、町に普通にホームレスがいたと思うんですよね。それが地域再開発や繁華街浄化作戦などによって、気づいたら「多くの人にわかりやすく目につくかたちでのホームレス」がいなくなった。以前のように新宿駅の西口に昼間からたくさんのホームレスがいるわけではない。

しかし私たちは、ホームレスが日本中のどこからもいなくなったわけではないことを知っています。リアカーや自転車に、大量の空き缶を摘んで昼間歩いているおじさんをみることもあれば、山手線に一日中乗ってぐるぐるしている暮らす人がいることを知っている人もいる。ネットカフェ難民もそこに入れられるかもしれません。

もちろん、「ビッグイシュー」のようにホームレス問題を可視化し自立支援していこうという動きも盛んになってきているわけですが、その一方で、日常のなかで「多くの人にわかりやすく目につくかたちでのホームレス」が意識されづらくなっている。ホームレスが「あってはならぬもの」として「見て見ぬふり」をされている。そして、ホームレスの問題にかぎらず、このような「漂白」されてしまっている問題が社会にたくさんある。

詳細は本のなかでの議論にゆずりますが、今回、設定・検証した「漂白」という概念・社会の把握の重要性は今後もますます増えるでしょう。『「フクシマ」論』を書いてから今日にいたるまで、社会を「漂白」する力の強さを実感しています。本書には書いていない原発の議論もそうで、やはりいま「311」という一つの歴史的転換点になり得た出来事が、ある部分で「原発という不快なものをただ目の前からなくしたい」という話に収束されつつある。

「ある部分」というのは、例えば、「世論調査とネット世論のズレ」を、先日、毎日新聞・石戸諭さんと立命館大・西田亮介さんが共同のお仕事で検証していましたが、生活をいかに積み上げていくか、身の回りの課題を解決していくかという地道な議論よりも、対立や憎悪を喚起する所に人が集まっていくような傾向ができている部分があると。そして、例えばそこにおいて「原発」という表象が非常に求心力をもって存在している。

ただその「表象の原発」が生むのは、「原発をなくせばいい」「事故が起きる、被曝するリスクが少しでもあるものはすべて消し去れ」「推進派を吊るしあげて黙らせろ」という話ばかりで、実際にどうなくすのか、そのリスクを消し去ればすべての問題が解決されるのかという問題を直視しようという議論にはつながらない。そして、「推進派を吊るしあげて黙らせろ」の結果、コミュニケーションの回路自体がなくなり、震災前とまったく同様か、それ以上により不可視的なかたちで、行政や産業が原発を抱擁してきた日本の姿を再構築しつつある。

復興の話でも、まだそこら中に片づけられない瓦礫があったり、悲惨な境遇にある人が目の前にいたり、メディアを通じて可視的なときは、政治も重要なアジェンダとし続けたし、ボランティアに行く人・義援金を出す人もいたが、瓦礫も片付いて、わかりやすい弱者も少なくなり、不可視化すると、そういう動きもぱったりと途切れる。現場は、黒がグレーになっただけなんです。「悪い状態」が「必ずしも悪い状態とは言い切れない状態」になっただけ。にもかかわらず、もはや白だろうと、安全・安心・大丈夫であるかのように社会が動き始めてしまう。現場ではいまだ課題山積だし、過酷な状況にあるけれどもそれが表に出てこない「わかりにくい弱者」が増えているのに、それが見過ごされてしまう。

あるいは、今年の3月11日周りのメディアでの被災地の描写がそうでしたが、「復興が遅れている」などと言いながら無理やり海沿いや仮設住宅の映像を流し続けるような「わかりやすい被災地・被災者」ばかり取りあげようとする傾向も本当は増え続けている「わかりにくい弱者」をなかったこととして社会から「漂白」している事例です。ただ議論を盛り上げる、ただ描写するだけではなく、「いま設定されている問題は、その思考の枠組は、本当にそれでいいのだろうか?」と問いかけ続けないといけないと思っています。

「ビッグダディ」の幸せをとらえること

―― 開沼さんが歌舞伎町や池袋のマクドナルといった場所へ取材するようになったのには、なにかきっかけがあるのでしょうか? また本書の表現を使うならば、「漂白」されている「周縁的な存在」、「わかりにくい弱者」に対する視座は、どこからきているものなのだと思いますか?

いつも言っているんですが、原体験は、社会学者の宮台真司さんの本を読んで、裏社会・アウトサイダー的なフィールドワークに興味をもったことですね。

あと、やっぱり子どものときから地方で育ったことが大きいと思ってます。もちろん、みんながそうというわけではないですが、中学校で九九のできない友達がいたり、兄弟に犯罪者のいる友達がいたり。いまでも中学のときまでの友人が、一番気のおけない人のつながりです。都会でオシャレな横文字として言われるところのダイバーシティとはまた別の「ダイバーシティ」のなかで生きられたのはよかったです。

工業製品の部品工場で、毎日12時間二交代制で働いている友人に、「つらいか?」と聞くと、「こんなの慣れだし、つらくないと思うようになればつらくないよ。それなりに楽しいよ」って言うんですよね。一度は都会で働いたことがあったし、地元で職を転々ともしていまの職についた。それは自分が歩んできた人生のなかでベターな選択であったと本人は思っているし、それを受け入れるための生活の工夫もしてもいる。何より地元が落ち着くと。

一方で都会には、「労働問題がー」「教育の格差がー」と騒いでいる「頭のいい人達」もいる。もちろん、ときに自分自身もそこに片足を突っ込んでいるのかもしれませんので彼らを完全なる他者だというつもりもありません。この両者が交わることは基本的にはないが、仮に交わったと想定したら、もしかしたら、彼らは私の友人に向かって「君の職場はブラックだ」「労働基準法に基いて怒るべきだ」「君は不幸だ」と、極めて真っ当な論理や事例、倫理観を持ち出しながら、善導しようとするかもしれません。それは正しいことであるだろうし、一方で無意識的であれ侮蔑と見下しの眼差しがあるようにも両者と直接接した上では見える。

私は、自分ではその善導が無礼だと思うし、善導しようとする側の幸せを作ってもされる側の幸せを必ずしも作るものではないと思うからそうしようとは思わないし、一方でその態度を彼らは「現状追認だ」とさらに侮蔑・見下しの眼差しを向けてくるかもしれません。ただ、それとは別な方法を探らないことには問題の根底にある構造は変わらない。じゃあ、その「別な方法」ってなに、っていうことを、対象は違えど考えていきながら、その具体的な枠組みのいくつかを提示したのが『漂白される社会』だと思っています。

こういう無意識的な「意識高い系市民による善導と蔑視」の暴力と上滑りみたいな問題は大昔からずっとあることですが、なかなか問題構造が変わらないし、その結果社会も変わらない。それは、いろいろなところで起こっていることで、例えば、この2年間で原発作業や除染作業に従事する方々を、ときに「日本を救う使命を持った勇敢な方たち」と神聖化し、他方で「そういう仕事をしている人はヤクザばかりだ」「みんなとんでもない被曝をしている」とモンスター化し差別的な眼差しを向けることで処理してきた、そうすることしかできなかった日本の言論空間にある覆し難いオリエンタリズム的な眼差しにも通じるものでもあると思うし、まさにそのような内国でのポストコロニアリズムが原発を産み・維持してきたということこそ『「フクシマ」論』のテーマなわけですが。

善導しようとする意識高い方が指摘する問題も、その言論空間とは全く接点のない別な空間を生きる12時間労働の友人の感覚も、このどちらも現代のリアルだとは思います。ただ、前者は間違っているわけではないが、知の権力構造上で上位にあるから、私の友人のリアルは認められていないんですよね。

もしそれを語り得るならば、「彼らはかわいそうだ! 改善しなくちゃいけない!」という話に回収してしまう。でも、彼らにとっては、いまの生活が、つらいことはあるかもしれないけれど、それはそれで幸せなのかもしれない。いまの彼らをやみくもに肯定するわけではなく、まずは彼らの幸せをちゃんと捉えないといけない。もし彼らが幸せじゃないなら、どうやって幸せになろうとしているのか、それをとらえたいと思っているんです。

そういう「言論空間のスキマ」を気づく人とそうではない人の分断は非常に大きいけれども、そうではない人にもわかってもらえるように、スキマを見つけては埋めるような仕事をしていかなければならないと思っています。

でも、ぼくらはその「言論空間のスキマ」にある幸せをみているはずなんですよ。たとえば「ビッグダディ」がそうで。私はこの番組が好きなんです。だいぶ前の回で、最初の嫁が三つ子を連れてダディのもとに戻ってきたとき、「ダディは離婚した男女はひとつ屋根の下で寝ないことに決めている」とナレーションが入って、子供と嫁を他の子どもと家に置いて、一人で集会所にいって暮らすって放送があったんです。それが終わって、数か月後の次の回に、子どもが生まれているんですよ(笑)。

―― (笑)

この「いやいやいや、ちょっと待て」っていう、滑稽さと物悲しさ、論理・倫理とか「政治的正しさによる善導」とかとは別なところで動く現実がある一方で、社会問題を語るとなると、「ビッグダディ的なる幸せや生き方」はなかったことにされてしまいがちだと。ビッグダディ的なものを娯楽・消費の対象とはするけれどもそこにそういう生があるということからの思想がはじまったりはしない。つまり、知の権力構造上、ビッグダディは無視されてしまっているのだとすれば、その背景には、もしかしたらビッグダディを見下していたり、「見過ごしていい社会のバグ」にすぎないのだという処理があるのかもしれない。それは『漂白される社会』で描いた「ホームレスギャル」も「サッカー留学ブラジル人の10年後」も「中国マッサージ嬢のライフヒストリー」も同様で。

―― ビッグブラザー的な権力構造が人びとの幸せを押し付けていて、ビッグダディの幸せは無視してしまっているわけですね。

そうそう(笑)。うまいこといいますが、そういうことです、そう。

議論のアリーナを広げるために

―― 「複雑なものを短絡的に単純化すべきではない」「細部にこそ全体が宿る」という言葉が印象的でした。一方で、「結局12のテーマを都合よく書き連ねているだけではないか」という批判もありうると思いますが、いかがお考えでしょうか?

おっしゃる通りだと思います。じゃあ12の物語ではなく、120の物語にすればよかったのか。それでもきっと足りないという声はあるでしょうね。

ふたたび震災の話になりますが、例えば、福島の問題を語る際に、新聞や週刊誌、あるいはソーシャルメディアって「福島の女性がデモで怒りの声をあげた!」「子どもを連れて避難している母親は「福島なんて住めないのに」と静かに呟いた……」とかそういう「女性・子ども」の話題が好きなんですよね。共感を呼びリツイートなりなんなりで再生産されまくる。でも地元の人からは「ふざけんな」って声もあるんですよ。

その「ふざけんな」っていう怒りの声は、別にそこに出てくる子どもや母親に対してではなくて、そういう語りが支配的になっていく、支配的にさせようとする多くの人の意図せざる圧力に対して向かっている。そこで言われている事実・論理・価値観について、どちらが正しいかではなくて、本来は、事実も論理も価値観も、十人十色にもかかわらず、「多くの人」にウケるからと、一色ばかりとりあげあることに憤りを感じているからこそ出ているわけです。

しかも、ややこしいのは、それを流す人は多くの場合、良かれと思ってやってもいる。やられて怒っている人も良かれと思って怒っている。そういう良心や善意のミスマッチっていうのは非常にもったいない。そういうミスマッチを解消したいんですね。社会の多様な色を、誰もがいつでも引きだせるようにしたい。東京で大騒ぎしている問題だけが、福島の問題ではないことを知って欲しい。

大切なことは議論のアリーナを広くとろうとする努力です。2年間出し続けてきた震災・原発についての議論もそうですが、『漂白される社会』の議論も特異な12のテーマを並べただけではありません。それらは確かに存在する問題で、それを知ってもらうことで土俵くらいのサイズだった議論のアリーナが、サッカースタジアムくらいになるきっかけにかるかもしれない。そこにある「言論空間のスキマ」をあえて狙って埋めにいくことが重要だ。そう思っているんです。

―― ひとつのテーマに絞って詳しく検証するのではなく、複数のテーマを描かれたのもそういう理由があるわけですね。

そうですね。一度、世界地図を広く描いておけば、そのあとに個々の地図、日本やオーストラリア大陸の地図を細部まで仕上げていく道筋も描きやすくなります。

そういう意味では、ホームレスギャルの話(http://diamond.jp/articles/-/21442)は、『漂白される社会』にも書籍にするときに加筆しましたが、NHK・EテレのハートネットTVの企画の参考にして頂いた(http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/2012-09/24.html)ことはじめ、いくつかの媒体で取り上げて頂きました。

また、シェアハウスの話(http://diamond.jp/articles/-/28143)もここ数ヶ月、毎日新聞が「脱法ハウス」として取り上げている問題ともあわせて考えるべき問題です。さらに、現在の闇ギャンブルの実態について(http://diamond.jp/articles/-/27401)は2012年11月に公表したんですが、例えば朝日新聞の2013年3月23日付けの記事・「大使館カジノの闇 1等書記官名義、実態はバカラ部屋」(http://www.asahi.com/national/update/0322/TKY201303220470.html)と読み比べて頂くといろいろ興味深い現状がわかるかと思います。

いずれにせよ、連載を読んでいた人が、自分のなかで「こういう問題があるんだ」と認識をするきっかけになったり、あるいはマスメディアも巻き込みながらアジェンダ・セッティングをする上で一つのきっかけとなったのならばよかったと思います。

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意図と反対の効果がうまれる可能性

―― しかし、そのようにメディアに取り上げられるなかで、もし過剰にセンセーショナルに報道されてしまっている部分が出てきているのだとしたら、その報道によって新たに「漂白」される問題もあるのではないかと思いましたが。

そのとおりですね。問題の所在を周知すること自体が、問題解決どころか、むしろ問題を更に根深くさせてしまうことはしばしばあります。つまり、「弱者の弱者化」を推進してしまう可能性はあるでしょう。例えば、『漂白される社会』でも、外国人のことを様々な角度から書きました。これは、ともすれば外国人へのスティグマ強化、移民排斥の根拠にすらなりうることであり、細心の注意を払いながら書く必要がありました。貧困の問題など「周縁的な存在」を描くということは常にそのような側面を持っています。

他にもたとえば昨年、福島で不正な手抜き除染作業が発覚して大々的に報道されました。そのような「不正の暴露」は必要なことであるし今後も重要なことでしょう。ただ、例えば、子どものいるご家庭で「早く家の周囲を除染してもらって少しでも安心したいと思っているのに、順番待ちであと数年かかると言われてしまっていた。ところが、この報道をきっかけにさらに除染業者の手続きが厳密になって、除染が遅くなりそうだと聞いた。勘弁してくれ」という話を聞きました。

実際に遅れるかはわからないし、手続きは厳密になったほうがいいのは確かです。ですが、ただ、強引に厳格化・制度化をすればそのような問題も十分に起こりうるでしょう。仮にそうではないとしても、少なくともただでさえニーズが満たされない状態で放置されている人が、さらに窮地に追いやられたような感覚を与えて締まったことは確かです。ここには、そのような「不正の暴露」をする回路と同時にいかに除染をスムーズに行なっていく代替策があるのかも提示する回路も示せればよかったでしょう。「糾弾して、吊るしあげて終わり」ではなく、その裏側にある現場のリアリティを拾い上げながらそこにあるニーズに答えるような方法なりリソースなりを提示する。

先ほど名前をあげた宮台さんも、20年ほど前の、社会のなかにブルセラや援助交際をして生きている女子高生がいること、現代社会にはそういう生き方もあるということを伝えたら、むしろブルセラや援助交際の規制、青少年保護条例といったものを促進してしまったと、「意図せざる結果」が生まれたことを振り返ってらっしゃいますが、そういうことも十分にあるとわきまえた上で言論を作っていく必要があることは言うまでもないことです。

ただ、そのような、書くこと、なにか事象の一面を切り取るということに必然的にともなう暴力性を制御しつつも、「周縁的な存在」を正面から描く作業は誰かがしなければならないことです。序章で引用した歴史学者の網野善彦であったり、引用はしていませんが宮本常一や最近亡くなられた山口昌男のように、忘れられた人びとや敗れ去った歴史にいる周縁者を描く作業は、アカデミズムの、ときに中心に、あるいは傍流としてつねにあったものだと思うんですね。

いまはそういった想像力が弱くなっている気がしています。もちろん、「周縁的な存在」が様々な形で社会で取り上げられることはありますよ。ただ、なにか流行りモノの「周縁的な存在」がでてきたら、みんなでワッと集まって、盛り上げて満足してしまう。そうではなくて、それよりもさらに周縁的な存在がいるんじゃないのか、もっと別の側面があるんじゃないのかと目を向ける作業にいかにつなげていけるかということもまた大切なのに。

それを防ぐためには再帰的なプロセスが重要で、つまり常に周縁があるのではないかと考えること。社会問題化すること自体を問題化し、その問題化で正しいのか意識しないといけない。

―― 「その問題化は正しいのか」という空中戦が引き起こりかねないんじゃないですか?

手前味噌ですが『漂白される社会』でやったように、現場にいる人の言葉を広く長く聞いていればそういう無限後退に陥ることは避けられると思います。情報の宝庫である現場に行けば何が問題かはクリアになりやすいから。

ただ、一方で現実社会ではそういうことも起こっているんでしょうね。例えば、Twitterでどっちが正論だ、どっちがロジカルだと、どっちが愚かだと「知の審判者」ぶる人、それをリツイートなりすることで自分も「知的」な「主体(subject)」の側にその場での権力の側にいることを確認し安心しようとする人。どちらの問題化がイケているのかというレベルで行われている「論争」らしきものをみていると、どうでもいいよなとは思います。原発推進・反対論争も放射線安全・危険論争もあるいは他の様々なモンダイも、多くの場合、オフラインの現場に注力しているひとたちからしたら問いの設定がズレ続けているし、現場にとっては、オンラインの論争のどっちが勝とうがどうでもいいんですよ。

「忙しい」とか言いながら、3分に一回ソーシャルメディアに投稿している暇で、手足を動かすこと、言葉にされていなものを言葉にすること、これが「どちらが物事を正しくみえているか」という無限後退から逃れる方法だと思います。

いまどんな旅にでているのか

―― 序章で、本書を「旅」になぞらえていらっしゃいましたが、いま開沼さんは、どんな旅にでているのでしょうか?

いろいろなテーマがありますが、福島のことに絞って言います。具体的な話をすると、まずは福島で1000人規模のインタビューをして、その音声をアーカイブ化しようとしています。これから本格的に始動しようとしているところです。

福島の状況は、時間が経って多くの人が興味を失っているなか、それと反比例するように複雑になってきています。それはだいたい4つくらいに整理できる。

ひとつめが、計量可能性に向かいながら、生きやすさを担保していく動き。これは社会学者の五十嵐泰正さんがやっているような(https://synodos.jp/authorcategory/igarashiyasumasa)、放射線量を計測してそのリスクを考慮しながらも、どこかで合意できるような線を引いて、安心・安全だと納得してもらう人に買ってもらうという方向ですね。

もう一方は、計量不可能性のなかで生きていく方向ですね。具体的に言えば、たとえば福島から遠く避難している人たちのなかには、科学では解消できないレベルでの悩みを抱えている方がいる。聞き取りのなかで出てきたエピソードですが、福島から遠方に避難している方には「みそ汁を出汁なしで食べている」という方がいます。なぜかというと、魚はもう放射線に汚染されていて怖いから基本的には食べない。昆布もセシウム検出されたというニュースがあったでしょうと。当然、関東産の米・野菜も線量や検査体制云々の前に一切食べないともいう。ただし、他の人にその価値観を押し付けるつもりもない。なかには、まわりから「おかしい」と思われていることも自覚的していてそれが辛いという話もある。

もちろん、そういった放射線への意識・感受性についてはグラデーションがあって、人によって極めて多様なわけですが、ここに「科学的」に介入して説得できる部分、あるいはすべき部分と、そうじゃない部分があることは確かであり、そうじゃない部分をどう社会的に解決していくかは考えていく必要がある。この新しいマイノリティの問題にどのように向き合っていくかを考えていきたい。

三つ目は、そういう現実を支えている福島というイメージのあり方ですね。これは先に述べたような、一見、「福島のため」といいながら、実際は福島を抑圧してしまうような知のあり方も含めて、その硬直状態をどうやって解決していくか。

そして四つ目として福島の歴史化の問題がある。これは私も携わっていますが、東浩紀さんの福島第一原発観光地化計画あったり、先ほどお話したこれからやろうとしている1000人規模の福島県民インタビューであったり、誰かが考え書き残さないと、なかったことにされてしまうようなもの、忘却に抗うことがあたります。放っておいても作られていくだろう正史ではないもうひとつの歴史をどのように作り、残していくか。

この四つをぐるぐる回りながら、福島を考えていきたいと思っています。

楽しんで読んでほしい

―― 最後に、このインタビューを読んでいる読者に向けて、本書をどのように読んでほしいかお話いただけますか。

高校生の時、宮台真司さんの本を読んだ後、新聞がまるで違うものに感じるようになりました。マスメディアの報道が、実はこういう風にみることができるんだと思っていただけるようになったら嬉しいですね。

なにより言いたいのは、楽しく読んでほしいです。少しでも多くの人に、読んでもらって理解してもらえないと、アジェンダセッティングも何もできません。500ページ近い本になってしまいましたが、ダイヤモンド・オンラインでも普段人文書を読まないような人も含めて幅広く読んでいただきましたし、どこかでは楽しんで読んでもらえると思います。まずは楽しんでもらえたらと思います。

(2013年6月20日 東京大学にて)

プロフィール

開沼博社会学

1984年福島県いわき市生。立命館大学衣笠総合研究機構特別招聘准教授、東日本国際大学客員教授。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府博士課程在籍。専攻は社会学。著書に『はじめての福島学』(イースト・プレス)、『漂白される社会』(ダイヤモンド社)、『フクシマの正義 』(幻冬舎)、『「フクシマ」論』(青土社)など。共著に『地方の論理』(青土社)、『「原発避難」論』(明石書店)など。早稲田大学非常勤講師、読売新聞読書委員、復興庁東日本大震災生活復興プロジェクト委員、福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)ワーキンググループメンバーなどを歴任。現在、福島大学客員研究員、Yahoo!基金評議委員、楢葉町放射線健康管理委員会副委員長、経済産業省資源エネルギー庁総合資源エネルギー調査会原子力小委員会委員などを務める。受賞歴に第65回毎日出版文化賞人文・社会部門、第32回エネルギーフォーラム賞特別賞、第36回同優秀賞、第6回地域社会学会賞選考委員会特別賞など。

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